« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

2012年8月

2012年8月29日 (水)

玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』

玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢──志を継いだ青年たちの物語』(平凡社新書、2012年)

 私はだいぶ以前からアジア主義というテーマに関心を持っていたものの、それを素直に表明できない微妙な居心地の悪さも同時に感じていた。「アジア解放」という大義名分が、かつて日本の国策としての対外的膨張政策に利用された経緯はどうしても否定できず、そこへの慮りを常に意識しなければならないからだ。ただし、「アジア解放」という理想を純粋に信じて生き、そして死んだ人々がいたことも無視できない事実であり、このあたりの複雑な絡まり具合を解きほぐしながら理解していくのはなかなか容易ではない。

 そうした複雑さを体現した人物の一人としてはまず大川周明が挙げられるだろう。彼はクーデター騒ぎに参画するなどアクティヴな活動家であり、またアジア主義のイデオローグとして戦犯指名を受けたため、毀誉褒貶が激しい。他方で、篤実な学者であったことも確かであり、そうした二面的なパーソナリティーを満川亀太郎は「学者としては血があり過ぎ、志士としては学問がありすぎる」と評していた。彼の学問的な先見性はアジア認識という点で認められる。「アジア解放」という理念に目覚めたのは大川がもともとインド哲学を研究していたからであり、憧れのインドが現実にはイギリスの植民地支配下で呻吟していることへのショックが動機だったことは有名な話だ。また、大川から研究上の便宜を受けた井筒俊彦は「彼はイスラムに対して本当に主体的な興味を持った人だった」と語っていたが、近年、大川をイスラム研究の先駆者として評価する声はしばしば見受けられる(例えば、山内昌之、鈴木則夫、宮田律など)。

 アジアと言っても広い。そうした中で大川の関心は東南アジアにもしっかり及んでいたことは本書で知った。大川自身が東南アジア問題にじかに関わったというわけではなく、弟子たちを通して。南方で商人として活躍できる人材の育成を目的に掲げて、東亜経済調査局附属研究所が1938年に開設され、入学した若者たちは所長の大川周明から直接・間接の薫陶を受けた。本書は、この通称「大川塾」を卒業後に南方で活躍した人々からの聞き取りをもとに、第二次世界大戦前後の時期において日本が東南アジアと関わりを持った際の裏面史を描き出している。

 様々なエピソードが紹介される。真珠湾攻撃と同時に発動されたマレー作戦においてタイ国境で活躍。アウンサンをはじめビルマ独立運動の志士に軍事訓練を施した南機関やビルマ独立義勇軍への参加。仏領インドシナの反仏活動家と接触した人もいて、その相手にはクオン・デ、チャン・チョン・キム(日本軍占領下でベトナム首相になった歴史家)、ゴ・ディン・ジェム、ソン・ゴク・タン(カンボジアの反仏活動家)などの名前も見える。チャンドラ・ボース率いるインド国民軍と共にインパール作戦に参加した人もいた。

 彼らの多くは商社員として現地に渡っていたものの、実際には日本軍の作戦行動を補完する役割を果たすことになった。現地語をマスターして土地の人々の中に潜り込んでいた彼らの存在は、見ようによってはスパイである。その点で、大川塾は陸軍中野学校と同類のスパイ学校とみなされることもあったらしい。だが、著者の取材相手の中に、スパイと呼ばれることに強烈な拒否感を露にする人がいたことをどのように受け止めたらいいのか。

 大川周明は塾生たちに「諸君の一番大事な事は正直と親切です。これが一切の根本です。諸君が外地に出られたら、この二つを以て現地の人に対し、日本人とはかくの如きものであるという事を己の生活によって示さなければなりません」と諭していたという。「正直と親切」──陸軍中野学校で教えられていた「謀略は誠なり」という言葉もふと思い浮かべたが、その趣旨はだいぶ違う。謀略は周囲の人に決して気づかれてはならず、場合によっては他人を利用する。そうした点で絶対的に孤独な活動であり、だからこそ自身の活動のよりどころとして求められる超越的な何かが「誠」と表現されていたのだと私は理解している。これに対して、大川の言う「正直と親切」とは、現地の人々と対等な関係を保ち、友人として誠意を尽くす態度である。少なくとも塾生たちはそのように理解していた。

 こうした「正直と親切」に基づくアジア主義は、日本の国策がはらんだ矛盾を敏感に感じ取り、軍部が推進していた作戦至上主義に対して嫌悪感すら抱かせた。大川塾の出身者たちが日本人として驕り高ぶることへの戒めを語るのを本書は拾い上げている。
──「日本人は“われわれの指導のもとに”と考える。だから土地の人と馴染むことができないんです。日本が盟主? それは間違いですよ。」
──「目的があればどんなことをしてもよいのか。しかもその目的ですら当時の日本の為政者即ち軍と官の中でどれだけの人が真剣に考えていただろうか。」
──「日本軍の勝利があって独立があるのだという姿勢には嫌悪感しか覚えなかった。」
──「(ビルマ人を)見下げると、どこか(表)に出てくるんですね。自分より年上でしょう、大学も出ているでしょう? そういう人と会うときは自分がある面では劣っているんだから、同格以上に彼らを立てる。まず日本人ということをかなぐり捨てて、『俺はビルマ人になるんだ』という気持ち。ビルマ人になるなら、みんな先輩ですから。」

 もちろん、彼ら自身が主観的には善意であったとしても、実際の歴史のなりゆきの中で(結果論にしても)占めた位置づけを考えるなら、手放しで礼賛するわけにはいかない。その点はしっかり留意する必要があるが、他方で、「アジア主義」と一括りにされる中でも、様々な想いや動機があったこともきちんと見分けていく必要がある。そうでなければ歴史は不毛なレッテル貼りで終わってしまう。実にアンビバレントでもどかしい作業ではあるが、血の通った理解を目指すなら、やはり歴史の当事者の肉声をできる限り拾い上げていく作業が求められる。存命者も少なくなっていく中、これまであまり知られることのなかった大川塾の実態を、そして出身者たちの抱いた情熱や葛藤を明らかにした本書の仕事はやはり貴重である。そして、異国に身を埋めて生きる覚悟とはどのようなことなのかを考える上でも興味深い。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2012年8月27日 (月)

【映画】「かぞくのくに」

「かぞくのくに」

 1997年の夏。兄のソンホが25年ぶりに故郷へ戻ってきた。父や妹の出迎えを受けても、何を気兼ねしているのか表情が硬い。ところが、実家のある商店街に近づくと、懐かしい景色や空気の一つ一つを確かめるかのように動作は生気を帯び始める。たどりついた実家の前には、なけなしの財産から北朝鮮へ仕送りを続けてくれたオモニの姿。ソンホはいつの間にか胸に着けていた金日成バッジを外していた。せめて故郷にいる間くらいは北朝鮮での苦労をいったんリセットしたいという思いが無意識のうちに働いたのだろうか。

 16歳で北朝鮮に渡航して以来、二度と見ることはないと諦めていた故郷。しかし、これはあくまでも病気の治療のため特別に3ヶ月だけ許可された一時帰国であって、病気の治療もまた「任務」と言い表される。彼の傍らには北朝鮮から派遣された監視員が寄り添う。「祖国」の影を振り払うことはできず、懐かしさを噛み締めるだけの気持ちの余裕はない。

