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2012年10月

2012年10月28日 (日)

竹内康浩『中国王朝の起源を探る』

 中国での考古学的発掘・研究は飛躍的に進んでおり、その成果は日進月歩の勢いで更新され、むかし教科書で読んだ知識もたちまち陳腐化してしまう。先日放映されたNHKスペシャル「中国文明の謎 第一集 中華の源流 幻の王朝を追う」を観たとき、夏王朝の実在を前提とした内容だった(番組を見ながらとったメモを参考までに最後に付記した)。私が気付かぬうちに夏王朝の実在が定説になっているのか、と驚いた。ただ、そのまま鵜呑みにしてよいのものか危なっかしくも感じたので、竹内康浩『中国王朝の起源を探る』(山川出版社、2010年)を手に取った。

 考古学的成果のレビューという点では本書の内容もNHKの番組とほぼ同様である。ただし、共有された知見は同じでも、文献上の伝説を考古学的知見に結びつけて比定する際の慎重さで話が全く違ってくる。

 新石器時代前期(前7000~前5000年)にはすでに穀物の栽培・貯蔵、食糧の安定供給が始まり、生活水準の向上がうかがえる。中期になると土器等の質が洗練され、また副葬品の玉器の造型からは神的な形象も見られる。各地に独自の文化圏が成立しており、南北で栽培される穀物の種類は異なる。新石器時代の後期になると地域間の相互交流が広がっていたことが文化要素の共有状況から分かっている。集落の規模が拡大、階層格差も現われ、後の「王朝」的な支配形態の萌芽が推測される。中国のシンボルたる「龍」の意匠も登場している。

 焦点となるのは、二里頭遺跡である。ここを夏王朝の王都跡と考える研究者が中国には多い。ところで中国で書かれた概説や通史で夏王朝が取り上げられるが、それは二里頭遺跡の考古学的成果ではなく、あくまでも文献上の夏王朝の記述だという。つまり、考古学的に夏王朝の痕跡が見つかったことを前提とした上で、文献上の夏王朝関連の記述を総動員して夏王朝史が詳細に再構成されるという状況にある。前2070年から前1600年まで夏王朝は実在して、それは殷・周、春秋戦国、秦の統一以降の通史につなげられていくのが中国の歴史学界では常識となっている。

 ただし、中国の学界とは異なり、日本の研究者は夏王朝実在説に必ずしも賛同していないという。理由はシンプルで、出土文字資料による確認ができていないという一点に尽きる。もちろん二里頭文化に初期国家として画期的な意義があるのは確かなのだが、注意すべきなのは、夏王朝が実在しないと否定しているのではなく、研究上の手順として文献記載の夏王朝と同じかどうかが確認できないということである。

 殷と比べると西周の存在感は希薄らしい。殷代の遺物の発見範囲の方が次の西周よりも広く、殷代の文化層の上に西周の文化層が直接乗っかっているとは限らない、つまり殷の版図を西周がそのまま引き継いだとは想定しがたいという。神を媒介した権威によって統治を図った殷代に対し、西周では王不在の「共和」(前841年→中国史上、実年代を決定できる最初の年)の時代があったように王の絶対性への裏づけは乏しかったと考えられる。

 『史記』で記述された「歴史」が確かな史実であったかどうかは疑問がある。「なにより、上古以来、中国を統一的かつ正統的に支配する(日本風にいえば)「天下人」の存在が想定されているところに、もう後世の中国史のあり方が強く投影されていることが明白なのである。…各地に独自の文化が多数花開いていたというのが考古学からはむしろ明らかな事実であって、「中心と周縁」という見方すら適当とはいえない。夏・殷・周の「三代」も、それらが各時代や文化の「中心」であったと断定してよいものか、もっと慎重であってよかろう。現在みることができる文字資料では、たまたまそれらが優勢にみえているにすぎないのかもしれないからである。」(本書、5ページ)

 二里頭遺跡を夏王朝と断定するには根拠不足で、研究者の間でまだ議論が交されている背景が番組の中で紹介されなかったのは疑問に感じる。そもそも、「中華」の一体性という観念を無批判に持ち出しているのは、見ながら首をかしげていた。下手すると、現時点での国家主権をめぐるイデオロギー的思惑を古代まで遡及させる危険にもつながりかねない。夏王朝は実在したかもしれない…というところで寸止めしておいてくれた方が、考古学的ロマンティシズムをかき立ててくれて良かったように思う。

