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2012年7月

2012年7月30日 (月)

【映画】「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」

「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」

 1988年、チベット研究者である夫、マイケル・アリス博士と共にオックスフォードで暮らしていたアウンサンスーチーのもとに、母危篤の連絡が入った。看病のため、慌ててビルマへ帰国した彼女は、病院で血まみれの負傷者が次々と担ぎこまれてくるのを目の当たりにする。表に出ると、民主化を求める人々がデモ行進をしていた。中には、かつてビルマ建国の間際、政敵によって暗殺された父・アウンサン将軍の肖像画を掲げている人もいる。平和的なデモに対しても治安部隊が容赦なく銃弾を浴びせかけるのを見た彼女は、このまま祖国に留まる決意をした。

 民主化運動への影響力を恐れた軍事政権はアウンサンスーチーを自宅軟禁に処した。イギリスで暮らす夫や二人の息子と会えなくなってしまった苦悩。やがて夫がガンに侵されていることが分かるが、最後に一目会おうにも、一度出国したら軍事政権は再入国を拒絶することは分かりきっている。夫自身がビルマ訪問の要望を出したが、軍事政権は根拠も明らかにしないまま拒絶を繰り返すばかり。結局、二人は再会がかなわないまま永遠の別れを迎えてしまう。幼い頃に暗殺された父、離れ離れになった夫と子供──「政治」によって翻弄された家族の姿がこの映画のメインテーマとなっている。

 軍事政権の圧迫にも妥協せず、かと言って挑発的な態度も慎み、じっと耐え抜いた不屈の精神。そうした彼女の姿は感動的である。しかし、ドラマチックなストーリー展開として盛り上げる必要からやむを得ないのかもしれないが、この映画の描き方では単なる英雄待望論になってしまう。

 アウンサンスーチーは思想的にガンジーの影響を受けているが(映画の中でも彼女がガンジーの本を読んでいるシーンが時折映し出されている)、非暴力主義だけでなく、Freedom from Fearという考え方が重要である。それは単に軍事政権の圧迫から自由を求めるというレベルにとどまるものではない。無名の人々であってもあらゆる一人ひとりが自らの心の中に萌す恐れの気持ちを克服して、不条理の中でも自らの義務を果たすよう求める「自律」の精神をも意味している(田辺寿夫・根本敬『アウンサンスーチー 変化するビルマの現状と課題』[角川書店、2012年]→こちら)。アウンサンスーチーの場合には、たまたま故アウンサン将軍の娘に生まれたという自らに与えられた立場性から逃れられないことを理解した上で自らの役割を果たそうとしているのであって、それを英雄物語に仕立て上げてしまうと、彼女の意図にそぐわないのではないか。

 迷信的なネウィン将軍、猜疑心の強いタンシュエ将軍たちのいかにも悪役らしい定型的な粗暴さはともかく(ベネディクト・ロジャーズ『ビルマの独裁者 タンシュエ──知られざる軍事政権の全貌』[秋元由紀訳、白水社、2011年]を読むと、実際にそんな感じだったらしい)、映画の演出的必要から仕方ないのかもしれないが、一般の人々について言うとアウンサンスーチーを崇め奉る無知蒙昧な群集にしか見えない(まさにこのようなパターナリズムが今後の問題であると上掲書で根本敬は指摘している)。アウンサンスーチーなど英語を話す人々は理性的存在として描かれる一方、それ以外は背景的存在に押しやられているのが気になる。オリエンタリズムというかつて流行った問題意識が脳裏をよぎった。

 また、軍事政権によって人々が虐げられる姿もところどころ挿入されているが、それはあくまでも受身の立場として軍事政権の粗暴さを示すばかりで、そうした過酷な状況下でも彼らがFreedom from Fearの思想を自覚的に実践しようとした能動的側面までは、少なくとも映画上の演出として見えてこない。一言でいえば、英雄としてのアウンサンスーチーが描かれる一方、民主化運動を担った無名の一人ひとりの存在はオミットされている。

 結局、アウンサンスーチーという悲劇のヒロインを中心に据えた感動的物語を仕立て上げているだけで、民主化運動の思想的意義を考えた上で作られた映画とは言えない。リュック・ベッソンは、アウンサンスーチーの示した思想的課題を完全に無視して映画を作ってしまった。この映画は、ビルマにおける民主化運動の問題とは切り離して、あくまでも引き裂かれた家族愛をテーマにしたメロドラマなんだと割り切って観た方が良い。リュック・ベッソンは娯楽映画だけ作ってればいいんだよ。変にマジメぶるから、こんな勘所を外した映画になってしまう。

 主演のミッシェル・ヨーは、細面だからだろうが、アウンサンスーチーの雰囲気をきちんと出していて悪くない。アウンサンスーチー本人の方が美人だとは思うが。

【データ】
原題:The Lady
監督:リュック・ベッソン
2011年/フランス/133分
(2012年7月29日、新宿、シネマスクエアとうきゅうにて)

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2012年7月29日 (日)

【映画】「おおかみこどもの雨と雪」

「おおかみこどもの雨と雪」

 人間の女性とオオカミ男の間に生まれた雪と雨。二人は自分が人間なのかオオカミなのか分からないまま。雪は小さな頃から腕白、と言うよりも獰猛な女の子。ところが、小学校に通い始め、クラスの友達と宝物の見せっこをしたら、みんなはかわいらしいものを持ってきたのに、雪の手にあるのは獲物の骨や干物…自分はみんなと違う、と自覚した彼女はそのことを恥ずかしく感じ、これからはおしとやかな女の子になるんだと決意。つまり、他者の視線を意識することで、自然状態→学校→社会化という経路がうかがえる。他方、弟の雨は、田舎に引っ越しても、ヤモリを見てびびってしまい「早く帰りたい…」とつぶやくようなオドオドした臆病者。ところが、山で「先生」(=狐?)と出会い、山のことを知るにつれて、オオカミとしての自覚が強まっていく。このようにそれぞれがアイデンティティの確立を模索し始めることは、同時に二人の親ばなれの徴候でもあり、そこに複雑な戸惑いを感じる母親の姿。そんなところがストーリーの構図。

 要するに、獣姦で生まれた子供たちがアイデンティティ・クライシスに悩むという話(笑)なんて言ったら実も蓋もないな。とりあえず、悪くないとは思う。子供たちと母親それぞれの成長譚といった感じで、手に汗握るワクワクドキドキはあまりない。夏休みのファミリー向け映画として上映されているのだろうが、子供だと意外に退屈するのではないか。

 私はこの手のアニメ映画を観るとき、ストーリーよりも風景描写にどれだけ手をかけているかに注目するので、その点では満足。冒頭は東京のはずれの国立大学という設定らしいが、建物は明らかに一橋大学。野山を駆け回るシーンにオーケストラの音楽がかぶさったり、なかなか良い。音楽は高木正勝と言う人か。覚えておこう。

 細田監督の前作で評判になった「サマーウォーズ」は田舎の町を舞台としたサイバーウォーズという設定だったが、「田舎に帰る」というノスタルジックなモチーフが一つの持ち味だった。今作では、「田舎に帰る」どころか、人目に縛られる都会を脱出→人目のない自然への回帰という母親の願望が一つの軸となり(その後、「温かい村人」たちと新たな関係を結びなおすという筋書きになるが、これは甘すぎる)、そこに上に述べたオオカミか人間か、すなわち雪の「自然→社会」、雨の「社会→自然」という二人それぞれのアイデンティティ・クライシスが絡み合ってくるところがミソ。