 ソンホには脳腫瘍の疑いがあった。日本の病院で診断を受けたところ、治療には時間がかかるという。しかし、期限は3ヶ月しかない。家族はツテを頼って別の医者を探し、朝鮮総連幹部の父は滞在期間延長を働きかけていた。しかし、家族の努力をあざ笑うかのように、一本の無慈悲な電話連絡で希望は無残に打ち砕かれた。明後日には帰国せよ、という上層部からの一方的な通告。抗うことは許されない。日本で育った妹には全く理解できないが、ソンホは表情も変えずに静かにつぶやく──「あの国はいつもこうなんだ。理由なんかないんだよ」。

 北朝鮮に渡った兄と日本に残った家族──北朝鮮の理不尽で不可思議な政治体制が、血を分けた家族の間に見えない壁を築き上げてしまっている。具体的に指摘するなら、沈黙と諦念。家族にも、学校の同窓生にも、かつての恋人にも、北朝鮮での暮らしについて語ることはできない。口止めされていることがあるだろうし、また言っても理解はしてもらえないという諦めもうかがえる。家族として互いに思いやろうとすればするほど、この見えない壁はますます高く立ちはだかってしまう。

 かつて「地上の楽園」と謳われた「祖国」北朝鮮へ向けて、数多くの在日朝鮮人が海を渡った(ただし、「北」出身者は少数で、「南」の人々が9割を占め、ヤン監督の一家は済州島出身)。日本における差別などの事情で、自分の能力を活かせる形での将来を求めるなら「北」に渡った方が良いという判断は当時としてはやむを得ない部分があったにせよ、その代償はあまりにも過酷であった。

 「帰国事業」を推進していた父に対して、ソンホはわだかまりがあったはずだが、少なくとも口に出して非難することはない。表情や態度に隠し切れないものがあるのははっきりと分かるが、何か言おうとしてもグッとこらえる。父自身が後悔していることはうすうす分かっていたのだろうし、それ以上に、北朝鮮の理不尽な社会システムに順応した結果として、ソンホにはある種の諦念が生活態度として定着してしまっているようだ。こうなってしまっているものは、もう仕方がない…。そこが、言いたいことをはっきり言う妹と対照的に際立つ。

 「あの国ではな、考えると、あたま、おかしくなるんだよ…。考えるとしたら、どう生き抜くか、それだけだ。あとは思考停止…。楽だぞ、思考停止は…。」ソンホは自嘲するように笑う。しかし、すぐ真顔に戻り、妹に向けて言葉をつなぐ。「だけど、お前には考えて欲しいんだ。自分の人生なんだから、よく考えて納得しながら生きて欲しい。」

 ソンホは妹と一緒に買い物へでかけたとき、高価なトランクケースを見かけた。妹が「欲しいんでしょ」と声をかけたが、彼は諦めた。その代わり、妹がそのトランクケースを携える姿を想像するだけで満足した様子である。「お前、それを持って色々な国に行ってこいよ」。

 ソンホは朝鮮総連幹部たる父の希望に従って「祖国」北朝鮮へ渡ったが、それによって他にもあり得た自分の人生の可能性すべてを断念せざるを得なくなった。自分自身の可能性を自分自身で考えながら選んでいくという生き方をできなかった彼は、そうした生き方を妹に託した。妹は当然ながら、自分の人生を生きるだろう。他人の思惑など振り切って。現在の日本社会で彼女を妨げるものはない。ただし、託された立場として、わがままや自分勝手に生きるのとは話がまた違ってくる。それは、苦労し続けなければならない兄への負い目の意識とも違う。いつか自分の考えを兄に話すときを想像したとして、分かってもらえるだろうか、そうした自問自答を常にすることになるだろう。

 映画のラスト、彼女がトランクケースを引きずって歩く姿が映し出されるが、そのトランクの中には、兄の諦めざるを得なかった様々な想いや可能性も一緒に込められているはずだ。政治の壁で引き裂かれたように見える家族でも、このように気持ちの上での何かを託し、託される関係として一緒に生きていくことができる。「かぞくのくに」というタイトルの意義はそうしたあたりから汲み取れるように思った。

 ヤン・ヨンヒ監督はこれまで自身の家族をテーマにドキュメンタリーを撮ってきたが、今回はフィクションとして再構成されている。北朝鮮に渡った兄は実際には3人いたが、エピソードを組み合わせる形でこの映画ではソンホに凝縮されている(それぞれの人柄については、原作とされるヤン・ヨンヒ『兄 かぞくのくに』[小学館、2012年]で思い入れ強く描き出されている)。ソンホ役の(ARATA改め)井浦新のすずやかな表情は、諦念を帯びた愁いを静かに浮かび上がらせているところが実に良い。北朝鮮の監視員役はヤン・イクチュン。主演・監督した「息もできない」での粗暴さとは全く対照的な役柄だが、無表情の裏にある感情的な動きをきちんと感じさせてくれる。

【データ】
監督・脚本:ヤン・ヨンヒ(梁英姫)
出演:安藤サクラ、井浦新、ヤン・イクチュン、宮崎美子、津嘉山正種、他
2011年/100分
(2012年8月26日、テアトル新宿にて)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年8月20日 (月)

小野田寛郎『わが回想のルバング島』、鈴木紀夫『大放浪──小野田少尉発見の旅』

 日本軍の撤退後も連合軍の後方撹乱という任務を帯びた残置諜者としてフィリピンのルバング島に残り、30年間にわたってジャングルの中で戦い続けた小野田寛郎。戦後生まれだが日本社会に居場所を見出せず、1970年前後の時期、ヒッチハイクで世界放浪の旅に出た青年、鈴木紀夫。戦前的価値観で戦い続けている小野田の存在は、鈴木にとって「パンダと雪男と小野田少尉に会うのが夢」と常々語っていたように未知の驚異そのものだった。1974年、鈴木による小野田の発見は、残留日本兵という形で現代社会は戦争をいまだにひきずっていることを改めて浮き彫りにした出来事として話題になった。ただ、そうした問題とは別に、それぞれ立場は異なるものの、現代日本社会においてアウトサイダー的な感性を持った二人の邂逅として捉えてみると意義深いドラマであったようにも感じられる。

 小野田寛郎『わが回想のルバング島』(朝日文庫、1995年/朝日新聞社、1988年)と鈴木紀夫『大放浪──小野田少尉発見の旅』(朝日文庫、1995年/文藝春秋、1974年)の2冊は合わせて読むのが良い。無邪気な鈴木青年、殺気を漲らせて現れた小野田少尉、出会いの瞬間における二人の視点の相違がはっきりと見えてくる。当初は警戒していた小野田はこの開放的で誠実な青年にやがて友情を感じるようになる。そもそも『わが回想のルバング島』は、後にヒマラヤまで雪男を探しに行って遭難死した鈴木に捧げるため執筆されたものだ。

 小野田は陸軍中野学校で宣伝工作を学んでおり、目にした情報はまず疑ってかかるという習慣が身についていた。捜索隊の投降呼掛けに対しても細かな矛盾点を根拠として謀略と判断。「戦争は終わって日本は平和になった」と言われても、ベトナムへ北爆に向かう米軍機がルバング島の上空を飛ぶのを彼は頻繁に目にしていた。「どこが平和だというんだ? 米軍がさかんに出動しているのは、日本軍が反攻に出ている証拠だ」と考える。小野田はルバング島の奥地でも、拾った新聞やトランジスタラジオで情報収集をしており、日本の繁栄ぶりについては知っていた(その点で鈴木は驚いている)。ただし、その日本は米軍の傀儡政権であって、本当の日本政府は満洲の奥地に亡命政権を作って抵抗しているはず、と考えていた。彼は中国勤務経験があり、日本は反共の観点から蒋介石と手を組むはずだという見通しを根拠としていた。

