« 【映画】「ローマ法王の休日」 | トップページ | 林英一『残留日本兵──アジアに生きた一万人の戦後』 »

2012年8月15日 (水)

後藤乾一『火の海の墓標──ある〈アジア主義者〉の流転と帰結』

後藤乾一『火の海の墓標──ある〈アジア主義者〉の流転と帰結』(時事通信社、1977年)

 明治以来、日本は「大国」としての地位を高めつつあった一方で、農村の逼迫した状況は相も変わらず、一旗挙げようと海外へ渡って行く人々がいた。家族単位で移住する場合には南米へ向かうルートがあったが、個人単位では南洋へ行くケースが多かったという。本書の主人公、市来竜夫も個人でインドネシアへ向かった一旗組みであった。

 1906年、熊本県に生まれた市来は、没落した生家を再興させたいという一念から1928年にスマトラへ渡った。当時の在留邦人には一等国意識が強く、現地人を見下す傾向があったらしいが、そうした中でも市来は現地人女性と結婚した。体面を気にする在留邦人社会の束縛には嫌気がさし、むしろインドネシア民衆の中で暮らす方が気がまぎれたという。インドネシア語の辞典作りに努めるなど、彼のインドネシア社会への心情的な思い入れは本物だった。ある意味、「現地化」の先駆的存在と言ってもいいだろうか。

 日本とインドネシア、二つの「祖国」への愛情は、双方の関係がうまくいっている分には問題はない。日本がいわゆる「大東亜共栄圏」なるスローガンを掲げて南進を本格化させても、「日本の援助によるアジア解放」という信念として当初は両立が可能だった。実際、市来は1936年に日蘭商業新聞社に入社するが、そこの社長・久保辰二を通じて右翼の大物・岩田愛之助とつながりを持つなど、アジア主義的傾向を強く意識していた。だが、そうした心情的なコミットメントはやがて帝国日本の政治の論理によって翻弄されることになり、二つの「祖国」の相克は市来を苛んでいく。

 太平洋戦争が始まり、オランダ勢力を追い払った日本軍はインドネシアで軍政を敷く。市来もジャワ派遣第十六軍の宣伝班に勤務したが、インドネシア人に対して高圧的な日本の軍人や支配者意識を丸出しにする一般邦人の態度に疎外感を抱くようになった。日本軍の肝煎りでインドネシア現地人を組織化したジャワ郷土防衛義勇軍(ぺタ)に嘱託として入ったが、戦局が押し迫った1944年になると、当初は親日的だった現地人の日本軍に対する反感が高まっているのを肌で感じていた。

 日本軍は現地人をなだめるためインドネシア独立容認を表明したが、1945年8月、日本は無条件降伏する。市来はただちにインドネシア独立に向けた活動を始めるが、日本軍政当局者は連合国を刺激しないようにという配慮からこれまでの独立容認路線を翻し、自分たちは独立運動とは無関係だと表明、ぺタの解散を決定して逆に独立運動を抑え込もうとした。日本による二度目の裏切りを目の当たりにした市来は祖国日本とは訣別、アブドゥル・ラフマン・イチキとして新しい祖国インドネシアの運命に自身のすべてを賭ける決意をした。盟友の吉住留五郎と共にインドネシア独立軍に身を投じ、1949年1月、戦死した。42歳であった。 

 近代日本がその国力を海外へと大きく伸張させるにあたって様々な人々が海外へと渡って行ったが、当然ながら日本のすぐ近隣にある「アジア」なるものをどのように捉え、関わっていくかという問題意識が浮上してくる。ところで、アジア主義という概念には様々な思惑が複雑に錯綜しており、最大公約数的には「アジア」なるものへコミットしていこうという心情的な何かとしか言いようがない。心情的なものとは漠然としたもので、状況次第ではどんな行動をも融通無碍に正当化する口実になってしまう。日本のアジア主義者は「欧米列強に虐げられたアジア諸国を日本が解放する」という物語に沿って行動したが、日本による解放が同時に帝国日本の国益追求と重なったとき、現地社会への思い入れが強ければ強いほど、日本の掲げる偽善は彼の立場を行き詰らせていくことになる。市来はその矛盾から逃れるため、敢えてインドネシア人としてのアイデンティティを引き受けなおした。市来の直面した矛盾を考えたとき、「アジア主義」的な心情のあり方とは、個々の人物の生き様を通してようやくその一端がうかがい知れるという程度にしか糸口はつかめないのかもしれない。

「…市来は観念論的なアジア主義者ではなかった。彼のインドネシア解放理念は、たんなる机上の空論から生まれたものではなく、また“志士”の間での、口角泡を飛ばしての議論の産物でもなかった。それは、十年におよぶインドネシア民衆社会のなかで、とりわけ、あのうらぶれたスメダンのカンポンの一隅で、静かに、だが純度高く培養されてきた、両民族間の赤い血を通わし合った、生活実感と結びついた解放理念であった。そうした意味において、彼のインドネシア解放思想は「民衆が、自生的に、生活の中ではぐくんできた」土俗的な精神、に基づいたものと評することもできるであろう。」(146~147ページ)

|

« 【映画】「ローマ法王の休日」 | トップページ | 林英一『残留日本兵──アジアに生きた一万人の戦後』 »

人物」カテゴリの記事

東南アジア」カテゴリの記事

近現代史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/197828/55425522

この記事へのトラックバック一覧です: 後藤乾一『火の海の墓標──ある〈アジア主義者〉の流転と帰結』:

« 【映画】「ローマ法王の休日」 | トップページ | 林英一『残留日本兵──アジアに生きた一万人の戦後』 »