 しかし、こうやってストーリーを確認しなおしても、オオカミ男に体現された「社会」と「自然」の分裂的共存が、それほど説得的な話として感じられないのはなぜなのだろう。

 「自然」に回帰したいと思っても、その生存の厳しさに直面すれば、規則や人目や世間体にがんじがらめになって息苦しい状態が実は既に自分自身の血肉となっており、逃げたいと思っている「社会」の方がむしろ生きやすいという矛盾にようやく気づく。それでも敢えて「社会」を捨てるという決意には、生きるか死ぬかを超えたニヒリズムが必要であって、それほどの凄みがこの映画では見えてこないからか。少なくとも、選択対象として等価のものではない。例えば、岩井俊二監督「リリイ・シュシュのすべて」では、少年が西表島に行って、さっき会った人が事故で死ぬのを見て、自然というのは死も日常的なんだということを感じ取り、それが一種のニヒリズムにつながっていく描写があり、これとどのように比較できるかな、なんてことを考えていた。うまく言葉にまとまらないのだが。

【データ】
監督:細田守
2012年/117分
(2012年7月27日、新宿ピカデリーにて)

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2012年7月26日 (木)

松島大輔『空洞化のウソ──日本企業の「現地化」戦略』、戸堂康之『日本経済の底力──臥龍が目覚めるとき』、他

 高度成長期の日本企業は低廉な人件費を見込んで労働集約型の分野を中心にアジア展開を拡大させていたが、その限界は早くから指摘されていた(例えば、関満博『フルセット型産業構造を超えて──東アジア新時代のなかの日本産業』中公新書、1993年)。アジア展開を人件費などコスト削減の視点で考える時代は終わり、市場として捉えるのが現在では主流となりつつある。

 そうした中、松島大輔『空洞化のウソ──日本企業の「現地化」戦略』(講談社現代新書、2012年)は、日本企業の海外(とりわけ「新興アジア」)進出は国内の雇用を減らしてしまう(=空洞化)のではなく、むしろ積極的な海外展開を通したイノべーティブな刺激が産業融合をもたらし、国内産業にとってもプラスになる、と主張している。なお、本書で言う「新興アジア」とは主にインドや内陸部インドシナ半島を指しており、中国やインドネシアへの言及は少ない。著者の主な活動舞台がインドやタイにあったというだけでなく、中国~アメリカのモジュラー型に対して、日本はインテグラル型(現場の「カイゼン」→「創発システム型))の点でASEANの方が親和的という論拠も挙げられている。

とりあえず本書で関心を持った論点は、
・新興アジア諸国への「現地化」とは、言い換えると現地のニーズを汲み取りながら生産態勢を仕切りなおすことである。それは日本国内への刺激としてイノベーションが創発される一方で、日本企業自身の再編を促し、さらには日本国内の構造改革にも直結する。(どうでもいいけど、アジア展開による刺激によって日本国内の構造改革を促すというロジックって、どっかで聞いたことあるよなあ。例えば、満州事変を起こした石原莞爾とか)
・今まで日本企業がFDIで展開してきた生産ネットワークの広がりが下からのデファクト・スタンダードとしてASEANにおける経済統合を促してきたという経緯がある→このようにルール作りを日本も率先に立って行っていく必要性。日本的なフォーマットへの標準化により、日本企業が稼げるルール作り。
・生産部門はアジア諸国で「現地化」する一方、日本では企画・調整のための部門を拡充する必要があり、ここに日本での雇用が生まれる。ただし、本書で言う雇用とは企画立案や調整を担うホワイトカラーが中心であり、コアとなる技術関連の生産や波及的な雇用には触れられてはいても、それ以外の雇用形態の人々にどのような恩恵があるのかまではよく分からない。産業構造の変化により「労働」の質がブルーカラーではなく知的労働を重視する方向で大きく変わっているという認識が前提になっており、議論の対象が異なるのかもしれない。その点では「空洞化のウソ」というタイトルは割り引いて読む必要があるだろう。

 それから、戸堂康之『日本経済の底力──臥龍が目覚めるとき』(中公新書、2011年)、『途上国化する日本』(日本経済新聞出版社、2010年)を続けて読了。要点は以下の通り。
・日本には国際競争力の潜在力を持つ企業が多数あるが、情報アクセスの問題があって海外進出の意志なし(臥龍企業)→グローバル化を促す政策の必要。海外進出そのものによる稼ぎよりも、それによって得られる情報にイノべーティブな価値がある。
・研究開発した成果が流出すると、その企業にとってはマイナスだが、社会全体にとってはプラス→企業が研究開発への投資に及び腰にならないよう公的支援が必要。
・産業集積は、対面的なネットワークによって技術や知恵の切磋琢磨や情報交換が行われ、イノべーションが促進される→産業集積を政策的に促進する必要。
・以上を前提としてFTAの推進を主張。

 松島大輔『空洞化のウソ──日本企業の「現地化」戦略』(講談社現代新書、2012年)も、基本的な主張については戸堂書をフォローしている。戸堂書の議論を見ても、企業のグローバル化で国内産業の空洞化は生じず、長期的にはむしろ雇用は安定すると主張しているが、やはり本社における企画立案・調整等のホワイトカラーが念頭に置かれていて、それ以外の雇用形態に関してはむしろ減少するという見立てと読み取れる。

 ついでに関満博の上掲『フルセット型産業構造を超えて』の他、『地域経済と中小企業』(ちくま新書、1995年)、『アジア新時代の日本企業──中国に展開する雄飛型企業』(中公新書、1999年)、『空洞化を超えて──技術と地域の再構築』(日本経済新聞社、1997年)も通読したが、合わせて読むと、ここ20年間においてアジア展開する日本企業の動向が見えてくる。

 関満博は大田区の工場など中小企業の現場を観察した研究成果を出しているが、①産業集積(大田区のように町工場が密集)による技術力向上、②労働集約型事業は人件費の安いアジア諸国に移転するので、日本では「プロトタイプ創出機能」を育成しておく必要がある、という議論を進めていた。

 上記3人の議論から共通点を抽出すると、要するに中小企業の「ものづくり」の現場における技術的イノべーションを促すことで日本の国際競争力を向上させる、という点に収斂する。関書、戸堂書はとりわけ産業集積での創発によるイノベーションに注目している。3人ともアジア展開の必要性を論じる中で、関書(主に中国展開を取り上げる)は現地にも技術移転を進める必要性を指摘する一方、戸堂書における中小企業にもグローバル化を促す主張、松島書における「新興アジア」への「現地化」の主張は、知的創発のつながりを海外へと広げて捉えなおそうとしている。「ものづくり」というとベタな印象を受けるかもしれないが、産業集積における知的創発を重視しているところから考えると、リチャード・フロリダ(井口典夫訳)『クリエイティブ資本論──新たな経済階級(クリエイティブ・クラス)の台頭』(ダイヤモンド社、2008年)で示された、世界がフラット化する中でも都市における創発的な出会いが新たな経済価値を生み出すという議論と実は同様の方向性を持っていると言えるのかもしれない。

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2012年7月23日 (月)