※以下は、NHKスペシャル「中国文明の謎 第一集 中華の源流 幻の王朝を追う」(2012年10月14日放送)を見ながら取ったメモを参考までに掲げておく。

・中国は多民族国家でありつつも、一つのまとまり。いつから広大なこの土地を一国としてまとめあげるようになったのか? 経済格差、価値観の多様化、そうした中でも中国を一つにまとめ上げるキーワード「華夏」。中国人が自分たちの原点と考えるのは、最古の王朝「夏」。
・紀元前2000年頃、に夏は成立。周辺国はまだ新石器時代。
・中国の源流をたどる国家プロジェクト→夏商周段代工程。夏王朝の存在を証明すること。
・夏王朝誕生前夜にはいくつも文化圏に分かれていた。夏王朝の中心があったのは河南省二里頭村と推定→発掘→巨大な宮殿が出土。トルコ石の断片→最古の龍→歴代皇帝の権威のシンボル。青銅の銅爵。人口は2万以上と推定。
・他には?→長江下流域の良渚。しかし、地層に洪水の土砂→夏王朝誕生の500年前に滅びていたことが分かった。気候変動、気温の急激な低下と洪水→各地の文化圏が衰退する中、盛んになっていったのが二里頭の夏王朝。
・史記→夏王朝の誕生に洪水説話。
・なぜ、夏王朝だけ? 4000年前の生活の痕跡→各文化圏で栽培品目が限られていた中、夏では粟や黍、小麦、大豆、水稲を同時に栽培していた。多様な栽培食物で自然災害のリスクを分散。
・二里頭周辺では、黄河、長江、淮河などの支流→各地の穀物や情報を収集できた。
・山西省陶寺村。異常な状態の大量の人骨。高貴な女性→首を斬られ、下腹部に牛の骨が差し込まれていた。叛乱?貴族への復讐でゴミ捨て場に捨てられた。
・宮殿の構造。二里頭の宮殿では、一号宮殿の南の門をくぐると、千人以上を収容できる広場、その前に王が立つ建物→特別な空間ではないか。回廊に囲まれた構造はその後の王朝(清代の紫禁城まで)の宮殿に受け継がれていた(二里頭以前にはなし→最古)。宮廷儀礼を行った。神の力ではなく、人の力で権威を示す。人間対人間という関係性に重きを置いた。霊を祀っても、それは神ではなく祖先。夏王朝から清朝まで宮廷儀礼の基本は変わっていない。家臣は、神様ではなく皇帝にひれ伏す。エジプト文明等では、まず神にひざまずくのであって、王はその化身という位置づけ。中国では、直接人に向かって礼拝。
・儀礼の開始は夜明け前。出席するのは貴族や周辺集落の首長。王の権威を示す工夫。最後に入場する王。手には、玉璋(外の文化を取り込み融合)→龍が刻まれている。黄金色に輝く青銅の銅爵。青銅のき(漢字変換できず)。各地の文化に西域から取り込んだ青銅でつくる。多くの文化圏を融合していることを参列者に誇示。身分の固定→叛乱を防ぎ、王権を安定させる。
・玉璋と同様のものが各地で出土。四川や香港など数千キロ離れたところまで。自然の力→龍と王権の融合。
・夏王朝の権威が高まり、広大な中国大陸を包み込むようになった。武力というより、文化の力=ソフトパワー。歴史上、東アジアに初めて現れた文化の核心。やがて、夏王朝は「中華」の源流とされる。
・紀元前1600年頃、殷は青銅の武器を量産して台頭→夏王朝を徹底的に破壊、夏王朝の人々の遺骨も大量に出土。しかし、宮廷儀礼の行われた宮殿だけは破壊した形跡なし。夏の宮廷儀礼を受け継いだ。社会統治システムとして魅力的だったのだろう。これがその後も、龍のシンボルと共に歴代王朝に受け継がれていく。

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2012年10月25日 (木)

【映画】「空を拓く~建築家・郭茂林という男」

 東京国際映画祭の会場の一つ、コレド室町の日本橋三井ホールにて酒井充子監督「空を拓く~建築家・郭茂林という男」を観た。評判になった「台湾人生」以来の2作目だ。

 1960年代以降の日本における高度経済成長を象徴する出来事は色々とあるが、とりわけ高層ビルの登場は東京の風景を良くも悪くも大きく変貌させた。1968年に完成した霞ヶ関ビルをはじめ、世界貿易センタービル、京王プラザビル、サンシャイン60、そして新宿副都心開発など東京を代表する高層建築プロジェクトを主導したのが、この映画の主人公、郭茂林という人物である。

 彼はさらに故郷である台北のランドマーク、新光人寿保険ビル(新光三越百貨店)を設計し、台北市長当時の李登輝に招聘されて信義副都心計画も手がけている(人道と車道の分離など、新宿副都心計画の考え方が生かされているという)。東京では誰もが知っている多くの高層ビルを手がけたのが台湾人だったというのは初めて知ったが、高層建築や都市計画という点で日本と台湾とを結ぶ意外なつながりには驚いた。

 郭茂林さんは1921年に台北で生まれた。生家の4軒先には、かつて台北在住の文化人がよく集ったことで知られる洋食屋のボレロがある(郭さんが2010年夏の里帰りでボレロに寄ったときには「昔の面影は全くない」とぼやいていたが…)。台北工業専門学校(現在は台北科技大学)の校長だった千々岩助太郎の推薦で日本へ渡り、1940年に鉄道省に勤務。その時の上司からしっかり勉強するよう言われて、1943年に東京帝国大学の聴講生となった。1945年の日本敗戦後は日本国籍を取り(名前は変えなかった)、岸田日出刀の研究室に残った。

 建築業界に入ってからは東大にいた頃の人脈を生かし、巨大プロジェクトの取りまとめ役をこなすようになる。東大教授をはじめ第一級の建築家たちはみな一家言あり、それぞれが自己主張し始めると話はなかなかまとまらない。一癖もふた癖もある関係者それぞれの才能を見極め、つなぎ合わせていくところに郭茂林さんは卓抜な能力を発揮、それが霞ヶ関ビルをはじめとする至難のプロジェクトの成功へと結実した。「郭さんじゃなければまとまらなかった」と建築史家の藤森照信さんは語る。自分ひとりではたいしたことはできない、みんなの才能を引き出してまとめ上げていくことには自信がある、と郭さんは語っており、グループワークの要として自らの立ち位置を常に意識していたようだ。彼のユーモアと天真爛漫なパーソナリティーがそれを可能にしていたであろうことは、この映画からよく窺える。

 2010年の里帰りで台北を訪れた際に目にした台北101に対しては、「見栄えばかり気にして機能的ではない、メンテナンスはどうするんだ?」と批判的だ。小細工など必要ない。建築のどっしりと大きな存在感そのものを表現したい。土地が限られているならば、はるか天空へと切り開いていけばいい(なお、霞ヶ関ビルの設計当時、高さが制限されていた建築規制を撤廃させるよう最初に働きかけを起こしたのも郭さんだったという)。

 日本統治期の台湾において日本人と台湾人との間には厳然たる差別があった。公学校出身者で上級の学校へ進もうにも、台湾人に事実上許された枠は限られたものに過ぎなかった。よほど頑張らなければ、狭き門を潜り抜け、恵まれた立場の日本人と伍して行くことはできない。そうした中でも、公学校や工業専門学校の恩師が郭さんの才能を見出してくれた。何よりも、「負けてたまるか!」とばかりに彼は突っ走り続けた。勝気なパーソナリティーと、高度経済成長期という時代的気運、両者が建築というジャンルで一つの勝負場所を見出していったようにも見える。そのように、上へ、上へ、と突き進むポジティヴな勢いが、「空を拓く」というタイトルに表現されていると言えるだろうか。

