酒場の喧騒と思想的な闊達さとはすこぶる相性が良いのかもしれない。アルコールが語り部の舌を滑らかにして、面倒くさい議論をいっそう燃え上がらせる。無礼講的な雰囲気が、陽気な者も内気な者も、様々な気質を持ったキャラクターを引き寄せ、フォーマルな場ではあまり見られることのない邂逅から意図せざる着想もきっと浮かんでくることだろう。
1842年、ベルリンのヒッペル酒場でもそうした思想史的ドラマが繰り広げられていた。酒と議論に熱くなっていた面々には、例えばブルーノ・バウアー、アーノルド・ルーゲ、モーゼス・ヘスをはじめ、後世の研究者から学史的に「ヘーゲル左派」と分類されることになる俊英たちの姿も垣間見られる。そうした中、いつもヒッペル酒場の片隅に端然と座り、無頼漢たちが口角泡を飛ばして議論をたたかわせている姿を微笑みながら見守っている人物がいた。礼儀正しい服装、「貴族的」とも形容されるしなやかな手──マックス・シュティルナー(Max Stirner、1806~1856)である。傍らには、ヒッペル酒場のアイドル、マリー・デーンハルト(Marie Dähnhardt、1818~1902)嬢の麗しい姿も見える。まだ25歳だが、好奇心旺盛な彼女はビールを飲み、タバコをくゆらせながら、次にどんな騒動が持ち上がるのかワクワクと待ち構えている。
シュティルナー唯一の肖像画と言われるラフなスケッチを見ると、彼の横顔にはどこか神経質そうなところも感じられる。描いたのは、あのフリードリッヒ・エンゲルス。ロンドンにいたが、兵役義務の関係で1842年当時にはベルリンに戻っており、彼もまたヒッペル酒場に出入りする一人であった。描いたのは1892年だが、半世紀前も昔の記憶を掘り起こしても印象深かったイメージがこれだったのだろう。
ヒッペル酒場に入り浸っていた当時、エンゲルスはオットー・バウアーの弟エドガーと共に「信仰の勝利」というエピグラムを作っており、そこにはシュティルナーも登場する。
いまのところ、まだ彼はビールを飲んでいる
だが──まるで水を飲むように、ブランデーをあおるや
他の連中が声をあらげて「王を倒せ」と叫ぶと、すぐ
シュティルナーはとことんまで突っ走る、「法律もだ!」(大沢正道『個人主義──シュティルナーの思想と生涯』青土社、1988年、71ページ)
喧騒を他人事のように端然とした表情で眺めていた彼も、周囲の雰囲気から煽られると、無頼漢たちも顔負けのラディカルな主張を絶叫するあたり、彼が筆先で展開していた哲学的思索の片鱗もうかがえて興味深い。
マックス・シュティルナーことヨハン・カスパー・シュミット(Johann Kaspar Schmidt)は1806年10月25日、バイロイトに生まれた。吹奏楽器作りを生業としていた父親は、彼が生まれて間もなく亡くなり、幼いシュティルナーは一時期、再婚した母親と共に西プロイセン(現在はポーランド領)のクルムで過ごす。12歳になって再びバイロイトへ戻り、イムホーフ高等学校を卒業。ちなみに、彼のおでこ(Stirn)は人目に目立つ特徴だったらしく、これによって高校の頃につけられたあだ名が、その後のペンネームであるシュティルナー(Stirner)の由来だという。
優等生であった彼はとりわけドイツ観念論哲学にのめりこみ、ベルリン大学の哲学科へ進んだ。しかし、自身の結核や、精神病を発症した母親を抱えていたこともあって、いったん大学を退学せざるを得ず、その後も療養と学業とを往復するうち、学問では身を立てていくことができなくなってしまう。結局、ベルリンで実業学校や女学校の語学教師となった。ヒッペル酒場に通っていたのはこの頃である。最初の妻を早産で失っていたシュティルナーは、ここで出会ったマリー・デーンハルトと1843年に結婚。「自由人」らしい型破りな結婚式は新聞ネタにもなったそうだ。
1844年、代表作『唯一者とその所有』を発表して一定の反響を呼び起こしたものの、生活の困窮は変わらず、マリーとの仲もなかなかしっくりいかなかった。シュティルナーは稼ぎ道を探しているうち、ベルリン市内に牛乳屋が少ないことに目をつけて開業したが、営業の仕方が分からず、結局、大失敗に終わってしまう。家庭的不和は決定的となり、1846年に離婚。シュティルナーはその後も、1852年に『反動の歴史』を刊行するなど文筆活動は続けていたが、世間的にそれほど知名度が高まったわけではない。借金で首が回らなくなって留置所に入れられてしまうほどの困窮生活を過ごす中、1856年6月、ベルリンのアパートの一室で冷たくなっているのが見つかった。毒虫に首を刺されたのが死因だったらしい。50歳であった。