【映画】「さらば復讐の狼たちよ」

「さらば復讐の狼たちよ」

 舞台は1920年の中国、軍閥割拠の混乱状態にあった時代。任地へ赴任途中の馬県令(葛優)が乗った馬列車が山賊に襲われた。馬県令は命乞いのため、山賊の頭目「あばたの張」(姜文)に「自分と入れ替われば荒稼ぎできるぞ」と提案、一緒に赴任先の鵝城へと行く。ところが、そこは阿片密売や人身売買で荒稼ぎしていたマフィアの親玉・黄四郎(周潤發)が牛耳っていた。子供同然にかわいがっていた部下が黄の計略で殺されてしまった張は、わずかな部下を引き連れて、虚虚実実の駆け引きで復讐を狙う──というストーリー。

 おおまかに言って二つの観方ができるだろう。娯楽活劇と割り切って観るか。それとも、ストーリーのあちこちに散りばめられた現代中国社会への風刺を読み解いていくか。この映画は中国で大ヒットしたそうだだが、その理由は実は後者にあって、検閲ギリギリのラインで作られているらしい。ギャングの巣食う町に荒くれ者が乗り込んで戦うという筋立てはまるで西部劇のようなノリ。城市のシンボルとなっている中西折衷様式の時計塔はかつて華僑が建てた実在のもので世界遺産にも登録されているという。それから、時折挿入される娼妓のパフォーマンスのシーンで彼女たちが叩いているのはなぜか和太鼓。こうした無国籍的な雰囲気は別世界に仕立て上げているような面白さがあって、風刺的な要素もこれによって中和されているのかもしれない。

 社会風刺という点については中国事情に詳しい人なら細かい所で色々と面白いところを指摘できるのだろうが、私が気づいただけでも、例えば…
・マルクス・レーニン主義を中国語では「馬克思・列寧主義」と言うが、冒頭と最後に出てくる馬列車は「馬列」車と読める。つまり、アウトロー的正義としての「あばたの張」たち山賊グループによる既存体制転覆に向けた衝動。その後、県令に象徴される国家システムを乗っ取ったが、一件落着した後、張の若い部下は「上海の浦東へ行くぞ!」と叫びながら馬列車に乗って行き、取り残された張は当惑の表情を浮かべている。当然、ここには改革開放による経済至上主義への路線転換が含意されている。
・馬県令(実は詐欺師)はお金で役職を買い、税を絞りたてて元を取るつもりだったことは政府幹部の汚職を示し、黄四郎という地元ボスの存在は中央政府でもコントロールの難しい「土皇帝」を示している。
・張の部下が計略にはめられて死に至った事件では裁判が偽装されていた。証言者として引っ張られてきた飯屋の主人は、力ずくで偽証を強いられ、黄と張の二人の実力者の間で振り回された挙句、殺されてしまった。立場の弱いものが権力者に怯え、振り回されている姿が見える。
・張が黄の不正義を訴えても住民たちは家に引きこもって様子をうかがっている。張の計略で黄が捕らえられたと知るや、みな一斉に出てきて黄の屋敷へと襲い掛かるシーンには、民衆の付和雷同的性質が描かれている。張と黄の間を右往左往する馬についても同様。

 私は1920年という時代設定への興味を改めて感じた。この映画は社会風刺的要素が強いので、中華人民共和国成立以前の1920年という時代設定なら一つのエクスキューズになるという事情もあるが、そればかりでない。「あばたの張」のようなアウトロー的個性を登場させても違和感のない時代が、まさにこの頃だったと言うこともできるのではないか。

 中国現代史を見ていていつも息苦しく感じてしまうのは、イデオロギー的枠組みの中で正統性争いを繰り返している不毛さである。1930年代に入ると、日本軍の侵略が激しくなって「抗日」が絶対的正義として正統性が一本に収斂される。戦後の国共内戦において、例えば第三党派的なリベラリストは、共産党か、さもなくば国民党か、という二者択一を迫られて、第三の道はあり得ないという困難に直面する。1949年以降は共産党の絶対性以外は認められなくなった。

 もちろん、1920年は軍閥割拠の混乱状況にあって生活の困窮や相次ぐ戦乱に苦しめられ、決して良い時代だったとは言えないし、列強に侵食されていた中国で統一への強い願いがあったことは決して無視できない。ただ、統一的権力がなかったことを裏返すと、思想的多元性の余地もあったということでもある。言い換えると、将来の選択肢をめぐり未萌芽の様々な可能性の模索できる時代でもあったわけで、そうした観点から五四運動や新文化運動を見直してみると面白いだろうな(五四→陳独秀→共産主義というような思想的発展段階で捉える公式史観ではなく)、と以前から思っていた(勉強不足なのだが)。1920年とはまさにそうした時代であった。

 「あばたの張」のような「俺は権力者になんか頭を下げないで稼ぎたいんだよ」と言い放つアウトロー的個性をどのように考えるか。民衆のために戦う義賊ならストーリー的にすっきりするのかもしれないが、彼の場合にはあくまでも私的なつながりを優先させる任侠の論理で動いている。そのように正義という普遍性に敢えて収斂させてしまわないキャラクター造型に注目すると、「正しさ」の胡散臭さを嗅ぎ取ったヒーローと捉えることもできるのかもしれない(そうした意味で、彼をアナーキズム的個人主義として捉えた梶ピエール先生の指摘は興味深い→梶ピエールの備忘録「アナーキー・イン・ザPRC」)。

【データ】
原題:譲子弾飛
監督:姜文
音楽:久石譲
2010年/中国/132分
(2012年7月22日、TOHOシネマズ六本木ヒルズにて)

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2012年7月22日 (日)

金賛汀『北朝鮮建国神話の崩壊──金日成と「特別狙撃旅団」』

金賛汀『北朝鮮建国神話の崩壊──金日成と「特別狙撃旅団」』(筑摩選書、2012年)

 思想的な淵源を少なくとも公式見解としてはマルクス・レーニン主義に求めている「共産主義」国家での三代世襲という異様な光景は悪い冗談としか言いようがないが、そんな当たり前なことを今さらあげつらっても仕方がない。金日成の権威の絶対性は日本の植民地支配から朝鮮人民を解放したという公式歴史観として表現されており、金正日への後継にはその抗日戦争の最中に白頭山で生誕したという神話性が装われていた。そうした延長線上に現在の金正恩体制がある。

 何よりも金日成が自力で抗日戦争を戦い抜いたことがナショナリズムとしての正統性の根拠となっている。しかし、実際には金日成たちは日本軍の掃討戦に持ちこたえられずソ連に逃げ込んでいた。再び朝鮮半島に戻ってきたのは日本降伏後の1945年9月になってからのことで、元山港に密かに降り立った彼はソ連の軍服を着ていた。所属は「極東ソ連軍第88特別狙撃旅団」。当然ながら彼のバックにソ連の意向があった。もちろん、自力で「日本帝国主義」を倒したわけではない。そうした経緯は北朝鮮における公式文書では一切隠されてきた。

 本書は、当時の金日成を知る人々からの聞き書きによって、北朝鮮の現体制を根拠づけてきた「建国神話」を突き崩していく。著者自身、かつて朝鮮総連の活動家であったことから自身が騙されてきたことへの怒りが本書執筆の原動力となっているが、そうした作業は「神話」にすがって生きている人々にとっては死活問題であり、著者は朝鮮総連からだいぶ嫌がらせを受けたらしい。

