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2012年5月

2012年5月29日 (火)

一青妙『私の箱子(シャンズ)』

一青妙『私の箱子(シャンズ)』(講談社、2012年)

 「風を聴く~台湾・九份物語」という映画を以前に観たことがあった。金鉱のおかげでかつては活況を呈し、ひところは「小香港」とも謳われた九份、そこに暮らす人々の現在を写し撮ったドキュメンタリーである。一青妙はそのナレーションをしていた。彼女が一青窈の姉だと知ったのはこの映画を観たときだったと思う。

 一青姉妹は九份にちょっとしたゆかりがある。日本による台湾統治の初期、九份の金鉱経営で財を成した顔雲年は台湾でも有数の財閥を形成、今も顔一族は台湾五大家族の一つに数えられる名家として続いている。ところで、一青妙、窈姉妹の台湾名はそれぞれ顔妙、顔窈という。彼女たちの父・顔恵民は顔一族の御曹司であった。なお、母親は日本人で、姉妹の日本名・一青は母方の名字である。

 まだ子供の頃に亡くなった父の面影。自らについて多くを語らなかった母のこと。記憶のつまった箱子を開けてみると、幼い頃の思い出と共に両親の姿が脳裡にまざまざと立ち上ってくる。矢も盾もたまらず両親を知っていた人々に話を聞きにいき、旅路は日本、台湾、そしてアメリカにまで及んだ。なつかしさをかみしめるだけではない。子供心には不思議だった何気ないことに、そんな事情があったのか、と今さらながら分かることもある。

 ガンに侵された父、頑ななまでに告知をこばむ母。告知しないというのは当時において日本人的な思い遣りであったと言えるが、逆に本当のことを知りたいと父は苛立ち、二人の仲が気まずくなっていたこと。父はスキーに山登り、そして本が大好きな高等遊民だったが、顔一族を背負って立たねばならないというプレッシャーに負け、精神的に行き詰っていたこと。東京に留学して日本の風物に馴染みのあった父は日本の敗戦を機に台湾へ戻る。しかし、二二八事件、白色テロと続く台湾社会の変化に絶望し、日本へ密航してきた(犬養家の息子と親友で、その父・犬養健の家に一時期居候していたらしい)。妙は、自らが育った1970年代の台北で過ごしたのどかな日々を思い返しながらも、そうした風景の背後に戒厳令が敷かれていたなんて実感が湧かない。

 年齢的に言って私は一青妙と一青窈の間に挟まるから、同世代である。だが、ここで描かれる光景はちょっと別世界と感じる。一つはもちろん台湾だからということもあるが、それ以上に、台北の大きな邸宅など、やはりお嬢様の生活だ。

 ただし、妙さんのさらっとした筆致は全く嫌味を感じさせない。顔一族の「お家騒動」を面白がっているところなど、むしろ別世界に紛れ込んでしまった者の視点で見てくれている感じ。何かを説明するよりも、目に焼きついた風景、鼻に感じたにおいなど素直に描写しているところに好感を持てる。例えば、日本とは違って茶色っぽい台湾のお弁当。見かけではなく、食べておいしいという実質重視の描写が、やけに食欲をそそった。

 日本と台湾との狭間に立った体験的作品としては、温又柔『来福の家』(集英社、2011年)も以前に読んだ。日本育ちで台湾人なのに日本語の方が得意、改めて中国語を学び、二つの言語に翻弄された困惑を通して感じた言葉の不思議をモチーフとして織り込んでいるところが興味深い。

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五野井郁夫『「デモ」とは何か──変貌する直接民主主義』

五野井郁夫『「デモ」とは何か──変貌する直接民主主義』(NHKブックス、2012年)

 ウォール街占拠デモや3・11以降における日本の脱原発デモなどアクチュアルな現場の考察を手がかりに、「クラウド化する社会運動」としてのデモの可能性を探る論考。

 デモに着目した戦後日本政治史として興味深いが、良くも悪くも若書きという印象も受けた。例えば、中曽根政権の臨調を取り上げて「自民党政治が民主主義を押し殺してきた」という言い方をするのは少々乱暴ではないか。私だって自民党に票を投じたことなんて一度たりともないが、少なくとも手続的正統性の範囲内で実施された政策であった以上、こういう感情論は説得力を減じてしまう。

 取り上げられたトピックは新しいにしても、形骸化した議会政治に対して民意を訴える直接政治=デモが必要という問題意識は、古典的というかオーソドックスとも言える。新味は感じなかったが、とは言っても本書をけなずつもりはない。むしろ、政治がいつの時代でも不可避的にぶつかるアポリアを正面から取り上げ、それを「デモ」という現在的テーマの中で位置づけているところに意義があると言えるだろう。

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田村秀『暴走する地方自治』

田村秀『暴走する地方自治』(ちくま新書、2012年)

 大阪都、中京都、新潟州など制度再編の話題が喧しいが、これまで鳴り物入りで登場した「改革派」知事たちも結局、実績を残せなかったことを指摘。制度を変えればすべて良くなるかのようなイメージを振りまき、それが劇場型ポピュリズム政治の看板に使われているだけ、という論点は確かにその通りだと思う。日本の地方自治制度の歴史的背景や海外との比較などを織り込みながら解説が進められるが、「改革派」知事たちをこき下ろすあまり、現行地方自治制度をそっくりそのまま擁護する論調のような印象も受けてしまった。逆に現行制度に問題はないのか、その点が気になる。

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ポール・ミドラー『だまされて。 涙のメイド・イン・チャイナ』

ポール・ミドラー(サチコ・スミス訳)『だまされて。 涙のメイド・イン・チャイナ』(東洋経済新報社、2012年)

 アメリカのクライアントと中国現地の工場との間で仲介業をしているアメリカ人ビジネス・コンサルタントが出くわしたトラブルの数々。ストーリー仕立て、翻訳もこなれていて面白く読めるノンフィクション。

 ただし、扇情的なタイトルは読者をミスリードしかねない。生活習慣も商習慣も異なるのだから、トンチンカンなトラブルが続出するのも当たり前。むしろ、行動ロジックの相違を如何に読み取るか、そうした具体例として興味深い。「だから中国はダメなんだ」みたいなチャイナ・バッシング的な視点だと、その読み手自身が予め持っている偏見を再確認・増幅させるだけで、建設的な読み方にはならないだろう。

