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2012年1月1日 - 2012年1月7日

2012年1月 6日 (金)

松戸清裕『ソ連史』、下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917─1991』

 ソ連の歴史を記述するに際しては、出発点としてのロシア革命、抑圧的な体制が形成されたスターリンの大粛清、もしくは連邦崩壊に至るペレストロイカといった時期が大きく注目される印象がある。松戸清裕『ソ連史』(ちくま新書、2011年)はその合間の時期の記述が厚く、内政面の事情を中心に描かれており、全体としてバランスのとれたソ連の通史。以下の3点が基本的な視点となっている。
・冷戦の敗者というイメージ→ソ連側の人々も必ずしも戦争を望んでいたわけではない。
・共産主義建設という実験の失敗により国民に犠牲を強いたのは事実だが、多くの人々が主観的には共産主義建設が国民のためになると信じていた。
・共産主義の抑圧的な体制→一党支配体制において有権者の支持を求めて他党と競う必要がないにもかかわらず、ソヴェト政権には「説明し、理解させ、協力を得る」という基本的な態度があった→プロパガンダによる国民の動員というだけでなく、政策目標に向けて人々の理解と協力が必要という認識があった。祝祭としての選挙。しかし、実際には社会の隅々まで統制が行き届く状況にはならなかった。

 合わせて読んだ下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917─1991』(講談社選書メチエ、2002年)は、スターリン時代のナンバー2であり、ゴルバチョフ時代まで生き残ったモロトフに焦点を合わせてソ連の歴史を考察。まさに体制内にいた人物の視座から、抑圧的な体制の形成過程及びそれが内政・外交に影響を与えていく様子が描き出されていく。

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2012年1月 3日 (火)

安田敏朗『かれらの日本語──台湾「残留」日本語論』

安田敏朗『かれらの日本語──台湾「残留」日本語論』(人文書院、2011年)

 私が初めて台湾へ行ったとき、台北の二二八紀念館でガイドをしてくれた日本語世代のおじいさんと話をする機会があった。その後、同行した友人が「台湾で由緒正しい日本人に出会った!」とやたら興奮していたので、「彼は日本への親しみだけではなく、差別を受けてイヤな思いもした、とも語っていたじゃないか」と言ったところ、「お前は自虐史観だ!」と非難された。本書を読みながら、このときの違和感を思い出していた。

 日本が植民地支配を行った台湾において「国語教育」を担った教員たちはどのような考えを持っていたのか。また、敗戦によって日本が台湾を放棄した後、観光目的の台湾渡航が自由化された1964年以降、訪れた日本人たちは台湾における日本語をどのように「再発見」していったのか。そうした台湾の日本語をめぐる言説の系譜をたどっていくのが本書の趣旨である。

 植民地統治下における日本語教育は、単に言語としての日本語を文法的に教えようとしたのではなく、生活習慣や感性といったレベルまですべてをひっくるめて「日本人らしい自然な日本人」になること、すなわち日本人への同化が期待されていた。その点で「国語教育」は「外国語(としての日本語)教育」とは異なる。他方で、日本語を教える日本人教員は出身地によって方言的なアクセントがまちまちで(台湾では九州出身者が多かった)、教師自身が教科書に書かれているような「正しい国語」を話していたわけではない。もちろん生徒の母語である台湾語の影響もあるし、学校外での様々なコミュニケーション場面に応じてピジン言語的な日本語の使用状況も現われていた。そうした多様な言語接触状況は、「正しい国語」普及という目的のためではあるが、当時から観察されていたようである。

 また、戦後になっても原住民社会では言語の異なる他部族とのコミュニケーション手段として日本語が用いられたケースがある。本書では真田信治・簡月真「台湾の日本語クレオール」で紹介された、宜蘭県大同郷寒渓村の「宜蘭クレオール」が取り上げられている。語順は日本語だが、語彙はアタヤル語という言語である。「話者の言語権」の問題に注意を喚起する一方、これを正式に言語認定するかどうかは学問的課題というよりも政治的問題になってしまう困難を著者は指摘、日本の植民地支配によって生じた現象であるという意味で歴史認識の問題と関わってくる点を強調している(ただし、この件で批判された側にも言い分はありそうだな、という気もする)。

 「言語」なのか「方言」なのか、こうした区別の立て方そのものに何がしかの政治的意図が絡まってくる問題は社会言語学のイロハであるが、かつて日本が植民地支配を行った地域における言語状況を考える上で、こうした問題はより注意深さを必要とする。眼差しの投げかけ方によっては、そこにバイアスのかかったフィルターを通して、見る者の側が望む恣意的な姿を浮かび上がらせるだけということにもなりかねない。