 抗日戦争時の金日成について空白が多いことは以前から知られていたことなので本書を読んだからといって特別に驚くようなことはないが、キーパーソンへのインタビューに至る経緯など本書の成立過程そのものも描きこまれているところが興味深い。例えば、金日成の権力掌握過程で起こった苛烈な粛清を逃れた兪成哲は思いのたけを述べる。あるいは、中国共産党幹部の陳雷(後に黒龍江省長)と結婚して中国に残った李敏(黒龍江省政治協商会議副議長)は、身分的にはエリートである以上、中国共産党の上層部の諒解を受けなければならないはずだが、そうした彼女までも本書のインタビューに協力していることには、中国側も北朝鮮のいびつな現状に不快感を抱いているであろうことがうかがわれる。

 かつては同盟国を慮って北朝鮮「建国神話」に協力してきた中ソ両国だが、ソ連崩壊によってロシアにおける金日成関連史料は明るみに出されており、改革開放以降の中国でも事情は同様である。こうしたあたり、「建国神話」の是非以前に、北朝鮮を取り巻く国際環境そのものが大きく変わったことが改めて実感される。

 なお、余談だが、ソ連の所属部隊でソ連系朝鮮人は「さん」「同志」といった意味合いで互いに「ガイ」と呼んでいたらしい。もともとはピョンヤン近辺で「犬」とか「奴」とかの意味で、ソ連上層部と直結するソ連系朝鮮人に対する侮蔑的な意味で使われていたが、ソ連系朝鮮人自身はそうとは知らずに使っていたそうだ。後に北朝鮮の副首相となったものの粛清された許哥誼(ホガイ)は、まさに「許ガイ」をそのまま名前にしてしまったらしい。ホガイについてはアンドレイ・ランコフ(下斗米伸夫・石井知章訳)『スターリンから金日成へ──北朝鮮国家の形成 1945~1960年』(法政大学出版局、2011年→こちら)などを参照のこと。

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2012年7月17日 (火)

木宮正史『国際政治のなかの韓国現代史』

木宮正史『国際政治のなかの韓国現代史』(山川出版社、2012年)

 冷戦構造において南北分断という形で成立した韓国と北朝鮮は、悲願の南北統一に向けてどちらが主導権を握るのか、互いに自国の政治的正統性を主張して競争しあう関係にあった。1940年代において両者のスタートラインはほぼ同じ、むしろ日本の植民地統治期に形成された重工業は北部に偏り、南部は貧しい農村地帯であったことを考えると北朝鮮の方が有利だったとすら言えるわけだが、現在では韓国の圧倒的な優位となっていることは周知の通りである。

 なぜこれほどまでに差が開いていったのか? 同盟の地政学的要因や指導者の個性など色々な理由が考えられるにせよ、政治体制のあり方が決め手となっているのは間違いない。本書は韓国現代政治史の概論的内容となっているが、適宜、北朝鮮との比較についても指摘される。①冷戦から脱冷戦への移行、②採用された経済発展戦略の相違、③権威主義体制・開発独裁体制から民主主義体制・市場経済への移行という三点に焦点を合わせながら、韓国政治がたどってきた動向を分析し、その中から韓国が優位に立った要因について考察が進められる。

 様々な要因がからまっているので結論的に言うのは難しいが、本書は構造的な要因として次の三点を指摘している。

 第一に、北朝鮮が「自力更生」路線を掲げ自らの「主体」性を強調していたのに対し、韓国は国際経済との連携を経済発展戦略として採用した点が挙げられる。とりわけ朴正熙政権は北朝鮮と比べて軍事的・経済的に劣勢にあるという認識を持っていたため、経済発展によって体制競争に勝とうとした。それは国際市場への輸出というだけでなく、同盟国アメリカからの援助、さらに日本との国交正常化によって経済的資源の移転を促し、そうしたリソースを活用しながら輸入代替工業化と輸出指向型工業化を両立させる複線型発展モデルが進められた。国際分業体制への参入によるメリットを享受する一方、一時期は海外への従属的関係に陥った面もあったにせよ、「自力更生」路線の北朝鮮とは異なり、その後の飛躍的な経済発展につながるバネとなった。

 第二に、北朝鮮が「一つのコリア」にこだわったのに対し、韓国は1970年代以降、南北分断という現状認識から出発すべきという「二つのコリア」政策を取り、蓄積された経済力も相俟って、その後の北方外交の展開、中ソとの国交正常化、南北国連同時加盟といった外交的成果を収めることができた。他方で、北朝鮮側の外交的成果ははかばかしくない。

 第三に、指導者の世襲による全体主義的体制を取る北朝鮮が「遺訓」によって政策的オプションに大きな制約がかけられている一方で、政権交代が常態化した韓国では政策変更に対する正当性の取り付けが比較的容易であった。それは、かつてはクーデタによる政権交代という異常な形を取ることもあったが、1987年にそれまでの権威主義体制から本格的な民主主義体制へと移行してからは選挙による政権交代がすでに制度化されている。また、権威主義体制の内部でも政策変更はしばしば実行されていた。

 こうした両国の対称性は、政治制度のあり方そのものが国民の運命についても明暗を分けてしまうことを改めて感じさせる。1970年代の段階では両者のパワー・バランスにそれほどの開きがなく、対話路線の可能性も見られた。しかし、その後は両者の格差は拡大するばかりで、北朝鮮は建前として「統一」を掲げる一方、韓国主導の吸収統一を避けて現体制の生き残りを目指す方向で政策目標が再設定されたと考えられる。金大中政権の宥和政策も、李明博政権の比較的強硬な政策もいずれも奏功しなかった背景にはそうした事情があるようだ。 

 なお、関心を持った点をいくつかメモしておくと、
・近年における李承晩の再評価の傾向:①植民地近代化論への反論として、李承晩政権期の国家資本主義を再評価。②北朝鮮に対して韓国が完全に優位に立った現時点から見ると、李承晩の単独政府樹立という選択は間違っていなかった。③李承晩政権と朴正熙政権とを同じ保守政権として連続的・段階的に理解する位置づけ。
・朴正熙政権の独裁や人権弾圧にもかかわらず彼の評価が高いのは、「ナショナリスト」としての側面。彼は、「反日」ナショナリズムではなく、「用日」「克日」ナショナリズム→韓国の国益のために日本を利用するというリアリスティックな思考で一貫していた。
・日韓国交正常化をめぐる日韓双方の相違:日本での反対運動は「脱植民地化」に向けられず、「冷戦」へ巻き込まれることへの懸念が中心だった。対して韓国では冷戦体制に組み込まれていることは自明なのでこの点は問題視されず、「植民地責任」が清算されないままで日本へ従属化してしまうという点で批判。

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2012年7月16日 (月)

唐亮『現代中国の政治──「開発独裁」とそのゆくえ』

唐亮『現代中国の政治──「開発独裁」とそのゆくえ』(岩波新書、2012年)

 比較政治論の枠組みにおいて現代中国が模索している近代化の方向性を「開発独裁路線」と位置づけ、政治体制の構造的な特徴を分析。その上で、台湾や韓国における権威主義体制がやがて民主化へと進んだ前例を念頭に置きながら、ある意味で発展段階説的な観点から、中国でも徐々に進展していくはずの民主化について考察を進めるのが本書の基本的な論調となっている。

 社会的矛盾や政治的不満は、高度経済成長路線によって何とか抑え込まれているのが現状であり、今後、民主化するにしても、それがソフトランディングになるのか、ハードランディングになるのかは、経済開発政策と社会政策とがうまくかみ合った形で進むかどうかにかかっている。中間層が民主化の推進力となるとするリプセット仮説について、中国の中間層は共産党支配体制の恩恵をこうむっているのだから当てはまらないのではないか、という議論もあるが、本書では中国の中間層も中長期的には成熟するはずだと肯定的な捉え方をしている。