 高度経済成長に伴う景観破壊などの負の遺産は別途考える必要があるだろう。私自身、素直には首肯できない。ただ、高層建築の魅力を天真爛漫に語る彼の姿は、当時における一つの時代的気分をありのままに物語っており、そのこと自体が現在から振り返ると社会史的・精神史的な史料となっている。

 この映画が完成したのは今年の4月だが、その前後の時期に郭さんをはじめ取材対象となった関係者4人がお亡くなりになったという。郭さんは酒井監督を孫のように思っていたそうで、カメラを向けられても実に話しやすそうだ。フランクな語り口だが、自分の建築を自画自賛するときでさえも嫌味を全く感じさせない。郭さんの人柄の魅力が実によく描き出されているが、日台関係史と建築史とが交差するテーマとしてさらに興味が触発されてきて、そこが私にはとても面白かった。渋谷のユーロスペースで来年早々にも一般公開されるとのことなので、見逃した方は是非足を運んでみると良いと思う。

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2012年10月17日 (水)

【メモ】カンボジアの民族主義者、ソン・ゴク・タン(Son Ngoc Thanh)について

 シアヌークの死去を受けて、彼の激動の生涯も興味深いと思い、何か読んでみようと手始めにミルトン・オズボーン(石澤良昭監訳、小倉貞男訳)『シハヌーク──悲劇のカンボジア現代史』(岩波書店、1996年)を手に取ったのだが、むしろシアヌークの政敵として立ちはだかったソン・ゴク・タン(Son Ngoc Thanh、1908年12月7日~1977年)の方に興味が引かれた。彼の名前は、つい最近読んだばかりの玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』(平凡社新書、2012年→こちら)にも出てきて、気になっていた。

 近代的なナショナリズムから植民地支配に抵抗しようとしたところ、「敵の敵は味方」の論理に従って、後から登場した日本軍と協力したという軌跡は東南アジア各地の革命家たちもたどったパターンの一つである。また、当初の親日的姿勢が戦後は反共意識から親米となった経緯は、例えばタイのピブンソンクラームなどとも共通する。そう言えば、反共ではあっても、必ずしも王制支持とも限らないと周囲から疑われていた点でも、シアヌークと対立し続けたソン・ゴク・タンと、王党派から常に警戒されていたピブンソンクラームとは似ているような気もする。

 参照できる日本語文献が限られているので、以下のメモは、オズボーンの邦訳と、かろうじて論文検索に引っかかった高橋保「政変後のプノンペン政権における政治過程の動態──共和制移行からロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制の成立まで」(『アジア経済』第13巻5号、1972年5月)の他、主にwikipediaの記述(→こちら)などに頼った。

 ソン・ゴク・タンはヴェトナム南部のチャヴィン(Travinh)で、クメール・クロム(メコン・デルタに住む低地クメール人で、ヴェトナムではマイノリティ)の父親と中国系orヴェトナム系の母親との間に生まれた。比較的に裕福な家庭だったらしく、1920~30年代にかけてサイゴン、さらにはモンペリエ、パリに留学した。法律を学んだ後にフランス領インドシナ植民地に戻る。

 1930年にカンボジアとラオスの国王がパトロンとなって設立されたプノンペンのウナロム寺院内仏教研究所で図書館司書となる。しかし、仏教徒はフランスの教育プログラムを受けられないことに気づき、僧侶学校の重要性を疑う。

 1936年、ソン・ゴク・タン、パク・チョオウン(Pach Chhoeun)、シム・ヴァル(Sim Var、1906~1989年、日本滞在中にカワダ・ヨウコという日本人女性と再婚。戦後は、シアヌークの時代に首相、ロン・ノル政権で駐日大使。後にソン・サン派→こちらを参照)らが初めてのカンボジア語新聞『ナガラワッタ』(Nagaravatta)を創刊。ナガラワッタとはアンコール・ワット(Angkkor Wat)のことで、カンボジアのシンボルとしてつけられた。彼らはカンボジアで初めて近代意識を持った民族主義者と位置づけられている。この新聞の論調としては、フランスの植民地支配、カンボジア人の教育機会の欠如、ヴェトナム人によって経済的利権や公共的職務が独占されていることなどカンボジア人が置かれている苦境への批判が特徴。ただ、当初は暴力反対の穏健路線だったものの、日本軍のインドシナ半島進出と共に態度を変え始め、「国家社会主義」にも接近する。この頃にはアジア主義的な発想もあったと考えられる。

 なお、『ナガラワッタ』の後援者の中にはシアヌークの父親のスラマリット殿下もいた。シアヌークも10代の頃に何度かソン・ゴク・タンに会っているが、特に影響は受けなかったという。

 当時のインドシナ植民地をめぐる情勢は複雑であった。第二次世界大戦でフランス本国はドイツに降伏してヴィシー政権が発足、1940年から日本軍が進出する中、インドシナ植民地総督府は日本軍と協力する形で継続しており、一種の二重権力状態にあった。そうした中の1941年9月にカンボジアのモニヴォン国王が死去。フランスの植民地当局としては若くて経験の乏しい国王の方がコントロールしやすいという思惑があり、モニヴォンの曾孫にあたるシアヌークを王位につけた。公式行事の開会にあたっては「(ペタン)元帥閣下、あなたとともに」というスローガンを叫ばなければならないなど、カンボジア国王はフランスに追従しなければならない立場にあった。このような屈辱的な状況を覆そうとするソン・ゴク・タンなど民族主義者は日本側と連携してフランスの植民地支配反対運動を進めた。

 1942年7月、二人のカンボジア人僧侶がフランス批判のパンフレットを配った罪で逮捕され、そのうちの一人は拘束中に死亡する事件が起こった。カンボジア人からすれば仏教の神聖性を無視した行為と受け止められて反発が広がった。ソン・ゴク・タンたちはこの機会を捉えて大衆運動へと盛り上げようと試み、7月20日にはフランス理事長官府が襲撃された。死者は出なかったものの、室内を荒らされたことでフランス側は態度を硬化させ、パク・チョオウンは逮捕されてヴェトナムの東南に浮かぶプロコンドル(コンダオ)島へ流された。事件当時、日本の憲兵隊司令部にいたソン・ゴク・タンは地下に潜ってカンボジア北西部のバタンバン(当時はタイの行政管轄下)へ逃れ、バンコクの日本大使館に匿われた後に日本へ亡命した。上掲の玉居子書によると、このときにソン・ゴク・タンの逃亡を助けたのが、当時、大南公司のバタンバン出張所に勤務していた大川塾出身の加藤健四郎だったという(181~182ページ)。1942年のこのデモは植民地反対のナショナリズム運動における一つの画期点と位置づけられる。