 利益ゼロにもかかわらず委託生産を受注する工場があるらしい。その理由の一つとして、先進国の第一市場を相手にするときは利益ゼロでも委託生産のサンプルを受け取り、発展途上国の第二市場を相手に模造品を売りさばいているという。アメリカでは1ドルで売られている製品が、発展途上国では2~3ドルで売られているというグローバルな経済格差を、こんな形で利用したビジネスモデルが成り立っていることが、良くも悪くも関心を引いた。

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2012年5月25日 (金)

【映画】「別離」

「別離」

 イランのアスガー・ファルハディ監督の作品「別離」。ベルリン映画祭の金熊賞やアカデミー賞の外国語映画部門を受賞した話題作。アメリカとイランとが政治的に対立している中での受賞だけに、余計に気になっていた。

 一言でいうと、本当によくできていると思った。ファルハディ監督自身の脚本らしいが、ストーリー構成は綿密に練り上げられており、取り立てて派手な事件が起こるわけでもないのに飽きさせない。

 ことの発端は、テヘラン在住のある夫婦に巻き起こった離婚騒ぎ。英語学校で教師をしている妻が娘の将来を考えてヨーロッパへの移住を主張していたのだが、夫の方は父が痴呆で介護を要するため、こんな時に海外へ移住するわけにはいかないと反対。意見が折り合わないため、妻から離婚を切り出していた。当面、妻は実家に戻ったのだが、家に誰もいない間、痴呆の父の面倒を誰が見るのか。知人の紹介で雇ったヘルパーは、イスラムの戒律を厳格に守る敬虔な女性だった。彼女は介護対象の老人であっても異性に手を触れるわけにはいかないと悩むのだが、そればかりでなく、どうやら彼女自身も家庭でトラブルを抱えている様子だ。ある日、彼女は所用で家を出た。その間、痴呆の老人をベッドに縛りつけていたのを、折悪しく早く帰ってきた家の主人に見つかってしまった。勤務時間中に外出するどころか、この仕打ちは一体何事か!──怒鳴られ、口論の末にたたき出されたところ、彼女はアパートの階段を転がり落ちてしまう。翌日、妊娠中だった彼女は流産した。誰の責任なのか? 彼女の失業中の夫も出てきて、裁判はややこしくなっていく。

 誰の言っていることが本当に正しいのか? そうした「藪の中」的な状況を通して、各々の心情的な機微を浮かび上がらせていく構成が実にうまい。それだけでなく、離婚、老人介護、子供の教育、女性の社会的地位(海外移住に積極的で夫に対しても自己主張する女性と、信仰心が篤く夫にも逆らえない保守的な女性という対比)、様々な問題がストーリーの中に凝縮されている。こうしたあたりから、現代イラン社会の一端を垣間見ることができるだろうか。

 観おわった後に気づいたのだが、以前に観た「彼女が消えた浜辺」という映画もファルハディ監督の作品だった。この映画も心理劇として秀逸だったのをよく覚えている(→こちら)。イラン映画の底力を改めて感じた。

【データ】
監督・脚本:アスガー・ファルハディ
2011年/イラン/123分
(2012年5月12日、渋谷、文化村ル・シネマにて)

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【映画】「ル・アーヴルの靴みがき」

「ル・アーヴルの靴みがき」

 フランスの港町、ル・アーヴルで、靴みがきをしながら生計を立てている老人マルセル。芸術家肌で若い頃はボヘミアン的な生活を送っていたらしい。立ち直るきっかけをつくった妻は彼が動揺するのを恐れて病気のことを隠していたが倒れてしまい、入院することになった。そうしたある日、マルセルは不法移民としてアフリカからやって来た少年に出くわした。成り行きから彼を匿うのだが、警察は嗅ぎつけた様子。ご近所さんとの連係プレーで何とか出し抜いたと思ったのだが…。

 不遇な人生。淡々と続くかのように思っていた日常生活の中、突発的に降りかかったアクシデント。もうダメか、と思っても、どんでん返しでハッピー・エンド。それも陳腐な終わらせ方ではなく、こういう人生も悪くない、と思わせる余韻──カウリスマキ映画のセオリーは今作「ル・アーヴルの靴みがき」でもいつも通りだ。これまでにも「浮き雲」「過去をなくした男」「街のあかり」などの作品を観てきたが、カウリスマキの映画は安心して観られるのが良い。

 それにしても、カウリスマキの映像アングルって独特で、人物の配置の仕方を見ると「ああ、これはカウリスマキだな」ってすぐ分かる。どういう感じなのかはうまく説明できないのだが。

【データ】
原題:Le Havre
監督・脚本:アキ・カウリスマキ
2011年/フィンランド・フランス・ドイツ/93分
(2012年5月12日、渋谷・ユーロスペースにて)

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2012年5月22日 (火)

改めて、邱永漢のこと

 先週(2012年5月16日)、邱永漢が亡くなった。1924年生まれだから、享年88歳。私自身は邱永漢その人に格別な思い入れがあるわけではない。そもそも、彼の金儲け本など1冊も読んだことがない。ただ、彼のたどった生涯の軌跡を眺め渡してみると、東アジア現代史における重要な局面が図らずも刻印されているようにも見えてくる。そこに興味がひかれている。

 彼には色々な顔がある。台湾独立運動の「裏切り者」、外国籍で初めて直木賞を受賞した文学者、時流に乗った「金儲けの神様」、そしてグルメ──どの側面に注目するかに応じて違った容貌が浮かび上がってくるが、それらを一つの人物像としてトータルに描ききる視点が定まれば、この人物は非常に面白いテーマになるはずだ。

 邱永漢は台湾の古都・台南の生まれ。父親は台湾人だが、母親は日本人で、日本語が流暢なのはそのためだとも言われている。旧制台北高校在学中から文芸同人誌『文藝台湾』に出入りするなど文学肌の青年と思われていたが、戦争中、東京帝国大学経済学部に進学する。