 本書のタイトル「かれらの日本語」とは、台湾における日本語話者の言葉を指している。「残留日本語」などの表現を用いた際に感じられる「残っているものを発見する高揚感」は歴史的経緯が軽視されているのではないかという問題意識が本書の出発点であり、それに代わってこの表現が選ばれている。台湾の日本語世代老人にノスタルジーを見出して消費する風潮に対する批判は当然にしても、他の研究者(主に言語学)に対する批判までかなり手厳しいという印象も受ける。ただ、眼差しの向け方が時としてはらむ問題を自覚したとき、注意してし過ぎるということはない。むしろ「かれら」自身の必要に応じて日本語を使わざるを得なかった、そのあるがままの生活的体験を、「こちら」の思惑によって切り刻むようなことはしたくないという著者の模索のもどかしさに目を向けるべきだろう。

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木村汎・袴田茂樹・山内聡彦『現代ロシアを見る眼──「プーチンの十年」の衝撃』

木村汎・袴田茂樹・山内聡彦『現代ロシアを見る眼──「プーチンの十年」の衝撃』(NHKブックス、2010年)

・1999年にプーチンが首相に任命され、同年、エリツィン大統領の辞任を受けて大統領代行に就任して以降、2期8年を経て現在のメドヴェージェフとのタンデム政権に至るまで10年間にわたるロシアの政治経済について検証。
・この間の経済成長は主に原油・ガスなど資源輸出収入によるものであって、プーチン政権の経済政策が効果的だったわけではない。逆に、原油価格上昇によるレント収入はインフラ整備などに投資活用されなかった。
・ゴルバチョフ、エリツィン政権期の「改革」の一部は放棄された。政治体制としては家父長的専制、官僚的権威主義、自由民主主義、経済体制としては国家資本主義、市場経済、賄賂やコネがまかり通る地下経済、外交的には欧米に対する協調と反発など、本来ならば両立するはずのない諸要素が同時に存在→まるで19世紀の帝政、20世紀のソビエト、21世紀の現代が共存しているような奇妙な混合体→こうしたグレーゾーンの中を揺れ動いているため、「プーチンの十年」を一言で要約するのは困難。
・プーチン政権に敵対しない限りはある程度の経済的自由。しかし、政権にすり寄った人々の念頭にあるのは国益よりも私益優先→レント・シーキング・システム。
・常に「敵」や「スケープゴート」を創出する政治手法により国民の目を外へそらす→チェチェン問題、オリガルヒ(グシンスキー、ベレゾフスキー、ホドルコフスキーなど)潰し、グルジア・ウクライナなどへの介入、NATO拡大への敵視。

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2012年1月 2日 (月)

『民俗台湾』について何となく

P1020543 年末年始にかけてずっと部屋の片づけをしていたら、気になる本が色々出てくる。例えば、写真右側の陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)。台湾で刊行された本だが、日本語で書かれている。たしか、台湾大学近くの台湾史専門書店、南天書局で買った覚えがある。なお、写真左側は『思想』(聯経出版)という台湾の学術雑誌の第16号(2010年10月)で、台湾史研究の歴史を回顧する特集が組まれていたので買っておいた。

 南天書局は書店としてばかりでなく、台湾史関連の史料を復刻出版している版元としても有名で、そのラインナップには『民俗台湾』をはじめ戦前に日本語で書かれた文献も含まれている。戦後の国民党政権の時代、国史=(大陸の)中国史というイデオロギー的な締め付けがあったため、台湾史研究はおろそかにされていた。1980年代以降、台湾史研究の気運が高まるにつれて、戦前の日本人研究者が行った民俗(族)学・人類学・言語学などの調査記録が研究のたたき台として見直されたという事情がこうした復刻出版の背景としてある。

 陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』は、第一に『民俗台湾』に寄稿された内容的テーマの分析、第二に編集・運営に携わった日本人の役割を紹介することに主眼が置かれている。台湾史に関して私が興味を持っているテーマはいくつかあるが、その一つがこの『民俗台湾』をめぐる人物群像なので、何となくもう一度ページをパラパラめくり始めた(こんなことやっているから整理作業が先に進まない…)。

 『民俗台湾』は1941年7月、太平洋戦争が始まる直前の時期に創刊。当時の台湾では台湾人の日本人化を意図した「皇民化運動」が推進されており、それによって台湾古来の習俗が消え去っていくのを憂えた人々によって担われた。例えば、朝鮮半島における柳宗悦や浅川伯教・巧兄弟などのような存在にたとえられるだろうか(『民俗台湾』では巻頭言に柳宗悦の寄稿を依頼した号もある)。キーパーソンとしては、人類学者の金関丈夫(→こちらを参照のこと)、考古学者の国分直一(→こちら)、画家の立石鉄臣(→こちら)、写真家の松山虔三、とりわけ編集実務を取り仕切った池田敏雄が特筆される。池田は、後に結婚することになる教え子・黄氏鳳姿の実家を通して台北・艋舺の下町文化に溶け込んでいたほどの台湾びいき。戦後、日本に引き揚げてからは平凡社に入ったらしい。なお、黄氏鳳姿は女学校在学中に書いた作文が出版されて、綴方運動の豊田正子と比べられた人。彼女の文才を発掘したのは教師だった池田。