 1945年3月9日のいわゆる仏印処理により日本軍はフランスのインドシナ植民地総督府を解体し、カンボジアのシアヌーク国王に独立を宣言させた(ただし、日本の本国政府が承認したわけではない)。この時、シアヌークの要請もあってソン・ゴク・タンは東京から戻って外相に就任した。さらに、日本の敗戦直前の8月9日、無能な閣僚の罷免を求めるデモが起こり、首相を兼任していたシアヌークは総辞職を決め、代わって成立した新政府でソン・ゴク・タンが首相に就任した。ところが、10月にフランス軍が戻ってきてプノンペンが占領されると、ソン・ゴク・タンは対日協力の責任を問われて逮捕され、サイゴン、次いでフランスに送られて軟禁状態に置かれた(ただし、悠々自適な生活で、法律の勉強を続けたという)。ソン・ゴク・タンの背後に君主制の廃止を求める共和主義者がいることに警戒心を強めた宮廷内の保守派の画策によるらしい。

 ソン・ゴク・タンの逮捕を受けて彼の支持者はカンボジア北西部に行き、クメール・イサラク(Khmer Issarak、自由クメール)運動を開始。シアヌークの要望もあってソン・ゴク・タンは釈放され、カンボジアに戻ったが、彼はシアヌークの政権には加わらず、反旗を翻した。クメール・イサラクに合流し、さらにシエムレアップの森林地帯で反植民地闘争を組織する。しかし、1950年代に入ってクメール・イサラクはクメール民族解放委員会(Khmer National Liberation Comittee)と左翼的な統一イサラク戦線(United Issarak Front)、その他の軍閥に分裂してしまう。1954年の時点までにソン・ゴク・タンは左翼陣営とは袂を分かつようになり、アメリカのCIAから連携の提案も受けていたらしい。

 ソン・ゴク・タンはクメール・クロムから強い支持を受けていた一方で、カンボジア国内政治での影響力や大衆的支持は相対的に低く、また左派とは訣別する一方で、中道派や右派はシアヌークが展開するサンクム(Sangkum)運動に吸収されていた。

 1954年に第一次インドシナ戦争が終わると、ソン・ゴク・タンはシエムレアップ近くの根拠地で主にクメール・クロムを中心としてクメール・セレイ(Khmer Serei、自由クメール)を組織し、タイ国境及び南ヴェトナム国境で活動した。クメール・セレイの宣言では、シアヌークに対して、北ヴェトナムによってカンボジアを共産化させるままにしていると厳しく批判。

 1970年3月18日、ロン・ノル将軍がクーデターを起こし、外遊中だったシアヌークを国家主席から解任、親米右派政権が成立した。10月9日には共和国宣言によって王制を廃止、「クメール共和国」と呼称。暫定的な国家主席には国会議長のチェン・ヘン(Cheng Heng、1916~1996年。中国系の中農家庭出身。政権崩壊後はパリに亡命、ソン・サン派とつながりを持ち、1991年の和平協定の後には政界復帰)が就任した。

 なお、上掲オズボーン書によると、このクーデターの前年からシアヌークの指示を受けてロン・ノルは南ヴェトナムにいたソン・ゴク・タンと密かに接触していたという。カンボジア領内に進駐している北ヴェトナム軍を追い払うためにソン・ゴク・タンが率いるクメール・クロムの部隊を動かしたかったらしい。その名目で投降するソン・ゴク・タン派の部隊もあったが、結果としてはロン・ノルのクーデターに参加することになる。

 それにしても、ソン・ゴク・タンとはたびたび対立しながら、しつこく関係を持とうとするシアヌークの微妙な思惑が気になる。『シアヌーク回想録──戦争…そして希望』(友田錫・青山保訳、中央公論社、1980年)を見ると、クメール・ルージュを批判する文脈の中で、「クメール・ルージュの指導者は、学生や教師だった頃は共和制民族主義を標榜するソン・ゴク・タン主義者だった。ところが、ソン・ゴク・タンは日本帝国主義やアメリカ帝国主義の卑劣な手先に過ぎず、その欺瞞が分かった後に彼らは赤く染まっていった」という趣旨のことを書いている。よっぽどソン・ゴク・タンのことが腹にすえかねていたようだが、ただし、これは彼の死後に書かれたもの。長い因縁における局面ごとに彼についてどのようにシアヌークが判断していたのかは別途検討する必要があるのだろう。

 1971年2月9日、ロン・ノル首相が病に倒れ、4月20日に内閣総辞職。後継首相と目されていたシリク・マタク副首相(シアヌークの従兄弟にあたり、シアヌーク追放を主導した)の昇格には軍部中堅層や学生・インテリ層の反対が強かった。後継体制が定まらない中で政情は不安定になり、やむを得ず5月になってロン・ノルが再び組閣。ただし、彼は病身であるため集団指導体制を取る。

 ロン・ノル政権は発足当初から寄り合い所帯であり、国民に絶大な人気があるシアヌークを敵に回した以上、ロン・ノルに代わって「英雄」として対抗し得る人材が必要であった。そうした中で台頭してきたのが、ソン・ゴク・タンを代表とする旧クメール・セレイのグループであった。彼らにはアメリカとのつながりがある点で有力だったが、他方で彼の南ヴェトナムとのつながりは、反ヴェトナム感情を持つ一般カンボジア国民には不評というマイナス点もあった。

 ロン・ノルの弟のロン・ノン大佐とシリク・マタクとの対立で政局が混乱する中、1971年には深刻な経済危機に見舞われる。さらに議会派と対立したことで、権力維持のため軍部に依存せざるを得ず、右傾化が顕著となった。国内情勢が混乱する中、対立勢力の調停に失敗したチェン・ヘン国家主席は1972年3月に辞任、ロン・ノルに全権を移譲した。

