【映画】「桐島、部活やめるってよ」
「桐島、部活やめるってよ」
何をやらせてもうまくこなしてしまう奴、努力してもそこそこまでしかいかない惨めさ。カッコイイ奴は何もしなくても人をひきつけるオーラを放っているが、ダサイ奴はあがけばあがくほどダサくなる。圧倒的な格差は、教室の中で自ずとヒエラルキーを作り上げる。あいつにはかなわない、でも、こいつよりはマシだ──そうした比較の眼差しが交錯する空間は息苦しい。自分の思惑とは関係なく何となく出来上がってしまった価値序列の中で自分のポジションを確保するよう強迫的に促されてしまう。
それにしても、みんな無関心なようでいて、他のクラスメートのことをよく観察している。何かがあればすぐ噂になる。
ある日、「桐島が部活をやめたらしい」という噂が流れ始めた。実は最後まで桐島は姿を表わさないのだが、どうやらスポーツ万能でモテモテのパーフェクトマンらしい。噂は静かな波紋を広げ、教室内のヒエラルキーは崩れていく。それは同時に、他人との比較で自分を位置づける空虚さを自覚することでもあった。
芯のない自分に気づいて居たたまれなくなる、あの感覚。一人一人の心情的な揺れが描かれていく。群像劇のスタイルは、教室内に張り巡らされた視線の網の目を解きほぐす構成として秀逸である。
「恋愛」だって例外ではない。例えば、校舎裏で宏樹と待ち合わせた沙奈。宏樹に憧れている吹奏楽部の沢島がすぐ近くでサックスの練習をしながら自分たちを気にしているのが分かっている。だからこそ、わざと宏樹にキスをせがんだ。視線の先にあるのは、宏樹ではなく、沢島が動揺した姿である。また、後輩男子からの憧れの眼差しをサラッと受け流す梨紗の余裕の笑顔は、自分は桐島と付き合っているという優越意識の表われだ。しかし、桐島が部活をやめたのを知らなかったことで彼女の面目は丸つぶれ。自分が「彼」を好きだという以前に、「彼」と付き合っている自分を周囲の視線にさらすことで成り立っていた自尊心は実にもろい。
宏樹は野球部に属しているが、放課後はいつも帰宅部の仲間とつるんでいる。彼もまた万能マンのタイプだが、野球部のキャプテンには頭があがらない。キャプテンは他の三年生が受験に備えて部活を引退しても頑張っている。ドラフトが終わるまでは気が抜けない、と言うが、スカウトされる可能性なんてほとんどないことをキャプテン本人もよく分かっている。しかし、最後まで頑張りぬきたいという意地のようなものがある。丸刈りで朴訥としたキャプテンはいけてない。だが、宏樹は彼の顔を見るたびに、宙ぶらりんの自分への引け目を突きつけられるようでつらそうだ。やれば何でもできるはずの彼だが、他者からの評価にさらされるのを恐がって躊躇しているのかもしれない。
映画部の前田は根っからの映画オタクである。運動はからきしダメで風采も上がらない彼は、教室内のヒエラルキーでは最下位だ。しかし、彼には映画がある。学校でゾンビ映画を撮ろうとする彼ら映画部の滑稽な姿は明らかに浮き上がっているが、あまり意に介さない。普段はオドオドした態度の彼でも、自分のやりたいことに一生懸命なとき、他者との比較で自分を位置づける視線の網の目からは完全にフリーになっている。校舎屋上での乱闘騒ぎの後、宏樹が前田の背後に神々しい光を感じる演出は、宙ぶらりんになっている引け目の意識状態から離れていけるきっかけをつかめたような感触を得たことを表わしていると言える。
【データ】
監督:吉田大八
原作:朝井リョウ
2012年/103分
(2012年10月13日、テアトル新宿にて)
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