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2012年10月28日 (日)

竹内康浩『中国王朝の起源を探る』

 中国での考古学的発掘・研究は飛躍的に進んでおり、その成果は日進月歩の勢いで更新され、むかし教科書で読んだ知識もたちまち陳腐化してしまう。先日放映されたNHKスペシャル「中国文明の謎 第一集 中華の源流 幻の王朝を追う」を観たとき、夏王朝の実在を前提とした内容だった(番組を見ながらとったメモを参考までに最後に付記した)。私が気付かぬうちに夏王朝の実在が定説になっているのか、と驚いた。ただ、そのまま鵜呑みにしてよいのものか危なっかしくも感じたので、竹内康浩『中国王朝の起源を探る』(山川出版社、2010年)を手に取った。

 考古学的成果のレビューという点では本書の内容もNHKの番組とほぼ同様である。ただし、共有された知見は同じでも、文献上の伝説を考古学的知見に結びつけて比定する際の慎重さで話が全く違ってくる。

 新石器時代前期(前7000~前5000年)にはすでに穀物の栽培・貯蔵、食糧の安定供給が始まり、生活水準の向上がうかがえる。中期になると土器等の質が洗練され、また副葬品の玉器の造型からは神的な形象も見られる。各地に独自の文化圏が成立しており、南北で栽培される穀物の種類は異なる。新石器時代の後期になると地域間の相互交流が広がっていたことが文化要素の共有状況から分かっている。集落の規模が拡大、階層格差も現われ、後の「王朝」的な支配形態の萌芽が推測される。中国のシンボルたる「龍」の意匠も登場している。

 焦点となるのは、二里頭遺跡である。ここを夏王朝の王都跡と考える研究者が中国には多い。ところで中国で書かれた概説や通史で夏王朝が取り上げられるが、それは二里頭遺跡の考古学的成果ではなく、あくまでも文献上の夏王朝の記述だという。つまり、考古学的に夏王朝の痕跡が見つかったことを前提とした上で、文献上の夏王朝関連の記述を総動員して夏王朝史が詳細に再構成されるという状況にある。前2070年から前1600年まで夏王朝は実在して、それは殷・周、春秋戦国、秦の統一以降の通史につなげられていくのが中国の歴史学界では常識となっている。

 ただし、中国の学界とは異なり、日本の研究者は夏王朝実在説に必ずしも賛同していないという。理由はシンプルで、出土文字資料による確認ができていないという一点に尽きる。もちろん二里頭文化に初期国家として画期的な意義があるのは確かなのだが、注意すべきなのは、夏王朝が実在しないと否定しているのではなく、研究上の手順として文献記載の夏王朝と同じかどうかが確認できないということである。

 殷と比べると西周の存在感は希薄らしい。殷代の遺物の発見範囲の方が次の西周よりも広く、殷代の文化層の上に西周の文化層が直接乗っかっているとは限らない、つまり殷の版図を西周がそのまま引き継いだとは想定しがたいという。神を媒介した権威によって統治を図った殷代に対し、西周では王不在の「共和」(前841年→中国史上、実年代を決定できる最初の年)の時代があったように王の絶対性への裏づけは乏しかったと考えられる。

 『史記』で記述された「歴史」が確かな史実であったかどうかは疑問がある。「なにより、上古以来、中国を統一的かつ正統的に支配する(日本風にいえば)「天下人」の存在が想定されているところに、もう後世の中国史のあり方が強く投影されていることが明白なのである。…各地に独自の文化が多数花開いていたというのが考古学からはむしろ明らかな事実であって、「中心と周縁」という見方すら適当とはいえない。夏・殷・周の「三代」も、それらが各時代や文化の「中心」であったと断定してよいものか、もっと慎重であってよかろう。現在みることができる文字資料では、たまたまそれらが優勢にみえているにすぎないのかもしれないからである。」(本書、5ページ)

 二里頭遺跡を夏王朝と断定するには根拠不足で、研究者の間でまだ議論が交されている背景が番組の中で紹介されなかったのは疑問に感じる。そもそも、「中華」の一体性という観念を無批判に持ち出しているのは、見ながら首をかしげていた。下手すると、現時点での国家主権をめぐるイデオロギー的思惑を古代まで遡及させる危険にもつながりかねない。夏王朝は実在したかもしれない…というところで寸止めしておいてくれた方が、考古学的ロマンティシズムをかき立ててくれて良かったように思う。

