植民地台湾出身の貴族院議員、許丙
台湾史関連の文献を調べていて、名前はよく見かけるのだが、人物像が具体的にイメージできない人が何人かいる。許丙(1891~1963)もそうした一人であった。彼は、台湾五大名家の一つ、台北板橋の林本源家で大番頭のような立場から当主・林熊徴に代わって采配を振るい、台湾土着資本の企業経営に携わって台湾の政財界に大きな影響力を持っていた。日本の敗戦間際の1945年には林献堂、簡朗山と共に貴族院議員に勅選されたが、それにもかかわらず国民党政権の来台後も「漢奸」として排除されることなく一定の力を維持する。そうした不思議な存在感は以前から気にかかっていた。
『許丙・許伯埏回想録』(許雪姫・監修、川島真・蔡啓恆・日本語編集、中央研究院近代史研究所、1996年。中央研究院のサイトでPDF公開されている→こちら)をたまたま入手した。長男の許伯埏が父親から聞き取ってまとめた草稿が基になっており、合わせて許伯埏自身の回想も収録されている。許丙は台湾総督府国語学校を卒業して日本語力を駆使しながら日本統治下の時代を生き抜いた人であり、許伯埏もまた東京に留学して東京帝国大学法科大学を卒業したエリートである。そのため全文日本語で記されているが、台湾の中央研究院の史料叢書として刊行されているので、編集で各章ごとに中国語のサマリーがつけられている。
許丙の存在感の秘訣は、一言でいうと人脈の力に尽きるだろう。個々のエピソードはともかく、政財界から軍部まで多種多様な人物が登場してくるのには驚いた。台湾総督府や台湾軍に任官したキーパーソンに渡りをつけ、彼らが異動した後もこまめに交流を維持していたようだ。許伯埏の回想には、東京留学中に父の言いつけで要人の邸宅を訪問する話が頻繁に出てくる。回想録を素直に読むと許丙自身の誠実な人格が信頼を得ていたように印象付けられるが、勘繰ると「心づけ」を盛大にばらまいていたのではないか。商売上の便宜を図ってもらっていたであろうことは想像に難くない。その点では、台湾文化協会など民族運動に参加した人々からの評判は悪いが、他方で彼が台湾人の地位向上のため折に触れてこうした人脈ルートを使って総督府や東京の中央政界に陳情していたことも回想録から読み取れる。
例えば、「皇民奉公会」は大政翼賛会の台湾版と考えて間違いはないのだが、その成立経緯として、台湾人の日本化を目指した「皇民化運動」の行き過ぎを抑えるために許丙が長谷川清台湾総督へ直接申し入れたのがきっかけだったという。台湾人もすでに日本国籍の「皇民」である、すなわちこれ以上の「皇民化運動」は必要ないという前提を認めさせるため、「皇民奉公会」へ流し込むことで「皇民化運動」の事実上の解消を図ったのだという。
許丙と何らかの関わりが出てくる人物を順不同で並べていくと、政財界では、田健治郎(台湾総督)、石井光次郎(台湾総督府秘書課長)、下村宏(海南、台湾総督府民政長官)、柳生一義(台湾銀行頭取)、中川小十郎(台湾銀行頭取、立命館大学学長)、大久保偵次(東京渋谷区代々木大山町の自宅で近所、大蔵省銀行局長のとき帝人事件に巻き込まれる)、三土忠造(蔵相)、小林一三、渡辺千冬(東京の自宅の隣組)、太田政弘(台湾総督)、青木一男(東京の自宅の隣組)、緒方竹虎、河原田稼吉、石原広一郎、吉田茂、原田熊雄、近衛文麿、小笠原三九郎(蔵相)など、軍人では福田雅太郎、真崎甚三郎(台湾軍司令官)、菱刈隆(関東軍司令官兼駐満洲国大使)、渡辺錠太郎、香椎浩平、川島義之(東京の自宅の隣組)、柳川平助(台湾軍司令官)、秦真次、服部兵次郎、阿部信行、長谷川清(台湾総督)、及川古志郎など。柳川から頼まれて渡辺と真崎を仲直りさせる宴席をセッティングしようとしたが、二二六事件で渡辺が暗殺されてしまったため果たせなかったというエピソードも出てきた。戦後になると、張群、何応欽などとも良好な関係を持っていたようだ。
芸術関係では梅蘭芳も出てくるし、広東出張中に出会った藤田嗣治とは台湾まで旅程を共にしたらしい。香港や広東へ出張に出かけていたということは、日本軍の展開に伴って大陸まで事業展開を図っていたことがうかがえる。1934年には満洲国を訪問して溥儀や高官たちと面会し、宮内府顧問に任命されたという。溥儀からは東京での活動をねぎらわれた、と記されているが、これもやはりお金をばらまいたり、人脈を動かしたりしたのであろうか。
許丙は林熊徴の事業という名目で有為の若者への学資援助も積極的に行っていた。例えば、杜聡明(台湾人として初めて博士号を取得した医学者)の研究費用も出していたらしい。奨学金を出した学生の中には呉三連や連震東(大陸へ行って抗日運動に参加した後に国民党員として台湾へ戻ってきた。歴史家・連雅堂の息子で、後の副総統・連戦の父親)のように民族運動に参加して総督府からにらまれた人々もいた。圧力を受けても、学業不振が理由ならともかく、政治信条で奨学金を引き上げるつもりはない、と押し通したらしい。うがった見方をすると、「保険」をかけたとも言えるだろうか。連震東のように戦後の国民党政権で高官となった人物とのつながりはやはり大きくものを言ったはずだ。芸術関係では、黄土水や張秋海などの支援をしていたことが記されている。江文也について調べていたら、やはり許丙から財政的支援を受けていたらしいから、他にもこうした例は少なくないのだろう。なお、芸術関係では陳清汾、楊三郎、李梅樹、戦後は溥心畬(旧満洲国関係で)とも付き合いがあったという。
日本の敗戦直後、許丙が台湾人有志や日本人の少壮軍人と共謀して台湾独立を図ったという噂があるが、これについては林献堂の日記も援用しながら明確に否定している。幸か不幸か、この件でしばらく拘留されていた間に二二八事件が勃発、許丙はその前から拘留されていたので巻き込まれないで済んだ。ただし、1949年の時点で、蒋緯国の岳父にあたる石鳳翔という人から紡績業関連の視察で一緒に日本へ行こうと誘われたが、そのまま帰台しないのではないかと疑われて出境許可が出ないという出来事もあったそうで、許丙の去就を疑う向きもあったのだろう。そうした中を泳ぎきったのも、やはり国民党政権内部に人脈を持っていたからだろうと想像できる。日本統治期からすでに北京官話の勉強もしていたことも役立っただろう。大陸での事業展開を考えていたのだろうし、その頃から大陸でどんな関係を築いていたのか、回想録に出てこない部分こそますます気になってくる。
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