田野大輔『愛と欲望のナチズム』
田野大輔『愛と欲望のナチズム』(講談社選書メチエ、2012年)
ヌード写真の掲載された雑誌が流通し、全裸の女性のアトラクションも催される。婚前交渉や不倫も容認され、銃後の女性や若者たちは性戯にふけり、兵隊や捕虜にまで売春宿が設置されていた。ドイツ第三帝国で日常生活に広まっていた「性」のあけっぴろげな放埓さ──。上意下達の総力戦体制は倫理面でもリゴリスティックな抑圧を行き渡らせていたと思われがちだが、本書は一次資料に依拠しながら強面のナチズム体制にまつわるそうした通念を崩していく。単に建前と偽善という当たり前な話ではなく、性的欲望の解放もまたナチズムを支える駆動力となり得ていたカラクリを論証していく手際が本書の面白いところだ(この点で、フロイトの精神分析学を踏まえて性的抑圧がファシズムを生み出したと考えたヴィルヘルム・ライヒ『ファシズムの大衆心理』とは正反対の結論となる)。
ナチスもまた神なき近代の申し子である。従来の保守的なキリスト教倫理や偽善的な市民道徳に対する反発が、革新勢力たるナチスの思想的モチーフの一つとなっていた。キリスト教道徳が説く彼岸での救済は説得力を失い、此岸において精神的空白に陥った人々にとって、ナチスが説く「生の肯定」は大きな力を持った。その具体的な表われは、例えば「性」の領域に見出される。健康な肉体の美しさ、男女の結合の喜び──これらを覆い隠してきた保守的な市民道徳の偽善的な禁欲主義は、健全な人間の本能的な力を挫くものと批判された。生殖行為としてのセックスは「生めよ殖やせよ」という国策に合致するにせよ、性愛の喜びそのものが肯定されていたことは注目される。
いびつな道徳的抑圧から性的タブーを撤廃していくという考え方は、現代社会で主張されればリベラルと受け止められるだろう。また、ナチズム体制において子供が幼少期にトラウマを抱えてしまわないよう生育環境としての幸福な家庭生活が推奨されたり、同性愛者の扱いにも環境要因から「更生」の可能性に配慮する施策もあった(ただしこれを裏返すと、更生不可能→抹殺の対象という非人間的側面も露わとなった)。部分的にはリベラルで進歩的にも思われる考え方が、人種至上主義的なイデオロギーと共存していたことには興味が引かれる。
市民道徳の偽善性への批判として性的知識の啓蒙が推進されたが、それは見方を変えれば、「性」というプライヴェートな領域にまで公的権力が介入する契機ともなった。また、性愛の喜びが容認されたとき、セックスを生殖とは切り離して単なる消費的享楽に陥るのではないかという保守派の懸念は残る。健康な肉体美を猥褻とみなすこと自体が市民道徳の偽善性として告発されたが、他方で欲望を持った眼差しで見るならば性的興奮が刺激されることに変わりはないだろう。猥褻/非猥褻の線引きはどこに求めたらいいのか、基準は明示されない。国民からすれば、性的欲望が解放され、扇動される一方で、社会的秩序維持の観点から否定されるというダブルバインドに直面する。まさに道徳と不道徳の区別が曖昧であること自体が、権力の立場からは人々の欲望を誘導し、操作する政治的道具となり得た。言わば、「性政治」的なボナパルティスム(著者はこういう表現を用いないが)という感じだろうか。
権力は単に人々を強圧的に服従させるだけでは維持されない。人々自身からの主体的・自発的な支持を獲得することで強力なエネルギーを得ていくのであって、そこをどのように煽動していくかがカギとなる。性愛という身体的直接性がナチズムの体制内で複雑な矛盾をはらみつつ大衆動員のメカニズムに組み込まれていたことはそうした一つの工夫であったと言えよう。そもそもヒトラーの演説に人々が聞き惚れたことも、演説の内容を理解したからではなく、陶酔感の中で総統と一体化する直接性によって大衆動員を可能にする政治技術であった。ナチズムが内在的に持っていた不可思議な吸引力は一体何であったのか、そこを先入観なしに解析していく作業として著者の前著『魅惑する帝国──政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会、2007年→こちら)も併せて読むと面白いだろう。
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