林英一『残留日本兵──アジアに生きた一万人の戦後』
林英一『残留日本兵──アジアに生きた一万人の戦後』(中公新書、2012年)
第二次世界大戦において「大東亜共栄圏」なるスローガンを掲げて日本は勢力範囲を大幅に拡大させたが、国力を度外視した無謀な壮図はやがて行き詰まり、1945年8月の敗戦と共に帝国は空中分解することになった。動員された日本兵はおびただしい屍をさらし、生き残った者とてすんなり帰ることができたわけではなく、延びきった戦線の各地に取り残された人々も少なくない。終戦後、何らかの事情で出征先の現地(もしくは抑留先の旧ソ連領)に残留した日本兵は1万人はいたであろうと推測されるが、その実態はよく分からない。
「残留日本兵」と聞いて具体的にはどのようなイメージを思い浮かべるだろうか? ルバング島で発見された小野田少尉、インドネシア独立戦争に身を投じた志士、あるいは中国の山西省で反共の防波堤とすべく意図的に残された日本兵──実に多様で、共通した属性を導き出すのは難しい。本書は資料的に確認できる約100人の個人史的背景を調べた上で、こうした立場も動機も様々な「残留日本兵」の全体像を整理しながら一つの見通しをつけようと試みている。著者はまだ20代の若手だが、これだけの労作をものしていることには、正直、驚いた。
三つの論点に私は関心を持った。第一に、「軍人であれば下士官・兵のような階級の低い者、軍民関係でいえば居留民のように組織の拘束力が相対的に弱い集団に属している個人のほうが、容易に残留できたのではないか」(38ページ)という論点。
第二に、アジア各地で国民国家が形を成し始めた1950年代半ばになると、各地の「残留日本兵」の追放が検討されたという指摘。言語や習慣も現地にすっかり馴染んでいたとしても、現地政府の方針や思惑によって日本へ強制送還された場合もあれば、逆に現地社会に溶け込んでいなくても現地政府の都合で市民権を得たケースもある。
第三に、日本社会に帰還した「残留日本人」の受け止め方の変遷。1950年代初めまでは日本社会自体が敗戦のショックから立ち直っていない時期で、帰還兵もさほど目立たなかった。1950年代半ばから1960年にかけては「戦争の被害者」と同情され、その後は帰還兵も稀になったという事情もあるかもしれないが、1974年に発見された小野田少尉は「戦争の英雄」としてマスコミの寵児になった。当時の日本は高度経済成長の最中だったが、それは他方で物質文化の精神的空虚さを感じ始めていた頃であり、小野田少尉は戦前的な美徳を体現した生き残りとして注目を浴びたものと考えられる。ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」で、中国・山西省に実質的に「棄民」された奥村和一が、不屈の「戦争の英雄」たる小野田少尉に食って掛かるシーンがあるが、ここからは戦後日本社会における「残留日本人」イメージの対照的な相克が浮かび上がっているようにも見えてくる。
「残留日本兵」はもちろん日本社会だけの問題ではない。各地の現地社会の中で彼らの存在はどのように受け止められていたのか。独立義勇軍に参加した義侠心への感謝もあるだろうし、他方で戦争が続いていると思い込んでいるため現地人への襲撃を繰り返していた者もいた。技術を買われて居残った者もいるし、現地人と家庭を持ってそのまま溶け込んでいった人々も多い。個々それぞれに事情はあるにせよ、現地社会と草の根レベルで直接的な関係を持っていたことは、彼らを通して「日本」なるものが認識されていた側面があったと言える。そうした意味で、広義の「アジア」と日本との生身の関り方を考える上で「残留日本兵」の問題はやはり重要な切り口となり得るだろう。
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