・近代化の三つのモデル:①経済発展最優先の段階(社会秩序安定のため自由と権利を制限)、②社会政策強化の段階、③民主化推進の段階→中国では、毛沢東時代の全体主義は①、鄧小平による改革開放以降は権威主義体制の②に変容していると本書は位置づける。台湾や韓国の経験を踏まえると、中国も今後は③の民主化の段階へ進むはずである、というのが本書の全体的な論旨。
・「法の支配」が確立していない問題。司法の独立、裁判官の独立、専門主義と職業倫理のいずれにおいても欠陥が大きい。近代化の進展に伴って人々の利益要求が強まり、利益対立や社会衝突が頻発。しかし、司法制度や法意識の改善が進んでいないので、共産党が​政治的手段で抑え込もうとする。一時的には社会秩序の安定化はできるかもしれないが、そうした政治介入はかえって司法の権威の確​立を妨げているというジレンマ。ただし、長期的には法治国家への建設は少しずつ進んではいると指摘。
・社会主義は平等と公平を理念とする一方で、現実には経済格差が拡大。
・国有企業では経営重視の方針によって雇用制度、報酬制度、医療・年金制度の改革→労使関係において経営者が絶対的な優位に立ち、都市部労働者は特権が奪われて社会的弱者に転落。中小企業は民営化され、経営者は人員整理。
・機会の不平等。とりわけ、農民への不当な差別。エリートの特権と腐敗。
・維権活動の展開、その動員力として新興メディア。「群体性事件」の頻発や新興メディアによる速報性→弾圧コストの増大→集団抗議活動に対して地方政府が譲歩するケースも増えている。
・政府の強い介入で農地の収用や住民の立ち退き→各級政府は十分な経済補償を行わないで強制的に収用した土地を活用、経済特区や公共インフラの整備ばかりでなく、転売による莫大な財政収入。環境問題をめぐる住民運動の頻発。
・開発政策と社会的弱者の保護とをどのように両立させるのか?という課題。
・上からの政治改革戦略。政治改革≒民主化と経済改革は同時にすべきか、どちらかを先行させるのか? 政治改革の三つの次元:①民主化、つまり一党支配体制を解体、普通選挙、複数政党制、言論と報道の自由、権力の分立、文民統制など欧米型政治制度の導入。②緩やかな自由化、つまり政治統制力の確保を前提としながら社会の活性化を図る。③政府改革。かつてのソ連におけるショック療法が①→②→③という順番だったとしたら、中国における漸進路線は③→②→①という順番。②の段階についてなら、政府内改革派と民主化勢力穏健派との連携は可能。
・一党支配体制や保守的な改革路線を正当化するため、「中国式民主主義」という主張→社会主義の優越性という論理は説得力が薄れてきているので、集団主義など伝統文化論の主張もよく見られる。コーポラティズムや討議デモクラシーなどの概念も用いるが、欧米とは条件が異なる。
・中間層が民主化の担い手になるというリプセット仮説は中国にも当てはまるか?→現時点で中国の中間層は未熟ではあるが、将来的に成熟して民主化の推進力になる可能性を指摘。
・市場化、グローバル化、情報化、自由化が進む中、中国政府も一党支配体制を維持するため時代的潮流に合わせて制度改革を進める必要に迫られている。中長期的に見て、民主化が進むとして、それは「軟着陸」か「硬着陸」か?→1989年の天安門事件当時と比べると、現在では民主化のための「初期条件」は進展しているが、不十分な点も多い。社会的矛盾や政治的不満は経済成長によって緩和されている側面があり、経済の失速が早いと「追い込まれた民主化」という「硬着陸」の可能性が高まるが、近代化が順調に進めば「軟着陸」できるかもしれない。

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2012年7月 8日 (日)

星乃治彦『赤いゲッベルス──ミュンツェンベルクとその時代』

星乃治彦『赤いゲッベルス──ミュンツェンベルクとその時代』(岩波書店、2009年)

・ヴィリー・ミュンツェンベルクは貧しい家庭に生まれ、見習い奉公に出たが、社会主義サークルに入ったの機に運動を始め、解雇された。放浪の末、スイスへ行き、1915年にはベルンの青年会議でインターナショナル書記となり、この頃、レーニンと出会う。レーニンがチューリッヒに移転した後もしばしばプライベートで彼を訪問した。

・なお、トリスタン・ツァラ(塚原史訳)『ムッシュー・アンチピリンの宣言──ダダ宣言集』(光文社古典新訳文庫、2010年)所収の著者による解説はツァラ小伝となっているが、チューリッヒ時代のレーニンはダダの拠点となっていたキャバレー・ヴォルテールに出入りしており、ツァラとも出会っていたことが指摘されており、塚原の解説によるとレーニンをキャバレー・ヴォルテールに誘ったのはミュンツェンベルクだったという。

・ミュンツェンベルクはインターナショナル青年書記として活躍した際にモスクワのコミンテルン中央の押し付け方針に反発して衝突した一方、彼の才覚はレーニンから認められていたため、当時、飢饉に見舞われていたロシアへの救援を求めるキャンペーンを任された。この仕事をきっかけにミュンツェンベルクは大衆メディアを駆使した宣伝活動を効果的に展開したことが、「赤いゲッベルス」というあだ名の由来である。

・従来の新聞が教養層を対象としていたのに対し、彼が1921年11月に創刊した『イラスト労働者新聞』は、ページ数を少なくし、価格も安く抑えた。イラストや写真をふんだんに入れて視覚に訴える構成で、ジョン・ハートフィールドのような新鋭スタッフを使って、モンタージュ技法など最新技術も駆使。共産主義の宣伝だけでなく、スポーツ記事や「月の世界はどうなっている」といった教養的な内容で、労働者の知的好奇心を満たす内容とした。この『イラスト労働者新聞』を足がかりにして有力な雑誌や新聞を傘下におさめ、ワイマール共和政においてドイツ出版界で右派のフーゲンベルクに次ぐ、第二の左翼出版コンツェルンを構築した。

・なお、モンタージュはベルリン・ダダが多用した技法であり、ハートフィールドもベルリン・ダダの一人である。彼はヘルムート・ヘルツフェルトという名前のドイツ人だが、戦時下、政府への反逆の意図を込めて英語風に名乗った。彼はベルリン・ダダであると同時にドイツ共産党に入党していたことから分かるように、既存秩序への反逆という意識において、初期の共産主義はダダを含めたアヴァンギャルド芸術と共存が可能であった。

・ヴィリーの構築した「ミュンツェンベルク・コンツェルン」は共産党に依存しない独自の存在となった。彼の企業経営スタイルは共産主義者というよりもアメリカのビジネスマンのような感じだったらしく、「赤い億万長者」と陰口もたたかれたようだ。そうした彼の「右派」的傾向はソ連中央の方針に合うものではなかったが、他方でヴィリーの財政力はソ連にとっても無視できず、またソ連における穏健な経済政策の時代とも重なっていた。

・ナチスの政権掌握に伴い、彼はパリに亡命。ナチスの焚書→ドイツ人亡命者たちが焚書にされた著作を積極的に集めようとした「ドイツ自由図書館」の創設にヴィリーも加わった。反ファシズム運動に尽力。ドイツ人民戦線を作り上げようという運動をパリで行うが、他方、プラハでは彼のライバルのウルブリヒトが同じ運動を展開していた。人民戦線を戦術的にしか捉えないウルブリヒト派と人民戦線を目的の一つと捉えるヴィリー派との対立。ドイツ共産党議長テールマンなき後の党内抗争において両者の対立は激化。