 ロン・ノルは大統領に就任したが、病身の彼は激務に耐えられず、実質的に国政を運営するのは誰になるかが焦点となった。シリク・マタクは不人気で、他には誰も組閣を引き受ける者がいない中、ロン・ノル大統領の強い要望とアメリカの期待を受けてソン・ゴク・タンが受諾した。1972年3月19日、第一国務相に任命され、事実上、ロン・ノルに代わって国政を担当することになり、ロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制が発足した。彼は反共・反王制・反シアヌークの民族主義者として学生・インテリ層にも受けが良く、政府軍の一翼を担うクメール・クロム部隊の指導者として軍部にも影響力があった。他方で、彼は強硬なタカ派であるため政権の一層の右傾化が進み、シアヌーク派や左派は反発を強め、内戦は激化する。
(※以上、ロン・ノル政権時代の動向については高橋保「政変後のプノンペン政権における政治過程の動態──共和制移行からロン・ノル=ソン・ゴク・タン体制の成立まで」『アジア経済』第13巻5号、1972年5月を参照した)

 ソン・ゴク・タンは事実上の首相として再登板したものの、爆弾攻撃の標的にされた事件(ロン・ノル将軍の弟であるロン・ノン大佐の仕業と言われる)の後に、ロン・ノルによって職務を解かれ、南ヴェトナムに亡命した。1975年のヴェトナム統一後、ソン・ゴク・タンは逮捕され、拘留中の1977年に死去。なお、クメール・ルージュの政権樹立後、ロン・ノルやシリク・マタクと共に「7人の売国奴」の一人としてリストアップされていた。

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2012年10月15日 (月)

藤原辰史『稲の大東亜共栄圏──帝国日本の〈緑の革命〉』

藤原辰史『稲の大東亜共栄圏──帝国日本の〈緑の革命〉』(吉川弘文館、2012年)

 価値中立的で没政治的のように思われる科学技術。しかし、それが置かれたコンテクストによっては逆に支配/被支配の関係性を固定化させる政治的道具となりかねない逆説をどのように考えたらいいのか。本書は、近代日本における稲の品種改良に着目し、それを植民地へ普及させていく上で農学者の果たした役割と言説を分析している。

 植民地各地にも農学者が赴任して品種改良に着手していたが、朝鮮半島ではあまりうまくいかなかったらしい。本書で取り上げられる永井威一郎(荷風の長兄)は農学者としてだけでなく科学啓蒙書でも知られていたそうだが、「米食民族」対「パン食民族」といったレトリックで「大東亜共栄圏」のイデオロギーを振りかざしていたことが際立つ。科学技術への自負と植民地の現場における厳しい現実との深い溝に直面したとき、それを無理やり乗りこえようとしてこうした非科学的な自民族中心主義に寄りかからざるを得なかったと指摘される。

 対して、台湾では磯永吉の「蓬莱米」が成功を収めたことはよく知られている。ただし、統計データを見ると蓬莱米の生産高が一定レベルまで延びた一方、在来米も併存し続けていたのが興味深い。蓬莱米を生産するにも肥料など生産費がかさむこと、自家用には高価であること、それからビーフンなどの食習慣に合わなかったことなどから、現地民の拒絶感は消えていなかったと指摘される。ただし、蓬莱米は換金性が高いため、技術的な優位性でそうした拒絶感を強引に棚上げすることで普及していった。本書での磯永吉への評価は少々辛い。それは、たとえ本人は善意であっても、科学技術至上主義的な態度が無媒介で現実政治に接続されたときに起こり得る問題群について無頓着であったことを彼に代表させて批判していると解される。

 こうした文脈の中で、「緑の革命」の限界という問題にもつながってくる。蓬莱米などの品種改良は肥料に高反応であり、生産農家は肥料に依存せざるを得なくなった。それは、肥料を製造する化学工業と密接につながる農業システムへの転換を意味する。つまり、戦後になってより顕著となった多国籍企業(例えば、モンサント社)によるグローバルな食支配のひな型が、当時の「帝国」日本で先駆的に見出せるとする指摘が本書の基本的な問題意識をなしている(エコロジカル・インペリアリズム=生態学的帝国主義)。

 磯永吉が杉山龍丸と付き合いがあったというのが目を引く。杉山はインドで農業指導を行っていたが、その時に蓬莱米の種を持って行ったらしい。杉山龍丸の父親は夢野久作、従って祖父は杉山茂丸であり、玄洋社人脈に属する。また、蓬莱米は戦時下、インドネシアでの農業指導でも用いられた。アジア解放という大義名分や国策としての「南進」、すなわち「アジア主義」的感覚が、蓬莱米を媒介として戦後になっても別の形ながら連綿と続いていたところに興味を持った。

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藤原辰史『ナチスのキッチン──「食べること」の環境史』

藤原辰史『ナチスのキッチン──「食べること」の環境史』(水声社、2012年)

 ふだん我々が何気なく使っている台所。しかしながら、よく考えてみればこれは自然、技術的進歩、社会的意識、様々な知が集約された実に驚異的な空間である。台所というフィルターをすかすと、当時の社会的動向もまたヴィヴィッドに浮かび上がってくる。

 ナチズムという政治体制は様々に奇妙な顔を持っているが、「血と土」というシンボルに表われた非合理的な情緒性と、テクノロジカルに効率を重視する合理性とが共存している矛盾は容易には理解しがたい。ところが、こうした矛盾のせめぎ合いの中にこそナチズムが人々を動員するメカニズムの一端が見出される。そこを本書は「台所」をめぐる人物群像を通して描き出していく。

 第一次世界大戦後の劣悪な住宅事情に応えるべくリホツキーが設計したフランクフルト・キッチンはテイラー主義の影響を受けている。家事の合理化によって主婦の労力軽減を図ったが、同時に居住と調理の分離は家族の一体性をも切り離し、ひいては食文化の破壊につながるのではないか、とも批判された。機能的合理性を特徴とするフランクフルト・キッチンはナチスのイデオロギーに反するようにも思われるが(例えば、ナチスはバウハウスを弾圧した)、実際にはナチス時代に広がり、労働者約一名の「工場」が各家庭に一つずつ組み込まれていく結果になった。リホツキーは社会主義思想にシンパシーを抱いていたこと、家事労働の省力化にはフェミニズム的な動機があったことを考え合わせると、それがナチズム体制に取り込まれていった逆説が興味を引く。一見したところそれぞれ別個の思想的態度と思われていたものが、いずれも「近代」の申し子としての性格を帯びていたことが分かる。

 ヒルデガルト・マルギスが開設した主婦向け無料相談所のハイバウディ、当時の家政学における言説なども合わせ、ナチス時代の「台所」をめぐる分析からどのような姿が見えてくるのか?