 たとえ情報を得てはいても、皇国不敗の信念から情報認識の再構築を行っていた点はブラジルの「勝ち組」と同様と言えるかもしれない。彼が陸軍中野学校で学んだ宣伝工作の分析力は、与えられた情報を解体することはできても、それを再構築する上で大きなバイアスがかかっていた。そうした意味では意外と役立たなかったのか? 他方で、中野学校では「謀略は誠なり」と教えられてきた。謀略は、その性質からして当然ながら、周囲から理解されない完全な孤独の中で遂行せざるを得ず、自分を超越した何かに価値観的な拠り所を委ねるのでなければ精神的に持ちこたえられるものではない。私利私欲を捨てた「誠」の感覚は、ジャングルで孤立無援の闘いを持続させる支えとなった一方、情報認識の再構築にあたり大きなバイアスとしてかかっていたことも指摘できる。そうした中、鈴木という無防備な青年の図らざる出現によって小野田の呪縛はようやく解かれることになった。

 なお、鈴木紀夫『大放浪』は1970年前後の時期、ヒッチハイクで世界放浪した回想が中心で、小野田少尉発見の経緯が出てくるのは後半。どうでもいいけど、世界のどこへ行ってもホモに狙われる話が出てくる。一般に語られないだけで、バックパッカーの世界放浪ではそういうのが当たり前なのか。

 戦後日本で海外渡航が解禁されたのは1964年のことで、まだ色々条件的に厳しくても鈴木と同様に世界を放浪している日本人の若者も当時から結構たくさんいた。下川裕治『日本を降りる若者たち』(講談社現代新書、2007年→こちら)で取り上げられた「引きこもり」ならぬ「外こもり」と比較しながら読んでみると、当時と現代との気質的な相違も見えてくるかもしれない。「外こもり」の場合、日本社会の内部における日常から逃れても、渡航先でもやはりまったりとした生活時間を送るだけで、言い換えると海外という外部も日常の延長線上にある。鈴木の場合、日本社会における日常から逃れて「パンダと雪男と小野田少尉に会う」という非日常を海外放浪に求めていた。ついでに言うと、小野田の場合には、非日常を自らに与えられた任務として引き受けねばならず、日常などという感覚は最初からなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月16日 (木)

白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇太子──ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』

白石昌也『日本をめざしたベトナムの英雄と皇太子──ファン・ボイ・チャウとクオン・デ』(彩流社、2012年)

 1940年10月29日、フランス植民地当局によってベトナム中部の古都フエで自宅軟禁されていたファン・ボイ・チャウが静かに息を引き取った。日本軍の北部仏印進駐から1ヶ月あまり後のことである。彼はかつてベトナム独立のための支援を日本に求め、ベトナム人の若者を日本へ留学させる東遊運動を積極的に推進した。そうした彼が日本軍進駐の報に接してどのような感慨を抱いたのか気になるところだが、特にコメントを残すことなく世を去った。

 そもそも日本軍の北部仏印進駐とは、第二次世界大戦でフランス本国がナチス・ドイツに屈服した空白状況につけこみ、日本がフランスのインドシナ総督府(ヴィシー政権側)と共同統治を行うという形で進められたものであった(日仏共同統治は1945年3月の明号作戦発動による対仏クーデター、いわゆる「仏印処理」が実施されるまで続く)。どのような事情があるにせよ、アジア解放の大義を掲げた日本人が、まさに追放すべきとしたフランス人と一緒になって植民地支配を行うという矛盾は覆い隠せない。1943年のいわゆる「大東亜会議」にもインドシナ代表はいなかった。「アジア主義」という麗しい理念と現実のパワー・ポリティクスとが心情的には乖離しつつも日本の国策に沿って奇妙に共存しているあり様が、死を間近に控えたファン・ボイ・チャウの目にどのように映っていたのか? 本書で叙述される彼の生涯を見てみると、おそらく複雑な苦々しさが胸中に去来していたであろうことも想像される。

 冷戦という状況下で南北に分断されていたベトナムは、フランスとのインドシナ戦争、アメリカとのベトナム戦争という惨禍を経てようやく統一されたのは1976年のこと。ここに至るまでにベトナム民族運動がたどった長い道のりの中で、日本もまた大きな関わりを持っていた。

 本書は、東遊運動を主導したファン・ボイ・チャウ、彼が民族独立運動のシンボルとするために擁立した阮朝の皇族クオン・デという二人を軸に、20世紀前半における民族運動の動向を通してベトナム近代史を描き出している。彼らが亡命先の日本で有志の支援を受け、とりわけ柏原文太郎、浅羽佐喜太郎、宮崎滔天など善意の人々と出会ったことは特筆に価する。また、同様に亡命者という境遇にあった中国の梁啓超をはじめとしたアジア各地の革命家たちとの出会いからは、独立運動には横の連帯が必要とする「アジア主義」的な思想軸を意識することになった(海外の革命家ばかりでなく、日本の社会主義者も含めて設立された亜洲和親会にファン・ボイ・チャウも関わっている)。

 他方で、その「アジア主義」は日本の国策に利用されることにもなる。日本に期待をかけていたファン・ボイ・チャウは、他ならぬ日本政府がフランス政府の要求に配慮したため追放されてしまった。こうしたダブル・スタンダードは、彼個人の問題を超えて、広く「アジア主義」に付きまとっていた矛盾であったと言えよう。

 ベトナム国内での動向としては、フランスによる愚民化政策から抜け出すために海外への留学を推進し、武力もいとわない急進的な独立運動を目指したファン・ボイ・チャウに対して、ファン・チュー・チンはフランスの支配下であっても徐々に近代化を進め、ベトナムの自立につなげることができるとする改革志向の考え方をしていた。こうした路線上の相違にも関心を持った。

 本書の下敷きとなっている白石昌也『ベトナム民族運動と日本・アジア』(巖南堂書店、1993年)は以前にこちらで取り上げた。ファン・ボイ・チャウについては他にもこちらで何冊か取り上げたことがある。もう一人の主人公、クオン・デについて、森達也『クォン・デ──もう一人のラストエンペラー』(角川文庫、2007年)はこちら。クオン・デと関わりのあったフランス文学者・小松清についてはこちら。また、本書の参考文献に挙げられているファム・カク・ホエ(白石昌也訳)『ベトナムのラスト・エンペラー』(平凡社、1995年)もこちらで取り上げた。 

 本書は「15歳からの「伝記で知るアジアの近現代史」シリーズ」の第1巻。中高生向きにアジア近現代史を新たに説きおろすという趣旨の企画である。ところで、20世紀前半における日本とアジアとの関わりを考える際、対日協力者の存在は無視できない。親日/反日のような座標軸で捉えると不毛になってしまうが、本書はそうしたあたりでバランスが取れており、近現代史を考察する上でのリテラシーを磨くにもちょうど良いと思う。ベトナムも含め東南アジア各国の近代史に関して専門的な研究成果はしっかりと蓄積されているが、一般読者向けにリーダブルな啓蒙書は見当たらなかったので、このシリーズには注目している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

林英一『残留日本兵──アジアに生きた一万人の戦後』

林英一『残留日本兵──アジアに生きた一万人の戦後』(中公新書、2012年)