・1937年、『武器としての宣伝』を出版→ナチスの宣伝活動の斬新さや弱点を分析。しかし、この著作の中でスターリンなど党指導者への言及がほとんどなかったため、共産党から批判を受ける。ソ連における大粛清を目の当たりにして、コミンテルンの召還にためらい。ウルブリヒトの策動→ヴィリーは孤立→共産党から除名。

・1940年、ドイツ軍のフランス侵攻→逃亡中のヴィリーの死体が見つかる。自殺か、他殺(ソ連諜報機関説、ゲシュタポ説)か、死因はよく分からないが、本書では自殺説を採用。

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三浦展『ニッポン若者論──よさこい、キャバクラ、地元志向』

 何気なく手に取った三浦展『ニッポン若者論──よさこい、キャバクラ、地元志向』(ちくま文庫、2010年)読了。興味深い論点は色々とあるが、一つ関心を持ったのは、最近のスピリチュアリティ・ブーム、その中でも江原某の影響のようだが、前世に関心を持つ若者たちの分析。要するに、「前世は~だ」と言ってもらうと、自分の予め定まっている運命が分かったような感じがして楽になるらしい。

 このあたりの感覚には、最近読んだ土井隆義『友だち地獄──「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書)、『少年犯罪〈減少〉のパラドクス』(岩波書店)でも指摘されていた「自由意志としてではなく、生まれ持った素質で人生はすでに決定済みと納得させてしまう宿命主義的な人生観」と共通する問題点がうかがえて関心を持った。つまり、近代社会は個人レベルの自由選択の幅を広げるように制度的デザインを図ってきたわけだが、それが現在ではアノミー状態を引き起こし、かえって自分が何をしたいのか分からないという戸惑いをもたらしている。

 こうした「近代」の逆説について、見田宗介が本書収録の三浦との対談で「再魔術化」を指摘している。つまり、マックス・ヴェーバーはかつて近代社会の世俗化・合理化の進展に伴い、合理的に解釈できないものが解体されていく過程(=脱魔術化)を指摘していたが、合理主義の行き過ぎによる息苦しさが、逆に非合理的なものに引き寄せられていく心性を生み出していく。そうした可能性も実はヴェーバーは分かっていたのだと見田は指摘しており、それはいわゆる「中間考察」論文の次の箇所だろう。『宗教社会学論選』(みすず書房)から引用すると、

「…合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底的になしとげてしまうと、現世は神があたえた、したがって、なんらかの倫理的な意味をおびる方向づけをもつ世界だ、といった倫理的要請から発する諸要求との緊張関係はいよいよ決定的となってくる。なぜなら、経験的でかつ数学による方向づけをあたえられているような世界の見方は、原理的に、およそ現世内における事象の「意味」を問うというような物の見方をすべて拒否する、といった態度を生みだしてくるからである。経験科学の合理主義が増大するにつれて、宗教はますます合理的なものの領域から非合理的なものの領域へと追いこまれていき、こうしていまや、何よりも非合理的ないし反合理的な超人間的な力そのものとなってしまう。」

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2012年7月 5日 (木)

マックス・シュティルナーと辻潤

 酒場の喧騒と思想的な闊達さとはすこぶる相性が良いのかもしれない。アルコールが語り部の舌を滑らかにして、面倒くさい議論をいっそう燃え上がらせる。無礼講的な雰囲気が、陽気な者も内気な者も、様々な気質を持ったキャラクターを引き寄せ、フォーマルな場ではあまり見られることのない邂逅から意図せざる着想もきっと浮かんでくることだろう。

 1842年、ベルリンのヒッペル酒場でもそうした思想史的ドラマが繰り広げられていた。酒と議論に熱くなっていた面々には、例えばブルーノ・バウアー、アーノルド・ルーゲ、モーゼス・ヘスをはじめ、後世の研究者から学史的に「ヘーゲル左派」と分類されることになる俊英たちの姿も垣間見られる。そうした中、いつもヒッペル酒場の片隅に端然と座り、無頼漢たちが口角泡を飛ばして議論をたたかわせている姿を微笑みながら見守っている人物がいた。礼儀正しい服装、「貴族的」とも形容されるしなやかな手──マックス・シュティルナー(Max Stirner、1806~1856)である。傍らには、ヒッペル酒場のアイドル、マリー・デーンハルト(Marie Dähnhardt、1818~1902)嬢の麗しい姿も見える。まだ25歳だが、好奇心旺盛な彼女はビールを飲み、タバコをくゆらせながら、次にどんな騒動が持ち上がるのかワクワクと待ち構えている。

 シュティルナー唯一の肖像画と言われるラフなスケッチを見ると、彼の横顔にはどこか神経質そうなところも感じられる。描いたのは、あのフリードリッヒ・エンゲルス。ロンドンにいたが、兵役義務の関係で1842年当時にはベルリンに戻っており、彼もまたヒッペル酒場に出入りする一人であった。描いたのは1892年だが、半世紀前も昔の記憶を掘り起こしても印象深かったイメージがこれだったのだろう。

 ヒッペル酒場に入り浸っていた当時、エンゲルスはオットー・バウアーの弟エドガーと共に「信仰の勝利」というエピグラムを作っており、そこにはシュティルナーも登場する。

いまのところ、まだ彼はビールを飲んでいる
だが──まるで水を飲むように、ブランデーをあおるや
他の連中が声をあらげて「王を倒せ」と叫ぶと、すぐ
シュティルナーはとことんまで突っ走る、「法律もだ!」(大沢正道『個人主義──シュティルナーの思想と生涯』青土社、1988年、71ページ)

 喧騒を他人事のように端然とした表情で眺めていた彼も、周囲の雰囲気から煽られると、無頼漢たちも顔負けのラディカルな主張を絶叫するあたり、彼が筆先で展開していた哲学的思索の片鱗もうかがえて興味深い。

 マックス・シュティルナーことヨハン・カスパー・シュミット(Johann Kaspar Schmidt)は1806年10月25日、バイロイトに生まれた。吹奏楽器作りを生業としていた父親は、彼が生まれて間もなく亡くなり、幼いシュティルナーは一時期、再婚した母親と共に西プロイセン(現在はポーランド領)のクルムで過ごす。12歳になって再びバイロイトへ戻り、イムホーフ高等学校を卒業。ちなみに、彼のおでこ(Stirn)は人目に目立つ特徴だったらしく、これによって高校の頃につけられたあだ名が、その後のペンネームであるシュティルナー(Stirner)の由来だという。

 優等生であった彼はとりわけドイツ観念論哲学にのめりこみ、ベルリン大学の哲学科へ進んだ。しかし、自身の結核や、精神病を発症した母親を抱えていたこともあって、いったん大学を退学せざるを得ず、その後も療養と学業とを往復するうち、学問では身を立てていくことができなくなってしまう。結局、ベルリンで実業学校や女学校の語学教師となった。ヒッペル酒場に通っていたのはこの頃である。最初の妻を早産で失っていたシュティルナーは、ここで出会ったマリー・デーンハルトと1843年に結婚。「自由人」らしい型破りな結婚式は新聞ネタにもなったそうだ。

