三浦展『ニッポン若者論──よさこい、キャバクラ、地元志向』
何気なく手に取った三浦展『ニッポン若者論──よさこい、キャバクラ、地元志向』(ちくま文庫、2010年)読了。興味深い論点は色々とあるが、一つ関心を持ったのは、最近のスピリチュアリティ・ブーム、その中でも江原某の影響のようだが、前世に関心を持つ若者たちの分析。要するに、「前世は~だ」と言ってもらうと、自分の予め定まっている運命が分かったような感じがして楽になるらしい。
このあたりの感覚には、最近読んだ土井隆義『友だち地獄──「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書)、『少年犯罪〈減少〉のパラドクス』(岩波書店)でも指摘されていた「自由意志としてではなく、生まれ持った素質で人生はすでに決定済みと納得させてしまう宿命主義的な人生観」と共通する問題点がうかがえて関心を持った。つまり、近代社会は個人レベルの自由選択の幅を広げるように制度的デザインを図ってきたわけだが、それが現在ではアノミー状態を引き起こし、かえって自分が何をしたいのか分からないという戸惑いをもたらしている。
こうした「近代」の逆説について、見田宗介が本書収録の三浦との対談で「再魔術化」を指摘している。つまり、マックス・ヴェーバーはかつて近代社会の世俗化・合理化の進展に伴い、合理的に解釈できないものが解体されていく過程(=脱魔術化)を指摘していたが、合理主義の行き過ぎによる息苦しさが、逆に非合理的なものに引き寄せられていく心性を生み出していく。そうした可能性も実はヴェーバーは分かっていたのだと見田は指摘しており、それはいわゆる「中間考察」論文の次の箇所だろう。『宗教社会学論選』(みすず書房)から引用すると、
「…合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底的になしとげてしまうと、現世は神があたえた、したがって、なんらかの倫理的な意味をおびる方向づけをもつ世界だ、といった倫理的要請から発する諸要求との緊張関係はいよいよ決定的となってくる。なぜなら、経験的でかつ数学による方向づけをあたえられているような世界の見方は、原理的に、およそ現世内における事象の「意味」を問うというような物の見方をすべて拒否する、といった態度を生みだしてくるからである。経験科学の合理主義が増大するにつれて、宗教はますます合理的なものの領域から非合理的なものの領域へと追いこまれていき、こうしていまや、何よりも非合理的ないし反合理的な超人間的な力そのものとなってしまう。」
| 固定リンク
「社会」カテゴリの記事
- ジェームズ・ファーガソン『反政治機械──レソトにおける「開発」・脱政治化・官僚支配』(2021.09.15)
- 岡田晴恵・田代眞人『感染症とたたかう──インフルエンザとSARS』(2020.04.21)
- 藤原辰史『給食の歴史』(2019.01.25)
- 橋本健二『新・日本の階級社会』(2018.03.26)
- 南後由和『ひとり空間の都市論』(2018.02.12)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
これは西部邁が”相対主義→虚無主義”と読んでいたものですよね。興味深い。キャバクラってそういう虚無の中でどんな話も聞いてもらえるという意味で、カトリックの”告白”と似たような効果があるのかもしれませんね。
投稿: Ken | 2012年8月 4日 (土) 08時22分
見方を変えれば、心理カウンセラーみたいなものかもしれませんね(笑)
投稿: トゥルバドゥール | 2012年8月 5日 (日) 00時46分