 第二次世界大戦において「大東亜共栄圏」なるスローガンを掲げて日本は勢力範囲を大幅に拡大させたが、国力を度外視した無謀な壮図はやがて行き詰まり、1945年8月の敗戦と共に帝国は空中分解することになった。動員された日本兵はおびただしい屍をさらし、生き残った者とてすんなり帰ることができたわけではなく、延びきった戦線の各地に取り残された人々も少なくない。終戦後、何らかの事情で出征先の現地(もしくは抑留先の旧ソ連領)に残留した日本兵は1万人はいたであろうと推測されるが、その実態はよく分からない。

 「残留日本兵」と聞いて具体的にはどのようなイメージを思い浮かべるだろうか? ルバング島で発見された小野田少尉、インドネシア独立戦争に身を投じた志士、あるいは中国の山西省で反共の防波堤とすべく意図的に残された日本兵──実に多様で、共通した属性を導き出すのは難しい。本書は資料的に確認できる約100人の個人史的背景を調べた上で、こうした立場も動機も様々な「残留日本兵」の全体像を整理しながら一つの見通しをつけようと試みている。著者はまだ20代の若手だが、これだけの労作をものしていることには、正直、驚いた。

 三つの論点に私は関心を持った。第一に、「軍人であれば下士官・兵のような階級の低い者、軍民関係でいえば居留民のように組織の拘束力が相対的に弱い集団に属している個人のほうが、容易に残留できたのではないか」(38ページ)という論点。

 第二に、アジア各地で国民国家が形を成し始めた1950年代半ばになると、各地の「残留日本兵」の追放が検討されたという指摘。言語や習慣も現地にすっかり馴染んでいたとしても、現地政府の方針や思惑によって日本へ強制送還された場合もあれば、逆に現地社会に溶け込んでいなくても現地政府の都合で市民権を得たケースもある。

 第三に、日本社会に帰還した「残留日本人」の受け止め方の変遷。1950年代初めまでは日本社会自体が敗戦のショックから立ち直っていない時期で、帰還兵もさほど目立たなかった。1950年代半ばから1960年にかけては「戦争の被害者」と同情され、その後は帰還兵も稀になったという事情もあるかもしれないが、1974年に発見された小野田少尉は「戦争の英雄」としてマスコミの寵児になった。当時の日本は高度経済成長の最中だったが、それは他方で物質文化の精神的空虚さを感じ始めていた頃であり、小野田少尉は戦前的な美徳を体現した生き残りとして注目を浴びたものと考えられる。ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」で、中国・山西省に実質的に「棄民」された奥村和一が、不屈の「戦争の英雄」たる小野田少尉に食って掛かるシーンがあるが、ここからは戦後日本社会における「残留日本人」イメージの対照的な相克が浮かび上がっているようにも見えてくる。

 「残留日本兵」はもちろん日本社会だけの問題ではない。各地の現地社会の中で彼らの存在はどのように受け止められていたのか。独立義勇軍に参加した義侠心への感謝もあるだろうし、他方で戦争が続いていると思い込んでいるため現地人への襲撃を繰り返していた者もいた。技術を買われて居残った者もいるし、現地人と家庭を持ってそのまま溶け込んでいった人々も多い。個々それぞれに事情はあるにせよ、現地社会と草の根レベルで直接的な関係を持っていたことは、彼らを通して「日本」なるものが認識されていた側面があったと言える。そうした意味で、広義の「アジア」と日本との生身の関り方を考える上で「残留日本兵」の問題はやはり重要な切り口となり得るだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月15日 (水)

後藤乾一『火の海の墓標──ある〈アジア主義者〉の流転と帰結』

後藤乾一『火の海の墓標──ある〈アジア主義者〉の流転と帰結』(時事通信社、1977年)

 明治以来、日本は「大国」としての地位を高めつつあった一方で、農村の逼迫した状況は相も変わらず、一旗挙げようと海外へ渡って行く人々がいた。家族単位で移住する場合には南米へ向かうルートがあったが、個人単位では南洋へ行くケースが多かったという。本書の主人公、市来竜夫も個人でインドネシアへ向かった一旗組みであった。

 1906年、熊本県に生まれた市来は、没落した生家を再興させたいという一念から1928年にスマトラへ渡った。当時の在留邦人には一等国意識が強く、現地人を見下す傾向があったらしいが、そうした中でも市来は現地人女性と結婚した。体面を気にする在留邦人社会の束縛には嫌気がさし、むしろインドネシア民衆の中で暮らす方が気がまぎれたという。インドネシア語の辞典作りに努めるなど、彼のインドネシア社会への心情的な思い入れは本物だった。ある意味、「現地化」の先駆的存在と言ってもいいだろうか。

 日本とインドネシア、二つの「祖国」への愛情は、双方の関係がうまくいっている分には問題はない。日本がいわゆる「大東亜共栄圏」なるスローガンを掲げて南進を本格化させても、「日本の援助によるアジア解放」という信念として当初は両立が可能だった。実際、市来は1936年に日蘭商業新聞社に入社するが、そこの社長・久保辰二を通じて右翼の大物・岩田愛之助とつながりを持つなど、アジア主義的傾向を強く意識していた。だが、そうした心情的なコミットメントはやがて帝国日本の政治の論理によって翻弄されることになり、二つの「祖国」の相克は市来を苛んでいく。

 太平洋戦争が始まり、オランダ勢力を追い払った日本軍はインドネシアで軍政を敷く。市来もジャワ派遣第十六軍の宣伝班に勤務したが、インドネシア人に対して高圧的な日本の軍人や支配者意識を丸出しにする一般邦人の態度に疎外感を抱くようになった。日本軍の肝煎りでインドネシア現地人を組織化したジャワ郷土防衛義勇軍(ぺタ)に嘱託として入ったが、戦局が押し迫った1944年になると、当初は親日的だった現地人の日本軍に対する反感が高まっているのを肌で感じていた。

 日本軍は現地人をなだめるためインドネシア独立容認を表明したが、1945年8月、日本は無条件降伏する。市来はただちにインドネシア独立に向けた活動を始めるが、日本軍政当局者は連合国を刺激しないようにという配慮からこれまでの独立容認路線を翻し、自分たちは独立運動とは無関係だと表明、ぺタの解散を決定して逆に独立運動を抑え込もうとした。日本による二度目の裏切りを目の当たりにした市来は祖国日本とは訣別、アブドゥル・ラフマン・イチキとして新しい祖国インドネシアの運命に自身のすべてを賭ける決意をした。盟友の吉住留五郎と共にインドネシア独立軍に身を投じ、1949年1月、戦死した。42歳であった。 

 近代日本がその国力を海外へと大きく伸張させるにあたって様々な人々が海外へと渡って行ったが、当然ながら日本のすぐ近隣にある「アジア」なるものをどのように捉え、関わっていくかという問題意識が浮上してくる。ところで、アジア主義という概念には様々な思惑が複雑に錯綜しており、最大公約数的には「アジア」なるものへコミットしていこうという心情的な何かとしか言いようがない。心情的なものとは漠然としたもので、状況次第ではどんな行動をも融通無碍に正当化する口実になってしまう。日本のアジア主義者は「欧米列強に虐げられたアジア諸国を日本が解放する」という物語に沿って行動したが、日本による解放が同時に帝国日本の国益追求と重なったとき、現地社会への思い入れが強ければ強いほど、日本の掲げる偽善は彼の立場を行き詰らせていくことになる。市来はその矛盾から逃れるため、敢えてインドネシア人としてのアイデンティティを引き受けなおした。市来の直面した矛盾を考えたとき、「アジア主義」的な心情のあり方とは、個々の人物の生き様を通してようやくその一端がうかがい知れるという程度にしか糸口はつかめないのかもしれない。

