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2012年12月27日 (木)

江文也「聖詠作曲集」あとがき(1947年9月)

 江文也が日本との縁が切れた後に中国語で書いた文章を読む機会があまりなかったので、彼が1947年に記した「聖詠作曲集」のあとがきを以下に訳出してみた。林衡哲・編《現代音楽大師──江文也的生平與作品》(前衛出版社、1988年)所収、張己任・補述〈寫於「聖詠作曲集」完成後〉206~209頁から訳出。なお、「聖詠」とは、日本聖書協会訳による旧約聖書の詩篇にあたる。

江文也「聖詠作曲集」あとがき

 私は雷永明神父(P. Allegra)と出会って以来、同時に「聖詠」のことも改めて意識するようになった。中学(※訳注:長野県上田の旧制上田中学)に進学したとき、ある牧師(※訳注:上田メソジスト教会の女性宣教師、メアリー・スカット)が『新約』と『旧約』をくれたのだが、その巻末に『旧約』中の「聖詠」150首が附録としてついていた。このときから「聖詠」は私の愛読書の一冊となり、まるでダンテの『神曲』やポール・ヴァレリーの詩に夢中になったように読みふけったものだ。二十年以上経って、その「聖詠」を音楽にできるなんて思ってもみなかった。

 ある種の才能があって、その才能を仕事で発揮できるとき、一種の偶然ならざる偶然、物語ならざる物語が本当に必要だ! 私は人間の力では予測できない天意を信じている!

 この「聖詠作曲集」にあるすべては、我が祖先のさらにまた祖先が与えてくれたもので、四、五千年来、中国音楽が積み重ねてきた各種の要素であり、そこに最近の数世紀にわたって進化発展しつつある音響学的な研究を加えて作り上げたものだ。

 「楽者天地之和也」(※訳注:『礼記』楽記)
 「大楽與天地同」(※訳注:『礼記』楽記)

 数千年前、我らの先賢がすでにこうした真理を喝破しており、科学万能の今日、私はやはりこの言葉を深く信じて心に留めている。

 中国音楽に少なからぬ欠点のあることは分かっているが、同時にまたこれらの欠点があるからこそ、私は中国音楽がなおのこと愛おしい。私はいっそのこと、かつて生涯の半分をかけて追求してきたあの精密なる西欧音楽理論を否定して、中国音楽の貴重な欠点を保ち続けながらこの貴重な欠点から再び創造していきたい。

 私は中国音楽の「伝統」を深く愛する。それを一種の「遺物」とみなす人がいるのを聞くたびに、私の心はいたむ。「伝統」と「遺物」とは根本的に別物なんだ。

 「遺物」は一種の骨董品みたいなものにすぎない。珍しくて面白いが、そこには血も通っていなければ、命の鼓動もない。

 「伝統」はそうじゃないなんだ! すなわち、気息奄々たる今日という時代にあって、「伝統」自身の精神──生命力を持ち続けている。本来それは創造的なもので、過去の賢人が「伝統」に基づいて無意識のうちに新しい文化を「伝統」に加えていったように、今日の我々もまたこの「伝統」の上に新たな要素を加えていかなければならない。

 「金声也者始条理也、玉振也者終条理也」(※訳注:『孟子』万章下)
 「始如翕如、縦之純如、皦如、繹如也以成」(※訳注:『論語』八佾篇 廿三)

 孔孟の時代、中国がすでにその固有の対位法や大管絃楽法の原理を持っていたことに気づいたとき、私は心の中でこれに依拠すべきだと感じ、音楽家として全身全霊を傾けて没頭するに値する大事業だと思った。

 中国音楽はあたかも失われた大陸のようで、まさに私たちの探検を待っている。

 私はかつての半生で、新しい世界を追求するため、印象派、新古典派、無調派、機械派(※訳注:ルイジ・ルッソロなど未来派を指すのか)…などあらゆる現代最新の作曲技術を遍歴してきた。しかし、過ぎたるは及ばざるで、自分自身までも解剖台の上に乗っけてみるという危機にあって、私は忽然として大悟した!

  追求は捨てるに如かず、
  私は自分自身を徹底すべきだ!