※以下は、NHKスペシャル「中国文明の謎 第一集 中華の源流 幻の王朝を追う」(2012年10月14日放送)を見ながら取ったメモを参考までに掲げておく。

・中国は多民族国家でありつつも、一つのまとまり。いつから広大なこの土地を一国としてまとめあげるようになったのか? 経済格差、価値観の多様化、そうした中でも中国を一つにまとめ上げるキーワード「華夏」。中国人が自分たちの原点と考えるのは、最古の王朝「夏」。
・紀元前2000年頃、に夏は成立。周辺国はまだ新石器時代。
・中国の源流をたどる国家プロジェクト→夏商周段代工程。夏王朝の存在を証明すること。
・夏王朝誕生前夜にはいくつも文化圏に分かれていた。夏王朝の中心があったのは河南省二里頭村と推定→発掘→巨大な宮殿が出土。トルコ石の断片→最古の龍→歴代皇帝の権威のシンボル。青銅の銅爵。人口は2万以上と推定。
・他には?→長江下流域の良渚。しかし、地層に洪水の土砂→夏王朝誕生の500年前に滅びていたことが分かった。気候変動、気温の急激な低下と洪水→各地の文化圏が衰退する中、盛んになっていったのが二里頭の夏王朝。
・史記→夏王朝の誕生に洪水説話。
・なぜ、夏王朝だけ? 4000年前の生活の痕跡→各文化圏で栽培品目が限られていた中、夏では粟や黍、小麦、大豆、水稲を同時に栽培していた。多様な栽培食物で自然災害のリスクを分散。
・二里頭周辺では、黄河、長江、淮河などの支流→各地の穀物や情報を収集できた。
・山西省陶寺村。異常な状態の大量の人骨。高貴な女性→首を斬られ、下腹部に牛の骨が差し込まれていた。叛乱?貴族への復讐でゴミ捨て場に捨てられた。
・宮殿の構造。二里頭の宮殿では、一号宮殿の南の門をくぐると、千人以上を収容できる広場、その前に王が立つ建物→特別な空間ではないか。回廊に囲まれた構造はその後の王朝(清代の紫禁城まで)の宮殿に受け継がれていた(二里頭以前にはなし→最古)。宮廷儀礼を行った。神の力ではなく、人の力で権威を示す。人間対人間という関係性に重きを置いた。霊を祀っても、それは神ではなく祖先。夏王朝から清朝まで宮廷儀礼の基本は変わっていない。家臣は、神様ではなく皇帝にひれ伏す。エジプト文明等では、まず神にひざまずくのであって、王はその化身という位置づけ。中国では、直接人に向かって礼拝。
・儀礼の開始は夜明け前。出席するのは貴族や周辺集落の首長。王の権威を示す工夫。最後に入場する王。手には、玉璋(外の文化を取り込み融合)→龍が刻まれている。黄金色に輝く青銅の銅爵。青銅のき(漢字変換できず)。各地の文化に西域から取り込んだ青銅でつくる。多くの文化圏を融合していることを参列者に誇示。身分の固定→叛乱を防ぎ、王権を安定させる。
・玉璋と同様のものが各地で出土。四川や香港など数千キロ離れたところまで。自然の力→龍と王権の融合。
・夏王朝の権威が高まり、広大な中国大陸を包み込むようになった。武力というより、文化の力=ソフトパワー。歴史上、東アジアに初めて現れた文化の核心。やがて、夏王朝は「中華」の源流とされる。
・紀元前1600年頃、殷は青銅の武器を量産して台頭→夏王朝を徹底的に破壊、夏王朝の人々の遺骨も大量に出土。しかし、宮廷儀礼の行われた宮殿だけは破壊した形跡なし。夏の宮廷儀礼を受け継いだ。社会統治システムとして魅力的だったのだろう。これがその後も、龍のシンボルと共に歴代王朝に受け継がれていく。

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