「…市来は観念論的なアジア主義者ではなかった。彼のインドネシア解放理念は、たんなる机上の空論から生まれたものではなく、また“志士”の間での、口角泡を飛ばしての議論の産物でもなかった。それは、十年におよぶインドネシア民衆社会のなかで、とりわけ、あのうらぶれたスメダンのカンポンの一隅で、静かに、だが純度高く培養されてきた、両民族間の赤い血を通わし合った、生活実感と結びついた解放理念であった。そうした意味において、彼のインドネシア解放思想は「民衆が、自生的に、生活の中ではぐくんできた」土俗的な精神、に基づいたものと評することもできるであろう。」(146~147ページ)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月14日 (火)

【映画】「ローマ法王の休日」

「ローマ法王の休日」

 次の法王を選出する、いわゆるコンクラーベ。完全な密室で行われるため、その様子を我々はうかがい知ることはできない。世界中から集まって来た枢機卿たちがバチカンの奥の院へ向けて、朗誦される聖句に合わせ黙々と歩を進めている。その厳かさは、下馬評をもとにマイクを向ける報道陣の俗っぽさを際立たせるかのようにも見えるが、奥の院へ吸い込まれた枢機卿たちの振る舞いや如何に…?

 次の法王が決まればシスティナ礼拝堂の煙突から白い煙が出る。しかし、新法王誕生の瞬間を見ようと集まった人々をじらすかのように、出てくるのは黒い煙ばかり。中では法王の座をめぐって醜悪な権力闘争が繰り広げられているのかと思いきや、この映画に登場する枢機卿たちはみな心の中で祈っている──「主よ、どうか私が選ばれませんように…」。

 投票が何度もやり直された結果、ようやく選出されたのが主人公のメルヴィルであった。いったんは受諾したものの、信徒たちへのお目見えでバルコニーに出る間際、「私には無理だ!」と泣き出して部屋に引きこもってしまう。大慌ての枢機卿たち。鬱病ではないかと疑ったバチカンの報道官は精神科医を呼び入れる。「彼の素性を知らないセラピストに診せる必要がある」と助言されたため報道官が極秘で外に連れ出したところ、メルヴィルは隙を見て逃げ出してしまった。やんごとなきお方がお忍びでローマの街をうろつきまわる。つまり、ローマ法王の休日。麗しきオードリー・ヘップバーンではなく、はげ頭に白髪の残る老人(ミシェル・ピッコリ)ではあるが。

 精神科医が法王を診断するにあたり、報道官から「魂と無意識の相違を認めるか?」と念を押されたり、カウンセリングの質問内容に制限を加えられたり、そもそも信徒の告解を受けるはずの聖職者が精神科医の世話になるということ自体アイロニカルな話である。しかし、そうした風刺に毒はない。コメディとしての面白さを引き立てる調味料的なギャグであって、ことさら挑発的な風刺をしようという意図はないようだ。

 ナンニ・モレッティ監督のカンヌでパルムドールを受賞した前作「息子の部屋」では、息子を事故で失った精神科医である主人公をモレッティ監督自身が演じている。息子が死んだ後になって、彼のことを自分は全然分かっていなかったことに気づき、苦悩するという話だった。今作「ローマ法王の休日」でも精神科医役をやはりモレッティ監督が演じているのがポイントだろう。これはバチカンに対する風刺映画ではなく、理解され得ない孤独という機微に焦点を合わせたヒューマン・ドラマとして観た方が良い。

 法王のお披露目ができないので、枢機卿たちは暇をもてあましている。そこで、精神科医が音頭をとってみんなでバレーボールの試合をやり始め、枢機卿たちは嬉々としてプレーに勤しむ。世間知らずだが無邪気という感じで憎めない。部屋に引きこもった法王をバレーボールの騒ぎで引っ張り出そうというのが精神科医の思惑だったが、そもそも部屋に法王はいない。報道官がごまかしていた。これもひょっとすると、カウンセリング診療は意外と見当違いなことをしているという当てこすりなのかもしれない。

 外のセラピストに会った際、「職業は何ですか?」と聞かれても、まさか「法王です」と正直に言うわけにはいかない。メルヴィルはとっさに「役者です」と答えた。法王が役者、というのも一つの皮肉である。しかし、その後のストーリー展開から、若い頃、彼は本気で役者になりたがっていたことが分かる。

 映画のラストでは実にあっさりとしたどんでん返しを迎えるが、これをどう考えるか。法王の座をいったん引き受けてしまった以上、投げ捨てるのは無責任の極みである。他方で、ローマの街で劇団の人たちと出会い、自分は本当は役者になりたかったことを思い出していた。メルヴィルが法王を辞めた後のことはこの映画からは分からないが、公的な責任として法王を引き受けるのか、自身の人生そのものへの(私的な)責任として別の道(役者)を選ぶのか、そうした揺らぎとして捉えられるだろう。

 メルヴィルは正直な選択をした。だが、それは多くの信徒を悲しませることでもあった。それでも彼は自分の判断を是としたのか、後悔しなかったのか──そこまでは分からない。ただし、最初は責任の重圧がイヤだからという子供じみた理由であった。単なる甘えた逃げ根性に過ぎなかった。しかし、街をさまよった後では違う。役者になりたいという若き日の夢を思い出しており、それは一つの明確な選択であって、消極的な意味での逃げではない。

 いずれにせよ、これはバチカンを風刺した映画ではない。他人は「私」(=メルヴィル)の心の中など知らない。それでも、「私」は自分の納得のゆく決断をしなければならず、それが結果として他人に大きな迷惑をかけることになるかもしれない。そこもひっくるめて責任をとれるのか。そうした寓話としてこの映画は理解できるのではないかと思った。

【データ】
原題:Habemus Papam
監督:ナンニ・モレッティ
2011年/イタリア・フランス/105分
(2012年8月13日、新宿、武蔵野館にて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月10日 (金)

高木俊朗『狂信──ブラジル日本移民の騒乱』、前山隆『移民の日本回帰運動』、他

 来週は8月15日を迎える。67年前、日本の無条件降伏というニュースは地球の裏側にあたるブラジルで、日本とは違った形で大きな波紋を引き起こしていた。第二次世界大戦直後のブラジル日系人社会で、日本の敗北という事実を受け入れた「負け組」(認識派)と、「日本は勝利したはずで、負けたなどと言うのは非国民だ。けしからん!」と怒り狂った「勝ち組」(信念派)との対立が激化、「勝ち組」の臣道聯盟という組織が「負け組」の人々を暗殺するという事態にまで発展してしまった。

 先日、この事件を題材にしたヴィセンテ・アモリン監督の映画「汚れた心」を見て、もう少し詳しいことを知りたいと思ったのだが、原作のFernando Morais“Corações Sujos”はポルトガル語の原書だけしか刊行されておらず、邦訳はおろか英訳もない。このフェルナンド・モライスという人はブラジルでは著名なノンフィクション作家らしく、例えばパウロ・コエーリョの評伝なども書いていて、それは英訳が出ているのだが。日系人の問題ということで日本にも関わりがあるのだから、どこかの版元さんが邦訳を刊行してくれたらありがたい。