 1844年、代表作『唯一者とその所有』を発表して一定の反響を呼び起こしたものの、生活の困窮は変わらず、マリーとの仲もなかなかしっくりいかなかった。シュティルナーは稼ぎ道を探しているうち、ベルリン市内に牛乳屋が少ないことに目をつけて開業したが、営業の仕方が分からず、結局、大失敗に終わってしまう。家庭的不和は決定的となり、1846年に離婚。シュティルナーはその後も、1852年に『反動の歴史』を刊行するなど文筆活動は続けていたが、世間的にそれほど知名度が高まったわけではない。借金で首が回らなくなって留置所に入れられてしまうほどの困窮生活を過ごす中、1856年6月、ベルリンのアパートの一室で冷たくなっているのが見つかった。毒虫に首を刺されたのが死因だったらしい。50歳であった。

 なお、マリーはシュティルナーとの離婚後、イギリスへ渡って家庭教師や通信社の記者などをしていたが、彼女自身も生活が困窮していたようだ。新天地を求めてオーストラリアのメルボルンに渡り、洗濯女の仕事などを転々とした後、日雇い労働者の妻となってようやく落ち着いたらしい。その後、姉の遺産が転がり込み、ようやくロンドンへ戻ったときには80歳になっていた。1897年、シュティルナーの再評価に力を尽していたジョン・ヘンリー・マッケイ(John Henry Mackay、1864~1933)が彼女にインタビューをしたところ、シュティルナーに関してはエゴイスティックでずるい男だったと悪口しか聞けなかったという。

 シュティルナー『唯一者とその所有』は、Ich hab' Mein Sach' auf Nichts gestelltという特徴的な一句で始まる。直訳すれば、「僕自身の自己を無の上に置く」となるが、「僕は何ものにも無関心だ」と訳される。これは、実はシュティルナーのオリジナルではなく、ゲーテの詩「空や、空、空なり」の最初の一行であるという。さらに言うと、その一行がそもそも『伝道の書』からの引用であった(大沢、前掲、103ページ)。『伝道の書』は『旧約聖書』の中でもとりわけ無常観が濃厚なことで知られている。ゲーテのつづる言葉の中に、時折、そうした無常観を思わせるフレーズがあることはよく注目されるところだが、こうしたあたりを考え合わせてみても、『伝道の書』を愛読書の一つとしていた辻潤が気質的にも『唯一者とその所有』に好意を持ったであろうことは想像に難くない。

 シュティルナーがいわゆるヘーゲル左派に位置づけられることの是非はともかく、若い頃から耽溺してきたヘーゲル哲学の壮大な体系を目の当たりにして、彼自身の生身の感覚がついていけないという違和感を抱くようになった。その違和感を起点とした真摯な対決が『唯一者とその所有』であった。その点では、彼の出発点はあくまでもヘーゲルである。しかし、いかに徹底した論理的鋭さを以てしても、どうにも誤魔化しようのない生身の感覚をどのように考えたらいいのか。明晰なロゴスでも決して捉えきれない、内なるリアリティを感じてしまったとき、それを言い表す的確な言葉を見つけるのは極めて困難である。『唯一者とその所有』という書物に見られる、表現が錯綜した読みづらさは、言い表し難い何かについて言葉をつかみ出そうとするもどかしさの表われと見て良い。

 この世における矛盾した諸々の事象から統一的な真実の把握へと突き詰めていく弁証法の鮮やかさは世界認識の強力な武器となり、ヘーゲルの登場以降、例えばマルクスをはじめ彼を批判する者であっても、こうしたヘーゲルの方法論そのものは自家薬籠中のものとした上で自前の論理を築き上げていった。

 しかし、それは見方を変えてみると、多様性や特殊性を本当に取り込んだわけではなく、単に切り捨てたからこそ成り立つ認識世界に過ぎなかったのではあるまいか。つまり、理性的主体が自然的事象を征服していくプロセスが、近代を特徴づける合理主義精神と考えられる。そして、この理性的主体なるものは、客体としての自然を征服するだけではない。他ならぬ主体の内に息づく「自我」をも抑圧しようとする。つまり、理性的認識を可能にする「主体」が予め想定されており、その「主体」が、私自身の内なるレベルでいまここに感じ取っているリアリティをも「あるべき」姿へと変形しようとする。そうした抑圧の手段となるのが、言葉=ロゴスである。そこで、私の頭の中でまとわりついて生身のリアリティをもつぶしかねない外在的なロゴスをいかに振り払っていくか、それが『唯一者とその所有』で繰り返されているテーマである。

 あらゆる「意味」による拘束を剥ぎ取り、存在のあるがままを見すえようとした思索を推し進めていた点では、ダダとも方向性は同じだったと言えるのかもしれない。そして、辻潤が関心を抱いたのもまさにこの点だったのである。

 ロゴスの形姿をまとったあらゆる幻影を振り払ったとき、その果てに見えてくるリアリティとは何か。結局のところ、刻々と移ろいゆく、言葉ではどうにも表現しようのない漠然とした何かをかりそめに「私」とみなして自覚化しているだけであり、そうした一切の「意味」が剥ぎ取られたむき出しの存在としての「私」をシュティルナーは「唯一者」と呼んでいる。

 シュティルナー研究の住吉雅美は次のように論じている。

唯一者とは、それ自体にいかなる思想内容も付着させていない、無色透明の名称である。…シュティルナーは唯一者を基本的に言語にかからぬもの、ひいては反概念的で反原理的なものとして強調することによって、合理的公理からの推論によってのみ成り立つ知の体系としての近代西欧哲学に対立し、《反哲学》の立場を明らかにした。このような唯一者をもって、伝統的に主流であったイデアの世界に属する規範概念としての人格による把握が及ばない、個体の感性的実存の重要性を主張したのである。それは、言語的論理の圧力によって《主体》化に巻き込まれようとするその寸前に踏みとどまり、イメージを通しての《主体》化を被る以前の自我形成が開始されておりながら、同時に、視覚的な変換を通してであれ、人間以前に絶対的に存する現実(無、死)と関わりあうことができる段階にあるのである(住吉雅美『哄笑するエゴイスト──マックス・シュティルナーの近代合理主義批判』風行社、1997年165~166ページ)。

 言葉で表現することは究極的には困難だが、いま私が確かに感じているリアリティも否定できない。シュティルナーはこのように「主体」意識を解体していく近代哲学批判のプロセスを通して、肉感的な「自我」をつかみ直そうとした。「唯一者」とは、そのように無色透明だが、確固としてある何ものかである。言語的規定の先走りによってかえって我々自身を縛りつけかねない思考的こわばりをイデオロギーと言うが、その凶暴性に振り回されてきたのが近現代史の悲劇であったと考えるなら、こうした肉感的な「自我」というレベルから批判していく視座を確保し得たところに、住吉氏はシュティルナーの思想的意義を見出している。

 一人一人の人間は、絶対的に代替不可能な存在である。素直に考えればそうとしか言いようがない。「人間」という一つの概念で括られても、それは単なる言葉に過ぎない。存在するのは一人一人であって、一般論としての「人間」などこの世には存在しない。一回限りの存在なのだから、他人との比較によって自己を規定しようとする努力はそもそもからして無意味なのである(マックス・シュティルナー(片岡啓治訳)『唯一者とその所有』(現代思潮社、1982年、上巻、186ページ)。人間は平等か不平等かという問いも、比較の基準があり得ない以上、前提が間違っているということになる(マックス・シュティルナー(片岡啓治訳)『唯一者とその所有』(現代思潮社、1987年、下巻、238ページ)。

