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2012年10月17日 (水)

【メモ】カンボジアの民族主義者、ソン・ゴク・タン(Son Ngoc Thanh)について

 シアヌークの死去を受けて、彼の激動の生涯も興味深いと思い、何か読んでみようと手始めにミルトン・オズボーン(石澤良昭監訳、小倉貞男訳)『シハヌーク──悲劇のカンボジア現代史』(岩波書店、1996年)を手に取ったのだが、むしろシアヌークの政敵として立ちはだかったソン・ゴク・タン(Son Ngoc Thanh、1908年12月7日~1977年)の方に興味が引かれた。彼の名前は、つい最近読んだばかりの玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』(平凡社新書、2012年→こちら)にも出てきて、気になっていた。

 近代的なナショナリズムから植民地支配に抵抗しようとしたところ、「敵の敵は味方」の論理に従って、後から登場した日本軍と協力したという軌跡は東南アジア各地の革命家たちもたどったパターンの一つである。また、当初の親日的姿勢が戦後は反共意識から親米となった経緯は、例えばタイのピブンソンクラームなどとも共通する。そう言えば、反共ではあっても、必ずしも王制支持とも限らないと周囲から疑われていた点でも、シアヌークと対立し続けたソン・ゴク・タンと、王党派から常に警戒されていたピブンソンクラームとは似ているような気もする。

 参照できる日本語文献が限られているので、以下のメモは、オズボーンの邦訳と、かろうじて論文検索に引っかかった高橋保「政変後のプノンペン政権における政治過程の動態──共和制移行からロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制の成立まで」(『アジア経済』第13巻5号、1972年5月)の他、主にwikipediaの記述(→こちら)などに頼った。

 ソン・ゴク・タンはヴェトナム南部のチャヴィン(Travinh)で、クメール・クロム(メコン・デルタに住む低地クメール人で、ヴェトナムではマイノリティ)の父親と中国系orヴェトナム系の母親との間に生まれた。比較的に裕福な家庭だったらしく、1920~30年代にかけてサイゴン、さらにはモンペリエ、パリに留学した。法律を学んだ後にフランス領インドシナ植民地に戻る。

 1930年にカンボジアとラオスの国王がパトロンとなって設立されたプノンペンのウナロム寺院内仏教研究所で図書館司書となる。しかし、仏教徒はフランスの教育プログラムを受けられないことに気づき、僧侶学校の重要性を疑う。

 1936年、ソン・ゴク・タン、パク・チョオウン(Pach Chhoeun)、シム・ヴァル(Sim Var、1906~1989年、日本滞在中にカワダ・ヨウコという日本人女性と再婚。戦後は、シアヌークの時代に首相、ロン・ノル政権で駐日大使。後にソン・サン派→こちらを参照)らが初めてのカンボジア語新聞『ナガラワッタ』(Nagaravatta)を創刊。ナガラワッタとはアンコール・ワット(Angkkor Wat)のことで、カンボジアのシンボルとしてつけられた。彼らはカンボジアで初めて近代意識を持った民族主義者と位置づけられている。この新聞の論調としては、フランスの植民地支配、カンボジア人の教育機会の欠如、ヴェトナム人によって経済的利権や公共的職務が独占されていることなどカンボジア人が置かれている苦境への批判が特徴。ただ、当初は暴力反対の穏健路線だったものの、日本軍のインドシナ半島進出と共に態度を変え始め、「国家社会主義」にも接近する。この頃にはアジア主義的な発想もあったと考えられる。

 なお、『ナガラワッタ』の後援者の中にはシアヌークの父親のスラマリット殿下もいた。シアヌークも10代の頃に何度かソン・ゴク・タンに会っているが、特に影響は受けなかったという。

 当時のインドシナ植民地をめぐる情勢は複雑であった。第二次世界大戦でフランス本国はドイツに降伏してヴィシー政権が発足、1940年から日本軍が進出する中、インドシナ植民地総督府は日本軍と協力する形で継続しており、一種の二重権力状態にあった。そうした中の1941年9月にカンボジアのモニヴォン国王が死去。フランスの植民地当局としては若くて経験の乏しい国王の方がコントロールしやすいという思惑があり、モニヴォンの曾孫にあたるシアヌークを王位につけた。公式行事の開会にあたっては「(ペタン)元帥閣下、あなたとともに」というスローガンを叫ばなければならないなど、カンボジア国王はフランスに追従しなければならない立場にあった。このような屈辱的な状況を覆そうとするソン・ゴク・タンなど民族主義者は日本側と連携してフランスの植民地支配反対運動を進めた。

