« 2012年11月10日、信州・上田旅行1(無言館、その外) | トップページ | 植民地台湾出身の貴族院議員、許丙 »

2012年11月13日 (火)

2012年11月11日、上田旅行2(江文也の足跡をたどる)

 ここしばらく、折を見ては台湾出身の音楽家・江文也のことを調べている。私が上田を訪れたのも、彼の青年期における足跡をたどるためだ。ただし、井田敏『まぼろしの五線譜──江文也という「日本人」』(白水社、1999年)にも著者が上田へ調査に行った記述が出てくるが、江文也について手がかりになるものはたいして見つからず、その日のうちに東京へ戻ってしまったらしい。従って、私もそれほど期待はせずに行った。実際、上田市観光会館の相談窓口で年配の方に尋ねても、江文也という名前は初めて聞きました、という反応だった(色々資料を出して調べようとしてくれたので、その点ではありがたく、恐縮してしまった)。上田市で江文也について全く知られていないことが確認できたのは、逆説的ながら一つの収穫だったと言えるのかもしれない。そういうわけで、具体的な情報を求めるのではなく、むしろ彼が青年期を過ごした街並を自分の足で歩いてみて、その距離感や雰囲気を体感したいというのが今回の旅行の目的である。

 ところで、江文也はなぜ上田にいたのか。台湾出身の彼と信州の山間都市との接点はちょっと不思議な印象も与える。

 江文也の出生地について、一般的には台北の北側で淡水の近くにある町、三芝と記述されている。三芝は父親である江温均の故郷だが、李登輝もやはり同郷で、一族同士に付き合いがあったらしい。ただし、顔緑芬・主編《台湾當代作曲家》(玉山社、2006年)所収の劉美蓮〈以《台湾舞曲》登上國際樂壇──江文也〉という解説記事によると、三芝はあくまでも戸籍上の記録で、彼が実際に生まれたのは台北でも問屋街の並ぶ下町・大稲埕だったという。いずれにせよ、台湾で生まれた文也は貿易を生業としていた父親に従って廈門(アモイ)に渡った。ところで、父親が廈門で仕事仲間として親しくしていた日本人がいたのだが、亡くなってしまった。子供たちを日本へ留学させようと考えていた父・温均は、残された夫人が故郷の上田へ戻るのにあたり、彼女に子供たちを託したというのが上田留学の経緯だったらしい。文也が上田へ来たのは1923年9月、ちょうど関東大震災の直後で、13歳だった。廈門にいた頃、台湾総督府が設立した旭瀛書院で彼は学んでいたので日本語はできたはずだが、まず尋常小学校の6年に編入され、さらに旧制上田中学(現在の県立上田高校)に進学した。

 写真は現在の県立上田高校の校門である。進学校として有名らしい。もともと上田藩主の邸宅が学校に転用されたところで、門構えがそのまま校門になっている(写真)。当然、江文也もこの門をくぐったはずだ。また、近くにある上田市役所の並びに市立第二中学校があるが、江文也が通っていた上田市立尋常高等小学校南校がかつてここにあった。さらにさかのぼると明倫館という藩校だったそうだ(写真写真)。その向側にはレトロモダンの建物があった。旧市立図書館で、現在は石井鶴三美術館となっているが(写真写真)、見たところ開館していなかった。隣が上田市観光会館で、その前のT字路を渡ると上田城跡にぶつかる。

 写真は上田城である。豊臣家と徳川家が対立した際、真田家は昌幸・幸村親子と長男の信之とがそれぞれ別陣営について家名の存続を図ったことはよく知られている。昌幸・幸村はここ上田城に拠って、押し寄せる徳川勢を二度にわたって撃退、とりわけ関ヶ原の戦いに際して信州経由で関ヶ原へ出ようとした徳川秀忠勢を釘付けにして参戦できなくしたため(第二次上田合戦)、江戸幕府の権力が確立すると上田城は解体された。真田家が松代に転封された後は仙石家、松平家が藩主となる。仙石家の時代に城郭が復興されたものの、明治維新後は民間へ払い下げられ、そのまま打ち捨てられたという。現在につながる形で櫓が再現されたのは1942年以降のことらしい(従って、江文也は上田城の櫓を見ていない)。現在は紅葉の名所として知られており、本格的な撮影器材を持った中高年がたくさんうろうろしていた。なお、上田市内では真田一族や真田十勇士のイケメンキャラを頻繁に見かけたし、関連するイベントも盛んに催されているようだ。真田幸村は、上田にいたのは青年期だったということで若武者姿である。蛇足ついでに記すと、上田にはフィルムコミッションがあって映画のロケ地としてよく利用されているらしい。細田守監督のアニメ映画「サマー・ウォーズ」のポスターを割合に見かけたのだが、この作品の舞台も上田だったようだ。そう言えば、真田の六文銭の旗印が出てきた記憶がある。

 上田城内の市立博物館及び山本鼎記念館を参観した。市立博物館では上田藩に関する展示の他、山極勝三郎(1863~1930)という上田出身の病理学者に関する特別展示が行なわれていた。江文也の学生時代の親友で山極姓の人がいたが、ひょっとして一族なのだろうか。山本鼎(1882~1946)という画家のことも知らなかった。児童の感性をつぶさないようにする自由画教育運動、工夫を凝らした生活工芸品を作ることで収入の足しにするばかりでなく農民自身のプライドを促そうとした農民美術運動などで知られた人物らしい。