 日本の敗戦後、二二八事件などを目の当たりにして台湾独立運動に関わり、国民党から指名手配されて香港に亡命、さらに日本へ渡った。同郷の友人だった王育徳(台湾語研究の先鞭をつけた言語学者、後に明治大学教授→こちらを参照のこと)が強制送還されそうになった際、世論に訴えるために書いた「密入国者の手記」が文学的に評価され、これが事実上のデビュー作となる(→こちらを参照のこと)。1955年に「香港」で直木賞を受賞。文筆活動の一方で実業にも活動範囲を広げ、その手のビジネス書も量産、「金儲けの神様」と呼ばれる。ニクソン・ショックで台湾が孤立を深める中、蒋経国政権からアプローチを受けて国民党と和解、台湾独立運動家たちからは「裏切り者」とみなされる。さらに、改革開放に湧く中国大陸に渡って事業を展開。奥さんは広東出身の料理研究家で、彼自身「食通」として知られ、そうした本も出している。

 台湾独立運動、文学者、「金儲けの神様」──喚起されるイメージはそれぞれ異なるが、実は直木賞受賞作「香港」で一つに結びついているように見受けられる。彼はほとんど無一文に近い状態で台湾から香港へ逃げてきた。生きていくためにはインテリの自意識や理想などかなぐり捨てて、とにかく金だけを手づるに這い上がらねばならない、そうした弱肉強食のカオスの中で去来する様々な思惑が、この作品で描き出されている。作中で師匠とも言うべき役回りの老李は「君は軽蔑するだろうが、ユダヤ人は自分らの国を滅ぼされても、けっこうこの地上に、生き残った。…国を失い、民族から見離されながら、いまだにユダヤ人にもなりきれないでいる自分を笑いたまえ」と発言し、これをきっかけに故郷台湾の風景と国民党の白色テロを思い浮かべるシーンが続く。邱永漢の独立運動の敗残者としての苦い思いと彼のあからさまなまでの金儲け主義とが、こうしたどん底の実体験を媒介として結び付いていたことがうかがえる。

 日本統治下の台湾。日本の敗戦、国共内戦、二二八事件など1940年代における政治的混乱。亡命生活の苦境。外国籍として初めて直木賞を受賞。日本文壇との付き合い。台湾独立運動の内紛。国民党との和解。日本の高度経済成長期に脚光を浴びた「金儲けの神様」。改革開放後の中国大陸で事業展開──邱永漢の人物論は、描き方によっては同時に東アジア現代史を見つめる一つの視軸にもなり得る。誰か面白い評伝を書いてくれないものか(なお、彼自身がつづった自伝的著作については以前にこちらで取り上げた)。

 なお、丸川哲史『台湾、ポストコロニアルの身体』(青土社)、垂水千恵『台湾の日本語文学』(五柳書院)などの先行研究で邱永漢が取り上げられているが、主にアイデンティティの複雑さに注目されている。岡崎郁子『台湾文学─異端の系譜』(田畑書店)では、彼が台湾文学史で評価されない理由として、①彼は日本語で二二八事件について初めて小説化したが、国民党支配下の台湾では読めなかった、②彼の作家活動期は短く、すぐに金儲けに行った、③国民党に“投降”したこと、また呉濁流たちから文壇への金銭的援助を求められたが拒絶したことにより、台湾文壇から反感を受けていたこと、などが挙げられている(→こちら)。

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2012年5月15日 (火)

橋本健二『階級都市──格差が街を侵食する』、ジャック・ドンズロ『都市が壊れるとき──郊外の危機に対応できるのはどのような政治か』

 都市をめぐる論考を続けて2冊読んでいたら、両方ともジェントリフィケーション(gentrification)というキーワードが出てきた。都市社会学の用語らしいが、不勉強にして初めて知った。直訳すると「富裕地域化」ということらしい。都市中心部の下町で産業が衰退する一方、再開発を意図して閉鎖した工場の跡地などに高所得者向け住宅や商業施設が建設される。アクセスの利便性や下町情緒を求めた富裕層が下町に居住すると、地価高騰、さらには地域特性喪失といった形で地元民は居づらくなり、留まったとしても分極化した経済的格差が共存した階級構成となってしまう問題である。具体的には、下町に高級マンションがそびえたつあの光景を思い浮かべれば分かりやすい。

 橋本健二『階級都市──格差が街を侵食する』(ちくま新書、2011年)は、社会的な階級格差が国土や都市など具体的な空間構成に反映されているという問題意識から、格差社会論と都市論とを結びつけて論じている。ジェントリフィケーションはまさにそうした問題である。本書が取り上げるのは東京であり、下町/山の手をめぐる格差社会の様相を歴史、フィールドワーク、統計データの計量分析(主にSSM社会調査のデータを使用)など多角的な視点から読み取っていく。理論的な分析ばかりでなく、文学作品からうかがえる描写や、実際に現地を歩いて回った観察(居酒屋訪問が好きだな)など具体的な肉付けがされているからヴィヴィッドな問題として説得力を持つ。

 ピエール・ブルデューの文化資本をめぐる議論をまつまでもなく、貧困地域に育った子供たちがその後の教育機会にめぐまれず、社会格差が再生産されてしまう問題は経験的にも知られているだろう。経済的問題ばかりでなく、地域社会的な環境要因は無視できない。社会階層ごとに分断された形で暮らしてるとそうした固定化がますます強まってしまうが、他方で混住したとしても子供同士はお互いの生活背景を敏感に察知するから差別・軽蔑のきっかけにもなりかねないという難しい問題もある。

 そのような問題があるにしても、より良い都市のあり方を目指すなら、やはり住民構成の多様性が望ましい。このソーシャル・ミックス(社会的混合)という概念については次のように説明されている。「異なる階級の人々の接触を促進することによって、下層階級の生活習慣を改善し、健康や教育の水準を引き上げる。また異文化の接触によって文化の交雑が起こり、文化が発展する。経済的な活動や政治参加の機会、高い水準の教育を受ける機会が平等化し、また人種間・階級間の敵意をやわらげて相互理解を促す。雇用のバランスと経済的安定がもたらされ、公共施設や公共サービスを提供するための財源も確保されやすくなる。多様なタイプの住宅が確保されるので、住民は近隣での転居によって必要を満たすことができ、地域に定住しやすくなり、またマイノリティや貧困層でも住居を確保しやすくなる。そして、異なる種類の人々との交流が地域での生活の一部となり、都市は民主的な集会所となる。」(256~257ページ)

 ただし、こうしたソーシャル・ミックスが完璧な処方箋かと言うと、必ずしもそうは言えないのが難しいところだ。フランスの歴史学者・社会学者、ジャック・ドンズロ(宇城輝人訳)『都市が壊れるとき──郊外の危機に対応できるのはどのような政治か』(人文書院、2012年)は、ソーシャル・ミックスの考えに基づいて行われてきたフランスの施策が実際には失敗しているのではないか、と疑問を投げかけている。

