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2012年11月

2012年11月30日 (金)

杉山祐之『覇王と革命──中国軍閥史 一九一五─二八』

杉山祐之『覇王と革命──中国軍閥史 一九一五─二八』(白水社、2012年)

 1911年の辛亥革命はある意味、偶発的な出来事がきっかけだった。すでに揺らぎ始めていた清朝から中華民国への比較的スムーズな体制転換は、パワーバランスの推移を狡猾に見極めた袁世凱によってこそ可能になったと言える。その過程で孫文はあくまでもシンボルであって、具体的なことは何もしていない。良くも悪くも圧倒的な存在感を持った袁世凱だが、1915年に帝政運動へ乗り出すと、成立したばかりの中華民国は早くも四分五裂の危機を迎える。全国からの猛反発に愕然とした袁世凱は翌年、失意のうちにこの世を去った。彼の権力の源泉となっていた北洋軍閥は分裂し、安徽派(中心人物の段祺瑞が安徽省出身であることに由来)、直隷派(中心人物の馮国璋が直隷省出身であることに由来、他に曹錕、呉佩孚など)、そして張作霖の奉天派が入り乱れて北京を中心に権力争奪戦を繰り広げる。他方、中国南部もまた軍閥割拠の様相を呈しており、広東軍政府を組織した孫文の国民党にしてもこうした中では弱小勢力のたった一つに過ぎなかった。孫文の死後(1925年)、国共合作で内部に取り込んだはずの共産党(及びそのバックにいたソ連)の策動も相まって、国民党もまた内部で権力争いを繰り返していたが、そうした中から蒋介石が台頭、国民革命軍は紆余曲折を経ながら北伐を開始する。そして、国民党の後方を撹乱する共産党勢力の中には毛沢東や鄧小平の姿もあった。軍閥抗争期は旧時代の人物を洗い流していった一方、次の時代の主人公たちが出番を待っている。

 中華民国という枠組が有名無実となって各地に軍閥が割拠したこの時代。高校世界史の歴史地図に軍閥指導者の名前が列挙されていても、相互にどのような関係にあったのかよく分からなかった覚えがあるが、それも当たり前。パワーバランスの変化に応じて互いに合従連衡を繰り返していたのだから。政治史的な記述は複雑となって理解するのは一苦労である。もう一つ、国民党にせよ、共産党にせよ、自分たちの正統性を主張するため、軍閥期の人物を悪役に仕立て上げる、もしくは軽視する形でストーリーを作り上げてきたという事情もあるだろう。

 党派的に自らの立場を正統化する歴史観をいったん解きほぐした視点で捉えなおしてみると、善悪というよりは、悲喜こもごもの濃密なドラマが見えてくる。あるいは、歴史のイフを語りたくなるようなオルターナティヴの可能性も見えてくる。

 例えば、剛直な常勝将軍・呉佩孚の孤立。機略縦横な才知がかえって多くの敵を作り、身を滅ぼすことになった稀代の策士・徐樹錚。自らの勢力拡大のためには平気で裏切りを繰り返した馮玉祥。人情家的な親分肌の張作霖──個性もそれぞれに多様な群像が織り成すドラマは、20世紀初頭という現代史の範疇にありながら、あたかも三国志演義が再現されているようで実に面白い。

 親日的な売国政権として評判の悪い段祺瑞にしても、中国国内の混乱状況と日本の圧力との間で板挟みになって極めて困難な政局のハンドリングを強いられていた様子を具体的に見れば、非難ばかりするのもフェアではない気がしてくる。それに段祺瑞は、辛亥革命後の皇帝退位と共和制樹立を主導し、袁世凱の皇帝即位に反対し、張勲による復辟運動(1917年)をつぶすなど3度にわたって共和制の護持者として活躍している。

 基盤が脆弱であるにもかかわらず北伐による中国統一を強硬に主張した孫文に対して、まず広東という足元から近代的な国家建設を進めるべきだと反対した陳炯明は、孫文を正統とする歴史観からすれば裏切り者に他ならない。しかし、陳炯明の発想の先には、聯省自治によるUnited States of Chinaとも言うべき連邦構想があった。例えば、湖南でもそうした自治運動はあったし、閻錫山のいわゆる山西モンロー主義にしても同様のことが言えるかもしれない(本書ではそこまで触れていないが)。

 民国初期は軍閥割拠という混乱状況にあった点では不幸な時代であった。何よりも、相次ぐ戦乱は一般の民衆を苦しめるばかりであったし、日本軍の侵略をむざむざ許してしまったことには屈辱感があったはずだ。他方で、中央集権化されていなかったからこそ、検閲や弾圧をくぐり抜けながらも様々な国家構想を語れる時代でもあった。結果として実現されることはなかったにせよ、そうしたオルターナティヴの可能性を多分にはらんだ時代として見直してみるならば、いっそう刺激的なテーマがこの時代に埋もれているのは間違いなく、興味は尽きない。

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2012年11月19日 (月)

筒井清忠『昭和戦前期の政党政治──二大政党制はなぜ挫折したのか』

筒井清忠『昭和戦前期の政党政治──二大政党制はなぜ挫折したのか』(ちくま新書、2012年)

