【映画】「さらば復讐の狼たちよ」
「さらば復讐の狼たちよ」
舞台は1920年の中国、軍閥割拠の混乱状態にあった時代。任地へ赴任途中の馬県令(葛優)が乗った馬列車が山賊に襲われた。馬県令は命乞いのため、山賊の頭目「あばたの張」(姜文)に「自分と入れ替われば荒稼ぎできるぞ」と提案、一緒に赴任先の鵝城へと行く。ところが、そこは阿片密売や人身売買で荒稼ぎしていたマフィアの親玉・黄四郎(周潤發)が牛耳っていた。子供同然にかわいがっていた部下が黄の計略で殺されてしまった張は、わずかな部下を引き連れて、虚虚実実の駆け引きで復讐を狙う──というストーリー。
おおまかに言って二つの観方ができるだろう。娯楽活劇と割り切って観るか。それとも、ストーリーのあちこちに散りばめられた現代中国社会への風刺を読み解いていくか。この映画は中国で大ヒットしたそうだだが、その理由は実は後者にあって、検閲ギリギリのラインで作られているらしい。ギャングの巣食う町に荒くれ者が乗り込んで戦うという筋立てはまるで西部劇のようなノリ。城市のシンボルとなっている中西折衷様式の時計塔はかつて華僑が建てた実在のもので世界遺産にも登録されているという。それから、時折挿入される娼妓のパフォーマンスのシーンで彼女たちが叩いているのはなぜか和太鼓。こうした無国籍的な雰囲気は別世界に仕立て上げているような面白さがあって、風刺的な要素もこれによって中和されているのかもしれない。
社会風刺という点については中国事情に詳しい人なら細かい所で色々と面白いところを指摘できるのだろうが、私が気づいただけでも、例えば…
・マルクス・レーニン主義を中国語では「馬克思・列寧主義」と言うが、冒頭と最後に出てくる馬列車は「馬列」車と読める。つまり、アウトロー的正義としての「あばたの張」たち山賊グループによる既存体制転覆に向けた衝動。その後、県令に象徴される国家システムを乗っ取ったが、一件落着した後、張の若い部下は「上海の浦東へ行くぞ!」と叫びながら馬列車に乗って行き、取り残された張は当惑の表情を浮かべている。当然、ここには改革開放による経済至上主義への路線転換が含意されている。
・馬県令(実は詐欺師)はお金で役職を買い、税を絞りたてて元を取るつもりだったことは政府幹部の汚職を示し、黄四郎という地元ボスの存在は中央政府でもコントロールの難しい「土皇帝」を示している。
・張の部下が計略にはめられて死に至った事件では裁判が偽装されていた。証言者として引っ張られてきた飯屋の主人は、力ずくで偽証を強いられ、黄と張の二人の実力者の間で振り回された挙句、殺されてしまった。立場の弱いものが権力者に怯え、振り回されている姿が見える。
・張が黄の不正義を訴えても住民たちは家に引きこもって様子をうかがっている。張の計略で黄が捕らえられたと知るや、みな一斉に出てきて黄の屋敷へと襲い掛かるシーンには、民衆の付和雷同的性質が描かれている。張と黄の間を右往左往する馬についても同様。
私は1920年という時代設定への興味を改めて感じた。この映画は社会風刺的要素が強いので、中華人民共和国成立以前の1920年という時代設定なら一つのエクスキューズになるという事情もあるが、そればかりでない。「あばたの張」のようなアウトロー的個性を登場させても違和感のない時代が、まさにこの頃だったと言うこともできるのではないか。
中国現代史を見ていていつも息苦しく感じてしまうのは、イデオロギー的枠組みの中で正統性争いを繰り返している不毛さである。1930年代に入ると、日本軍の侵略が激しくなって「抗日」が絶対的正義として正統性が一本に収斂される。戦後の国共内戦において、例えば第三党派的なリベラリストは、共産党か、さもなくば国民党か、という二者択一を迫られて、第三の道はあり得ないという困難に直面する。1949年以降は共産党の絶対性以外は認められなくなった。
もちろん、1920年は軍閥割拠の混乱状況にあって生活の困窮や相次ぐ戦乱に苦しめられ、決して良い時代だったとは言えないし、列強に侵食されていた中国で統一への強い願いがあったことは決して無視できない。ただ、統一的権力がなかったことを裏返すと、思想的多元性の余地もあったということでもある。言い換えると、将来の選択肢をめぐり未萌芽の様々な可能性の模索できる時代でもあったわけで、そうした観点から五四運動や新文化運動を見直してみると面白いだろうな(五四→陳独秀→共産主義というような思想的発展段階で捉える公式史観ではなく)、と以前から思っていた(勉強不足なのだが)。1920年とはまさにそうした時代であった。
「あばたの張」のような「俺は権力者になんか頭を下げないで稼ぎたいんだよ」と言い放つアウトロー的個性をどのように考えるか。民衆のために戦う義賊ならストーリー的にすっきりするのかもしれないが、彼の場合にはあくまでも私的なつながりを優先させる任侠の論理で動いている。そのように正義という普遍性に敢えて収斂させてしまわないキャラクター造型に注目すると、「正しさ」の胡散臭さを嗅ぎ取ったヒーローと捉えることもできるのかもしれない(そうした意味で、彼をアナーキズム的個人主義として捉えた梶ピエール先生の指摘は興味深い→梶ピエールの備忘録「アナーキー・イン・ザPRC」)。
【データ】
原題:譲子弾飛
監督:姜文
音楽:久石譲
2010年/中国/132分
(2012年7月22日、TOHOシネマズ六本木ヒルズにて)
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