 仕方ないので図書館を回ってみたら、「勝ち組」に関する文献は意外とあって、とりあえず下記の4冊に目を通した。

 田宮虎彦『ブラジルの日本人』(朝日選書、1975年)は1960年代にブラジルを旅行した際の紀行文をまとめたもの。ブラジルの日系人社会には戦後になっても「明治の日本」が残っているという率直な驚きが興味深い。また、日本語中心の移民第一世代と、ポルトガル語を使うことの多いブラジル生まれの第二世代との世代間ギャップも観察されている(後述のヴァルガス政権における日本語禁止政策の効果もあった)。こうしたあたり、私がたまたま台湾に関心を抱いていることからの連想に過ぎないが、日本の敗戦を一つの区切りとした上で①戦後台湾に「戦前の日本人」を見出したときの驚き、②世代間における言語的断絶、こうした点で台湾と比較してみたらどのような論点が導き出せるか?という関心も浮かんだ。

 臣道聯盟事件をめぐる全体な背景を知るには太田恒夫『「日本は降伏していない」──ブラジル日系人社会を揺るがせた十年抗争』(文藝春秋、1995年)が読みやすい。臣道聯盟事件をじかに知っている人から聞いた話は田宮『ブラジルの日本人』にも出てくるが、やはり一番面白かったのは高木俊朗『狂信──ブラジル日本移民の騒乱』(ファラオ企画、1991年/角川文庫、1978年/朝日新聞社、1970年)である。

 高木俊朗は戦記文学で知られた作家だが、映画の脚本を書く仕事もしていた。1952年、日系移民をテーマとした映画製作の話を持ちかけられ、監督の小杉勇や女優の霧立のぼる、俳優の大日方伝、藤田進などと一緒にブラジルへ渡る。いざ現地に着いてみると、どうも様子がおかしい。招聘元となった会社の実体が分からないし、いつまで待っても映画製作が始まる気配もない。地元新聞社を訪ねて事情を聞いてみると、自分たちを呼び寄せたのは名うての山師で、どうやら「勝ち組」の重要人物でもあったらしい。結局、映画製作は取りやめとなり、スタッフは帰国したのだが、「勝ち組」のことが気にかかった高木自身はしばらく残って調査を続けた。「日本は勝った」と主張する人物が次々と現われるので彼らから話を聞き取り、資料も集め、「勝ち組」の精神構造はどうなっているのか何とか見当をつけようと努める。不思議な異世界にさまよいこんでしまった中で謎解きをしていくようなスリリングな面白さがあって、この作品はノンフィクションの埋もれた名作だと思う。

1945年の時点でブラジル日系人社会の9割以上が「勝ち組」に近い考え方を持っていたらしい。その多くは素朴に信じ込んでいたようだが、中には高木をだました山師のように胡散臭い輩も暗躍していた。「マスコミは日本が負けたと言っているが、すべて米国の謀略だ。本当は日本が勝ったんだ」ということをもっともらしく話すとみんな喜んでお金を出したので、一つの稼ぎ口となっていた(それを「お賽銭」と表現する人もいた)。彼らの語る時事解説は微妙に現実の出来事を散りばめながら解釈を正反対に持っていくという巧妙なもので、敗北という現実を知りながら確信犯的にやっていたであろうことも推測される。軍人や特務機関員と自称する者が「お国のため」と称して金を巻き上げ、日本から特別使節としてやって来た賀陽宮だと詐称する者までいた。血と汗を以て開拓した土地を、帰国運動にかこつけて巻き上げられてしまった人も少なくない。それでも被害者は「お国のためにやっている」と思い込んでいるので、詐欺罪で訴えようともしない。日本と直接の連絡が難しい時期だったので、そうした有象無象が白昼堂々と動き回っていたあたり、妙にカオティックな印象を受ける。日本の軍艦がやって来るという噂が流れて、奥地に入植していた多数の日系人が港まで出て来て待っているところなど、いかにも新興宗教にありそうなシーンだ。

 当時のラテンアメリカには、例えばアルゼンチンのペロン大佐のようにファシズムに共鳴する政権がいくつか成立していたが、ブラジルのヴァルガス政権もそうした一つであった(ただし、経済関係はアメリカに依存していたため、第二次世界大戦では連合国側に立つ)。国土は広大でエスニシティも多様、言い換えるとバラバラな状態にあったブラジルを一つの同質的な国民国家へまとめ上げようとする意図からヴァルガス大統領はナショナリズムを高揚させる政策を取り、移民には同化を求め、やがて日本語新聞は禁じられる(考え方によっては、国民国家形成を意図してマイノリティーの同化を目指すブラジルのナショナリズムと、同化を拒否し続けた日本人の遠隔地ナショナリズム、二つのタイプのナショナリズムのぶつかり合いという側面も指摘できる)。ポルトガル語の分からない日本人移民たちは情報からシャットアウトされ、これがある種の迷信をはびこらせる一因ともなった。

 簡単に言ってしまうと、「日本は勝った」と信じたい日本人移民たちの願望と、それを利用して金儲けをたくらんだ詐欺師の思惑とが一致してしまったということになる。出所不明の虚報が「事実」と受け止められ、詐欺師たちは商売のカラクリがばれないように虚報をさらに煽り立てる。こうしたマッチ・ポンプが繰り返される中で「負け組」に対する憎悪がふくらんでいき、やがて「勝ち組」による「負け組」暗殺が誘発された。問題はそればかりではない。暗殺事件があまりに多発したためブラジル社会内で日系人に対する感情が悪化し、些細ないざこざがきっかけでブラジル人と日系人との衝突事件まで発生している。

 もちろん、詐欺師が悪い。しかし、詐欺師の言葉を簡単に受け容れてしまうだけの理由が、移民たちの精神構造上の問題としてあったのも確かである。そもそも詐欺師たち自身も半ば本気で信じ込んでいたようにも思われる。報道が「間違っている」のだから、自分たちが「正しく」修正しているだけだという意識だったのかもしれない。「勝ったか負けたかは関係ない。日本が負けたと考えるのは精神的堕落だ」という趣旨の発言があり、当初から現実認識の発想そのものがなかったことが分かる。ここには昭和維新を呼号した人々に見られる「動機オーライ主義」の純粋培養された心性を見出すこともできよう。それこそ、「負け組」のリーダーを射殺する際、五・一五事件で犬養首相を殺害した青年将校のように「問答無用!」と叫んだらしい。

 前山隆『移民の日本回帰運動』(NHKブックス、1982年)はそうした彼ら自身の主観的な受け止め方に注目し、文化人類学者としての視点からアイデンティティー構造の変容過程として日本人移民たちのメンタリティーについて分析を進めている。高木書は読み物として面白かったが、こちらの前山書は高木書の記述も検討事例に含めながら説得的な分析を展開している。

 日本のブラジル移民の多くは、しっかり稼いだ後は帰国して故郷に錦を飾るという考え方だったため、永住するつもりなど全くなかった。そうした客人意識があるため、ポルトガル語を覚えようとはせず、むしろ日本語を忘れてしまうことを恐れていた。ただ、実際には生活は苦しく、故郷に錦を飾るどころではない。帰る目途がたたず無力感に苛まされていると、かえって帰国願望が高まっていく。そうした中から帰国運動が現われ、日本の対外侵略が活発になると「大東亜共栄圏」に共鳴する形で日本の占領地域への再移住を目指す運動も起こった(例えば、海南島へ)。日本敗戦後のいわゆる「勝ち組」もこうした一連の「回帰運動」の延長線上にあり、本書では社会的ストレスを感じたマイノリティー集団に特徴的な「千年王国運動」として捉えている。