 1925年の男子普通選挙によって日本でも本格化した二大政党政治は1932年の五一五事件で犬養毅首相が暗殺されて幕を閉じ、わずか8年間しか続かなかった。もちろん、日本が内発的に議会政治を持ち得たという事実は、その経験が戦後政治にも接続された点で実は非常に大きな遺産であったと言える。本書でも指摘されるように、浜口雄幸、若槻礼次郎、幣原喜重郎といった国際協調主義を取った政治家の名前はアメリカの要人にも記憶されており、軍国主義が暴発した一方でリベラルな勢力も存在していたという日本認識がGHQの占領政策を穏健な方向へ導いたという影響も決して無視できない。だが、そうではあっても、政党政治が短期間に潰え去ったという端的な事実を振り返るとき、痛恨の思いを以て検討せざるを得ない。

 護憲三派の形成から犬養内閣の崩壊に至るまでの政治動向をたどりながら、当時の社会的背景との関わり合いが分析される。「歴史とは過去との絶え間なき対話である」というE・H・カーの言葉を引き合いに出すまでもないが、本書は昭和初期の政治史的分析であると同時に、そこを通して見据えているのはまさに現在の日本政治が抱える問題点である。

 疑獄事件が相次ぐ政治腐敗や党利党略の泥仕合が国民からの信頼を失い、とりわけ統帥権干犯問題など天皇という絶対的シンボルを政争の具として持ち込んでしまったことで政党政治は自らの首を絞めて自滅していった成り行きについては一般的にも理解が共有されているだろう。

 本書で関心を引くのは次の二つの指摘である。第一に、「政策的マターよりも大衆シンボル的マターの重要性が高まっていたことを若槻は十分理解していなかった…「劇場型政治」への無理解が問題なのであった」(96ページ)。大衆社会状況が高まる中、政策的な判断よりも有名か無名かが選挙に勝ち残る決め手となっていた。民度の問題を云々しても仕方がない。所与の条件である以上、そうした難しい状況をどのようにハンドリングしたら良いのか。政党政治家よりも超国家主義者の方がこのような大衆感情をたくみに汲み取って政治動員を進めていくことになる。

 第二に、マスメディアや知識人の責任を挙げている。政治の実際とは泥臭いもので、様々な問題があるのは確かである。ただ、そうした現状を目にして政党政治を健全に育て上げていこうとするのではなく、逆に既存政党批判をセンセーショナルに報道し(そこには大衆感情に乗っかる意図もあったのだろう)、まだ見ぬ「新勢力」への期待を煽り立てた。二大政党がダメなら無産政党、無産政党もダメになると軍部や近衛新体制への期待が語られていく。しかし、そうした「新勢力」への幻想が実際にはどのような結果をもたらしたのか、今さら言うまでもない。「“内輪の政争に明け暮れ、実行力・決断力なく没落していく既成政党と一挙的問題解決を呼号しもてはやされる「維新」勢力”という図式が作られやすいという意味で、歴史は繰り返すのである」(269ページ)。

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2012年11月17日 (土)

植民地台湾出身の貴族院議員、許丙

 台湾史関連の文献を調べていて、名前はよく見かけるのだが、人物像が具体的にイメージできない人が何人かいる。許丙(1891~1963)もそうした一人であった。彼は、台湾五大名家の一つ、台北板橋の林本源家で大番頭のような立場から当主・林熊徴に代わって采配を振るい、台湾土着資本の企業経営に携わって台湾の政財界に大きな影響力を持っていた。日本の敗戦間際の1945年には林献堂、簡朗山と共に貴族院議員に勅選されたが、それにもかかわらず国民党政権の来台後も「漢奸」として排除されることなく一定の力を維持する。そうした不思議な存在感は以前から気にかかっていた。

 『許丙・許伯埏回想録』(許雪姫・監修、川島真・蔡啓恆・日本語編集、中央研究院近代史研究所、1996年。中央研究院のサイトでPDF公開されている→こちら)をたまたま入手した。長男の許伯埏が父親から聞き取ってまとめた草稿が基になっており、合わせて許伯埏自身の回想も収録されている。許丙は台湾総督府国語学校を卒業して日本語力を駆使しながら日本統治下の時代を生き抜いた人であり、許伯埏もまた東京に留学して東京帝国大学法科大学を卒業したエリートである。そのため全文日本語で記されているが、台湾の中央研究院の史料叢書として刊行されているので、編集で各章ごとに中国語のサマリーがつけられている。

 許丙の存在感の秘訣は、一言でいうと人脈の力に尽きるだろう。個々のエピソードはともかく、政財界から軍部まで多種多様な人物が登場してくるのには驚いた。台湾総督府や台湾軍に任官したキーパーソンに渡りをつけ、彼らが異動した後もこまめに交流を維持していたようだ。許伯埏の回想には、東京留学中に父の言いつけで要人の邸宅を訪問する話が頻繁に出てくる。回想録を素直に読むと許丙自身の誠実な人格が信頼を得ていたように印象付けられるが、勘繰ると「心づけ」を盛大にばらまいていたのではないか。商売上の便宜を図ってもらっていたであろうことは想像に難くない。その点では、台湾文化協会など民族運動に参加した人々からの評判は悪いが、他方で彼が台湾人の地位向上のため折に触れてこうした人脈ルートを使って総督府や東京の中央政界に陳情していたことも回想録から読み取れる。