なお、マリーはシュティルナーとの離婚後、イギリスへ渡って家庭教師や通信社の記者などをしていたが、彼女自身も生活が困窮していたようだ。新天地を求めてオーストラリアのメルボルンに渡り、洗濯女の仕事などを転々とした後、日雇い労働者の妻となってようやく落ち着いたらしい。その後、姉の遺産が転がり込み、ようやくロンドンへ戻ったときには80歳になっていた。1897年、シュティルナーの再評価に力を尽していたジョン・ヘンリー・マッケイ(John Henry Mackay、1864~1933)が彼女にインタビューをしたところ、シュティルナーに関してはエゴイスティックでずるい男だったと悪口しか聞けなかったという。
シュティルナー『唯一者とその所有』は、Ich hab' Mein Sach' auf Nichts gestelltという特徴的な一句で始まる。直訳すれば、「僕自身の自己を無の上に置く」となるが、「僕は何ものにも無関心だ」と訳される。これは、実はシュティルナーのオリジナルではなく、ゲーテの詩「空や、空、空なり」の最初の一行であるという。さらに言うと、その一行がそもそも『伝道の書』からの引用であった(大沢、前掲、103ページ)。『伝道の書』は『旧約聖書』の中でもとりわけ無常観が濃厚なことで知られている。ゲーテのつづる言葉の中に、時折、そうした無常観を思わせるフレーズがあることはよく注目されるところだが、こうしたあたりを考え合わせてみても、『伝道の書』を愛読書の一つとしていた辻潤が気質的にも『唯一者とその所有』に好意を持ったであろうことは想像に難くない。
シュティルナーがいわゆるヘーゲル左派に位置づけられることの是非はともかく、若い頃から耽溺してきたヘーゲル哲学の壮大な体系を目の当たりにして、彼自身の生身の感覚がついていけないという違和感を抱くようになった。その違和感を起点とした真摯な対決が『唯一者とその所有』であった。その点では、彼の出発点はあくまでもヘーゲルである。しかし、いかに徹底した論理的鋭さを以てしても、どうにも誤魔化しようのない生身の感覚をどのように考えたらいいのか。明晰なロゴスでも決して捉えきれない、内なるリアリティを感じてしまったとき、それを言い表す的確な言葉を見つけるのは極めて困難である。『唯一者とその所有』という書物に見られる、表現が錯綜した読みづらさは、言い表し難い何かについて言葉をつかみ出そうとするもどかしさの表われと見て良い。
この世における矛盾した諸々の事象から統一的な真実の把握へと突き詰めていく弁証法の鮮やかさは世界認識の強力な武器となり、ヘーゲルの登場以降、例えばマルクスをはじめ彼を批判する者であっても、こうしたヘーゲルの方法論そのものは自家薬籠中のものとした上で自前の論理を築き上げていった。
しかし、それは見方を変えてみると、多様性や特殊性を本当に取り込んだわけではなく、単に切り捨てたからこそ成り立つ認識世界に過ぎなかったのではあるまいか。つまり、理性的主体が自然的事象を征服していくプロセスが、近代を特徴づける合理主義精神と考えられる。そして、この理性的主体なるものは、客体としての自然を征服するだけではない。他ならぬ主体の内に息づく「自我」をも抑圧しようとする。つまり、理性的認識を可能にする「主体」が予め想定されており、その「主体」が、私自身の内なるレベルでいまここに感じ取っているリアリティをも「あるべき」姿へと変形しようとする。そうした抑圧の手段となるのが、言葉=ロゴスである。そこで、私の頭の中でまとわりついて生身のリアリティをもつぶしかねない外在的なロゴスをいかに振り払っていくか、それが『唯一者とその所有』で繰り返されているテーマである。
あらゆる「意味」による拘束を剥ぎ取り、存在のあるがままを見すえようとした思索を推し進めていた点では、ダダとも方向性は同じだったと言えるのかもしれない。そして、辻潤が関心を抱いたのもまさにこの点だったのである。
ロゴスの形姿をまとったあらゆる幻影を振り払ったとき、その果てに見えてくるリアリティとは何か。結局のところ、刻々と移ろいゆく、言葉ではどうにも表現しようのない漠然とした何かをかりそめに「私」とみなして自覚化しているだけであり、そうした一切の「意味」が剥ぎ取られたむき出しの存在としての「私」をシュティルナーは「唯一者」と呼んでいる。
シュティルナー研究の住吉雅美は次のように論じている。
