家近亮子『蒋介石の外交戦略と日中戦争』
家近亮子『蒋介石の外交戦略と日中戦争』(岩波書店、2012年)
戦後日本における中国現代史研究は、大陸での情報ソースの不足や、侵略をしてしまった過去の経緯への贖罪意識も手伝って、中国共産党の公式見解をそのまま反映する傾向があったと言われる。ところが、近年、新たな史料の公開や発掘に伴って実証的な研究蓄積も進み、イデオロギー的な歴史理解から距離を置いた著作も次々と世に問われつつある。蒋介石関連の史料、とりわけ2006年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所で公開が始まった蒋介石日記を活用した本書もまたそうした成果の一つと言えよう。
著者の前著『蒋介石と南京国民政府』(慶應義塾大学出版会、2002年)では、蒋介石は自らの政権の正当性を内外にアピールすることに努めつつも、その権力基盤は必ずしも磐石ではなかった事情が分析されていた。本書では、1935年以降、蒋介石が権力を掌握していく過程において政治・軍事・外交の一体化という確信があったことを指摘、一元的な指導を推し進めていった彼の思惑を日記等の史料を基に読み解いていく。史料を踏まえて事実関係を突き詰めていく堅実な筆致の中からも、時折、蒋介石の思わぬ肉声がヴィヴィッドに浮かび上がってくる瞬間があり、そうしたところが面白い。
中国共産党の公式史観では、毛沢東の卓抜な指導と農民動員に基盤を置いた共産党人士の粘り強い奮闘によってこそ抗日戦争に勝利がもたらされたとされており、抗日戦争の勝利者という建国神話は中華人民共和国の正統性と密接に連動している。当然ながら、敵対してきた国民党の蒋介石に対する評価は極めて低く、国民政府が戦時期に展開していた外交活動の役割は無視されてきた(ただし、台湾問題で「一つの中国」論を展開するに当って、近年は蒋介石再評価の動向も見られる)。
蒋介石が日本との正面衝突を回避しようとする「一面抵抗、一面交渉」「不戦不和」といった一見煮え切らない態度は、中国国内では弱腰だと評判が悪かった。ただし、軍事力の点で日本との間に圧倒的な差があったことを考えないといけない。中国単独で立ち向かったところで勝ち目はない。そこで、蒋介石は国際連盟を舞台に日本の非道を積極的にアピールして、紛争の国際化を図る。近い将来に日ソ開戦もしくは日米開戦が必ず起こるはずだと見込んだ上で、その時まで日本との正面衝突を先延ばしすべく持久戦に持ち込む。1931年11月30日に蒋介石は「外交為無形之戦争」(外交は無形の戦争である)という演説を行っていた。つまり、彼は国際社会からの同情や援助を引き出すことで大局的に抗日戦争を勝ち抜こうと意図していたのであり、一見弱腰に見える「不抵抗主義」も長期的展望に基づく外交戦略であったと捉えるのが本書の趣旨である。実際、彼は抗日戦争を第二次世界大戦の枠組へと組み込むことに成功した。また、連合国の四大国の位置を占めたことは戦後において国際連合安全保障理事会常任理事国の椅子をもたらし、その成果を現在は中華人民共和国が享受しているわけである。
蒋介石の対日観が抱え込まざるを得なかった様々なアンビヴァレンスには興味が引かれる。孫文の大アジア主義を受け継いだ彼にとって、日本はアジア復興のための同盟国であって欲しかった(共産党の反帝国主義が抗日に収斂したのに対して、蒋介石の反帝国主義には抗日ばかりでなく反ソや反英の意識も強かったことが指摘されている)。他方で、日本はアジアの盟主の地位を争う新興国でもあった(彼は冊封体制のような前近代的伝統意識から抜けきれていなかったと指摘される)。また、日本留学経験のある彼は日本が成し遂げた近代化の成果を高く評価していた。軍閥と政府及び民間という両者を区別して日本人を捉え、直面している日本軍の侵略は前者によって引き起こされた一時的な逸脱に過ぎないと考えていた。こうした日本観が戦後における「以徳報怨」にもつながってくる。ただし、蒋介石が知っていた日本とは、最後に訪日した1927年までの日本、すなわち国民国家形成に邁進していた明治期や自由主義思潮が花開いた大正期の日本であって、それ以降、日本社会が暗く変質していく昭和初期という時代を彼は知らなかった点で日本認識にギャップがあったという指摘が興味深い。
中国における抗日戦争は、単に日本軍の侵略に立ち向かうというだけでなく、戦争遂行そのものに国民党と共産党とが政治的主導権をめぐって争うプロセスが同時進行していた。複雑な要因が様々に絡まり合い、そうした一面的な解釈を許さない難しさを著者は「多面体のプリズム」と表現している。本書では蒋介石が行なった外交指導の成果を高く評価しているが、だからと言って共産党の役割が否定されるわけではない。ただ、共産党のみを肯定する公式史観を鵜呑みにするだけでは把握できない局面が、蒋介石の外交指導に注目することで浮かび上がってきたということである。
同様に、別の視点からプリズムに光を当てていくなら、また違った姿も見えてくるはずだ。例えば、蒋介石が実施した焦土作戦(日本軍の進行を阻むために黄河の堤防を決壊させたり、長沙で大火事を起こしたり)によって多くの中国人がむざむざ犠牲になったことで、彼に対する反感が強まったことは想像に難くない。長沙の大火事を知った汪精衛は、日本軍と蒋介石の双方によって中国の国土が壊滅してしまうと考え、日本との和平工作に乗り出すきかっけになったという(ただし、蒋介石は孔祥熙のルートで極秘に日本と和平工作を進めており、汪精衛はその機先を制したという可能性もあるようだ)。また、日本側が展開していた切り崩し工作によって日本軍と戦わない地域(日本側の言う「明朗地域」、中国側から言えば「淪陥区」か)が拡大し、そこで暮らす中国人は2億人にものぼったという事実もある。中国は日本と戦争をしているはずなのに、観光・留学・貿易など様々な名目で中国と日本との往来も盛んという奇妙な日常があった。
いずれにせよ、本書は単に抗日戦争における蒋介石の外交指導が果たした役割を分析して終わりというわけではない。蒋介石再評価を一つの視点として打ち出しつつ、この歴史の多面体を見ていく上で他にも様々な視点があり得ることへ読者の注意を喚起してくれる。そうした問題意識から触発されるものを汲み取りながら読んでいくと面白いだろう。
なお、スタンフォード大学フーヴァー研究所で公開されている蒋介石日記を用いた研究としては、Jay Taylor, The Generalissimo: Chiang Kai-shek and the Struggle for Modern China(The Belknap Press of Harvard University Press, 2009→こちら)も以前に読んだ。蒋介石関連では今後も様々な研究成果が出てくるであろうことが期待される。
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