 例えば、「皇民奉公会」は大政翼賛会の台湾版と考えて間違いはないのだが、その成立経緯として、台湾人の日本化を目指した「皇民化運動」の行き過ぎを抑えるために許丙が長谷川清台湾総督へ直接申し入れたのがきっかけだったという。台湾人もすでに日本国籍の「皇民」である、すなわちこれ以上の「皇民化運動」は必要ないという前提を認めさせるため、「皇民奉公会」へ流し込むことで「皇民化運動」の事実上の解消を図ったのだという。

 許丙と何らかの関わりが出てくる人物を順不同で並べていくと、政財界では、田健治郎(台湾総督)、石井光次郎(台湾総督府秘書課長)、下村宏(海南、台湾総督府民政長官)、柳生一義(台湾銀行頭取)、中川小十郎(台湾銀行頭取、立命館大学学長)、大久保偵次(東京渋谷区代々木大山町の自宅で近所、大蔵省銀行局長のとき帝人事件に巻き込まれる)、三土忠造(蔵相)、小林一三、渡辺千冬(東京の自宅の隣組)、太田政弘(台湾総督)、青木一男(東京の自宅の隣組)、緒方竹虎、河原田稼吉、石原広一郎、吉田茂、原田熊雄、近衛文麿、小笠原三九郎(蔵相)など、軍人では福田雅太郎、真崎甚三郎(台湾軍司令官)、菱刈隆(関東軍司令官兼駐満洲国大使)、渡辺錠太郎、香椎浩平、川島義之(東京の自宅の隣組)、柳川平助(台湾軍司令官)、秦真次、服部兵次郎、阿部信行、長谷川清(台湾総督)、及川古志郎など。柳川から頼まれて渡辺と真崎を仲直りさせる宴席をセッティングしようとしたが、二二六事件で渡辺が暗殺されてしまったため果たせなかったというエピソードも出てきた。戦後になると、張群、何応欽などとも良好な関係を持っていたようだ。

 芸術関係では梅蘭芳も出てくるし、広東出張中に出会った藤田嗣治とは台湾まで旅程を共にしたらしい。香港や広東へ出張に出かけていたということは、日本軍の展開に伴って大陸まで事業展開を図っていたことがうかがえる。1934年には満洲国を訪問して溥儀や高官たちと面会し、宮内府顧問に任命されたという。溥儀からは東京での活動をねぎらわれた、と記されているが、これもやはりお金をばらまいたり、人脈を動かしたりしたのであろうか。

 許丙は林熊徴の事業という名目で有為の若者への学資援助も積極的に行っていた。例えば、杜聡明(台湾人として初めて博士号を取得した医学者)の研究費用も出していたらしい。奨学金を出した学生の中には呉三連や連震東(大陸へ行って抗日運動に参加した後に国民党員として台湾へ戻ってきた。歴史家・連雅堂の息子で、後の副総統・連戦の父親)のように民族運動に参加して総督府からにらまれた人々もいた。圧力を受けても、学業不振が理由ならともかく、政治信条で奨学金を引き上げるつもりはない、と押し通したらしい。うがった見方をすると、「保険」をかけたとも言えるだろうか。連震東のように戦後の国民党政権で高官となった人物とのつながりはやはり大きくものを言ったはずだ。芸術関係では、黄土水や張秋海などの支援をしていたことが記されている。江文也について調べていたら、やはり許丙から財政的支援を受けていたらしいから、他にもこうした例は少なくないのだろう。なお、芸術関係では陳清汾、楊三郎、李梅樹、戦後は溥心畬(旧満洲国関係で)とも付き合いがあったという。

 日本の敗戦直後、許丙が台湾人有志や日本人の少壮軍人と共謀して台湾独立を図ったという噂があるが、これについては林献堂の日記も援用しながら明確に否定している。幸か不幸か、この件でしばらく拘留されていた間に二二八事件が勃発、許丙はその前から拘留されていたので巻き込まれないで済んだ。ただし、1949年の時点で、蒋緯国の岳父にあたる石鳳翔という人から紡績業関連の視察で一緒に日本へ行こうと誘われたが、そのまま帰台しないのではないかと疑われて出境許可が出ないという出来事もあったそうで、許丙の去就を疑う向きもあったのだろう。そうした中を泳ぎきったのも、やはり国民党政権内部に人脈を持っていたからだろうと想像できる。日本統治期からすでに北京官話の勉強もしていたことも役立っただろう。大陸での事業展開を考えていたのだろうし、その頃から大陸でどんな関係を築いていたのか、回想録に出てこない部分こそますます気になってくる。

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2012年11月13日 (火)

2012年11月11日、上田旅行2(江文也の足跡をたどる)

