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2012年6月 7日 (木)

下川裕治『日本を降りる若者たち』『「生き場」を探す日本人』

 私自身はタイへ行ったことはない。興味はあるのでいずれ行ってみたいと思ってはいるのだが、なかなかその機会を得ないままだ。

 タイについてまず思い浮かぶイメージは、「微笑みの国」に漂う穏やかさ。ある種のいい加減さが規律正しい日本人には理解できず、ビジネスでトラブルになるという話もよく聞くが、他方でそれをギスギスしていない「ゆるさ」と捉えて居心地良く感じる日本人もいる。同じ社会に対してであっても人によってこのように受け止め方が違ってくるのは、各々の人自身が背景として負っている日本社会への感じ方の相違と考えることもできるだろう。

 下川裕治『日本を降りる若者たち』(講談社現代新書、2007年)に登場する若者たちはみんなどこか不器用だ。生真面目だが繊細で傷つきやすい性格は、決して否定されるようなものではない。ただ、日本で会社勤めをしていても周囲と馴染めなかった彼らは、たまたま訪れたタイに、自分の居場所を見出した。

 日本で一気に稼ぎ、お金が尽きるまでタイで暮らす。タイの物価は安いとはいえ、資金を長持ちさせるために切り詰めた生活は決して優雅ではない。日本ではイヤイヤ働き、タイに到着した途端、気分が晴れやかになる。しかし、タイで何か特別なことをしているわけでもない。安宿やアパートでゲームをしたり、道端でぼんやりビールを飲んだり。日本人同士でつるんで話が盛り上がっても、派遣で行く工場の賃金や労働条件の話。

 日本社会の生きづらさを嫌悪、タイのゆるやかな生活へと逃避した人びとの姿。ひきこもり、ならぬ「外こもり」である。彼らの反応をうかがっていると、日本社会の姿もまた逆照射される形で浮かび上がってくる。仕事も生活もスムーズな軌道に乗っていれば何の問題も感じないが、いったん軌道から外れてしまった場合、周囲から不寛容なまなざしにさらされる生きづらさ。日本社会のエアポケットにはまってしまった苦しさから脱出したい、そうしたもがきがうかがえる。しかし、タイに行ったからといって問題が解決されるわけでもなく、不安を抱えたまま生きていかざるを得ないのではあるが。そうしたあたり、どうにも切なく感じてしまう。自分自身もスピンアウトしたらこうなるのかと、どこか他人事ではない気がして。

 上掲書が若者を取り上げているのに対して、下川裕治『「生き場」を探す日本人』(平凡社新書、2011年)が焦点を合わせるのは、現地駐在の途中で敢えて転換を図った中堅社会人や、老後の第二の人生を考えるリタイア組など。景気が落ち込み閉塞感も漂う日本社会に見切りをつけ、成長著しいアジアへと活路を見出したシニアたち。

 彼らとて必ずしも成功しているわけではないが、やる気満々なところに上掲書の若者たちとの対照的な印象を受けるのは、やはり世代的な問題なのだろうか。しかし、どんな生き方をしようと人それぞれ。他人の人生に良い悪いの判断を下すなんて本来的にはできない。彼らがそれぞれに悩みながらもこうした生き方をしている。時に共感しつつも、距離を置いて淡々と描き出している落ち着いたバランスが、下川さんの筆致の良いところだろう。

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