 1942年7月、二人のカンボジア人僧侶がフランス批判のパンフレットを配った罪で逮捕され、そのうちの一人は拘束中に死亡する事件が起こった。カンボジア人からすれば仏教の神聖性を無視した行為と受け止められて反発が広がった。ソン・ゴク・タンたちはこの機会を捉えて大衆運動へと盛り上げようと試み、7月20日にはフランス理事長官府が襲撃された。死者は出なかったものの、室内を荒らされたことでフランス側は態度を硬化させ、パク・チョオウンは逮捕されてヴェトナムの東南に浮かぶプロコンドル(コンダオ)島へ流された。事件当時、日本の憲兵隊司令部にいたソン・ゴク・タンは地下に潜ってカンボジア北西部のバタンバン(当時はタイの行政管轄下)へ逃れ、バンコクの日本大使館に匿われた後に日本へ亡命した。上掲の玉居子書によると、このときにソン・ゴク・タンの逃亡を助けたのが、当時、大南公司のバタンバン出張所に勤務していた大川塾出身の加藤健四郎だったという(181~182ページ)。1942年のこのデモは植民地反対のナショナリズム運動における一つの画期点と位置づけられる。

 1945年3月9日のいわゆる仏印処理により日本軍はフランスのインドシナ植民地総督府を解体し、カンボジアのシアヌーク国王に独立を宣言させた(ただし、日本の本国政府が承認したわけではない)。この時、シアヌークの要請もあってソン・ゴク・タンは東京から戻って外相に就任した。さらに、日本の敗戦直前の8月9日、無能な閣僚の罷免を求めるデモが起こり、首相を兼任していたシアヌークは総辞職を決め、代わって成立した新政府でソン・ゴク・タンが首相に就任した。ところが、10月にフランス軍が戻ってきてプノンペンが占領されると、ソン・ゴク・タンは対日協力の責任を問われて逮捕され、サイゴン、次いでフランスに送られて軟禁状態に置かれた(ただし、悠々自適な生活で、法律の勉強を続けたという)。ソン・ゴク・タンの背後に君主制の廃止を求める共和主義者がいることに警戒心を強めた宮廷内の保守派の画策によるらしい。

 ソン・ゴク・タンの逮捕を受けて彼の支持者はカンボジア北西部に行き、クメール・イサラク(Khmer Issarak、自由クメール)運動を開始。シアヌークの要望もあってソン・ゴク・タンは釈放され、カンボジアに戻ったが、彼はシアヌークの政権には加わらず、反旗を翻した。クメール・イサラクに合流し、さらにシエムレアップの森林地帯で反植民地闘争を組織する。しかし、1950年代に入ってクメール・イサラクはクメール民族解放委員会(Khmer National Liberation Comittee)と左翼的な統一イサラク戦線(United Issarak Front)、その他の軍閥に分裂してしまう。1954年の時点までにソン・ゴク・タンは左翼陣営とは袂を分かつようになり、アメリカのCIAから連携の提案も受けていたらしい。

 ソン・ゴク・タンはクメール・クロムから強い支持を受けていた一方で、カンボジア国内政治での影響力や大衆的支持は相対的に低く、また左派とは訣別する一方で、中道派や右派はシアヌークが展開するサンクム(Sangkum)運動に吸収されていた。

 1954年に第一次インドシナ戦争が終わると、ソン・ゴク・タンはシエムレアップ近くの根拠地で主にクメール・クロムを中心としてクメール・セレイ(Khmer Serei、自由クメール)を組織し、タイ国境及び南ヴェトナム国境で活動した。クメール・セレイの宣言では、シアヌークに対して、北ヴェトナムによってカンボジアを共産化させるままにしていると厳しく批判。

 1970年3月18日、ロン・ノル将軍がクーデターを起こし、外遊中だったシアヌークを国家主席から解任、親米右派政権が成立した。10月9日には共和国宣言によって王制を廃止、「クメール共和国」と呼称。暫定的な国家主席には国会議長のチェン・ヘン(Cheng Heng、1916~1996年。中国系の中農家庭出身。政権崩壊後はパリに亡命、ソン・サン派とつながりを持ち、1991年の和平協定の後には政界復帰)が就任した。