 ここしばらく、折を見ては台湾出身の音楽家・江文也のことを調べている。私が上田を訪れたのも、彼の青年期における足跡をたどるためだ。ただし、井田敏『まぼろしの五線譜──江文也という「日本人」』(白水社、1999年)にも著者が上田へ調査に行った記述が出てくるが、江文也について手がかりになるものはたいして見つからず、その日のうちに東京へ戻ってしまったらしい。従って、私もそれほど期待はせずに行った。実際、上田市観光会館の相談窓口で年配の方に尋ねても、江文也という名前は初めて聞きました、という反応だった(色々資料を出して調べようとしてくれたので、その点ではありがたく、恐縮してしまった)。上田市で江文也について全く知られていないことが確認できたのは、逆説的ながら一つの収穫だったと言えるのかもしれない。そういうわけで、具体的な情報を求めるのではなく、むしろ彼が青年期を過ごした街並を自分の足で歩いてみて、その距離感や雰囲気を体感したいというのが今回の旅行の目的である。

 ところで、江文也はなぜ上田にいたのか。台湾出身の彼と信州の山間都市との接点はちょっと不思議な印象も与える。

 江文也の出生地について、一般的には台北の北側で淡水の近くにある町、三芝と記述されている。三芝は父親である江温均の故郷だが、李登輝もやはり同郷で、一族同士に付き合いがあったらしい。ただし、顔緑芬・主編《台湾當代作曲家》(玉山社、2006年)所収の劉美蓮〈以《台湾舞曲》登上國際樂壇──江文也〉という解説記事によると、三芝はあくまでも戸籍上の記録で、彼が実際に生まれたのは台北でも問屋街の並ぶ下町・大稲埕だったという。いずれにせよ、台湾で生まれた文也は貿易を生業としていた父親に従って廈門(アモイ)に渡った。ところで、父親が廈門で仕事仲間として親しくしていた日本人がいたのだが、亡くなってしまった。子供たちを日本へ留学させようと考えていた父・温均は、残された夫人が故郷の上田へ戻るのにあたり、彼女に子供たちを託したというのが上田留学の経緯だったらしい。文也が上田へ来たのは1923年9月、ちょうど関東大震災の直後で、13歳だった。廈門にいた頃、台湾総督府が設立した旭瀛書院で彼は学んでいたので日本語はできたはずだが、まず尋常小学校の6年に編入され、さらに旧制上田中学(現在の県立上田高校)に進学した。

 写真は現在の県立上田高校の校門である。進学校として有名らしい。もともと上田藩主の邸宅が学校に転用されたところで、門構えがそのまま校門になっている(写真)。当然、江文也もこの門をくぐったはずだ。また、近くにある上田市役所の並びに市立第二中学校があるが、江文也が通っていた上田市立尋常高等小学校南校がかつてここにあった。さらにさかのぼると明倫館という藩校だったそうだ(写真写真)。その向側にはレトロモダンの建物があった。旧市立図書館で、現在は石井鶴三美術館となっているが(写真写真)、見たところ開館していなかった。隣が上田市観光会館で、その前のT字路を渡ると上田城跡にぶつかる。

 写真は上田城である。豊臣家と徳川家が対立した際、真田家は昌幸・幸村親子と長男の信之とがそれぞれ別陣営について家名の存続を図ったことはよく知られている。昌幸・幸村はここ上田城に拠って、押し寄せる徳川勢を二度にわたって撃退、とりわけ関ヶ原の戦いに際して信州経由で関ヶ原へ出ようとした徳川秀忠勢を釘付けにして参戦できなくしたため(第二次上田合戦)、江戸幕府の権力が確立すると上田城は解体された。真田家が松代に転封された後は仙石家、松平家が藩主となる。仙石家の時代に城郭が復興されたものの、明治維新後は民間へ払い下げられ、そのまま打ち捨てられたという。現在につながる形で櫓が再現されたのは1942年以降のことらしい(従って、江文也は上田城の櫓を見ていない)。現在は紅葉の名所として知られており、本格的な撮影器材を持った中高年がたくさんうろうろしていた。なお、上田市内では真田一族や真田十勇士のイケメンキャラを頻繁に見かけたし、関連するイベントも盛んに催されているようだ。真田幸村は、上田にいたのは青年期だったということで若武者姿である。蛇足ついでに記すと、上田にはフィルムコミッションがあって映画のロケ地としてよく利用されているらしい。細田守監督のアニメ映画「サマー・ウォーズ」のポスターを割合に見かけたのだが、この作品の舞台も上田だったようだ。そう言えば、真田の六文銭の旗印が出てきた記憶がある。

 上田城内の市立博物館及び山本鼎記念館を参観した。市立博物館では上田藩に関する展示の他、山極勝三郎(1863~1930)という上田出身の病理学者に関する特別展示が行なわれていた。江文也の学生時代の親友で山極姓の人がいたが、ひょっとして一族なのだろうか。山本鼎(1882~1946)という画家のことも知らなかった。児童の感性をつぶさないようにする自由画教育運動、工夫を凝らした生活工芸品を作ることで収入の足しにするばかりでなく農民自身のプライドを促そうとした農民美術運動などで知られた人物らしい。