 都市問題はすなわち社会問題であること、そして近年のグローバリゼーションによる経済関係の急激な変化が都市内部の分極化、さらには解体をもたらしているという問題意識は世界共通のものとなっているようだ。本書の論点としては、ソーシャル・ミックスを促すために政策的に住民の移動を促そうとしたが、まず貧困層や民族的マイノリティーを裕福な市町村に移入させようとしても失敗する。逆に、貧困層や民族的マイノリティーの多く暮らす地域に富裕層を移入させることはできるのだが、この場合にはもともと現地に住んでいた人々が結果として追い出されることになってしまう、つまり上述のジェントリフィケーションの問題が生じてしまう。

 どうしたら良いのか。本書の結論部分では「都市の精神」の回復という抽象的な表現がされるが、要するに、居住空間の政策的な割り当てを行うという発想をしている限り、上述の問題に直面してしまう。それでは結局、為政者の論理に過ぎない。そうではなく、自分たち自身の政治的アイデンティティーをつなぎとめることのできるローカルな場所をいかに能動的に確保していくか。新たな社会的な連帯の原理を模索することが本書の問題意識おなるが、その際の個々人における実現能力を高める方向で施策を考えるべき、という話になる。アメリカのアファーマティヴ・アクションなども一例として挙げられている。

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2012年5月11日 (金)

台湾旅行⑥(5月6日、旗山/5月7日、帰国)

(承前)

 美濃は早めに切り上げ、高雄方面へ戻るバスに乗る。15分ほどで旗山に着いた。こちらの方が美濃よりも街の規模は大きい。バスターミナルには高雄・左営ばかりでなく鳳山や台南など各方面へのバスが発着しており、この近辺の交通拠点となっている様子だ。ただし、位置が町外れにあって最初は方向感覚がつかみづらく、ちょっと道に迷いそうになった。写真は中心街へと向かう途中の通り。

 旗山はもともとバナナの産地として知られた街で、収穫されたバナナを運ぶ鉄道がここまで引かれていた。すでに廃線となっているのだが、駅舎が再建されて観光スポットになっている(写真写真)。台湾ではこうしたケースはよく見かける。中はちょっとした観光案内スペースとなっており、バナナなどお土産品も売っていた。

 駅舎の裏手に回ると、写真の建物が見えた。瓦屋根のぼろい日本式だ。何だろう?と思って近づくと、「旗山信用購買販売利用組合工場」跡地となっている(写真写真写真)。日本統治期に建てられた建造物で、今は歴史遺産として改修工事中のようだ。

 旗山駅に戻る。商店街へと向かう手前にぼろい建物があった(真、写真)。よく見ると、古い亭仔脚である。ロープがめぐらされ、崩れかかって危ないから近寄るなという注意書きが貼ってあった。亭仔脚というのは、建物の一階部分の道路に面した一角を歩道として提供し、雨や暑さをしのげるようにした構造のこと。要するに、台湾の主要都市に必ずあるアーケード式歩道である。南方でよく見かける建築様式だが、台湾では日本統治期に義務化された。

 写真もやはり旗山駅近くにあった古い日本式家屋。現在は喫茶店として再利用されているようだ。こういう利用方法も台湾では時折見かける。

 旗山老街を歩く(写真)。日本統治期に作られた洋風建築が見られる(写真写真写真)。バロック風のファサードが良い味わいを出している。何となく、このレトロな町並みは、台北近郊の三峡の老街と雰囲気が似ていると思った。休みの日なので屋台が並び、地元観光客が買い食いしながら歩いている。私もバナナ・アイスや、愛玉子などを買い食い。なお、バナナ・アイスは旗山枝仔冰城というお店で買った。ここは割合に大きな構えで、創業1926年。メニューにもヴァリエーションがあり、イート・インのコーナーは混んでいた。タロイモ・アイスが名物らしいのだが、旗山ならバナナだろうという勝手なイメージでバナナ・アイスにした(写真)。

 アイスを買ったお店のある十字路で旗山老街から離れ、地図を見ながら孔子廟へと向かう。途中に武徳殿という日本統治期の建物があった。現在は改修されてコミュニティ・ホールのように使われている。こうした武徳殿も台湾の各地にあり、他にも台北郊外の大峡で見かけた覚えがある。武徳殿というのは当時の警察関係の武道場である。武徳殿の本堂には大きな覆いがされて、ひさししか見えない(写真写真写真)。横に張り出した別棟の方はそのままの姿を残している(写真写真)。中に上がると写真のような感じ。土足で上がるのは気がひけるな。

 武徳殿はかつての旗山神社のすぐふもとにあった。旧参道だった階段(写真)の途中から見下ろした武徳殿(写真)。旗山神社の跡地には現在、高雄市孔子廟がある。門構えは台北の中正紀念館と全く同じ形式だ(写真)。旗山の街並を一望にできる高台である(写真写真)。なお、旗山は高雄県に属していたが、最近、高雄市に吸収合併されたので「県」ではなく「市」となっている。台湾にあった神社の跡地は戦後、忠烈祠にされたケースが多いのだが、高雄の忠烈祠は高雄市内にすでにあるから、こちらは孔子廟となったのだろうか。境内の目立つところに蒋介石の銅像、孫文や蒋経国の言葉などがある(写真写真)。日本軍国主義の「日本精神」から国民党イデオロギーへと転換したことを台湾の人々に誇示する目的があったと考えられる。現在は人影もまばらで、静かな心地よい空間となっている。

 高雄に戻った。いったん宿舎に戻り、食事に出る。MRT三多商圏駅で下車、遠東百貨店の17階にある誠品書店の高雄店に寄る。高雄市立歴史博物館が土日には夜21時まで開館しているのを思い出し、タクシーを拾った。しかし、今日はなぜか休館中。とりあえず写真だけ。高雄市立歴史博物館は日本統治期に高雄市役所として建てられた帝冠様式の建築で(ちなみに、旧高雄駅舎も帝冠様式→写真)、戦後も引き続き高雄市政府として利用されてきた。二・二八事件のとき、国民党政府側と交渉するため地元有識者の組織した二・二八処理委員会がここに置かれたが、国民党軍によって制圧された際に砲撃を受け、一部は損壊したという。こうした因縁もあって二・二八事件に関する展示・研究も行なわれている。博物館前の道路を挟んだ向かい側にある公園には二・二八事件関連の記念碑もある。