 しばしば誤解されがちだが、シュティルナーの偶像破壊的な主張は弱肉強食までも許容するような単なるアナーキスティックな個人主義ではない。善悪是非の問題ではなく、もっと存在論的なレベルを念頭に置きながら考えなおすと納得しやすい。

 正体のよく分からない渾沌の中に、私=「唯一者」がぼんやり浮かんでいると考えてみよう。外界との接触面を通して周囲を認識し、関わり合っている。その関り合いには様々なことがあるだろう。決して良いことばかりではない。世俗的な標準から見るとつらいこと、屈辱的なことも多々あるはずだ。しかし、そうした一切を私が認識し、私と関わり合っているという一点において、すべてが自分のもの=所有である。悲喜こもごもどんなことがあろうとも、その都度感じ取っていくことが、すなわち生きるということである。

 どういうわけだか分からないにしても私という自覚がここにあり、様々なものが私の周囲にある。結局、自分という現象の一回性を自覚して、自分に与えられた所与の条件の中でひたむきに生き抜くという以外に何の方法論もない。それは、ニーチェ的な意味での「運命愛」に近い考え方かもしれない。ニーチェがシュティルナーを読んでいたかどうかは分からないが、少なくとも思想的親近性を指摘する論者は少なくない。

 いずれにせよ、こうしたあたりをシュティルナーは次のようなたとえ話で記している。

花はべつに自己を完成させるとの使命を有しているわけではない。ただ、花は己れの力のすべてを用いて、能うかぎり世界を享受し消尽するだけのことなのだ。すなわち、花は能うかぎり多くの糧を地から吸いあげ、空の空気を吸い、得られ蓄えられるかぎりの光を太陽から吸いとるだけのことなのだ。鳥とても使命に従って生きるわけではない。だがこれもまた、己れに能うかぎりの力を用いて、虫をついばみ、喜びのままにうたいあげるのだ。とはいえ、花の、鳥の力は人間のそれと比べてれば余にも少なく、ゆえに、己れの力を用いる一個の人間は、世界に相い渉るときは、花鳥よりははるかに強力である。人間も何らかの使命を有するものではないが、しかしこの者は、それの存するかぎり自から露われるところの力を有している。(下巻、261ページ)

真の人間とは、未来の内に、憧れの対象としてあるのではなく、この現在に現実に実在しているのだ。私が如何ようにあり、また何者であろうと、喜びにあふれていようと苦しみにみちていようと、子供であろうが老人であろうが、信念のうちにあろうが懐疑のうちにあろうが、眠っていようが目覚めていようが、私はそのものであり、私が真の人間であるのだ。(下巻、262ページ)

われらはすべて完全なのだ。この全世界において、罪人であるような人間は一人たりともいはしないのだ! 己れを父なる神、神の子、また、月世界の人間などと妄想している者もあれば、また同じく、己れを罪人と思いこんでいる愚か者もいくらもうごめいている。だが、前者が月世界の人間ではないのと同ようにして、後者も、断じて──罪人、などでありはしないのだ。その者らの罪とは、想像されたものなのだ。(下巻、312ページ)

 辻潤はあるエッセイの中で次の一節を引用していた。ここには不遇のうちにあったシュティルナーの葛藤も込められているだろうし、おそらく、辻自身もまた、不本意な生活の成り行きに対して何とか納得を求めたいと自らを重ねながら読んだのかもしれない。

人は、己れが成りうるところのものに成る。生れながらの詩人も、あるいは不運な事情に妨げられ、時の高みにたつこと、それに欠きえぬ偉大なる学殖をうけてもなお磨きぬかれた芸術作品を創造すること叶はぬかもしれない。とはいえ、この者は、農家の下僕の身にあろうと、またワイマールの王宮に住まうほどに幸福であろうと、かかわりなしに詩をつくるやもしれぬ。(下巻、259ページ)

 シュティルナー思想の日本における本格的な紹介は、雑誌『近代思想』(第1巻第12号、1912年)に掲載された大杉栄「唯一者──マクス・スティルナアー論」が最初であろう。さらに、1915年には雑誌『生活と芸術』で辻潤が英訳からの重訳という形で『唯一者とその所有』を部分訳している。『唯一者とその所有』の本格的な翻訳は1920年になってやはり辻潤の訳により日本評論社から前半の第一部「人間篇」が刊行された。その後、日本でちょっとしたシュティルナー・ブームが現われ、ちょうど巻き起こっていた円本ブームとも時期的に重なっていたが、1928年に辻潤訳が『世界大思想全集』(春秋社)に収録され、翌1929年には『社会思想全集』(平凡社)の一冊として生田長江・高橋清訳が、岩波文庫では草間平作訳が登場した。辻訳は英語からの重訳であったが、生田・高橋訳、草間訳はドイツ語原文からの訳出である。戦後になると、片岡啓治による翻訳が現代思潮社から出ている。

 ところで、1921年、辻潤訳『唯一者とその所有』の後半にあたる第二部「自我篇」が改造社から刊行されたが、そのときに辻は『自我経』というタイトルをつけている。タイトルだけ見るとまるで仏典である。辻自身の述懐によると、シュティルナーの著作を読み込んでいくにつれ、ある種、東洋的とも言いたくなる感覚を見出したからこのような抹香くさいタイトルを選んだのだという。この頃、武林無想庵が比叡山に山ごもりしていた。その後を追って辻潤も比叡山に登り、一緒に暮らしながら『唯一者とその所有』の翻訳を仕上げていたから、そのあたりの気分もおそらく関わっているのだろう。

 『唯一者とその所有』の主要目的はもちろんヘーゲル哲学批判にあった。しかし、近代哲学特有のロゴスを自らの脳裡から振り払いながら、内なる生身のリアリティを浮かび上がらせていく方法的プロセスに、言語化・分節化以前の自覚を促す禅門などと同様のものを感じ取ったとしても決して不思議なことではない。

 例えば、辻は自ら訳した『唯一者とその所有』の解説として書かれた「自分だけの世界」で次のように述べている。

この自覚の境地はまたなんとなく「本来の面目」を云々する禅門の悟道の境地と似通っている。僕には仏教の知識が殆ど皆無といってもいいが、それでもスチルネルを読んだ後で禅宗の経典などを読むと自分だけには容易に理解出来るような気がするのである。少々異なってはいるが「創造的虚無」に例の「色空」という字を当てはめて考えてみてもいい。

スチルネルの「所有人」(Eigner)という言葉は彼自身の発明であるように見えるが、「荘子」を読むと(「荘子」はまた僕の昔からの愛読書の一つである)「独有人」という言葉が出て来る。この「独有人」という言葉をそのまま“Eigner”の訳語として借用しても差し支えはなあそうだ。

何人も何人を支配したり命令したりしない状態である。自分の出来ることだけをすればいい。自分の自然の性情や傾向のままに生きればいい。そして出来ないことは他人に任せればよい。自分の能力の領分と他人の能力の領分とをハッキリ意識することである。そして見当ちがいな真似や、余計なオセッカイや、無用な自慢などを相互にしなくなればいいのである。

自分の生きてゆく標準を他に求めないことである。人は各自自分の物尺によって生きようというのである。それ以外にはなんの道徳も標準もないのである(辻潤「自分だけの世界」『絶望の書・ですぺら』講談社文芸文庫、1999年、30~33ページ)。

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