 市街地に戻って、再び江文也の足跡をたどる。上田市内にはキリスト教会が意外と多い。写真は上田市内の新参町教会。明治の末から主にメソジスト会系の宣教師がやって来ており、江文也もカナダ人のスコット女史から音楽の薫陶を受けたという。建物そのものは昭和10年に移転してきた時に建てられたもののようで、彼が見たものとは違うが、意外とバタ臭い文化的雰囲気の中で青春期を過ごしていたことはうかがえるだろう。すぐ裏手に回ると、スカット女史が運営していた梅花幼稚園があり、江文也はここの日曜学校に通っていた。写真は撮らなかったが(園長さんとおぼしき人が入口で箒をかけていて、幼稚園の写真を撮ろうとしたら不審者に思われそうだと気兼ねしたのだが、考えてみれば、素直に声をかけて話を聞いてみたら良かった)、園内に瓦屋根の和洋折衷的な建物があった。後で調べたところ、ヴォリーズの設計で1902年の築造だという。江文也は間違いなくこの建物を見ていた。ちなみに、ウィリアム・メレル・ヴォリーズ(William Merrell Vories、1880~1964年)とはアメリカ人の建築家だが、宣教師として来日、布教活動のための収入源としてメンソレータムの近江兄弟社を設立したことで知られている。本職が建築だから日本各地に教会をはじめ様々な建物を残した。

 上田駅からまっすぐ延びる大通りに戻り、市街地の北に隆々とうねる太郎山を正面に見ながら歩いていった。地図を見ながらたどり着いたのは真田家ゆかりの大輪寺。平野部から太郎山へと傾斜がくっきりし始める麓のあたりにある。閑静なたたずまいだが、堂宇の構えがなかなか立派な禅寺だった。『まぼろしの五線譜』(185ページ)によると、江文也と共に上田へ来ていた兄の江文鐘はこの大輪寺の住職に可愛がられ、彼自身、仏教哲学の思索に触れていたという。弟の文也がキリスト教会に出入りして音楽や文学をはじめ西洋的文化にのめり込んでいったのと対照的な兄の傾向性が興味を引く。

 なお、江文鐘はその後、父の仕事を手伝うために文也よりも早く上田を離れて廈門へ戻った。詳しい経緯は分からないが、『まぼろしの五線譜』の記述によると、大陸で軍の特務機関に徴用され、戦後になると国民党政権下で投獄されたという。ただ、この人の詳細なプロフィールがよく分からないのでグーグル検索してみると、出口王仁三郎関連の史料がヒットした(→こちら)。昭和九年十一月廿九日、昭和神聖会総本部にて開催された「南支事情を聞く座談会」の出席者中に江文鐘の名前が出てくる。この「南支事情」とは、1933年に福建省の福州を拠点として蒋介石政権に反旗を翻して「中華共和国人民共和国」の成立が宣言された、いわゆる福建事変を指すと思われる。他の出席者の向佩璋や角田清彦はどうやら軍部の意向を受けて福建で何らかの工作を行っていた人々のようだ。よく分からないのだが、江文鐘にも何かキナ臭い政治的背景があった可能性がある。いずれにせよ、仏教思想に思索の糧を求めていた晩年には、文也と共に信州上田で過ごした青春期が一番幸せだったと述懐していたらしい。大陸に残った文也が反右派闘争や文化大革命でひどい目に遭わされたことを考えると、彼ら兄弟両方に現代史の暗い影がさしていた宿命には複雑な思いがする。 

 上田の市街地へと戻る。池波正太郎真田太平記館に入ってみたが、そもそも『真田太平記』を読んでいないので、これといった感想はない。ただ、この隣の駐車場のあたりに江文也の奥さんの実家があったらしい。問屋として地域でも有名な旧家だったそうだ。

 その駐車場のさらに隣にある太平庵という蕎麦屋さんに入り、昼食としておすすめメニューにあった豚コクそばを注文(写真)。豚骨・魚介ベースのつけだれで蕎麦を食べる。写真の左上にすでに飲み干した枡が映っているが、この店限定の樽酒で、これが本当にうまかった。

 今度は上田の市街地の東側を歩いてみた。これといったものも見当たらなかったのだが、常田館という古い建物を見かけた(写真)。絹の文化資料館となっており、入って声をかけてみたが誰もいない。一般開放されているのかな、と思い、靴を脱いであがりこんでぼんやり眺めていたら、入口が開いて女性の事務員さんから「許可を得ていますか?」と誰何されてしまった。どうやら笠原工業という会社の所有地で、道路を挟んだ向かい側にある事務所で入館証を受け取らないといけなかったらしい。慌てて手続きをして、再び参観。養蚕関連の道具などが展示されていた。事務所の脇には、かつて倉庫だった建物がそびえている(写真)。ずいぶんと大きい。