唯一者とは、それ自体にいかなる思想内容も付着させていない、無色透明の名称である。…シュティルナーは唯一者を基本的に言語にかからぬもの、ひいては反概念的で反原理的なものとして強調することによって、合理的公理からの推論によってのみ成り立つ知の体系としての近代西欧哲学に対立し、《反哲学》の立場を明らかにした。このような唯一者をもって、伝統的に主流であったイデアの世界に属する規範概念としての人格による把握が及ばない、個体の感性的実存の重要性を主張したのである。それは、言語的論理の圧力によって《主体》化に巻き込まれようとするその寸前に踏みとどまり、イメージを通しての《主体》化を被る以前の自我形成が開始されておりながら、同時に、視覚的な変換を通してであれ、人間以前に絶対的に存する現実(無、死)と関わりあうことができる段階にあるのである(住吉雅美『哄笑するエゴイスト──マックス・シュティルナーの近代合理主義批判』風行社、1997年165~166ページ)。
言葉で表現することは究極的には困難だが、いま私が確かに感じているリアリティも否定できない。シュティルナーはこのように「主体」意識を解体していく近代哲学批判のプロセスを通して、肉感的な「自我」をつかみ直そうとした。「唯一者」とは、そのように無色透明だが、確固としてある何ものかである。言語的規定の先走りによってかえって我々自身を縛りつけかねない思考的こわばりをイデオロギーと言うが、その凶暴性に振り回されてきたのが近現代史の悲劇であったと考えるなら、こうした肉感的な「自我」というレベルから批判していく視座を確保し得たところに、住吉氏はシュティルナーの思想的意義を見出している。
一人一人の人間は、絶対的に代替不可能な存在である。素直に考えればそうとしか言いようがない。「人間」という一つの概念で括られても、それは単なる言葉に過ぎない。存在するのは一人一人であって、一般論としての「人間」などこの世には存在しない。一回限りの存在なのだから、他人との比較によって自己を規定しようとする努力はそもそもからして無意味なのである(マックス・シュティルナー(片岡啓治訳)『唯一者とその所有』(現代思潮社、1982年、上巻、186ページ)。人間は平等か不平等かという問いも、比較の基準があり得ない以上、前提が間違っているということになる(マックス・シュティルナー(片岡啓治訳)『唯一者とその所有』(現代思潮社、1987年、下巻、238ページ)。
しばしば誤解されがちだが、シュティルナーの偶像破壊的な主張は弱肉強食までも許容するような単なるアナーキスティックな個人主義ではない。善悪是非の問題ではなく、もっと存在論的なレベルを念頭に置きながら考えなおすと納得しやすい。
正体のよく分からない渾沌の中に、私=「唯一者」がぼんやり浮かんでいると考えてみよう。外界との接触面を通して周囲を認識し、関わり合っている。その関り合いには様々なことがあるだろう。決して良いことばかりではない。世俗的な標準から見るとつらいこと、屈辱的なことも多々あるはずだ。しかし、そうした一切を私が認識し、私と関わり合っているという一点において、すべてが自分のもの=所有である。悲喜こもごもどんなことがあろうとも、その都度感じ取っていくことが、すなわち生きるということである。
どういうわけだか分からないにしても私という自覚がここにあり、様々なものが私の周囲にある。結局、自分という現象の一回性を自覚して、自分に与えられた所与の条件の中でひたむきに生き抜くという以外に何の方法論もない。それは、ニーチェ的な意味での「運命愛」に近い考え方かもしれない。ニーチェがシュティルナーを読んでいたかどうかは分からないが、少なくとも思想的親近性を指摘する論者は少なくない。
いずれにせよ、こうしたあたりをシュティルナーは次のようなたとえ話で記している。
花はべつに自己を完成させるとの使命を有しているわけではない。ただ、花は己れの力のすべてを用いて、能うかぎり世界を享受し消尽するだけのことなのだ。すなわち、花は能うかぎり多くの糧を地から吸いあげ、空の空気を吸い、得られ蓄えられるかぎりの光を太陽から吸いとるだけのことなのだ。鳥とても使命に従って生きるわけではない。だがこれもまた、己れに能うかぎりの力を用いて、虫をついばみ、喜びのままにうたいあげるのだ。とはいえ、花の、鳥の力は人間のそれと比べてれば余にも少なく、ゆえに、己れの力を用いる一個の人間は、世界に相い渉るときは、花鳥よりははるかに強力である。人間も何らかの使命を有するものではないが、しかしこの者は、それの存するかぎり自から露われるところの力を有している。(下巻、261ページ)
真の人間とは、未来の内に、憧れの対象としてあるのではなく、この現在に現実に実在しているのだ。私が如何ようにあり、また何者であろうと、喜びにあふれていようと苦しみにみちていようと、子供であろうが老人であろうが、信念のうちにあろうが懐疑のうちにあろうが、眠っていようが目覚めていようが、私はそのものであり、私が真の人間であるのだ。(下巻、262ページ)