 愛河をぶらぶら歩き、思い立って六合夜市へ足を運んだ。屋台で、以前に台東で見かけてからずっと気になっていた果物、釈迦頭(シュガー・アップル)を入手し、ホテルに持ち帰った(写真)。痛みやすいからか、輸出はされていないらしい。割るとこんな感じ(写真)。見た目はゴツゴツしているけど、結構やわらかい。屋台の人が二つに割ってくれたのだが、コツがありそうだ。柿の種ほどの大きさの黒い種が白くてクリーミーな果肉に覆われており、それを一つ一つスプーンですくいながら食べる。淡白な甘さ。これは何だろう、ヤシ系の味なのかな? うまく表現できない。一人で食べるには大きくて、飽きてきた。半分がちょうどいいくらい。

 5月7日、帰国。左営から8時に出る高速鉄道に飛び乗った。朝食を買う時間もなく、車内販売にもあまり食欲をそそられるものがなく、空腹のまま10時に台北着。そこで、鼎泰豊の敦南店に行ってしっかりブランチ。そのまま誠品書店敦南本店へ行き、色々買い込む。旅行中に買い込んだ中でめぼしいのは以下の通り。
・白先勇『父親與民国:白崇禧将軍身影集』(時報出版):白先勇は台湾現代文学では代表的な作家で、この本は父親であった白崇禧・元国防部長について初めて書いたという触れ込み。評伝というより、写真集にコメントを加えている感じ。
・周婉窃『海洋與殖民地台湾論集』(聯経出版):周婉窃は台湾大学教授、台湾史研究では第一人者で、邦訳された『図説 台湾の歴史』(平凡社)は「東アジアの100冊」の中に選ばれている。今回買った『海洋與殖民地台湾論集』には、私が以前から関心を持っている江文也についての論文「想像的民族風─試論江文也文字作品中的臺灣與中國」も収録されていた(ただし、台湾大学のHPにPDFでアップされているのをすでに読んだけど)。
・郭明正『真相巴萊:賽德克巴萊的歷史真相與隨拍』(遠流出版):魏徳聖監督の映画「セダック・バレ」に合わせて刊行された本。著者はセダック族出身で、この映画の言語指導を行った人。ただ、映画のストーリーだけでは観客を誤解させかねないという問題意識から書き下ろされている。周婉窃が序文を寄せている。
・『建國舵手 黃昭堂』(吳三連台灣史料基金會):昨年亡くなったばかりの台湾独立派の重鎮、黄昭堂のオーラルヒストリーのようだ。
・莊永明『台灣歌謠:我聽我唱我寫』(台北市政府文獻委員會)
・賴香吟『其後 それから』(印刻出版):小説集。話題の新刊らしいのでとりあえず買った。

 帰りの飛行機の中では『接接在日本2』(商周出版)をざっと通読。日本に押しかけ女房でやって来た台湾の女の子・接接が受けたカルチャー・ギャップがテーマ。イラスト・エッセイなので気軽に読める。

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2012年5月10日 (木)

台湾旅行⑤(5月6日、美濃)

(承前)

 5月6日、幸いなことに、この日も晴れだった。高雄からバスで1時間半ほど行った山間にある客家の村、美濃へ行く。

 美濃と書いて、中国語ではメイノン(mei3 nong2)と発音する。もともとは瀰濃と書かれたらしいが、その発音が「ミノ」という日本語的な語感に近かったため日本統治期に美濃と改名され、そのまま定着したのだという。高雄市と高雄県とが合併したのを受けて、現在は高雄市美濃区となっている。

 美濃は山間の平地が開拓された村で、近づいていくときには青々とした田んぼの中をバスに揺られながら横切ることになる。バナナや椰子の木が点在し、そばまで山並みが迫っている。のどかな雰囲気だ。美濃は米どころである。中心街の観光案内所(美濃國小の建物に附設)にあった物産品陳列コーナーには高級米も置かれていた。写真はとうもろこし越しに撮った田んぼと山。

 客家の居住地は山間部が多い。大陸からの漢族系渡来民として泉州系、漳州系、客家系それぞれが来た順番に条件の良いところへと定着し、一番遅かった客家系が条件の悪い山地へ追いやられたという説明を以前に何かで読んだことがあった。しかし、最近の研究では、泉州系は商人が多いので港の近く、漳州系は農業民なので平野部、客家系はもともと大陸でも山地に暮らしていたので同様の環境の場所を敢えて選んだと考えられているらしい(王御風《圖解台灣史》[好讀出版、2010年]を参照)。

 美濃の中心街付近を散歩するだけなら2時間もかからない。観光地図で老街となっている通りを歩いてみたが、普通の民家が並んでいるだけだった。写真のような廟堂を見かけたくらいか。これといった何かがあるわけではないけど、観光地ではないから当然だ。台湾の田舎町の雰囲気を肌で感じながら歩くにはちょうど良いのかもしれない。中心部から離れた所に美濃客家文物館や鐘理和紀念館などがあるが、そこまでは足を伸ばさなかった。レンタサイクル等の手段で行くことは可能のようだ。

 客家の人たちの住居は写真のような感じ。コの字型に房屋が配置され、中央の堂宇には「三省堂」「河西堂」などと扁額がかかっている。割合と構えは大きい。集合住宅の場合でも玄関先には必ず紅い聯句が貼ってあった。学問を奨める内容が多く、客家の人たちにはそういう気風が伝わっているのか。そう言えば、街道沿いに美濃へと入る辺りに敬字塔というのが建立されていた(写真写真)。

 中心街の観光案内所に寄ってから、永安路を東へと歩いていった。写真は日本統治期にかけられた橋(写真)。真ん中の石像は猿か? 商店街なのか住宅街なのか微妙な通りだ。藍衫をつくっているお店があった。店先の人形が着ている青い服が藍衫(写真)。客家の人々に独特な衣服で、特産品になっている。古い家屋(写真)、それから廃屋(写真)。東門楼(写真写真)まで行って、同じ道をまた戻った。