 ここから少し離れたところには信州大学繊維学部(旧制上田蚕糸専門学校)がある。上田はもともと紬で知られた街だが、明治以降も繊維工業が発達し、そうした経済的基盤がしっかりしていたからこそ、文化的雰囲気も維持できていたのだろう。上田の市街地を歩いていると、このレベルの中都市の割には書店が意外に多いという印象を受けた。そうした文化的気風、さらには宣教師によってもたらされた西洋文化などを青年期の江文也がしっかり吸収し、そうであるがゆえに文化的なものへの憧れがいっそう掻き立てられたであろうことは、この上田の街を歩いていると自然に納得できた。日本は近代化の途上にあって軽工業が輸出の主動力となっていたが、江文也の父親がアモイで知り合った日本人というのもひょっとしたら繊維工業関連の貿易商だったのかもしれない(確認していないが)。

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2012年11月12日 (月)

2012年11月10日、信州・上田旅行1(無言館、その外)

 稲穂が刈り取られた田んぼの跡にはうっすらとした茶色が広がり、澄みわたった青空とのクリアな対比は空気の清潔感を色彩的に際立たせる。ススキが風に揺られ、やわらかに穂をしならせている。稲わらを焼く煙がところどころで立ち上って、あたり一面には焚き火の焦げ臭さが風に乗ってかすかに漂っており、それが鼻腔を刺激すると、ああ、これは田舎の秋の臭いだな、と妙な実感が湧いた。ちょうど紅葉が見頃の季節である。盆地を囲む山並みに彩られた赤みは、木の種類によって印象派の点描を想起させるように濃淡のコントラストをなし、とりわけ夕暮れ時の陽光に照らし出されたとき、輝くような鮮やかさが印象に残った。

 11月10日、ふと思い立って信州の上田へ旅立つ。長野新幹線で1時間余り、上田駅で上田交通別所線に乗り換えた。典型的なローカル列車ではあるのだが、上田の発着駅が2階にあったので、少し驚く。発車のアナウンスがなぜかアニメ声。そういえば、別所線存続支援キャラ「北条まどか」なる萌え系美少女イラストのポスターを見かけたから、彼女の声という設定なのだろう。ついでながら言っておくと、上田市内では真田十勇士をイケメン風に造型したキャラも頻繁に見かけた。そういう町おこしを図っているのか。

 別所線は2両編成である。車両は首都圏の私鉄から払い下げられたものらしく、普通のロングシートだった。先頭車両の運転室脇にバスと同様の運賃箱があって、降車時にはそこに切符もしくは運賃を入れる。主要駅を除くと、この運賃箱近くのドア以外は開かず、乗客は降車駅が近づくと先頭車両へと移動する。運転手さんも車両内を移動する乗客がいないのを確かめてからドアを閉めていた。

 盆地とは言っても割合と広々とした平野の中を、列車はトコトコ進んで行く。客もまばらなロングシートにゆったり腰掛け、対面の車窓に流れる風景を見やる。ああ、秋だな、と素直に思った。気温の低下という意味ではすでに秋であることをもちろん知ってはいたが、ただ、東京にいるとヴィジュアルで季節感を感じさせる機会が意外と少ない。

 次の駅が視界に入ったとき、ギョッとした。高齢者の団体客がホーム上にあふれかえっており、列車が到着してドアが開くや否や、一斉に車内へなだれ込んできた。じいさん3割、ばあさん7割くらい、総勢50人以上いたのは間違いない。席取り合戦が始まったので、私はおとなしく立ち上がってドア脇に移った。ここの方が風景を眺めるにはちょうど良い。斜め向いに座っていた地元高校生も私と同様にドア脇に追いやられていた。ガイド役なのだろうか、白い車掌服を着込んだ年配の男性も一緒に乗り込んできて、観光案内のプリントを配付。一通り行き渡ったのを見計らったところで、「みなさん、はい、注目!」と一声あげると、おもむろにハーモニカを取り出し、「赤とんぼ」を吹き鳴らし始めた。ばあさんたちが、待ってました!とばかりに唱和し始め、それにつられる形で車内に歌声が立ち込める。…何だ、これは? 老人ホームの修学旅行か? 土産物を載せるトレー(「ばんじゅう」と言うのか?)を肩からさげた男性の売り子さんがすかさず現われ、じいさんばあさんの波をかき分けていく。売り子さんのスタイルもレトロな演出である。こういう高齢者団体客が地方の観光地でしっかりお金を落としてくれているのか。うざったい、というよりも、あまりにシュールな光景を目の当たりにして笑いをこらえるのに必死だった。

 騒々しい車内から逃げ出すように塩田町駅で降りた。無人駅である。ほど良く涼しい秋の風が頬をなで、ほっと一息つく。駅前にシャトルバスが停車しており、無言館まで行くことを運転手さんに確認してから乗り込んだ。私をピックアップするとすぐに発車した。列車の到着に合わせて運行しているようだ。盆地の縁にあたる山並みへと向かい、登っていく中腹のあたりで下車。10分もかからなかったように思う。「無言館はあっちを登った所にありますよ」と運転手さんは丁寧に教えてくれた。おろされたところはちょっとした公園になっており、盆地を一望できる(写真)。