われらはすべて完全なのだ。この全世界において、罪人であるような人間は一人たりともいはしないのだ! 己れを父なる神、神の子、また、月世界の人間などと妄想している者もあれば、また同じく、己れを罪人と思いこんでいる愚か者もいくらもうごめいている。だが、前者が月世界の人間ではないのと同ようにして、後者も、断じて──罪人、などでありはしないのだ。その者らの罪とは、想像されたものなのだ。(下巻、312ページ)
辻潤はあるエッセイの中で次の一節を引用していた。ここには不遇のうちにあったシュティルナーの葛藤も込められているだろうし、おそらく、辻自身もまた、不本意な生活の成り行きに対して何とか納得を求めたいと自らを重ねながら読んだのかもしれない。
人は、己れが成りうるところのものに成る。生れながらの詩人も、あるいは不運な事情に妨げられ、時の高みにたつこと、それに欠きえぬ偉大なる学殖をうけてもなお磨きぬかれた芸術作品を創造すること叶はぬかもしれない。とはいえ、この者は、農家の下僕の身にあろうと、またワイマールの王宮に住まうほどに幸福であろうと、かかわりなしに詩をつくるやもしれぬ。(下巻、259ページ)
シュティルナー思想の日本における本格的な紹介は、雑誌『近代思想』(第1巻第12号、1912年)に掲載された大杉栄「唯一者──マクス・スティルナアー論」が最初であろう。さらに、1915年には雑誌『生活と芸術』で辻潤が英訳からの重訳という形で『唯一者とその所有』を部分訳している。『唯一者とその所有』の本格的な翻訳は1920年になってやはり辻潤の訳により日本評論社から前半の第一部「人間篇」が刊行された。その後、日本でちょっとしたシュティルナー・ブームが現われ、ちょうど巻き起こっていた円本ブームとも時期的に重なっていたが、1928年に辻潤訳が『世界大思想全集』(春秋社)に収録され、翌1929年には『社会思想全集』(平凡社)の一冊として生田長江・高橋清訳が、岩波文庫では草間平作訳が登場した。辻訳は英語からの重訳であったが、生田・高橋訳、草間訳はドイツ語原文からの訳出である。戦後になると、片岡啓治による翻訳が現代思潮社から出ている。
ところで、1921年、辻潤訳『唯一者とその所有』の後半にあたる第二部「自我篇」が改造社から刊行されたが、そのときに辻は『自我経』というタイトルをつけている。タイトルだけ見るとまるで仏典である。辻自身の述懐によると、シュティルナーの著作を読み込んでいくにつれ、ある種、東洋的とも言いたくなる感覚を見出したからこのような抹香くさいタイトルを選んだのだという。この頃、武林無想庵が比叡山に山ごもりしていた。その後を追って辻潤も比叡山に登り、一緒に暮らしながら『唯一者とその所有』の翻訳を仕上げていたから、そのあたりの気分もおそらく関わっているのだろう。
『唯一者とその所有』の主要目的はもちろんヘーゲル哲学批判にあった。しかし、近代哲学特有のロゴスを自らの脳裡から振り払いながら、内なる生身のリアリティを浮かび上がらせていく方法的プロセスに、言語化・分節化以前の自覚を促す禅門などと同様のものを感じ取ったとしても決して不思議なことではない。
例えば、辻は自ら訳した『唯一者とその所有』の解説として書かれた「自分だけの世界」で次のように述べている。
この自覚の境地はまたなんとなく「本来の面目」を云々する禅門の悟道の境地と似通っている。僕には仏教の知識が殆ど皆無といってもいいが、それでもスチルネルを読んだ後で禅宗の経典などを読むと自分だけには容易に理解出来るような気がするのである。少々異なってはいるが「創造的虚無」に例の「色空」という字を当てはめて考えてみてもいい。
スチルネルの「所有人」(Eigner)という言葉は彼自身の発明であるように見えるが、「荘子」を読むと(「荘子」はまた僕の昔からの愛読書の一つである)「独有人」という言葉が出て来る。この「独有人」という言葉をそのまま“Eigner”の訳語として借用しても差し支えはなあそうだ。
何人も何人を支配したり命令したりしない状態である。自分の出来ることだけをすればいい。自分の自然の性情や傾向のままに生きればいい。そして出来ないことは他人に任せればよい。自分の能力の領分と他人の能力の領分とをハッキリ意識することである。そして見当ちがいな真似や、余計なオセッカイや、無用な自慢などを相互にしなくなればいいのである。
自分の生きてゆく標準を他に求めないことである。人は各自自分の物尺によって生きようというのである。それ以外にはなんの道徳も標準もないのである(辻潤「自分だけの世界」『絶望の書・ですぺら』講談社文芸文庫、1999年、30~33ページ)。
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