 中心街の方に戻ると、写真は粄條(ばんてぃあお)街と名づけられた通り。ちょうどお昼時だった。お店を眺めながらブラブラ歩いていたら、店先で料理をしているおばさんが愛想よく微笑みかけてくれたのと目が合ったので、そのお店に入ってみた。ガラス戸を開けると、冷房がきいている。粄條と空心菜、それから汁物があった方が良いかと思って魚丸湯を注文した。

 写真が粄條という客家料理。美濃の名物らしい。食感はうどんみたいで、何の違和感もなくツルツルと食べてしまった。米でできているらしいから、太いビーフンと言った方がいいのかな。トッピングは鶏肉ともやし、ニラ、干した小エビ。醤油風味のおつゆが軽くかかっている。さっぱりしていて食べやすかった。お会計の際、私の中国語が不自由だったのですぐ日本人と分かったのか、金額は日本語で教えてくれた。親切な応対が本当にありがたい。

 美濃は早めに切り上げ、次は高雄に戻るバスに乗って旗山へ向かう。写真はバスターミナル近くの街並。

(続)

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2012年5月 9日 (水)

台湾旅行④(5月5日、東港・大鵬湾)

(承前)

 東港に戻る連絡船には午後1時半頃に乗船。帰りの便は空いているなあと思いつつ、早めに乗船して仮眠をとっていたら、時間を追うに従って乗船客は増えてきて(特に合宿帰りと思しき大学生風の団体客)、ほぼ満席状態になった。

 東港は漁港の町である。マグロの水揚げが有名で、ここから日本へも輸出されているらしい。連絡船発着所から外へ出ると、通りは人や車がごった返し、警官が交通整理をしている。マグロ市が催されており、その会場へと車が次々と吸い込まれていく。行楽がてら買出しに来た人たちのようだ。私がマグロを買っても仕方ないので、その手前にある市場をブラブラひやかす。もちろん魚介類が中心。マグロをその場で切り身にしてパックにつめ、すぐお刺身として食べられるように売っているお店もあった。

 大鵬湾へ行こうと思ったが、歩いて行ける距離なのかどうか分からない。バスがあるはずと思ってバス停も探したが、どうも見当たらない。とりあえず東港の町を適当に歩いていたら、昔の日本式家屋を見つけた(写真写真)。こういうのは見つけ次第、写真に撮っておく。

 結局、タクシーを拾った。大鵬湾まで車だとすぐだった。到着したのは3時過ぎくらい。公園としてまだ本格的な整備は終わっていない様子で、人影はまばら。大鵬湾はラグーン状になった内湾で(写真写真)、日本統治期には日本軍の水上飛行場があったそうだ。戦争中、台湾は「南進」の基地と位置づけられていたから、ここもそうした最前線となっていたのだろう。戦後も国民党に接収されて軍事施設となっていたが、一般開放されて「大鵬湾国家風景区」として整備され始めたのは最近のことらしい。詳しいことはこちらのホームページを参照のこと。

 写真のような看板があって、日本軍関係の遺跡も観光資源にするつもりのようだが、まだ公園が完成しておらず、奥の方に入ろうとしたら警備員さんに追い返されてしまった。奥の方を見てみると、写真のような展望台が作られている。明らかに水上飛行場だった過去をアピールしている。

 写真は戦争中の防空壕。台湾各地にあり、私は他にも宜蘭、花蓮、台東で見かけたことがある。弾薬庫も現存している(写真写真写真写真)。かつては湾の際まで鉄道が来ていた(写真)。それから、写真は大鵬湾公園の入れなかった区域に見える古い建物。昔の給水塔かな? 気になるのだが、入れてくれないのだから仕方ない。

 帰ることにした。頑張って移動した割には不消化感を残したままの一日だった。まあ、こんな日もあるか。
 バス停に行く。ここを通過する墾丁快速というバスの時刻表を見ると、終点の高雄市内及び墾丁の発車時間は記されているのだが、ここを何時何分に通過予定なのかは記載なし。正確な時間は分からないから参考にせよということか。ぼんやり待っていたら左営行きのバスが来たので乗車。左営まで146元。

 宿舎に戻る途中でコンビ二に寄ったとき、蘋果日報を初めて買った。こんなに分厚いとは知らなかった。余英時が一面にデカデカと出ているのが目に入り、余英時とリンゴの取り合わせなんて珍しいと思って買った(写真)。台湾紙「中国時報」の社長は中国共産党に迎合しているから拒絶する、という署名運動に賛同したことが記事になっている。余英時は中国近代思想史研究では著名な学者で、台湾の中央研究院院士、プリンストン大学名誉教授。マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を意識して書かれた『中国近世の宗教倫理と商人精神』は日本語訳されている。もう82歳なのか。普段は研究に専念して、テレビもネットも見ない生活らしい。

(続)

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台湾旅行③(5月5日、小琉球)

(承前)

 島へ渡った。

 台湾南部・屏東縣の沖合に浮かぶ離島、小琉球である。かつて中国の史書では台湾や沖縄も含めてこの辺りの島々は「琉球」と呼ばれており、その名前が残っている。行政上の名称は屏東縣琉球郷だが、沖縄と区別するため「小琉球」とも呼ばれる。

 小琉球への連絡船は東港という漁港から発着している。かつてここまで敷かれていた鉄道路線はすでに廃線となってしまったので(ちなみに、私の手元にある2006年版の台湾地図集[大輿出版社]には東港線がしっかり記載されている)、今はバスで行くしかない。しかし、東港のバスターミナルからさらに埠頭まで別のバスに乗り換えなければならず、時間的効率があまり良くなさそうなので、高雄から東港碼頭まで直接タクシーで行くことにした。

 雲行きは不安定そうだ。せめて雨が降らねばいいのだが。

 東港碼頭でタクシーを下ろしてもらった。高雄からここまで1時間もかからなかった。

 小琉球へ渡るには民営と公営の二つの航路があり、発着所はそれぞれ別になっている。島で一番大きな集落である白沙尾へは民営航路が行き、公営航路だと別の不便な漁港の方に着いてしまうそうなので、民営航路の発着所に入った(写真)。団体客や家族連れなどであふれかえっている。マリンスポーツもできるので人気があるようだ。地図を見ると、民宿やキャンプ場なども結構たくさんある。

