改めて、邱永漢のこと
先週(2012年5月16日)、邱永漢が亡くなった。1924年生まれだから、享年88歳。私自身は邱永漢その人に格別な思い入れがあるわけではない。そもそも、彼の金儲け本など1冊も読んだことがない。ただ、彼のたどった生涯の軌跡を眺め渡してみると、東アジア現代史における重要な局面が図らずも刻印されているようにも見えてくる。そこに興味がひかれている。
彼には色々な顔がある。台湾独立運動の「裏切り者」、外国籍で初めて直木賞を受賞した文学者、時流に乗った「金儲けの神様」、そしてグルメ──どの側面に注目するかに応じて違った容貌が浮かび上がってくるが、それらを一つの人物像としてトータルに描ききる視点が定まれば、この人物は非常に面白いテーマになるはずだ。
邱永漢は台湾の古都・台南の生まれ。父親は台湾人だが、母親は日本人で、日本語が流暢なのはそのためだとも言われている。旧制台北高校在学中から文芸同人誌『文藝台湾』に出入りするなど文学肌の青年と思われていたが、戦争中、東京帝国大学経済学部に進学する。
日本の敗戦後、二二八事件などを目の当たりにして台湾独立運動に関わり、国民党から指名手配されて香港に亡命、さらに日本へ渡った。同郷の友人だった王育徳(台湾語研究の先鞭をつけた言語学者、後に明治大学教授→こちらを参照のこと)が強制送還されそうになった際、世論に訴えるために書いた「密入国者の手記」が文学的に評価され、これが事実上のデビュー作となる(→こちらを参照のこと)。1955年に「香港」で直木賞を受賞。文筆活動の一方で実業にも活動範囲を広げ、その手のビジネス書も量産、「金儲けの神様」と呼ばれる。ニクソン・ショックで台湾が孤立を深める中、蒋経国政権からアプローチを受けて国民党と和解、台湾独立運動家たちからは「裏切り者」とみなされる。さらに、改革開放に湧く中国大陸に渡って事業を展開。奥さんは広東出身の料理研究家で、彼自身「食通」として知られ、そうした本も出している。
台湾独立運動、文学者、「金儲けの神様」──喚起されるイメージはそれぞれ異なるが、実は直木賞受賞作「香港」で一つに結びついているように見受けられる。彼はほとんど無一文に近い状態で台湾から香港へ逃げてきた。生きていくためにはインテリの自意識や理想などかなぐり捨てて、とにかく金だけを手づるに這い上がらねばならない、そうした弱肉強食のカオスの中で去来する様々な思惑が、この作品で描き出されている。作中で師匠とも言うべき役回りの老李は「君は軽蔑するだろうが、ユダヤ人は自分らの国を滅ぼされても、けっこうこの地上に、生き残った。…国を失い、民族から見離されながら、いまだにユダヤ人にもなりきれないでいる自分を笑いたまえ」と発言し、これをきっかけに故郷台湾の風景と国民党の白色テロを思い浮かべるシーンが続く。邱永漢の独立運動の敗残者としての苦い思いと彼のあからさまなまでの金儲け主義とが、こうしたどん底の実体験を媒介として結び付いていたことがうかがえる。
日本統治下の台湾。日本の敗戦、国共内戦、二二八事件など1940年代における政治的混乱。亡命生活の苦境。外国籍として初めて直木賞を受賞。日本文壇との付き合い。台湾独立運動の内紛。国民党との和解。日本の高度経済成長期に脚光を浴びた「金儲けの神様」。改革開放後の中国大陸で事業展開──邱永漢の人物論は、描き方によっては同時に東アジア現代史を見つめる一つの視軸にもなり得る。誰か面白い評伝を書いてくれないものか(なお、彼自身がつづった自伝的著作については以前にこちらで取り上げた)。
なお、丸川哲史『台湾、ポストコロニアルの身体』(青土社)、垂水千恵『台湾の日本語文学』(五柳書院)などの先行研究で邱永漢が取り上げられているが、主にアイデンティティの複雑さに注目されている。岡崎郁子『台湾文学─異端の系譜』(田畑書店)では、彼が台湾文学史で評価されない理由として、①彼は日本語で二二八事件について初めて小説化したが、国民党支配下の台湾では読めなかった、②彼の作家活動期は短く、すぐに金儲けに行った、③国民党に“投降”したこと、また呉濁流たちから文壇への金銭的援助を求められたが拒絶したことにより、台湾文壇から反感を受けていたこと、などが挙げられている(→こちら)。
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