玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』
玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』(平凡社新書、2012年)
私はだいぶ以前からアジア主義というテーマに関心を持っていたものの、それを素直に表明できない微妙な居心地の悪さも同時に感じていた。「アジア解放」という大義名分が、かつて日本の国策としての対外的膨張政策に利用された経緯はどうしても否定できず、そこへの慮りを常に意識しなければならないからだ。ただし、「アジア解放」という理想を純粋に信じて生き、そして死んだ人々がいたことも無視できない事実であり、このあたりの複雑な絡まり具合を解きほぐしながら理解していくのはなかなか容易ではない。
そうした複雑さを体現した人物の一人としてはまず大川周明が挙げられるだろう。彼はクーデター騒ぎに参画するなどアクティヴな活動家であり、またアジア主義のイデオローグとして戦犯指名を受けたため、毀誉褒貶が激しい。他方で、篤実な学者であったことも確かであり、そうした二面的なパーソナリティーを満川亀太郎は「学者としては血があり過ぎ、志士としては学問がありすぎる」と評していた。彼の学問的な先見性はアジア認識という点で認められる。「アジア解放」という理念に目覚めたのは大川がもともとインド哲学を研究していたからであり、憧れのインドが現実にはイギリスの植民地支配下で呻吟していることへのショックが動機だったことは有名な話だ。また、大川から研究上の便宜を受けた井筒俊彦は「彼はイスラムに対して本当に主体的な興味を持った人だった」と語っていたが、近年、大川をイスラム研究の先駆者として評価する声はしばしば見受けられる(例えば、山内昌之、鈴木則夫、宮田律など)。
アジアと言っても広い。そうした中で大川の関心は東南アジアにもしっかり及んでいたことは本書で知った。大川自身が東南アジア問題にじかに関わったというわけではなく、弟子たちを通して。南方で商人として活躍できる人材の育成を目的に掲げて、東亜経済調査局附属研究所が1938年に開設され、入学した若者たちは所長の大川周明から直接・間接の薫陶を受けた。本書は、この通称「大川塾」を卒業後に南方で活躍した人々からの聞き取りをもとに、第二次世界大戦前後の時期において日本が東南アジアと関わりを持った際の裏面史を描き出している。
様々なエピソードが紹介される。真珠湾攻撃と同時に発動されたマレー作戦においてタイ国境で活躍。アウンサンをはじめビルマ独立運動の志士に軍事訓練を施した南機関やビルマ独立義勇軍への参加。仏領インドシナの反仏活動家と接触した人もいて、その相手にはクオン・デ、チャン・チョン・キム(日本軍占領下でベトナム首相になった歴史家)、ゴ・ディン・ジェム、ソン・ゴク・タン(カンボジアの反仏活動家)などの名前も見える。チャンドラ・ボース率いるインド国民軍と共にインパール作戦に参加した人もいた。
彼らの多くは商社員として現地に渡っていたものの、実際には日本軍の作戦行動を補完する役割を果たすことになった。現地語をマスターして土地の人々の中に潜り込んでいた彼らの存在は、見ようによってはスパイである。その点で、大川塾は陸軍中野学校と同類のスパイ学校とみなされることもあったらしい。だが、著者の取材相手の中に、スパイと呼ばれることに強烈な拒否感を露にする人がいたことをどのように受け止めたらいいのか。
大川周明は塾生たちに「諸君の一番大事な事は正直と親切です。これが一切の根本です。諸君が外地に出られたら、この二つを以て現地の人に対し、日本人とはかくの如きものであるという事を己の生活によって示さなければなりません」と諭していたという。「正直と親切」──陸軍中野学校で教えられていた「謀略は誠なり」という言葉もふと思い浮かべたが、その趣旨はだいぶ違う。謀略は周囲の人に決して気づかれてはならず、場合によっては他人を利用する。そうした点で絶対的に孤独な活動であり、だからこそ自身の活動のよりどころとして求められる超越的な何かが「誠」と表現されていたのだと私は理解している。これに対して、大川の言う「正直と親切」とは、現地の人々と対等な関係を保ち、友人として誠意を尽くす態度である。少なくとも塾生たちはそのように理解していた。
こうした「正直と親切」に基づくアジア主義は、日本の国策がはらんだ矛盾を敏感に感じ取り、軍部が推進していた作戦至上主義に対して嫌悪感すら抱かせた。大川塾の出身者たちが日本人として驕り高ぶることへの戒めを語るのを本書は拾い上げている。
──「日本人は“われわれの指導のもとに”と考える。だから土地の人と馴染むことができないんです。日本が盟主? それは間違いですよ。」
──「目的があればどんなことをしてもよいのか。しかもその目的ですら当時の日本の為政者即ち軍と官の中でどれだけの人が真剣に考えていただろうか。」
──「日本軍の勝利があって独立があるのだという姿勢には嫌悪感しか覚えなかった。」
──「(ビルマ人を)見下げると、どこか(表)に出てくるんですね。自分より年上でしょう、大学も出ているでしょう? そういう人と会うときは自分がある面では劣っているんだから、同格以上に彼らを立てる。まず日本人ということをかなぐり捨てて、『俺はビルマ人になるんだ』という気持ち。ビルマ人になるなら、みんな先輩ですから。」
もちろん、彼ら自身が主観的には善意であったとしても、実際の歴史のなりゆきの中で(結果論にしても)占めた位置づけを考えるなら、手放しで礼賛するわけにはいかない。その点はしっかり留意する必要があるが、他方で、「アジア主義」と一括りにされる中でも、様々な想いや動機があったこともきちんと見分けていく必要がある。そうでなければ歴史は不毛なレッテル貼りで終わってしまう。実にアンビバレントでもどかしい作業ではあるが、血の通った理解を目指すなら、やはり歴史の当事者の肉声をできる限り拾い上げていく作業が求められる。存命者も少なくなっていく中、これまであまり知られることのなかった大川塾の実態を、そして出身者たちの抱いた情熱や葛藤を明らかにした本書の仕事はやはり貴重である。そして、異国に身を埋めて生きる覚悟とはどのようなことなのかを考える上でも興味深い。
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