 木立の向こうに無言館が見える(写真)。近づいて撮った写真がこれ。無言館については今さら言うまでもなかろうが、第二次世界大戦で出征して二度と帰ることのなかった画学生たちの遺作が、館主の窪島誠一郎や自らも出征体験のある画家の野見山暁治の努力で収集されており、遺品や遺族のコメントと共に展示されている。本館が開館したのは1997年だが、寄附を募って2008年、新たに第二展示館「傷付いた画布のドーム」も完成した(写真)。 

 戦没画学生たちの遺作であることだけが共通項だから、作品のタイプも描き手のプロフィールも様々である。旧制東京美術学校(現在の東京芸術大学)出身などエリート的な人々が多い一方、師範学校出や学歴もなく独学で絵を描いていた人もちらほら見かける。シュールレアリスムを真似た作品や、ファッションデザインなどもあった。自画像が多いのは、芸大では昔から卒業制作で自画像を描く習慣があったからか。

 生き続けたら良い作品を生み出したのではないかと思える人もいるが、もちろんそういう問題ではない。もっと描き続けさせてやりたかった、という遺族の言葉を見て、しばし歩みが止まる。行く前はそれほど深く考えていなかったのだが、あの礼拝堂のように荘厳な空間(コンクリート打ちっぱなしの造型は安藤忠雄作品のようにも思ったが、どうやら違うようだ)にたたずんでいると、展示されている絵のそれぞれから無念の思いが響き渡り、空間的に共鳴しているようなイメージが湧いてきて、ちょっと胸がつまってくる思いがした。あまり陳腐なことは言いたくないのだが、そう感じてしまったのは事実だ。

 無言館前から再びシャトルバスに乗る。この辺りにはいくつか古いお寺があるらしく、無言館も含めてちょっとしたハイキングコースになっているようで、途中から乗車する人もいた。20分もしないで別所温泉まで出た。

 別所温泉で温泉にでも入ろうと思っていたが、ちょっと歩いてみてもそれほどの風情も感じなかったので、すぐ帰ることにした。駅へ向かって道を下っていく途中、将軍塚というのが目にとまった。余五将軍平維茂の墓という伝承がある。信州戸隠で叛乱を起こした鬼女・紅葉を討伐するために維茂が来たというストーリーは能の「紅葉狩」にも翻案されているが、その時にこの近辺に拠点を置いたそうだ(なお、日本で最古の映画は明治末期に撮影された「紅葉狩」だったような気がする)。他にも、木曾義仲が側室と一緒に温泉に浸かったとか、西行法師が別所温泉に来ようとした時に出くわした童子と問答したら、その利発さに驚いて引き返したという「西行戻り橋」とか、武田信玄が信濃北部へ勢力を拡大する際に派遣した重臣がここ別所温泉に拠点を置いたとか、色々と歴史的由緒がある。

 夕方、盆地が黄昏色になずむ中、上田交通別所線に乗って戻る。途中から女子大生の姿をちらほら見かけると思ったら、沿線に大学があるようだ。新幹線で上田駅に到着した時、宿泊先をどうしようかと思い、ものは試しと別所温泉の旅館に問合せてみたのだが、やはりシーズン中ということで空室はなかったので、駅前のビジネスホテルに部屋を確保してあった。荷物を置いてから、土地勘をいくぶんなりとも探るため、暗くなった上田の市街地を歩き回る。7時にはたいていのお店は閉まり、繁華街でも人通りが少なく、寂しく感じた。

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2012年11月 5日 (月)

家近亮子『蒋介石の外交戦略と日中戦争』

家近亮子『蒋介石の外交戦略と日中戦争』(岩波書店、2012年)

 戦後日本における中国現代史研究は、大陸での情報ソースの不足や、侵略をしてしまった過去の経緯への贖罪意識も手伝って、中国共産党の公式見解をそのまま反映する傾向があったと言われる。ところが、近年、新たな史料の公開や発掘に伴って実証的な研究蓄積も進み、イデオロギー的な歴史理解から距離を置いた著作も次々と世に問われつつある。蒋介石関連の史料、とりわけ2006年よりスタンフォード大学フーヴァー研究所で公開が始まった蒋介石日記を活用した本書もまたそうした成果の一つと言えよう。

 著者の前著『蒋介石と南京国民政府』(慶應義塾大学出版会、2002年)では、蒋介石は自らの政権の正当性を内外にアピールすることに努めつつも、その権力基盤は必ずしも磐石ではなかった事情が分析されていた。本書では、1935年以降、蒋介石が権力を掌握していく過程において政治・軍事・外交の一体化という確信があったことを指摘、一元的な指導を推し進めていった彼の思惑を日記等の史料を基に読み解いていく。史料を踏まえて事実関係を突き詰めていく堅実な筆致の中からも、時折、蒋介石の思わぬ肉声がヴィヴィッドに浮かび上がってくる瞬間があり、そうしたところが面白い。

 中国共産党の公式史観では、毛沢東の卓抜な指導と農民動員に基盤を置いた共産党人士の粘り強い奮闘によってこそ抗日戦争に勝利がもたらされたとされており、抗日戦争の勝利者という建国神話は中華人民共和国の正統性と密接に連動している。当然ながら、敵対してきた国民党の蒋介石に対する評価は極めて低く、国民政府が戦時期に展開していた外交活動の役割は無視されてきた(ただし、台湾問題で「一つの中国」論を展開するに当って、近年は蒋介石再評価の動向も見られる)。