 なお、前山書によると、ブラジルの日本人移民は当初、神社を建てなかったそうだ(台湾、朝鮮半島、旧満州、南洋へ進出した日本人が必ず神社を建立したのと対照的である)。それは、自分たちはいずれ日本へ帰る身の上なのでブラジルの流儀を尊重する、という客人意識によるもので、裏返すとまさに日本人意識が強固に残っていた証左である。帰国を諦めて永住を考え始めた頃から神社を作り始め、「勝ち組」の指導層は神職のような立場にすり替わっていく。こうした形での新興宗教の動向もまた移民のアイデンティティー変容という観点から把握することができる。

 彼らの的外れな言動を単なる社会的不適応と嗤うだけでは何の意味もない。挫折感に打ちひしがれても、それでもなおかつ生きていくためには新たなアイデンティティーを形成し直さねばならず、自己の置かれた立場を解釈し直す模索において、傍目には不可解な行動を取ってしまうことがあったとしても不思議ではないだろう。

 強烈な願望があるとき、手持ちの情報を一定のフレームワークに従って都合よく再解釈したくなる心性は一般的によく見られる。「勝ち組」について考えるにしても、彼らの頭の中にかかったフィルターがどのような構造で成り立っているのかを理解することが肝心である。

 第一に、彼らがブラジルへ移住する前に日本で受けていた軍国主義教育が挙げられる。遠く離れた故郷が灰燼に帰したのを目の当たりにすることがなかったため、実体験に基づいた懐疑を持ち得ず、観念のみが温存された。

 第二に、移民としての生活環境上の苦難が大きい。移住の当初は低賃金で苛酷な労働に駆り立てられ、異国の荒涼たる大地を開拓するのは生易しいことではなかった。その過程では多くの近親者や仲間の死を目の当たりにしてきた。また、当時のヴァルガス政権が積極的に推進していた移民の同化政策によってアイデンティティー・クライシスを抱かざるを得なかったであろうし、人種差別的な偏見にもさらされていた。様々に苦しい立場にあった中、日本が法的にブラジルと交戦状態に入ったことは、物理的にも精神的にも孤立感をいやが上にも深めたはずだ。日本が戦争に勝ちさえすれば、自分たちを苛む苦難も終わるはず──そうした願望は単なる空想というレベルを超えて、まさに彼らが生きていく支えとなっていた。見方によっては宗教的な救済願望すら感じられるが、「千年王国運動」との類似という前山書の指摘はまさにそうしたあたりを汲み取ったものである。

 また、「負け組」の人々は、日本の敗戦という事態を正確に認識できるだけのインテリジェンスがあったことから分かるように、ブラジル社会の中でも一定の地位を築いた成功者が中心であった(ブラジル社会で地位を得るにはやはりポルトガル語能力が必須であった)。他方、「勝ち組」には経済的・社会的に不遇をかこつ人々が多かったらしい。

 いずれにせよ、自分たちの置かれた困難な立場を肯定的なものへと反転させたい、そうした願望が「現実」認識を再構成したくなる動機として作用していたことは十分に考えられる。

 日系移民たちが抱いた日本勝利という「信念」は現代の我々からすれば荒唐無稽以外の何物でもない。しかし、以上のことを考え合わせてみると、彼らの心理構造はグローバル化の進んだ現代においても決して過去の問題とは言い切れないのではないか。情報速度が格段に高まったとしても、それを受け止める側の心理的フィルターは、どんな情報であっても自身の納得したい方向で取捨選択しながら再構成を図ろうとするのだから、情報の量や正確さは本質的な問題とはならない。そして、自分が不遇な立場にあるという自覚が強ければ強いほど、自尊心を傷つけるような現実を拒否しようという動機が働き、トートロジカルな根拠に自らの優位性を求めるという罠にはまりやすくなる。そこから生じたコミュニケーション不全の状態は周囲からの拒否感に遇うと態度を硬化させ、いっそうの自縄自縛に陥ってしまう可能性がある。

 そうした意味で、例えばヨーロッパ社会におけるある種のイスラム系コミュニティーなどと比較してみるという論点もあり得るのではないかと感じた。あるいは、問題のレベルはだいぶ違ってくるが、現代日本でもネット上を眺めれば色々とサンプルが見つかるのかもしれない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年8月 7日 (火)

【映画】「汚れた心」

「汚れた心」

 「勝ち組」「負け組」という言い回しが第二次世界大戦直後のブラジル日系人社会に現われていたことは、トリビアルな世界史知識として時折披露されることがある。もちろん、現代日本社会で経済的格差を茶化した意味合いとは全く違う。戦争が終わっても日本は勝ったと信じ続けた人々が「勝ち組」(信念派)、負けたという現実を受け容れた人々が「負け組」(認識派)と呼ばれ、こうした受け止め方の相違は日系人同士の殺し合いにまで発展してしまったという忌まわしい歴史の悲劇があった。

 映画の舞台は1946年のブラジル。写真館を営む高橋(伊原剛志)は、非合法の日本語学校で教師を務める妻ミユキ(常盤貴子)と二人暮らし。高橋も出席した日系人の集会で退役軍人の渡辺大佐(奥田瑛二)が「日本は負けたというデマが流れているが、すべて敵国の策略だから、騙されてはいけない」と檄を飛ばしていたところ、警察の手入れが入り、日の丸が侮辱された。渡辺大佐の煽動で憤った人々は侮辱行為を行った人物の引渡しを求めて警察署へ押し寄せ、逮捕される。尋問の通訳として知り合いの日系人が立ち会っているのを見た彼らは口々に罵る。「貴様はなぜここにいる?」「あなた方を助けようと思って…」「敵に協力するつもりか!」「日本はもう負けたんですよ!」「そんなことを考えるのは、お前の心が汚れているからだ。この非国民め!」──やり取りはかみ合わない。その後、釈放された渡辺大佐は「まず我々の中にいる裏切り者から始末せねばならない」と演説、高橋を呼び止めて軍刀を渡した。一方、ミユキは生徒の一人から「これはどういう意味ですか?」と質問されて絶句する。その生徒のノートに書き込まれていたのは漢字二文字──「国賊」。

 ヴィセンテ・アモリン監督、原作者のフェルナンド・モライスともブラジル人だが、主だった登場人物は日本人。映画上の人物設定はフィクションにしても、原作のFernando Morais“Corações Sujos”は公文書などを精査した上で書かれたノンフィクション作品らしい(読んでみたいのだが、ポルトガル語の原書だけで、邦訳はおろか英訳もなさそうだ)。臣道聯盟という愛国主義団体が「負け組」の指導的人物を暗殺したという事件は実際に起こっており、例えば高木俊朗『狂信──ブラジル日本移民の騒乱』(角川文庫、1978年/ファラオ企画、1991年)に出てくる話と符合するシーンもいくつかあるので、おおむね史実をふまえていると考えて良いのだろう。当時の日系人社会がどのような感じだったのか時代考証的なことは私には分からないが、日本人が見て違和感を覚えるような描写はそれほど多くなかった。綿花栽培の田園風景を映し出す黄昏色の映像に、ストリングス中心のメロディーがかぶさって、悲劇的なストーリーを印象付けている。

 遠方の異国だからこそくっきりと浮かび上がってくる、戦時下における日本人のメンタリティー。負けたと考えること自体が精神的堕落、という極めて主観主義的な発想は、例えば小島毅『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)で指摘された「動機オーライ主義」と同様の問題がうかがえる。暗殺団が組織されるあたり、昭和維新を呼号した右翼団体すら想起されるだろう。