 科学万能の社会にいると、まことに人々は自分自身を見失ってしまう。人々は「未知」なるものをずっと探し求めている。「未知」なるものを「自己」に同化してしまうと、ここにおいてまた「自己」を再び「未知」なるものとしてしまい、再び「未知」なるものを探し求めていく。この種の循環は永遠に終わることがないと思う。実際のところ、芸術の大道は、頭を上げて「天」を仰ぐようなもので、「知」もなく、「無知」もなく、ただ悠々として現われるものがあるだけだ!

 一般的に教会の音楽は、詩句によってメロディーを説明しようとするのが大半だが、今日、私が設計したのは、メロディーによって詩句を説明しようとしている。もし音楽が言語の内容を純化しようとするなら、一層高い段階へと上がっていく中で、こうしたメロディーは一切の言語上の障碍を超え、国境を超えて、人類の心の中へと直接にしみ渡っていく。中国正楽(正統雅楽)には本来、このような求心力があると思う。

 一つの芸術作品がまさに生み出されんとするとき、偶然の動機──テーマがあることは免れ難い。物語と似ているが──面白いことに物語がそれにつられて生まれてくる。しかし、芸術家自身は、ついには自分自身を欺くことはできない。つまりダヴィンチの完璧な作品を見ると、私はいつも思うのだが、芸術作品に固有のフィクショナルな真実がその中にある。そうしたことがあらゆる音楽作品の中にあることは、いまさら言うまでもない。

 この一点において、自分自身のできることをひたすら尽くすだけで、あとは天命を待つしかない! 藍碧の蒼穹と向き合って、私は自分自身を聞き取る。広く澄みわたった天空と向き合って、私は自分自身を映し出す。表現の展開と終わり、現実の回帰と盛り上がり、一切がそれ自体ではない。

 そうだ、私は徹底的に自分自身を捨て去るべきなんだ!

                    一九四七年九月 江文也 

(以下、私からのコメント)
 江文也が中国の伝統へ回帰したことを中国民族主義の立場から解釈する議論も一部にはある(主に大陸側の論者)。しかし、「己を徹底することは、すなわち己を捨て去ることだ」という逆説に見られるような、自我の超克の末に宇宙と通底する真の自我が現われてくるはずだという発想や、「「知」もなく、「無知」もなく、ただ悠々として現われるものがあるだけだ!」といった感覚が彼にあったことを考えると、むしろ、伝統回帰を契機としつつも、そのようなレベルを超えたある種の「悟り」の境地を彼は目指していたのではないかとすら思えてくる。例えば、1942年に日本語で刊行された詩集『北京銘』や『大同石佛頌』には、中国の雄大な大地に小さな己が吸い込まれていくような感動への陶酔や憧憬が見られるが、そうした感覚は上掲の一文にも底流している。

 西欧近代=科学万能の合理主義を批判した上で、自分たち自身の価値観によって新たな世界像を切り開こうという意識が働いている点では、昭和初期の日本で流行った「近代の超克」的な言説と親和的であることを指摘しておく。例えば、戦時中の1943年に東京の自宅を訪問して江文也からじかに話を聞いた台湾の音楽家・郭芝苑によると、「西洋の芸術文化はもはや行き詰っている。彼らはすでに西洋的合理主義から離れて東方の非合理的な世界を求めている。音楽の世界では、ストラヴィンスキーやバルトークの作品がそのあたりをよく表現している」と江は語っていたそうだ(郭芝苑〈中國現代民族音楽的先駆者江文也〉前掲書所収、66頁)。江文也が記した上掲の一文にある「もし音楽が言語の内容を純化しようとするなら、一層高い段階へと上がっていく中で、こうしたメロディーは一切の言語上の障壁を超え、国境を超えて、人類の心の中へと直接にしみ渡っていく。中国正楽(正統雅楽)には本来、このような求心力があると思う」という箇所からは、音楽という面で、現実社会の矛盾を超えていく原理を中国の伝統に求める発想が認められる。その是非はともかくとして、西欧近代を乗りこえる「東洋」という「大東亜共栄圏」のイデオロギーに類似した響きもうかがえると言っても、あながち見当違いではなかろう。当時の日本人が「東洋」=日本(及びその主導下にある亜細亜)とみなしたのに対し、江文也は「東洋」=中国の伝統と読みかえたと考えれば、戦中・戦後にわたって彼は思想的に一貫していたと言える。

