白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇太子──ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』
白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇太子──ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』(彩流社、2012年)
1940年10月29日、フランス植民地当局によってベトナム中部の古都フエで自宅軟禁されていたファン・ボイ・チャウが静かに息を引き取った。日本軍の北部仏印進駐から1ヶ月あまり後のことである。彼はかつてベトナム独立のための支援を日本に求め、ベトナム人の若者を日本へ留学させる東遊運動を積極的に推進した。そうした彼が日本軍進駐の報に接してどのような感慨を抱いたのか気になるところだが、特にコメントを残すことなく世を去った。
そもそも日本軍の北部仏印進駐とは、第二次世界大戦でフランス本国がナチス・ドイツに屈服した空白状況につけこみ、日本がフランスのインドシナ総督府(ヴィシー政権側)と共同統治を行うという形で進められたものであった(日仏共同統治は1945年3月の明号作戦発動による対仏クーデター、いわゆる「仏印処理」が実施されるまで続く)。どのような事情があるにせよ、アジア解放の大義を掲げた日本人が、まさに追放すべきとしたフランス人と一緒になって植民地支配を行うという矛盾は覆い隠せない。1943年のいわゆる「大東亜会議」にもインドシナ代表はいなかった。「アジア主義」という麗しい理念と現実のパワー・ポリティクスとが心情的には乖離しつつも日本の国策に沿って奇妙に共存しているあり様が、死を間近に控えたファン・ボイ・チャウの目にどのように映っていたのか? 本書で叙述される彼の生涯を見てみると、おそらく複雑な苦々しさが胸中に去来していたであろうことも想像される。
冷戦という状況下で南北に分断されていたベトナムは、フランスとのインドシナ戦争、アメリカとのベトナム戦争という惨禍を経てようやく統一されたのは1976年のこと。ここに至るまでにベトナム民族運動がたどった長い道のりの中で、日本もまた大きな関わりを持っていた。
本書は、東遊運動を主導したファン・ボイ・チャウ、彼が民族独立運動のシンボルとするために擁立した阮朝の皇族クオン・デという二人を軸に、20世紀前半における民族運動の動向を通してベトナム近代史を描き出している。彼らが亡命先の日本で有志の支援を受け、とりわけ柏原文太郎、浅羽佐喜太郎、宮崎滔天など善意の人々と出会ったことは特筆に価する。また、同様に亡命者という境遇にあった中国の梁啓超をはじめとしたアジア各地の革命家たちとの出会いからは、独立運動には横の連帯が必要とする「アジア主義」的な思想軸を意識することになった(海外の革命家ばかりでなく、日本の社会主義者も含めて設立された亜洲和親会にファン・ボイ・チャウも関わっている)。
他方で、その「アジア主義」は日本の国策に利用されることにもなる。日本に期待をかけていたファン・ボイ・チャウは、他ならぬ日本政府がフランス政府の要求に配慮したため追放されてしまった。こうしたダブル・スタンダードは、彼個人の問題を超えて、広く「アジア主義」に付きまとっていた矛盾であったと言えよう。
ベトナム国内での動向としては、フランスによる愚民化政策から抜け出すために海外への留学を推進し、武力もいとわない急進的な独立運動を目指したファン・ボイ・チャウに対して、ファン・チュー・チンはフランスの支配下であっても徐々に近代化を進め、ベトナムの自立につなげることができるとする改革志向の考え方をしていた。こうした路線上の相違にも関心を持った。
本書の下敷きとなっている白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』(巖南堂書店、1993年)は以前にこちらで取り上げた。ファン・ボイ・チャウについては他にもこちらで何冊か取り上げたことがある。もう一人の主人公、クオン・デについて、森達也『クォン・デ──もう一人のラストエンペラー』(角川文庫、2007年)はこちら。クオン・デと関わりのあったフランス文学者・小松清についてはこちら。また、本書の参考文献に挙げられているファム・カク・ホエ(白石昌也訳)『ベトナムのラスト・エンペラー』(平凡社、1995年)もこちらで取り上げた。
本書は「15歳からの「伝記で知るアジアの近現代史」シリーズ」の第1巻。中高生向きにアジア近現代史を新たに説きおろすという趣旨の企画である。ところで、20世紀前半における日本とアジアとの関わりを考える際、対日協力者の存在は無視できない。親日/反日のような座標軸で捉えると不毛になってしまうが、本書はそうしたあたりでバランスが取れており、近現代史を考察する上でのリテラシーを磨くにもちょうど良いと思う。ベトナムも含め東南アジア各国の近代史に関して専門的な研究成果はしっかりと蓄積されているが、一般読者向けにリーダブルな啓蒙書は見当たらなかったので、このシリーズには注目している。
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