「…主婦の個人的な感情におかまいなしに、台所という枠組みから主婦を変えていく。空間に存在する人間から人間らしさを抹消し、代わりに擬似有機体となった空間が人間を導き、人間を変身させていく、というナチス特有の動員過程を、台所のナチ化過程から窺い知ることができる。これはまさに、労働の内実を労働空間から変えようとした台所のテイラー主義者たちの挑戦の帰結である。クリスティーヌ・フレデリック、マルガレーテ・シュッテ=リホツキー、エルナ・マイヤー、ヒルデガルト・マルギスたちが耕した豊饒な土壌で、ナチスは主婦たちを戦争を担う「機械」へと育てていったのである。」(359ページ)

「…ナチスの手口が巧妙なのは、そこに社会参加の意識を植えつけたことである。自分が狭い空間のなかでコントロールされているにもかかわらず、家族のため、民族のため、そして国家のために戦っているという幻想のなかで、仮象の「誇り」を与えることである。それと、情熱も感傷もなくひたすら任務を遂行する「精神なき専門人」という像は、矛盾するようで実は一致する。主婦たちを、考えさせず、感じさせず、型にはめ、空間に埋め込む。その場と行動の型は、自動的に公共空間、そして戦争と結びつけられており、その空間に存在する人間は、ほぼ自動的に社会参加、もしくは戦争参加を果たさざるをえない。ナチスの担い手というにはあまりにも政治に無関心で、犠牲者という以上にしっかりナチスの支持していた、という第三帝国を生きた主婦の奇妙な状況は、このような近代戦の環境を台所に導入したからではないだろうか。台所にみるナチスの主婦動員の構造を、私はさしあたりこのように考えたい。」(360~361ページ)

 ナチス時代のレシピ本も興味深い(honzのレビューでは実際に料理を作ってくれている→こちら)。当時の食糧危機の中で節約方法を紹介した点ではナチスが国民経済と家庭経済とを結びつける手立てとして活用された一方、企業広告として食材関係の販売経路を確保しようという思惑も重なっていた。反資本主義を掲げるナチズム体制においても、その看板の裏では親資本主義的な活動を許容していた二面性を裏付ける例として指摘される。なお、現代社会でもおびただしく刊行されるレシピ本やマニュアル本の類いも、科学技術史と民衆心性史との接点を掘り起こす上で実は貴重な史料になるという指摘は重要だ。

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藤原辰史『カブラの冬──第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』

藤原辰史『カブラの冬──第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』(人文書院、2011年)

 第一次世界大戦下のドイツで70~80万人もの餓死者を出したと言われる「カブラの冬」(1916~17年)。開戦によって海外からの食糧輸入ルートは遮断され、当初、長期戦になろうとは誰も予想していなかったので食糧問題には何らの考慮も払われておらず、付け焼刃的な食糧政策はかえって混乱に拍車をかけた。例えば、「豚殺し」。学者のはじき出した単純なカロリー計算によると、豚飼育用のジャガイモは人間の消費量を上回る。ならば、豚は殺してしまえ──しかし、人間のエネルギー源として穀物と脂肪分とで果たす役割の相違を無視した暴論は飢餓をより深刻なものとした。

 飢餓にまつわる不満を訴えようにも政治システムとして適切な代表ルートがなかったため革命を誘発。続くヴァイマル共和国期でも食糧政策の脆弱性や不平等性は克服できず、大戦中に実体験した飢餓に根ざした憎悪感情は行き場を失い、ナチズム台頭を後押しする契機となった。こうした憎悪は、「飢えたドイツ人/豊かなユダヤ人」という人種主義的偏見を増幅させたり、「食糧さえ確保できていれば戦争には勝てたかもしれない」(背後からの一突き伝説)という「終わり損ねた戦争」意識をもたらした。海上封鎖を受けたことは、海外植民地ではなく東方拡大を目指したヒトラーの「広域経済圏」構想にもつながったという。

 飢餓という生命維持に根ざした根源的な記憶がその後のドイツ革命、ヴァイマル共和国期、さらにはナチズムへと如何に深刻な影響を及ぼしていったのか、そこを農業生産という視点で一つの見通しをつけていく手際が鮮やかである。

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2012年10月14日 (日)

【映画】「桐島、部活やめるってよ」

「桐島、部活やめるってよ」

 何をやらせてもうまくこなしてしまう奴、努力してもそこそこまでしかいかない惨めさ。カッコイイ奴は何もしなくても人をひきつけるオーラを放っているが、ダサイ奴はあがけばあがくほどダサくなる。圧倒的な格差は、教室の中で自ずとヒエラルキーを作り上げる。あいつにはかなわない、でも、こいつよりはマシだ──そうした比較の眼差しが交錯する空間は息苦しい。自分の思惑とは関係なく何となく出来上がってしまった価値序列の中で自分のポジションを確保するよう強迫的に促されてしまう。

 それにしても、みんな無関心なようでいて、他のクラスメートのことをよく観察している。何かがあればすぐ噂になる。

ある日、「桐島が部活をやめたらしい」という噂が流れ始めた。実は最後まで桐島は姿を表わさないのだが、どうやらスポーツ万能でモテモテのパーフェクトマンらしい。噂は静かな波紋を広げ、教室内のヒエラルキーは崩れていく。それは同時に、他人との比較で自分を位置づける空虚さを自覚することでもあった。

