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2012年9月19日 (水)

ラナ・ミッター『五四運動の残響──20世紀中国と近代世界』

ラナ・ミッター(吉澤誠一郎訳)『五四運動の残響──20世紀中国と近代世界』(岩波書店、2012年)

 反日デモの激しさを目の当たりにして、中国とは良好な関係を維持したいと考える一人としては当惑を禁じえない。領土問題や愛国主義の是非についてここで語るつもりはない。ただ、「愛国」という一つの正統的言説が打ち出されたとき、それを中国国内で相対化する言論上の力学が働きづらいのはなぜなのか、やはり気になるところである。表面的に言えば体制の不安定化を恐れる現政権の言論統制によるということになるのだろうが、そこに至るまでの歴史的背景から捉え返せば、より明確な見通しが得られるかもしれない。

 1919年5月4日、ヴェルサイユ条約で中国におけるドイツの権益がそのまま日本に引き渡されるというニュースに接し、国際正義のダブルスタンダードに憤った北京の学生たちはデモ行進で街頭に出た。このいわゆる五四運動には愛国主義が色濃く見られた。親日派とみなされていた政府高官・曹汝霖の邸宅が襲撃され、そのような暴力性が当時の世論で喝采を浴びたことは現在の反日デモの過激化も想起させる。他方でそれは、なぜ中国はこのように低い地位に甘んじなければならないのか、国を立て直すにはどうしたら良いのかという救国意識の表われでもあった。

 中国社会の停滞性は儒教的な封建制度に原因がある。伝統拘束的な社会から一人一人の個人を解き放って近代化を進めようという問題意識から、「サイエンスとデモクラシー」のスローガンを掲げた雑誌『新青年』をはじめ、伝統排撃を主張した一連の啓蒙活動が新文化運動と呼ばれる。ナショナリズムはこの思潮の特徴の一つとなるが、それはウィルソンの民族自決主義に呼応したものであったことからうかがえるように、国際的視野に開かれた性格も同時に帯びていた。儒教的伝統への訣別を主張するにあたっては欧米や日本、さらにはインドのタゴールやガンディーなど海外の思潮が参考にされていた。安易な伝統批判や啓蒙主義に懐疑を示す保守的な論者に対しても互いの相違を認めつつ、様々な思想的立場から自由闊達な議論が交わされていた。つまり、1910年代後半から1920年代にかけての五四/新文化運動の時期には、ナショナリズムの高揚と同時に、国際的な視野と思想的な多元性の許容される気運が短いながらも息づいていたのである。

 本書は、五四/新文化運動の歴史的位置付けを図るとともに、五四の記憶が折に触れてどのように呼び起されたのかに注目しながら中国近現代史をたどり直していく。

 五四時期を一つの区切りとして中国近現代史を捉えるのはある意味オーソドックスではある。ただし、従来は五四/新文化運動→陳独秀→中国共産党という単線的な図式が描かれ、それは必ずしも間違いとは言えないにせよ、現体制にとって都合の悪い部分をそぎ落としながら歴史的必然として正統化しようとする政治的意図があったことは否定できない。

 しかし、例えば私が五四/新文化運動で関心が惹かれるのは、思想的多元性が許されたがゆえに萌した可能性の豊かさである。歴史にイフは禁物であるにせよ、実際にはあり得なかった別の展開可能性に思いを馳せたいという気持ちがある。様々な可能性の胚胎した時代として五四時期を捉えた上で、現在の中国社会を相対化しながら見つめていくのも一つの視点として有益ではないか。そうした私自身の関心からも、五四時期をめぐる正統派の史観を解きほぐす視点を持った本書を興味深く読んだ。

 五四時期の思想的多元性とは言っても、当時の中国は軍閥割拠の混乱状況にあり、対外的脅威も常に意識せねばならず、決して安定した時代ではなかった。ただし、政治的混乱=権力の分立状況では、一つの政治勢力から弾圧を受けても別の政治勢力の支配区域に逃げ込めば良いわけで、このような逆説的な形で言論空間の多元性がある程度まで確保されていた。