 地球の裏側で、しかも第二次世界大戦においてブラジルは連合国側にまわったので日本との外交関係は途絶、情報がほとんど入ってこない中、ある日突然、日本敗北を知らされた。「神国日本」が敗れるはずはないという強烈な思い込みから「これは虚報ではないか」という願望が芽生え、「本当は日本が勝ったんだ」という流言がはびこり始める。上掲『狂信』によると、原因の一つとして詐欺師まがいの人物による意図的な情報操作もあったらしいが(映画中では、高橋が「日本勝利」というニュースのからくりに疑問を感じたため命を狙われることになる)、問題はそればかりではあるまい。

 強烈な願望があるとき、手持ちの情報を一定のフレームワークに従って再解釈したくなるのはありがちなことだ。むしろ、頭の中にかかったそうしたフィルターをどのように考えたらいいのかが肝心なところだろう。一つには、彼らがブラジルへ移住する前に日本で受けていた軍国主義教育が挙げられる。遠く離れた故郷が灰燼に帰したのを目の当たりにすることがなかったため、実体験に基づいた懐疑を持ち得ず、観念のみが温存された。

 それ以上に考えるべきなのは、彼らの置かれていた境遇である。異国の荒涼たる大地を開拓するのは非常に苛酷な仕事であったと聞く。当時のヴァルガス政権が積極的に推進していた移民の同化政策によってアイデンティティ・クライシスを抱かざるを得なかったであろうし、映画の冒頭にもあったように人種差別的な偏見にもさらされていた。そうした苦しい立場にあった中、日本が法的にブラジルと交戦状態に入ったことは、物理的にも精神的にも孤立感をいやが上にも深めたはずだ。また、「負け組」の人々は日本の敗戦という事態を正確に認識できるだけのインテリジェンスがあったことから分かるようにブラジル社会の中でも一定の地位を築いた成功者が中心であった。一方、「勝ち組」には経済的・社会的に不遇をかこつ人々が多かったらしい。いずれにせよ、自分たちの置かれた困難な立場を肯定的なものへと反転させたい、そうした願望が「現実」認識を再構成したくなる動機として作用していたことは十分に考えられる。

 この映画に描かれた日系移民たちが抱いた日本勝利という「信念」は現代の我々からすれば荒唐無稽以外の何物でもない。しかし、以上のことを考え合わせてみると、彼らの精神状態はグローバル化の進んだ現代においても決して過去の問題とは言い切れないのではないか。情報速度が格段に高まったとしても、それを受け止める側の心理的フィルターは、どんな情報であっても自身の納得したい方向で再構成を図ろうとするのだから、情報の正確/不正確は問題にならない。そして、自分が不遇な立場にあるという自覚が強ければ強いほど、トートロジカルな根拠に自らの優位性を求めるという罠にはまりやすくなる。そうした意味で、例えばヨーロッパ社会におけるある種のイスラム系コミュニティーなどと比較してみるという論点もあり得るのではないかと感じた。

【データ】
原題:Corações Sujos/英題:Dirty Hearts
監督:ヴィセンテ・アモリン
原作:フェルナンド・モライス
2012年/ブラジル/107分
(2012年8月5日、渋谷、ユーロスペースにて)

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2012年8月 1日 (水)

ドラッカーの一つの読み方

 ピーター・ドラッカー『マネジメント──務め、責任、実践』(全4巻、有賀裕子訳、日経BP社、2008年)を通読。ドラッカーの本のうち、自伝である『傍観者の時代』や政治批評的な論文『「経済人」の終わり』『産業人の未来』などはすでに読んでいたが(→こちら)、主著とも言うべき『マネジメント』にはあまり興味がなかったので、ようやくという感じ。ちなみに、話題になった『もしドラ』も読んでいない。

 「マネジメントの神様」ともてはやされたドラッカーだが、彼が企業経営というテーマに関心を寄せたのは戦後のこと。もともとはヨーロッパでジャーナリストとして活躍しており、ナチス政権成立後にアメリカへ移住。理性万能主義に対する懐疑としてのリベラルな保守主義に立脚し、この立場から全体主義を批判する姿勢を持っていたことは、まだジャーナリストとして活動していた戦前・戦中に執筆した『「経済人」の終わり』『産業人の未来』にうかがえる。

 経済発展を通して個人の自由と平等を実現し、その個人は経済関係を通して社会的な位置を占める。こうした個人モデル=「経済人」を前提とした資本主義は、社会的不平等が広がっても、いつかは個人の自由や平等が実現されるはずだという期待があってはじめて成り立っていた。社会全体が生活水準の向上を実感しているうちは良かったが、やがて破綻し、社会的格差は拡大を続ける。人々は幻滅し、そうした反発を吸い寄せたのが、脱経済至上主義的なファシズムや共産主義であったとドラッカーは観察していた。

 戦前社会において既存の資本主義体制が行き詰まりを見せつつあった一方、これらの全体主義は人間ひとりひとりの「自由」を犠牲にすることで成り立つ。第三の道はあり得ないのか?と考えていた中で彼が見出したのが「企業」であった。

 企業は単に金儲けをするための組織ではない。業績をあげるという共通目標の下で、一人ひとりの主体的能動性(=ある意味で「自由」の感覚)や働きがい(=「尊厳」の感覚)を確保しながら、人々の協働的関係を維持していく(=自治的共同体の形成)。

「マネジメントの哲学とはすなわち、ひとりひとりの強みをできるかぎり引き出してその責任範囲を広げ、全員のビジョンと努力を同じ方向へ導き、協力体制を築き、個と全体の目標を調和させるものである」(『マネジメント』第3巻、159ページ)。

 そして、「企業」という協働的組織の中から生み出されていくイノベーションは、その企業自身の利益になると同時に、社会全体の発展に寄与する。以上を踏まえて、企業における協働関係を円滑に進めるための具体的方法論としてマネジメントの技法やマネジャーの役割などが詳細に論じられていく。

 そもそも、『マネジメント』の序文では「専制に代えて」と題して次のように記している。

「組織を柱とした多元的な社会において、かりに組織が責任に裏打ちされた自主性のもとで成果をあげなかったなら、個人は自由や独立を得られず、社会における自己実現も叶わないだろう。自分たちを厳しく縛り、誰も自主性を発揮できない状態を生み出してしまうだろう。陽気に思いのままにふるまうどころか、参加型民主主義さえ葬り、スターリン主義を招くのだ。組織が自主性と強大な力を持ち、成果をあげられる状況が失われたら、それに取って代わるのは専制でしかない。多数の組織が競い合う状況が失われ、絶対的な権力を持ったひとりの人物による支配がはじまる。責任に代わって恐怖が幅を利かせる。官僚機構がいっさいを支配し、すべての組織を取り込む。その機構は財やサービスを生み出しはするが、活動ぶりは不安定で無駄が多く、水準も低い。しかも、辛苦、屈辱、苛立ちなど、途方もない犠牲を伴う。このため、組織を柱とした多元的な社会で自由と尊厳を保つには、組織に自主性と責任を与え、高い成果をあげさせるのが唯一の方法である」(『マネジメント』第1巻、4~5ページ)。

 ドラッカーのマネジメント論の背景にはこうした問題意識があったことは見逃せない。つまり、ドラッカーは多元的な社会において個人の自由と社会的秩序とを媒介する中間団体として企業組織を捉えていた。人間と社会との関係性を考え抜こうとする態度を持っていた点で政治思想史的に彼の考え方を位置づけることもできる。マネジメントの技法としての各論を見るか(つまり、自己啓発的なビジネス書として読むか)、それともこれらの各論の背後に一貫している思想史的問題意識に注目するかで、ドラッカーの読み方はまた違ったものになるだろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »