【映画】「おおかみこどもの雨と雪」
「おおかみこどもの雨と雪」
人間の女性とオオカミ男の間に生まれた雪と雨。二人は自分が人間なのかオオカミなのか分からないまま。雪は小さな頃から腕白、と言うよりも獰猛な女の子。ところが、小学校に通い始め、クラスの友達と宝物の見せっこをしたら、みんなはかわいらしいものを持ってきたのに、雪の手にあるのは獲物の骨や干物…自分はみんなと違う、と自覚した彼女はそのことを恥ずかしく感じ、これからはおしとやかな女の子になるんだと決意。つまり、他者の視線を意識することで、自然状態→学校→社会化という経路がうかがえる。他方、弟の雨は、田舎に引っ越しても、ヤモリを見てびびってしまい「早く帰りたい…」とつぶやくようなオドオドした臆病者。ところが、山で「先生」(=狐?)と出会い、山のことを知るにつれて、オオカミとしての自覚が強まっていく。このようにそれぞれがアイデンティティの確立を模索し始めることは、同時に二人の親ばなれの徴候でもあり、そこに複雑な戸惑いを感じる母親の姿。そんなところがストーリーの構図。
要するに、獣姦で生まれた子供たちがアイデンティティ・クライシスに悩むという話(笑)なんて言ったら実も蓋もないな。とりあえず、悪くないとは思う。子供たちと母親それぞれの成長譚といった感じで、手に汗握るワクワクドキドキはあまりない。夏休みのファミリー向け映画として上映されているのだろうが、子供だと意外に退屈するのではないか。
私はこの手のアニメ映画を観るとき、ストーリーよりも風景描写にどれだけ手をかけているかに注目するので、その点では満足。冒頭は東京のはずれの国立大学という設定らしいが、建物は明らかに一橋大学。野山を駆け回るシーンにオーケストラの音楽がかぶさったり、なかなか良い。音楽は高木正勝と言う人か。覚えておこう。
細田監督の前作で評判になった「サマーウォーズ」は田舎の町を舞台としたサイバーウォーズという設定だったが、「田舎に帰る」というノスタルジックなモチーフが一つの持ち味だった。今作では、「田舎に帰る」どころか、人目に縛られる都会を脱出→人目のない自然への回帰という母親の願望が一つの軸となり(その後、「温かい村人」たちと新たな関係を結びなおすという筋書きになるが、これは甘すぎる)、そこに上に述べたオオカミか人間か、すなわち雪の「自然→社会」、雨の「社会→自然」という二人それぞれのアイデンティティ・クライシスが絡み合ってくるところがミソ。
しかし、こうやってストーリーを確認しなおしても、オオカミ男に体現された「社会」と「自然」の分裂的共存が、それほど説得的な話として感じられないのはなぜなのだろう。
「自然」に回帰したいと思っても、その生存の厳しさに直面すれば、規則や人目や世間体にがんじがらめになって息苦しい状態が実は既に自分自身の血肉となっており、逃げたいと思っている「社会」の方がむしろ生きやすいという矛盾にようやく気づく。それでも敢えて「社会」を捨てるという決意には、生きるか死ぬかを超えたニヒリズムが必要であって、それほどの凄みがこの映画では見えてこないからか。少なくとも、選択対象として等価のものではない。例えば、岩井俊二監督「リリイ・シュシュのすべて」では、少年が西表島に行って、さっき会った人が事故で死ぬのを見て、自然というのは死も日常的なんだということを感じ取り、それが一種のニヒリズムにつながっていく描写があり、これとどのように比較できるかな、なんてことを考えていた。うまく言葉にまとまらないのだが。
【データ】
監督:細田守
2012年/117分
(2012年7月27日、新宿ピカデリーにて)
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