芯のない自分に気づいて居たたまれなくなる、あの感覚。一人一人の心情的な揺れが描かれていく。群像劇のスタイルは、教室内に張り巡らされた視線の網の目を解きほぐす構成として秀逸である。

 「恋愛」だって例外ではない。例えば、校舎裏で宏樹と待ち合わせた沙奈。宏樹に憧れている吹奏楽部の沢島がすぐ近くでサックスの練習をしながら自分たちを気にしているのが分かっている。だからこそ、わざと宏樹にキスをせがんだ。視線の先にあるのは、宏樹ではなく、沢島が動揺した姿である。また、後輩男子からの憧れの眼差しをサラッと受け流す梨紗の余裕の笑顔は、自分は桐島と付き合っているという優越意識の表われだ。しかし、桐島が部活をやめたのを知らなかったことで彼女の面目は丸つぶれ。自分が「彼」を好きだという以前に、「彼」と付き合っている自分を周囲の視線にさらすことで成り立っていた自尊心は実にもろい。

 宏樹は野球部に属しているが、放課後はいつも帰宅部の仲間とつるんでいる。彼もまた万能マンのタイプだが、野球部のキャプテンには頭があがらない。キャプテンは他の三年生が受験に備えて部活を引退しても頑張っている。ドラフトが終わるまでは気が抜けない、と言うが、スカウトされる可能性なんてほとんどないことをキャプテン本人もよく分かっている。しかし、最後まで頑張りぬきたいという意地のようなものがある。丸刈りで朴訥としたキャプテンはいけてない。だが、宏樹は彼の顔を見るたびに、宙ぶらりんの自分への引け目を突きつけられるようでつらそうだ。やれば何でもできるはずの彼だが、他者からの評価にさらされるのを恐がって躊躇しているのかもしれない。

 映画部の前田は根っからの映画オタクである。運動はからきしダメで風采も上がらない彼は、教室内のヒエラルキーでは最下位だ。しかし、彼には映画がある。学校でゾンビ映画を撮ろうとする彼ら映画部の滑稽な姿は明らかに浮き上がっているが、あまり意に介さない。普段はオドオドした態度の彼でも、自分のやりたいことに一生懸命なとき、他者との比較で自分を位置づける視線の網の目からは完全にフリーになっている。校舎屋上での乱闘騒ぎの後、宏樹が前田の背後に神々しい光を感じる演出は、宙ぶらりんになっている引け目の意識状態から離れていけるきっかけをつかめたような感触を得たことを表わしていると言える。

【データ】
監督:吉田大八
原作:朝井リョウ
2012年/103分
(2012年10月13日、テアトル新宿にて)

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2012年10月10日 (水)

田野大輔『愛と欲望のナチズム』

田野大輔『愛と欲望のナチズム』(講談社選書メチエ、2012年)

 ヌード写真の掲載された雑誌が流通し、全裸の女性のアトラクションも催される。婚前交渉や不倫も容認され、銃後の女性や若者たちは性戯にふけり、兵隊や捕虜にまで売春宿が設置されていた。ドイツ第三帝国で日常生活に広まっていた「性」のあけっぴろげな放埓さ──。上意下達の総力戦体制は倫理面でもリゴリスティックな抑圧を行き渡らせていたと思われがちだが、本書は一次資料に依拠しながら強面のナチズム体制にまつわるそうした通念を崩していく。単に建前と偽善という当たり前な話ではなく、性的欲望の解放もまたナチズムを支える駆動力となり得ていたカラクリを論証していく手際が本書の面白いところだ(この点で、フロイトの精神分析学を踏まえて性的抑圧がファシズムを生み出したと考えたヴィルヘルム・ライヒ『ファシズムの大衆心理』とは正反対の結論となる)。

 ナチスもまた神なき近代の申し子である。従来の保守的なキリスト教倫理や偽善的な市民道徳に対する反発が、革新勢力たるナチスの思想的モチーフの一つとなっていた。キリスト教道徳が説く彼岸での救済は説得力を失い、此岸において精神的空白に陥った人々にとって、ナチスが説く「生の肯定」は大きな力を持った。その具体的な表われは、例えば「性」の領域に見出される。健康な肉体の美しさ、男女の結合の喜び──これらを覆い隠してきた保守的な市民道徳の偽善的な禁欲主義は、健全な人間の本能的な力を挫くものと批判された。生殖行為としてのセックスは「生めよ殖やせよ」という国策に合致するにせよ、性愛の喜びそのものが肯定されていたことは注目される。

 いびつな道徳的抑圧から性的タブーを撤廃していくという考え方は、現代社会で主張されればリベラルと受け止められるだろう。また、ナチズム体制において子供が幼少期にトラウマを抱えてしまわないよう生育環境としての幸福な家庭生活が推奨されたり、同性愛者の扱いにも環境要因から「更生」の可能性に配慮する施策もあった(ただしこれを裏返すと、更生不可能→抹殺の対象という非人間的側面も露わとなった)。部分的にはリベラルで進歩的にも思われる考え方が、人種至上主義的なイデオロギーと共存していたことには興味が引かれる。

 市民道徳の偽善性への批判として性的知識の啓蒙が推進されたが、それは見方を変えれば、「性」というプライヴェートな領域にまで公的権力が介入する契機ともなった。また、性愛の喜びが容認されたとき、セックスを生殖とは切り離して単なる消費的享楽に陥るのではないかという保守派の懸念は残る。健康な肉体美を猥褻とみなすこと自体が市民道徳の偽善性として告発されたが、他方で欲望を持った眼差しで見るならば性的興奮が刺激されることに変わりはないだろう。猥褻/非猥褻の線引きはどこに求めたらいいのか、基準は明示されない。国民からすれば、性的欲望が解放され、扇動される一方で、社会的秩序維持の観点から否定されるというダブルバインドに直面する。まさに道徳と不道徳の区別が曖昧であること自体が、権力の立場からは人々の欲望を誘導し、操作する政治的道具となり得た。言わば、「性政治」的なボナパルティスム(著者はこういう表現を用いないが)という感じだろうか。