 『民俗台湾』の特徴としては、第一に、立石のイラストや松山の写真によってヴィジュアル的に民俗資料の記録に努めたこと。第二に、各地の台湾人からの寄稿を積極的に募ったこと。『民俗台湾』同人からは、黄得時、楊雲萍(二人とも戦後は台湾大学教授)をはじめ後に学者として名を成した人々が現われている。日本人=調査者/台湾人=被調査者という対峙的構図に陥らないように、台湾人自らによる民俗文化の記録を促していたと言える。こうしたことはその後、「台湾人」アイデンティティーの確立に寄与したという評価につながっていく。

 『『民俗台湾』と日本人』巻末に附された『民俗台湾』総目録を眺めていると、台湾史というコンテクストで興味深い人物が結構寄稿していたことが分かる。上掲の黄得時、楊雲萍、黄氏鳳姿の他、例えば作家の楊逵(→こちら)、張文環(→こちら)、呂嚇若、龍瑛宗、周金波、巫永福、呉新栄、画家の顔水龍、歴史家の曹永和、戴炎輝、社会学者の陳紹馨(新明正道に師事したらしい)、労働運動家の連温卿(→こちら)、弁護士の陳逸松、医学者の杜聡明など。一人ひとり解説していくと面倒だから省略するが、曹永和『台湾早期歴史研究』、戴炎輝『清代台湾的郷治』、陳紹馨『台湾的社会変遷與人口変遷』の3冊は台湾史研究の古典とされている。なお、当時の台湾文壇に関してはこちらで触れたことがある。

 「日本の植民地支配は良いこともした」と言ってふんぞり返るのは論外であるが、かつての植民地支配や対外的侵略といった負い目を持っている日本人の立場から現代史を考えようとする場合、「語り口」のナーバスな難しさに困惑することがしばしばある。とりわけアカデミズムにおいてポスト・コロニアルのアプローチが盛んになると、支配者/被支配者、中央/周縁といった枠組みを前提とした学知的構造そのものがはらむ知的暴力性が問題とされ、当時においては一見「良心的」な振る舞いに見えたとしても、こうした学知的構造に彼らも取り込まれていた以上、その責任は逃れがたいという見解が主流となってきた。例えば、川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)が、『民俗台湾』は柳田國男が構想した(と川村が言う)「植民地民俗学」の一環に過ぎないと断罪したのはその代表例である。

 ところで、川村をはじめとした論者は『民俗台湾』の植民地性を物語るエピソードとして、楊雲萍が金関の台湾文化への態度が「冷たい」と非難した問題を取り上げる。『民俗台湾』創刊趣意書の書き方を問題にしたのだが、「皇民化運動」という当時の時勢の中、総督府から睨まれないよう筆を曲げなければならない事情があった。その後、楊雲萍は金関と和解したようで『民俗台湾』に何度も寄稿している。彼は戦後になっても「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」(『えとのす』第21号、1983年7月)と記しているのだが、こうしたことを川村が取り上げないのは議論構成の恣意性が疑われる。また、黄得時は「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、ぜったいにそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」と語っていた(『台湾近現代史研究』第四号[1982年10月]所収の池田敏雄の回想から)。

 客観性を標榜する学問的営為そのものの中に無意識のうちに紛れ込んでいる偏見を暴き出し、その自覚を促した点でポスト・コロニアルの議論が貢献した成果は大きい。他方で、それが一つの理論として確立され、事情を問わずに一律に適用され始めると、今度は断罪という結論が初めにありきで、当時を生きた人々の生身の葛藤が看過されかねない。そうしたスタンスの研究には欠席裁判の傲慢さ、冷たさすら感じられる。当時において成立していた学知的構造の矛盾に気づいていたとしても、少数の人間だけで動かしていくのは極めて困難だ。それでも良心的に振舞おうと思った人間の主観的な情熱は、「偏見」を崩せなかったという理由において、無自覚的な構造的加害者として一律に断罪されなければならないのだろうか?

 こうした問題意識において、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」という三尾裕子の問いかけには私も共感できる。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」と指摘されている(三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」、貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号[2006年3月]を参照)。

 ややこしいことを書いてきたけど、以上の問題については、前にもこちらこちらに書き込んだことがあった。こうした観点をしっかり踏まえた上で、『民俗台湾』に集った人物群像を軸として台湾と日本との関わりがリーダブルにまとめられた本があったら読んでみたい、と思っている。たまたま見つけた本からそんな思いが改めて触発された次第。

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