 冒頭に出てくる雷永明神父とは、フランチェスコ修道会のGabriele Allegra神父の中国名である。彼は1907年、イタリアのシチリア島に生まれた。11歳でフランチェスコ修道会に入る。21歳のとき聖書の中国語訳を志し、1931年に布教活動で湖南省へ行って中国語を学び始めた。いったんイタリアへ戻ったが、1940年に再び中国へ向かう(途中で立ち寄った神戸でテイヤール・ド・シャルダンに会っている)。すでに日中戦争が始まっていたため湖南省へは戻れず、北京へ行ってイタリア大使館付けの神父となった。イタリアは日本の同盟国であったため、日本軍占領下の北京でも拘束されることはなく、布教活動の継続を図り、日本軍の捕虜となった人の解放にも尽力したという。1945年、聖書の中国語訳のため中国人の聖職者を集めて北平方済堂聖書学会を設立し、1948年には『旧約聖書』を、1949年には『新約聖書』を刊行した。ところが、共産党が政権を獲得したため香港へと移動した。1976年に香港で死去。2012年9月、福者に列せられた(以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Gabriele_Allegraを参照)。

 江文也は1945年の冬から10ヶ月間、対日協力の容疑で収監されていたが、そのとき獄中で知り合った人を介してアレグラ神父と出会ったらしい。聖書の中国語訳に取り組んでいたアレグラ神父は、中国人の耳に馴染んだ聖歌が布教に効果があると考えたのであろうか、中国的なスタイルを持った聖歌の作曲を江文也に依頼したのが「聖詠作曲集」のきっかけであった。1948年の暮れには第二巻も完成させている。江はミサ曲も作曲したが、中国音楽史上で初めての中国語によるミサ曲という位置づけになるようだ。戦後間もなくの物資が不足していた当時、呉韻真夫人と一緒にほとんど手づくり感覚で出版までこぎつけたという(江文也樂友會ホームページ掲載の劉美蓮「江文也小傳」http://www.taipeimusic.org.tw/jiang_wen_ye/jiang_story_3.htmlを参照)。

 なお、江文也がクリスチャンだったのかどうかはよく分からない。彼が東京と北京を往復していた頃からすでに、東京に乃ぶ夫人を残しながら、北京で呉韻真夫人と一緒に暮らしていたことについて、乃ぶ夫人は「彼は熱心なクリスチャンだったのだから、そんなことは絶対にあり得ない」と語っているが(井田敏『まぼろしの五線譜──江文也という「日本人」』白水社、1999年)、他の親戚や知人の発言を見ても、彼が敬虔なクリスチャンだったという認識はうかがえない。

 1949年に中華人民共和国が成立してからも江文也は北京に留まり続けた。そのため、国民党政権が逃げ込んで白色テロが横行した台湾において、「共匪」とみなされた江文也について語ることはタブーとなってしまった。もちろん、大陸で彼が何をしているのかなど知る由もない。彼を個人的に知っていた人々も口を閉ざさざるを得ず、世間から忘れ去られていく。そうした中でも彼が作曲した聖歌はキリスト教会の布教活動を通じて大陸の外へ伝わっており、故郷・台湾の教会でも歌われていた。1981年に謝里法、張己任、韓國鐄の三人が相次いで文章を発表したのをきっかけに台湾で江文也ブームが巻き起こったとき、台南修道院の修道女から「江文也の歌曲を毎日歌っていたが、彼がどんな人なのか初めて知った」という反応があったそうだ(謝里法〈断層下的老藤〉前掲書所収、143~144頁)。

 1957年から中国で反右派闘争の嵐が吹き荒れ、江文也の運命は暗転した。『人民音楽』1958年1月号に掲載された「在右派戦線上老牌漢奸、右派分子江文也的嘴脸」に彼の「罪状」が列挙されている(〈断層下的老藤〉148~149頁に引用)。七条の罪状のうちの五番目「外国と通じた」という箇所を見ると「解放後、彼は人に作品を託して香港へ持って行かせ、カトリック教会やアメリカ領事館で出版する手筈を講じた。ここには自ら影響力を作り出し、将来、祖国から逃げ出す狙いがあった。彼はある学習会で「もし中国と日本が国交を樹立したら、私は最初の飛行機で日本へ行きたい」と発言した」となっている。おそらく、香港へ脱出したアレグラ神父が彼の聖歌集を出版し、それがさらには台湾まで伝わったのであろう。しかしながら、そうした神父の善意が逆に江文也打倒の口実に利用されてしまった。江文也の日本への思いも含め、外国との関係は致命傷となりかねない、難しい時代であった。

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