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2012年8月14日 (火)

【映画】「ローマ法王の休日」

「ローマ法王の休日」

 次の法王を選出する、いわゆるコンクラーベ。完全な密室で行われるため、その様子を我々はうかがい知ることはできない。世界中から集まって来た枢機卿たちがバチカンの奥の院へ向けて、朗誦される聖句に合わせ黙々と歩を進めている。その厳かさは、下馬評をもとにマイクを向ける報道陣の俗っぽさを際立たせるかのようにも見えるが、奥の院へ吸い込まれた枢機卿たちの振る舞いや如何に…?

 次の法王が決まればシスティナ礼拝堂の煙突から白い煙が出る。しかし、新法王誕生の瞬間を見ようと集まった人々をじらすかのように、出てくるのは黒い煙ばかり。中では法王の座をめぐって醜悪な権力闘争が繰り広げられているのかと思いきや、この映画に登場する枢機卿たちはみな心の中で祈っている──「主よ、どうか私が選ばれませんように…」。

 投票が何度もやり直された結果、ようやく選出されたのが主人公のメルヴィルであった。いったんは受諾したものの、信徒たちへのお目見えでバルコニーに出る間際、「私には無理だ!」と泣き出して部屋に引きこもってしまう。大慌ての枢機卿たち。鬱病ではないかと疑ったバチカンの報道官は精神科医を呼び入れる。「彼の素性を知らないセラピストに診せる必要がある」と助言されたため報道官が極秘で外に連れ出したところ、メルヴィルは隙を見て逃げ出してしまった。やんごとなきお方がお忍びでローマの街をうろつきまわる。つまり、ローマ法王の休日。麗しきオードリー・ヘップバーンではなく、はげ頭に白髪の残る老人(ミシェル・ピッコリ)ではあるが。

 精神科医が法王を診断するにあたり、報道官から「魂と無意識の相違を認めるか?」と念を押されたり、カウンセリングの質問内容に制限を加えられたり、そもそも信徒の告解を受けるはずの聖職者が精神科医の世話になるということ自体アイロニカルな話である。しかし、そうした風刺に毒はない。コメディとしての面白さを引き立てる調味料的なギャグであって、ことさら挑発的な風刺をしようという意図はないようだ。

 ナンニ・モレッティ監督のカンヌでパルムドールを受賞した前作「息子の部屋」では、息子を事故で失った精神科医である主人公をモレッティ監督自身が演じている。息子が死んだ後になって、彼のことを自分は全然分かっていなかったことに気づき、苦悩するという話だった。今作「ローマ法王の休日」でも精神科医役をやはりモレッティ監督が演じているのがポイントだろう。これはバチカンに対する風刺映画ではなく、理解され得ない孤独という機微に焦点を合わせたヒューマン・ドラマとして観た方が良い。

 法王のお披露目ができないので、枢機卿たちは暇をもてあましている。そこで、精神科医が音頭をとってみんなでバレーボールの試合をやり始め、枢機卿たちは嬉々としてプレーに勤しむ。世間知らずだが無邪気という感じで憎めない。部屋に引きこもった法王をバレーボールの騒ぎで引っ張り出そうというのが精神科医の思惑だったが、そもそも部屋に法王はいない。報道官がごまかしていた。これもひょっとすると、カウンセリング診療は意外と見当違いなことをしているという当てこすりなのかもしれない。

 外のセラピストに会った際、「職業は何ですか?」と聞かれても、まさか「法王です」と正直に言うわけにはいかない。メルヴィルはとっさに「役者です」と答えた。法王が役者、というのも一つの皮肉である。しかし、その後のストーリー展開から、若い頃、彼は本気で役者になりたがっていたことが分かる。

 映画のラストでは実にあっさりとしたどんでん返しを迎えるが、これをどう考えるか。法王の座をいったん引き受けてしまった以上、投げ捨てるのは無責任の極みである。他方で、ローマの街で劇団の人たちと出会い、自分は本当は役者になりたかったことを思い出していた。メルヴィルが法王を辞めた後のことはこの映画からは分からないが、公的な責任として法王を引き受けるのか、自身の人生そのものへの(私的な)責任として別の道(役者)を選ぶのか、そうした揺らぎとして捉えられるだろう。

 メルヴィルは正直な選択をした。だが、それは多くの信徒を悲しませることでもあった。それでも彼は自分の判断を是としたのか、後悔しなかったのか──そこまでは分からない。ただし、最初は責任の重圧がイヤだからという子供じみた理由であった。単なる甘えた逃げ根性に過ぎなかった。しかし、街をさまよった後では違う。役者になりたいという若き日の夢を思い出しており、それは一つの明確な選択であって、消極的な意味での逃げではない。

 いずれにせよ、これはバチカンを風刺した映画ではない。他人は「私」(=メルヴィル)の心の中など知らない。それでも、「私」は自分の納得のゆく決断をしなければならず、それが結果として他人に大きな迷惑をかけることになるかもしれない。そこもひっくるめて責任をとれるのか。そうした寓話としてこの映画は理解できるのではないかと思った。

【データ】
原題:Habemus Papam
監督:ナンニ・モレッティ
2011年/イタリア・フランス/105分
(2012年8月13日、新宿、武蔵野館にて)

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