 蒋介石が日本との正面衝突を回避しようとする「一面抵抗、一面交渉」「不戦不和」といった一見煮え切らない態度は、中国国内では弱腰だと評判が悪かった。ただし、軍事力の点で日本との間に圧倒的な差があったことを考えないといけない。中国単独で立ち向かったところで勝ち目はない。そこで、蒋介石は国際連盟を舞台に日本の非道を積極的にアピールして、紛争の国際化を図る。近い将来に日ソ開戦もしくは日米開戦が必ず起こるはずだと見込んだ上で、その時まで日本との正面衝突を先延ばしすべく持久戦に持ち込む。1931年11月30日に蒋介石は「外交為無形之戦争」(外交は無形の戦争である)という演説を行っていた。つまり、彼は国際社会からの同情や援助を引き出すことで大局的に抗日戦争を勝ち抜こうと意図していたのであり、一見弱腰に見える「不抵抗主義」も長期的展望に基づく外交戦略であったと捉えるのが本書の趣旨である。実際、彼は抗日戦争を第二次世界大戦の枠組へと組み込むことに成功した。また、連合国の四大国の位置を占めたことは戦後において国際連合安全保障理事会常任理事国の椅子をもたらし、その成果を現在は中華人民共和国が享受しているわけである。

 蒋介石の対日観が抱え込まざるを得なかった様々なアンビヴァレンスには興味が引かれる。孫文の大アジア主義を受け継いだ彼にとって、日本はアジア復興のための同盟国であって欲しかった(共産党の反帝国主義が抗日に収斂したのに対して、蒋介石の反帝国主義には抗日ばかりでなく反ソや反英の意識も強かったことが指摘されている)。他方で、日本はアジアの盟主の地位を争う新興国でもあった(彼は冊封体制のような前近代的伝統意識から抜けきれていなかったと指摘される)。また、日本留学経験のある彼は日本が成し遂げた近代化の成果を高く評価していた。軍閥と政府及び民間という両者を区別して日本人を捉え、直面している日本軍の侵略は前者によって引き起こされた一時的な逸脱に過ぎないと考えていた。こうした日本観が戦後における「以徳報怨」にもつながってくる。ただし、蒋介石が知っていた日本とは、最後に訪日した1927年までの日本、すなわち国民国家形成に邁進していた明治期や自由主義思潮が花開いた大正期の日本であって、それ以降、日本社会が暗く変質していく昭和初期という時代を彼は知らなかった点で日本認識にギャップがあったという指摘が興味深い。

 中国における抗日戦争は、単に日本軍の侵略に立ち向かうというだけでなく、戦争遂行そのものに国民党と共産党とが政治的主導権をめぐって争うプロセスが同時進行していた。複雑な要因が様々に絡まり合い、そうした一面的な解釈を許さない難しさを著者は「多面体のプリズム」と表現している。本書では蒋介石が行なった外交指導の成果を高く評価しているが、だからと言って共産党の役割が否定されるわけではない。ただ、共産党のみを肯定する公式史観を鵜呑みにするだけでは把握できない局面が、蒋介石の外交指導に注目することで浮かび上がってきたということである。

 同様に、別の視点からプリズムに光を当てていくなら、また違った姿も見えてくるはずだ。例えば、蒋介石が実施した焦土作戦(日本軍の進行を阻むために黄河の堤防を決壊させたり、長沙で大火事を起こしたり)によって多くの中国人がむざむざ犠牲になったことで、彼に対する反感が強まったことは想像に難くない。長沙の大火事を知った汪精衛は、日本軍と蒋介石の双方によって中国の国土が壊滅してしまうと考え、日本との和平工作に乗り出すきかっけになったという(ただし、蒋介石は孔祥熙のルートで極秘に日本と和平工作を進めており、汪精衛はその機先を制したという可能性もあるようだ)。また、日本側が展開していた切り崩し工作によって日本軍と戦わない地域(日本側の言う「明朗地域」、中国側から言えば「淪陥区」か)が拡大し、そこで暮らす中国人は2億人にものぼったという事実もある。中国は日本と戦争をしているはずなのに、観光・留学・貿易など様々な名目で中国と日本との往来も盛んという奇妙な日常があった。

 いずれにせよ、本書は単に抗日戦争における蒋介石の外交指導が果たした役割を分析して終わりというわけではない。蒋介石再評価を一つの視点として打ち出しつつ、この歴史の多面体を見ていく上で他にも様々な視点があり得ることへ読者の注意を喚起してくれる。そうした問題意識から触発されるものを汲み取りながら読んでいくと面白いだろう。

 なお、スタンフォード大学フーヴァー研究所で公開されている蒋介石日記を用いた研究としては、Jay Taylor, The Generalissimo: Chiang Kai-shek and the Struggle for Modern China(The Belknap Press of Harvard University Press, 2009→こちら)も以前に読んだ。蒋介石関連では今後も様々な研究成果が出てくるであろうことが期待される。

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