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2012年6月22日 (金)

篠田英朗『「国家主権」という思想──国際立憲主義への軌跡』

篠田英朗『「国家主権」という思想──国際立憲主義への軌跡』(勁草書房、2012年)

 現代社会において「国家主権」をめぐるアポリアの一つは、ある国家の内部で深刻な人権抑圧が生じているとき、国際社会がその問題に向けて何らかの対処を検討すると「内政干渉だ! 主権の侵害だ!」と反発され、事態が何も進まないというケースである。例えば、国連安全保障理事会常任理事国として指定席を持つ某2カ国。最近のシリア情勢をめぐっても具体的な決議には及び腰だ。いずれも脛に傷もつ身であり、同様の矛先が自分たちにも向けられたら困るので、先例は作りたくない…というのが理由の一つとして考えられる。

 ただし、内政干渉による「国家主権」の侵害という反発は、そう簡単に無視するわけにはいかない。場面によっては単なる自己弁護に過ぎないことが明らかではあっても、少なくともそのロジックに一定の正当性が認められている以上、さらに包括的で説得的な理論的枠組みを通した反論をしなければ、国際秩序を成り立たせているルールそのものへの疑念を醸し出してしまう。

 17~18世紀にかけてのヨーロッパにおいて成立した近代社会、それと歩みを共にしてきた「国家主権」という概念をめぐり、現代に至るまでどのような思想的応酬が交わされてきたのかをたどり返すのが本書の基本的な内容である。通時的に検討しながら浮かび上がってくるのは、「国家主権」なる概念も決して一義的なものではなく、時代ごとに様々なヴァリエーションを示していることだ。時代状況に合わせて「主権」概念は異なる解釈がされてきた。つまり、絶対不易の原理とは言えない。この点を建設的に考え直すなら、現代社会において差し迫った課題や国際的に一般化した価値観に合わせて「主権」概念を読みかえることで何らかの可能性が見えてくるはずだ。本書はそのための基礎作業を行っている。

 「国家主権」をめぐる思想史的流れを確認しながら本書が最後にたどりつくのは、「新しい国際立憲主義」である。

 国家的レベルで行われる非人道的行為を防止するため、「保護する責任」という考え方が提起されている。しかし、これは場合によっては軍事介入も含まれるため、上述のように、国家主権尊重、内政不干渉といったこれまで国際関係を規律してきた原則に背馳するのではないか?というアポリアにぶつかって立ちすくんできた。ところで、「新しい国際立憲主義」は、「国家主権」を必ずしも否定するわけではない。むしろ、国民を守るべきなのは第一義的には当該国の「国家主権」そのものの役割であることをまず確認する。ただし、「国家主権」が自らの責任を適切に果たしていないとき、国際社会がその責任を肩代わりして実行する必要がある。言い換えると、平和構築は「国家主権」を補完する役割を担うという考え方になるだろうか。

 これは古典的な社会契約説による立憲主義でも説明できる。つまり、政府が統治契約に違反して人民の権利を侵害したとき、人民には革命権・抵抗権が自然法における不可分の権利として認められているとジョン・ロックは主張していた。ここから論理を広げれば、この抵抗権・革命権を外国勢力に代行してもらうという考え方もできる。こうやって見ていくと、実は立憲主義の原点に立ち返ってこの問題を考えなおすこともできるのである。思想史的なパースペクティブを基本としているため、そうしたあたりを確認できるのは本書の強みであろう。

 いずれにせよ、「国家主権」と「保護する責任」とを結びつけることで、国際立憲主義の規範的枠組みの中でのみ主権は機能することを強調する考え方が現代では現われつつある。ここに至るまでの思想史的系譜を整理することで、そうした思潮の理論的な位置づけを図り、「主権」概念の現代的解釈を提起しているところに本書の意義がある。

(以下はメモ)
・「ウェストファリア体制」という虚構。国際関係論の教科書などでは、ウェストファリア講和条約において絶対的に排他的な領域的独立性を持つ主権国家が成立したと説明するのが一般的だった→ハンス・モーゲンソーが「諸国民間の政治」として国際関係を描き出す理論的方法論として好都合だったから採用された見方に過ぎない。むしろ、ウェストファリア条約は主要交戦国が一堂に会して話し合う機会→同じヨーロッパ社会に属しているという自覚の証明に役立った。

・超越的権威(神)が低下して中世的な秩序が終焉→混乱を経る中、自律的な空間秩序を形成する権威が模索された→神ではなく、人間が主役、すなわち国民主権。

・イギリスやアメリカの古典的立憲主義:諸個人の権利を基礎にした法秩序空間。ジョン・ロックは、諸個人の自然権を守るのが社会秩序の目的なのだから、どんな最高権力であっても秩序を脅かすことは許されないと考えた→革命権や抵抗権を許容。

・近代になって、「国民=民族」を有機的統一体と考える価値規範の定着→主権とは、国民国家に本質的に宿る超越性として語られるようになる→立憲主義では権利保護のためのフィクショナルなものと捉えられていたが、フランス革命以降の国民主義の進展と共に国民国家の中に実在するものと考えられていく(主権の「物象化」)→真の「主権」とは何か?という議論へ。

・20世紀になると民族自決原則によってあらゆる国は主権を持つという考え方が広まる。しかし、それ以前の19世紀後半の帝国主義の時代は、国民たるにふさわしい国のみ主権を持つ、従ってふさわしくない国には主権はない、植民地支配を受けて当然という考え方。主権国家たるにふさわしい資格を持っているのか、自らの力で証明しなければいけない。

・国際連盟設立に当たって、アメリカのウィルソン大統領とランシング国務長官の対立。ウィルソンは国際立憲主義→主権概念の制限を意図。対して、ランシングは、主権の所在は形式論理ではなく、現実世界を動かす人間たちの具体的な力にあると考えていた→主権の「物象化」を前提としたリアリズム。力の現実を虚構で覆い隠せるはずはないと考えてウィルソンを批判。

・両大戦間期の国際立憲主義→カール・シュミットの「例外状態」論から思想的挑戦。

・冷戦期、イギリス・アメリカの社会科学では、主権概念を形式化して把握。つまり、建前として主権の絶対性を前提とするが、実際には権力政治で動いている現実とを乖離させた形で政治分析。

・20世紀後半の主権概念の形式化と、国際社会全体の秩序への関心の増大→「新しい国際立憲主義」:20世紀後半において国家主権は、いかに形式的であろうとも、上位の国際機関によって統御されるものではない。しかしある一定の規範に服し、経済活動や人権によって制限されるものではある。つまり市民社会の活動によって、国家主権は制限されるのである(273~274ページ)。主権を「国際システムの構成原則」として把握。自由な経済活動や人権規範に介入しないように規則づけられた、新しい形態の立憲主義的な主権。国内社会と国際社会とは異なる構造や背景を持つが、完全に別物と考えるのではなく、同じ価値規範によって統制される。国家主権はその機能に応じて尊重されるが、市民社会という不可侵の領域を破壊せず、ただその保護者としてのみ活動することが期待される。

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