 市街地に戻って、再び江文也の足跡をたどる。上田市内にはキリスト教会が意外と多い。写真は上田市内の新参町教会。明治の末から主にメソジスト会系の宣教師がやって来ており、江文也もカナダ人のスコット女史から音楽の薫陶を受けたという。建物そのものは昭和10年に移転してきた時に建てられたもののようで、彼が見たものとは違うが、意外とバタ臭い文化的雰囲気の中で青春期を過ごしていたことはうかがえるだろう。すぐ裏手に回ると、スカット女史が運営していた梅花幼稚園があり、江文也はここの日曜学校に通っていた。写真は撮らなかったが(園長さんとおぼしき人が入口で箒をかけていて、幼稚園の写真を撮ろうとしたら不審者に思われそうだと気兼ねしたのだが、考えてみれば、素直に声をかけて話を聞いてみたら良かった)、園内に瓦屋根の和洋折衷的な建物があった。後で調べたところ、ヴォリーズの設計で1902年の築造だという。江文也は間違いなくこの建物を見ていた。ちなみに、ウィリアム・メレル・ヴォリーズ(William Merrell Vories、1880~1964年)とはアメリカ人の建築家だが、宣教師として来日、布教活動のための収入源としてメンソレータムの近江兄弟社を設立したことで知られている。本職が建築だから日本各地に教会をはじめ様々な建物を残した。

 上田駅からまっすぐ延びる大通りに戻り、市街地の北に隆々とうねる太郎山を正面に見ながら歩いていった。地図を見ながらたどり着いたのは真田家ゆかりの大輪寺。平野部から太郎山へと傾斜がくっきりし始める麓のあたりにある。閑静なたたずまいだが、堂宇の構えがなかなか立派な禅寺だった。『まぼろしの五線譜』(185ページ)によると、江文也と共に上田へ来ていた兄の江文鐘はこの大輪寺の住職に可愛がられ、彼自身、仏教哲学の思索に触れていたという。弟の文也がキリスト教会に出入りして音楽や文学をはじめ西洋的文化にのめり込んでいったのと対照的な兄の傾向性が興味を引く。

 なお、江文鐘はその後、父の仕事を手伝うために文也よりも早く上田を離れて廈門へ戻った。詳しい経緯は分からないが、『まぼろしの五線譜』の記述によると、大陸で軍の特務機関に徴用され、戦後になると国民党政権下で投獄されたという。ただ、この人の詳細なプロフィールがよく分からないのでグーグル検索してみると、出口王仁三郎関連の史料がヒットした(→こちら)。昭和九年十一月廿九日、昭和神聖会総本部にて開催された「南支事情を聞く座談会」の出席者中に江文鐘の名前が出てくる。この「南支事情」とは、1933年に福建省の福州を拠点として蒋介石政権に反旗を翻して「中華共和国人民共和国」の成立が宣言された、いわゆる福建事変を指すと思われる。他の出席者の向佩璋や角田清彦はどうやら軍部の意向を受けて福建で何らかの工作を行っていた人々のようだ。よく分からないのだが、江文鐘にも何かキナ臭い政治的背景があった可能性がある。いずれにせよ、仏教思想に思索の糧を求めていた晩年には、文也と共に信州上田で過ごした青春期が一番幸せだったと述懐していたらしい。大陸に残った文也が反右派闘争や文化大革命でひどい目に遭わされたことを考えると、彼ら兄弟両方に現代史の暗い影がさしていた宿命には複雑な思いがする。 

 上田の市街地へと戻る。池波正太郎真田太平記館に入ってみたが、そもそも『真田太平記』を読んでいないので、これといった感想はない。ただ、この隣の駐車場のあたりに江文也の奥さんの実家があったらしい。問屋として地域でも有名な旧家だったそうだ。

 その駐車場のさらに隣にある太平庵という蕎麦屋さんに入り、昼食としておすすめメニューにあった豚コクそばを注文(写真)。豚骨・魚介ベースのつけだれで蕎麦を食べる。写真の左上にすでに飲み干した枡が映っているが、この店限定の樽酒で、これが本当にうまかった。

 今度は上田の市街地の東側を歩いてみた。これといったものも見当たらなかったのだが、常田館という古い建物を見かけた(写真)。絹の文化資料館となっており、入って声をかけてみたが誰もいない。一般開放されているのかな、と思い、靴を脱いであがりこんでぼんやり眺めていたら、入口が開いて女性の事務員さんから「許可を得ていますか?」と誰何されてしまった。どうやら笠原工業という会社の所有地で、道路を挟んだ向かい側にある事務所で入館証を受け取らないといけなかったらしい。慌てて手続きをして、再び参観。養蚕関連の道具などが展示されていた。事務所の脇には、かつて倉庫だった建物がそびえている(写真)。ずいぶんと大きい。

 ここから少し離れたところには信州大学繊維学部(旧制上田蚕糸専門学校)がある。上田はもともと紬で知られた街だが、明治以降も繊維工業が発達し、そうした経済的基盤がしっかりしていたからこそ、文化的雰囲気も維持できていたのだろう。上田の市街地を歩いていると、このレベルの中都市の割には書店が意外に多いという印象を受けた。そうした文化的気風、さらには宣教師によってもたらされた西洋文化などを青年期の江文也がしっかり吸収し、そうであるがゆえに文化的なものへの憧れがいっそう掻き立てられたであろうことは、この上田の街を歩いていると自然に納得できた。日本は近代化の途上にあって軽工業が輸出の主動力となっていたが、江文也の父親がアモイで知り合った日本人というのもひょっとしたら繊維工業関連の貿易商だったのかもしれない(確認していないが)。

|

« 2012年11月10日、信州・上田旅行1(無言館、その外) | トップページ | 植民地台湾出身の貴族院議員、許丙 »

旅行・町歩き」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197828/56101989

この記事へのトラックバック一覧です: 2012年11月11日、上田旅行2(江文也の足跡をたどる):

« 2012年11月10日、信州・上田旅行1(無言館、その外) | トップページ | 植民地台湾出身の貴族院議員、許丙 »