 権力は単に人々を強圧的に服従させるだけでは維持されない。人々自身からの主体的・自発的な支持を獲得することで強力なエネルギーを得ていくのであって、そこをどのように煽動していくかがカギとなる。性愛という身体的直接性がナチズムの体制内で複雑な矛盾をはらみつつ大衆動員のメカニズムに組み込まれていたことはそうした一つの工夫であったと言えよう。そもそもヒトラーの演説に人々が聞き惚れたことも、演説の内容を理解したからではなく、陶酔感の中で総統と一体化する直接性によって大衆動員を可能にする政治技術であった。ナチズムが内在的に持っていた不可思議な吸引力は一体何であったのか、そこを先入観なしに解析していく作業として著者の前著『魅惑する帝国──政治の美学化とナチズム』(名古屋大学出版会、2007年→こちら)も併せて読むと面白いだろう。

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2012年10月 9日 (火)

【映画】「ロスト・イン・北京」「私の少女時代」

 新宿のK's cinemaで開催された「中国映画の全貌2012」のオープニング作品、「ロスト・イン・北京」(原題:苹果、李玉監督、2007年)と「私の少女時代」(原題:我的少女时代、馮振志監督、2011年)を観に行った。

 「ロスト・イン・北京」。北京オリンピックを間近に控えた時期で、建設ラッシュの街並がたびたび映し出される。マッサージ店で働く苹果(范冰冰)は、高層ビルの窓拭きをしている夫と暮らしていたが、勤め先の社長(梁家輝)にレイプされて妊娠した。妻の不貞をなじっていた夫だが、ふと「これはチャンスだ」とつぶやく。社長には子供がいない。生まれてくる子供の血液型を調べ、もし社長の子供だったら大金と引き換えで養子とする契約を結んだ。傲慢な成り上がり者の社長に対して、地方出身で貧しい夫もしたたかに立ち向かったように見える。しかし、金銭的契約で割り切ったはずなのに、二組の夫婦それぞれが疑心暗鬼に陥って関係が崩れていく、という話。蛇足ながら、范冰冰の激しい濡れ場で話題になったらしい。

 「私の少女時代」は文化大革命末期を背景に、下放された下半身不随の少女が医学を志す話である。張海迪という人の自伝的な作品『車椅子の上の夢』を自ら脚色した映画らしい。苦難の中でも笑顔で耐え抜くポジティヴ・シンキングはまさに文部省推薦映画という感じの健康健全な明るさだ。演出は分かりやすいがコンベンショナルで古くさく、画質も少々粗いので昔の映画かと思ったら2011年製作ということで驚いた。

 二つの作品を続けて観ると、(企画主催者の意図は知らないが)明るい未来を信じられた時代への懐旧と、現実社会の矛盾点をリアルに捉えようとした現代性という対比として印象付けられた。いくつか気づいた点を挙げると…
(「私の少女時代」/「ロスト・イン・北京」の順番)
・都会から下放されてきた少女は村で教師・医師として活躍(耳の聞こえない難病の少年が彼女の鍼で聞こえるようになるのは「啓蒙活動」の成果のシンボル?)し、帰るときは村人から笑顔で見送られる/主人公の若い夫婦は地方出身の農民工で、都会生活の中で苦労し、最後、苹果は子供だけ連れて一人で故郷に帰る(娼婦になって殺される友人も出てくる)
・努力すれば何とかなる/厳然たる貧富の格差の中で挽回するのは困難
・善意の村人たち/都会生活の中で夫婦間ですら互いの悪意を疑う
・少女は無償で医療活動→善意で成り立つ人間関係/若い夫婦は社長夫婦に子供を渡す金銭的契約、社長夫婦の間では「もし夫が浮気したら財産の半分を妻に渡す」という契約→夫婦や家族の間ですら金銭上の問題として捉える発想

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2012年10月 8日 (月)

【映画】「アイアン・スカイ」「ディクテーター 身元不明でニューヨーク」

 先日、新宿の武蔵野館で観た映画を二本。最初のお目当ては、予告編で気になっていた「アイアン・スカイ」。これがフィンランド映画というのは意外だった。月の裏側(ダークサイド)に「第四帝国」を築いていたナチスが地球に襲来する、という話。まあ、つまらなくはなかったけど、期待していたほどでもなかった。予告編で威勢の良かったナチスの女性士官が指揮官として攻めてくるのかと思っていたら、実際には平和志向であてが外れた。ナチスの妖しい「美学」(制服とか敬礼とか軍隊行進とか)がもうちょっとはじけていたら面白かったのだが、パロディや風刺の要素の方が強くて中途半端な感じもした。風刺というのは、例えば、ちょうどアメリカ大統領選挙の最中で、現職の女性大統領がナチス襲来を目の当たりにして「一期目に戦争をした大統領は必ず再選してるのよ。しかもナチスだなんて、もう最高!あたしったらルーズベルトの気分!」とか。

 二本目はサシャ・バロン・コーエンの「ディクテーター 身元不明でニューヨーク」。北アフリカ某国の独裁者アラディン将軍が国連総会出席のためニューヨークに来たら、側近の陰謀で替え玉とすり替えられ、本人はニューヨークの街中に放り出されるという設定のパロディ映画。毒がかなりきつい。冒頭、「われらの首領様金正日総書記を偲んで」の字幕で場内大爆笑。

 チャップリンの「独裁者」は独裁者もの映画の古典だが、上記二本ともこれを意識している。「ディクテーター」の終盤、アラディン将軍が替え玉を追い出して民主主義批判の演説をするシーンは、チャップリン「独裁者」でヒンケル総統とすり代わったユダヤ人の床屋が平和を求める演説をするラストの本歌取り。「アイアン・スカイ」では、月面ナチスの女性士官が子供たちにプロパガンダ教育をする際、ヒンケル総統が地球を模した気球と戯れる有名なシーンだけ切り取られた「独裁者」を10分の短編映画として紹介。ところが、ニューヨーク潜伏中に映画館で本物のチャップリン「独裁者」を観たところ、「総統閣下がコケにされてる…」と落ち込むシーンがあった。一緒に観に行った黒人男性は「125分なんてなげーよ、編集が必要だな」と文句を言う。

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