 往復切符420元を購入。白沙尾碼頭へは1日8本就航しているが、今日のような休日には臨時に増便されており、あまり待たずに乗船できた(写真)。

 島に着いたのは朝9時頃。東港の発着所から所要時間は20分ほど。

 幸いなことに晴れてきた。何の考えもなしに取りあえず身一つで渡ったのだが、レンタサイクルで島を一周することにした。バスも運行されているようだが、本数は少なく不便らしい。なお、観光バス以外に自動車はほとんど見かけなかった。

 島内を環状道路が巡らされており、サイクリングがしやすいように道路が整備された区域もある(写真写真)。ただ、島内観光の主流はバスでも自転車でもなく、バイクである。台湾の人はみんなバイクに乗り慣れているから、当り前と言えば当り前だ。老若男女を問わず、二人乗りのバイクの集団が私を次々と追い越していく。自転車利用者は本当に私一人だけだった。台湾で通用する運転免許がないので仕方ないのだが。エコ対応ということで電動バイクが推奨されており、充電機も島内でいくつか設置されている。

 小琉球は台湾では唯一の珊瑚礁からなる島で、ところどころで見かける岩肌には珊瑚に特有の模様がくっきり見える(写真)。それらの岩石にまとわりつくように青々と繁った植生は、葉っぱの瑞々しい緑色が印象的で、やはり熱帯に来たのだなあ、と実感させてくれる。

 まだ午前中だが、気温が上がってきた。サイクリング・ロードの両脇に生い茂った木々が道路の上に屋根のようにおおいかぶさってところでしばし涼を取る(写真)。

 小琉球では珊瑚礁質の岸壁が波風に削られて謎めいた姿を見せる洞窟や奇岩が観光スポットになっている。最初に訪れた美人洞もそうした一つである。ギザギザ状態になった岸壁のすき間を歩く(写真写真写真)。

 この島での生業は基本的に漁業しかなかったわけだが、海に出て行った男たちを待つ女性がこの辺の洞窟で待っていたらしい。生い茂った木々が岩肌のへこみの周りを取り囲んでいる空間などに入り込むと、洞窟とは言っても快適に生活できそうな印象を受ける場所もあった(写真)。海は見えない。しかし、木洩れ日が明るく、波の音は間近に聞こえる。

 写真の浜辺は威尼斯海灘(ベニス海岸)と名づけられている。台湾では海水浴の名所というのを意外と聞かないが、ここは良さそうな感じだ。

 海を見ながらのサイクリングは快適なのだが、2時間もすると疲れてきた…。もちろん、気温が上がってきたせいもある。30度は間違いなく超えている。12時過ぎには陽炎がゆらいでいるのが見えた。ただ、それだけでなく、第一に、寝不足であった。気力体力を充実させてから来た方が良かった。第二に、自転車のブレーキがおかしい。普通に走っていてもブレーキが微妙に接触しており、漕ぐ力が相殺されてしまう。結局、下り坂以外は引いて歩いた。それでも、海を見ながら下り坂をシャーッと走り降りるときの爽やかさは何物にも代え難い。

 ところどころで墓所を見かけた(写真)。中華圏における墓葬制度についてはよく分からないが、この形式のお墓は台湾各地でよく見かける。この島ではお墓はみな海の方を向いている。祖先が渡って来た方向を見つめながら眠ってもらうという配慮なのだろうか。

 今回の小旅行のお目当の一つ、烏鬼洞。旅行前に下調べした伊能嘉矩『台湾文化志』によると、オランダ人に連れて来られて島に住み着いた黒人奴隷が、島の住民によってここで虐殺されたという言い伝えがあるらしい。

 原文を引用。「小琉球嶼、石洞あり、天台澳尾に在り、相傳ふ、舊時烏鬼あり、族を聚めて居る、後泉州人あり彼に往て開墾す、番能く容れず、遂に泉州人は夜に乗じ火を縦ち、尽く燔きて之を斃さる、今其洞尚ほ存し、好事者轍ち往いて遊ぶ。」「蓋し、支那人の手に成りし文献に合考するに、大体に於て阿弗利加のネグロ若しくはネグロイド系統に属する民種の分布地方を総称して烏鬼國といへり。其住民の膚色帯黒なる体貌を有するに因みて命名せるなり。」(伊能嘉矩『台湾文化志』下巻[覆刻版]刀江書院、1965年、864ページ)

 16~17世紀、スペイン、ポルトガル、オランダ人が台湾に来航した際に帯同してきた黒人奴隷の中には、オランダ人が鄭成功によって追い払われた後も、解放されてそのまま台湾に居ついた者がいたらしく、鄭成功陣営にも銃の使用法に習熟した黒人奴隷2人がいたという記録もある。もともと中国の史書で黒人は「烏鬼」と呼ばれており、台湾各地の烏鬼にちなんだ場所(小琉球の他にも3ヵ所挙げられている)は彼らと何らかの縁があったようだ。

 なお、ここ「烏鬼洞」の英語名はBlack Dwarf Caveとなっている。Black Dwarf、つまり矮黒人にまつわる伝説は台湾の各原住民(蘭嶼のアミ族以外)に語り伝えられている。これらの伝説によると、矮黒人とは各原住民が台湾に渡来してきたよりもさらに以前から存在した先住者で、農耕など先進的な文明技術を彼らに教えてくれた。その意味では恩義がある。しかし、矮黒人は乱暴者で女性にちょっかいを出すなどのトラブルがあったため、彼らを皆殺しにしてしまったという。サイシャット族のパスタアイは虐殺された矮黒人の霊をなぐさめる祭祀として有名である。

 小琉球の場合、殺害されたのはオランダ人が連れてきた黒人奴隷で、手を下したのは泉州から渡来してきた漢族系の住民とされている。原住民の伝説に登場する矮黒人とどのようなつながりがあるのかはよく分からない。あるいは、原住民側の伝説では時間感覚がフラットになった中で黒人奴隷と接触した際の記憶が取り込まれているのかなあ、などと想像してみたりもする。

 写真の入口から洞穴の中へと降りていく。暗がりの中に入って行くと薄ら寒い感じもするが、すぐに海側の岸壁に出た。あとは岸壁沿いにデコボコした岩肌のすき間をルートに従って歩いていくことになる(写真写真写真)。一種のおどろおどろしさのようなものも期待していたのだが、小琉球の他の洞穴スポットと同様に奇岩の間を歩き回るだけなので、特別な何かを感じることもない。荒天の日にはこうしたデコボコな岩間を風が吹き抜けると、人の泣き叫ぶ声のようにも聞こえるだろうか、そんな想像をしながら歩いた。