 ところが、中国の政治的統一を求める動向の中からその後の中国政治を左右する国民党と共産党という二つの政治勢力が現れたが、いずれもイデオロギー性が濃厚で政治的多元性には関心がなかった点で共通する。1930年代に入って本格化した日本軍の侵略は抗日意識の下に中国の人々をまとめ上げたが、それは思想的多元性の幅がさらに狭まるきっかけとなり、内向きの傾向がますます強まっていった(五四運動のきっかけも含め、中国ナショナリズムが燃え上がる対象として常に日本が標的となる歴史的背景には留意しておく必要がある)。抗日戦争、国共内戦を経て中央集権化が確立すると、共産党の意向に反した言論活動は事実上不可能となった。

 なお、国民党も共産党も、思想的多元性を容認しない態度を取ったものの、他方で啓蒙主義的近代性までは否定していなかった。それに対して、同時期の日本のナショナリズムには中国以上に神秘主義的・ロマン主義的傾向が強かったという指摘に関心を持った(本書、122ページ)。

 毛沢東も五四時期に思想的な影響を受けたという経緯があり、上述したように中国共産党は自分たちのルーツをこの時代に求めている。ただし、過去の伝統との断絶という五四のモチーフが文化大革命で表われたが、それはかなりいびつに歪められたものであったと本書は批判している。

「中国の文化大革命は、革命の純粋さと自分の地位とに取り憑かれた一人の男によって主に引き起こされた。しかし、彼が選んだ途を決めた思考の型は、五四において彼を主に形作ったものだった。毛沢東の文化大革命は、五四の暗黒面がたどりついた先として説明できる。それは、若さへのこだわり、過去の破壊、みずからの思想体系の優越性についての傲慢な過信を受け継いだが、もとの五四に加味されていた啓蒙思想(コスモポリタニズム・批判的探求・普遍主義)は欠いていた。」(208~209ページ)

 文化大革命が終息して、鄧小平の指導の下でかつての毛沢東の政策が(あからさまではないにせよ)事実上覆されたとき、新たな結集点を見つけ出す必要から「抗日」が選ばれ、それは中台統一を国民党に呼びかける上でも有効だった(297ページ)。また、近年の孔子リバイバルなども考え合わせると、かつて五四/新文化運動が中国自身の過去と全面的な対決を試みたのとは異なり、冷戦後の中国ナショナリズムはむしろ過去から自分たちを正当化する材料を見つけ出そうとする傾向が指摘される(299ページ)。

 五四/新文化運動の長所は、偶像破壊的な批判精神(例えば、魯迅の舌鋒鋭さ)とそれを許容できる思想的な多元性に求められる。例えば、「愛国」という正統的言説が無批判に受け入れられてしまいかねないとき、敢えてそれを批判してこそ公論のバランスを図ることができる。付和雷同的な言論状況を文化本質主義的に決め付けてしまうわけにはいかない。中国にもかつて五四の精神が花開いた経験があるわけだから、その良質な部分を見直して再生させることは不可能ではない。

 中国の民主化の行方を占う上で、台湾を参照例に挙げるのはよくある話である。本書では、台湾が政治面での自由民主主義体制と日常生活での伝統的な儒教の規範とが共存していることに注目する(306ページ)。五四時期の急進的な人々(及び文化大革命)は儒教的伝統の徹底批判を行ったが、ただしそれは儒教をきちんと理解した上での批判ではなかった。よく考えてみれば、伝統か近代かというようなオール・オワ・ナッシングの二者択一を迫る必要もない。唯一の解法を求めようとする態度が思想空間の可能性を狭めていた。啓蒙主義で特徴付けられる五四/新文化運動だが、実は中国の伝統文化復興を唱えた梁漱溟(→彼についてはこちらで取り上げた)が啓蒙主義者たちと対等に議論を展開して注目を浴びたのも重要なワンシーンであったことに私は関心を持っている。様々な思想的リソースが共存していたことが五四時期の特質だったと言える。

 なお、五四運動の愛国気分が高まって曹汝霖邸が襲撃されたことについて梁漱溟は「我々は、たとえ国を愛し大義にむかう行為であっても、彼ら〔曹汝霖ら〕を犯し、彼らに暴力を加えることはできない」と指摘していた(吉澤誠一郎「五四運動から読み解く現代中国」『思想』2012年9月号、151ページ)。

 五四運動についてはVera Schwarcz, The Chinese Enlightenment: Intellectuals and the Legacy of the May Fourth Movement of 1919(University of California Press, 1986)も読んだ(→こちら

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