 なお、上掲オズボーン書によると、このクーデターの前年からシアヌークの指示を受けてロン・ノルは南ヴェトナムにいたソン・ゴク・タンと密かに接触していたという。カンボジア領内に進駐している北ヴェトナム軍を追い払うためにソン・ゴク・タンが率いるクメール・クロムの部隊を動かしたかったらしい。その名目で投降するソン・ゴク・タン派の部隊もあったが、結果としてはロン・ノルのクーデターに参加することになる。

 それにしても、ソン・ゴク・タンとはたびたび対立しながら、しつこく関係を持とうとするシアヌークの微妙な思惑が気になる。『シアヌーク回想録──戦争…そして希望』(友田錫・青山保訳、中央公論社、1980年)を見ると、クメール・ルージュを批判する文脈の中で、「クメール・ルージュの指導者は、学生や教師だった頃は共和制民族主義を標榜するソン・ゴク・タン主義者だった。ところが、ソン・ゴク・タンは日本帝国主義やアメリカ帝国主義の卑劣な手先に過ぎず、その欺瞞が分かった後に彼らは赤く染まっていった」という趣旨のことを書いている。よっぽどソン・ゴク・タンのことが腹にすえかねていたようだが、ただし、これは彼の死後に書かれたもの。長い因縁における局面ごとに彼についてどのようにシアヌークが判断していたのかは別途検討する必要があるのだろう。

 1971年2月9日、ロン・ノル首相が病に倒れ、4月20日に内閣総辞職。後継首相と目されていたシリク・マタク副首相(シアヌークの従兄弟にあたり、シアヌーク追放を主導した)の昇格には軍部中堅層や学生・インテリ層の反対が強かった。後継体制が定まらない中で政情は不安定になり、やむを得ず5月になってロン・ノルが再び組閣。ただし、彼は病身であるため集団指導体制を取る。

 ロン・ノル政権は発足当初から寄り合い所帯であり、国民に絶大な人気があるシアヌークを敵に回した以上、ロン・ノルに代わって「英雄」として対抗し得る人材が必要であった。そうした中で台頭してきたのが、ソン・ゴク・タンを代表とする旧クメール・セレイのグループであった。彼らにはアメリカとのつながりがある点で有力だったが、他方で彼の南ヴェトナムとのつながりは、反ヴェトナム感情を持つ一般カンボジア国民には不評というマイナス点もあった。

 ロン・ノルの弟のロン・ノン大佐とシリク・マタクとの対立で政局が混乱する中、1971年には深刻な経済危機に見舞われる。さらに議会派と対立したことで、権力維持のため軍部に依存せざるを得ず、右傾化が顕著となった。国内情勢が混乱する中、対立勢力の調停に失敗したチェン・ヘン国家主席は1972年3月に辞任、ロン・ノルに全権を移譲した。

 ロン・ノルは大統領に就任したが、病身の彼は激務に耐えられず、実質的に国政を運営するのは誰になるかが焦点となった。シリク・マタクは不人気で、他には誰も組閣を引き受ける者がいない中、ロン・ノル大統領の強い要望とアメリカの期待を受けてソン・ゴク・タンが受諾した。1972年3月19日、第一国務相に任命され、事実上、ロン・ノルに代わって国政を担当することになり、ロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制が発足した。彼は反共・反王制・反シアヌークの民族主義者として学生・インテリ層にも受けが良く、政府軍の一翼を担うクメール・クロム部隊の指導者として軍部にも影響力があった。他方で、彼は強硬なタカ派であるため政権の一層の右傾化が進み、シアヌーク派や左派は反発を強め、内戦は激化する。
(※以上、ロン・ノル政権時代の動向については高橋保「政変後のプノンペン政権における政治過程の動態──共和制移行からロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制の成立まで」『アジア経済』第13巻5号、1972年5月を参照した)

 ソン・ゴク・タンは事実上の首相として再登板したものの、爆弾攻撃の標的にされた事件(ロン・ノル将軍の弟であるロン・ノン大佐の仕業と言われる)の後に、ロン・ノルによって職務を解かれ、南ヴェトナムに亡命した。1975年のヴェトナム統一後、ソン・ゴク・タンは逮捕され、拘留中の1977年に死去。なお、クメール・ルージュの政権樹立後、ロン・ノルやシリク・マタクと共に「7人の売国奴」の一人としてリストアップされていた。

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