 岸壁に設定された展望台に立って海を眺める。晴れて穏やかな陽射しが降り注ぐ中、押し寄せる波の音がリズミカルに響いてくるのに耳を傾ける。この海辺へポルトガル船やオランダ船、もしくは福建沿岸からの中国船などが来航してきた様子を想像してみる。

 ただ、高校生くらいの団体やいちゃつくカップルなどがはしゃぎながら記念写真を撮っていたりするので、そうした想像もすぐ掻き消されてしまったが。

 
 烏鬼洞を後にして、このまま南回りに島を一周しようかとも思っていたが、疲れてきて気力が持続しそうにない。もう一つの目的地である白灯台まではショートカットで行くことにした。

 白灯台は島の中央に隆起した丘の上にある。林の中を一本だけ通ずる坂道。他の観光客がみなバイクに乗ってスイスイ駆け上がっていくのを恨めしげに睨みつけながら自転車を引っ張っていった。

 この灯台は、台湾海峡やバシー海峡を航行する船のため、日本統治期に建設された(写真写真)。ネット上の観光案内サイトを見たところ、結婚式の装束で身を固めたカップルが記念撮影するスポットになっている一方で、かつてここで灯台守をしていた日本人が敗戦時に自決したという歴史もあるらしい。白灯台の手前、鬱蒼とした木々に埋もれた中に門柱を見かけた。樹木が壁のように立ちふさがって、どんな建物があるのかは見えなかった。ひょっとして、日本統治期の官舎でもあったのだろうか。

 私が白灯台を見ている間にも、バイクに乗った観光客が去っては次の人が来てという感じに細々ながらも人の動きは絶えない。灯台からペンキ塗りをしていたおじさんが脚立を担いで出てきた。工事中らしく中には入れなかった。

 だいぶ疲れてきたので連絡線発着所まで戻る。島の中央部を走る大通りをまっすぐ進むと、あっけないほど早く出発地点の街並までたどり着いた。戻ったのは午後1時頃だったので、島の中を回っていたのはおおよそ4時間くらいか。

(続)

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2012年5月 8日 (火)

台湾旅行②(5月4日、台北→高雄)

(承前)

 タクシーを拾って、誠品書店信義旗艦店へ行く。書棚を一通りチェック。いま本を買うと荷物が重くなって移動の邪魔になるので、最終日にまた寄ることにした。私が行ったとき、日本人の団体が来ていた。誠品書店の関係者と思しき人が解説をしていたから、出版・書店関係の人たちだろうか。

 市政府駅の地下街に入った。MRTで台北車站に出て、高速鉄道に乗り換え、高雄の玄関口となる左営まで行く。台北発17:30、左営着19:06.所要1時間半強。台湾の鉄道はほぼ時間通りに動く。

夕陽が沈みゆく頃合の風景を車窓からぼんやりと眺めていた。台北から新竹を過ぎるあたりまでは山がちの地区を通るのでトンネルが多い。台中から台南、高雄へと至る一帯は平野が広がっており、田んぼの緑色が鮮やかだ。山間の一本道に見える木製の電信柱、田んぼの中を通るあぜ道などを見ていると、日本の田舎を通過しているかのような不思議な錯覚も覚えるが、ただし椰子や檳榔樹など丈の高い熱帯性の木々が所々で姿を現すたびに、「いや、ここはやはり台湾なんだ」と再確認する。

 高鉄は高雄までは通じていないので、手前の左営で乗り換える。MRT(地下鉄)か台湾鉄道の在来線のどちらかを使うことになるが、地上の風景を見たかったので台鉄のホームに出た。

 高雄のあたりも雨があがったばかりらしく、あちこちに水溜りが見える。むっとした空気が鼻腔に立ち込めてきた。いかにも夏のにおいだ。高雄では5月の最高気温は普通に30度を超える。周りを見やると、地元の人たちの多くは半袖姿であった。若い女性の短パンからすらりとのびた足のしなやかさが美しい。

 高雄駅すぐ裏手の京城大飯店というホテルに投宿。ここはアクセスが便利なので高雄に来る時はいつも利用している。

 荷物を置いたら、すぐ外出。MRTに乗って三多商圏駅で下車。ここには太平洋SOGO、新光三越、遠東百貨店などの大型デパートが集まっている。デパート内でエスカレーターに乗って一通り眺めていても、日本のデパートとの違いは分からない。遠東百貨店の17階に誠品書店高雄店があるのでブラブラひやかす。誠品書店は店舗の規模に応じて店内レイアウトが工夫されているので、どの支店に行っても飽きない。

 再びMRTに乗って美麗島駅で下車。この駅は高雄を縦横に走るMRTが交差する乗り換え拠点となっている。ちなみに、台北でもそうだが、高雄のMRTでも車内アナウンスは北京語、台湾語、客家語、英語の4言語で行われている。北京語と英語はともかく、台湾語と客家語はさっぱり分からない。とりあえず、美麗島駅到着時のアナウンスで聞き取った発音を順番に記すと、北京語「メイリーダオ」、台湾語「ミーレイドゥー」、客家語「ミーリードッ」、英語「Formosa Boulevard」。

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 写真は美麗島駅の地下1階ホールにあるステンドグラス。ちなみに、「美麗島」とは台湾の美称である。初めて来航したポルトガル人がこの緑に覆われた島を見て「Illa Formosa」(美しい島)と呼んだのがそのまま島の名前となり、英語名のFormosaもこれに由来する。国民党による言論統制が続いていた時代、民主化を求める人々が発刊した雑誌『美麗島』の主催で行われたデモが弾圧されるという事件が1979年に起こり(美麗島事件)、その現場がこの駅の辺りだったことからこのような名称が付けられた。美麗島事件で逮捕された、もしくは裁判の弁護を行った人々は後に民進党の指導的な政治家となり、逮捕されたうちの一人、陳菊は現在の高雄市長である。今では、けらえいこ『あたしンち』の母親に風貌がそっくりというのがトレードマークになっている。

 六合夜市は美麗島駅から地上に出てすぐの所にある(写真)。適当にブラブラ歩きしながら、牛肉麺、魚丸のタレつき串焼き、麻辣臭豆腐をほおばった。細身でスラリとしたオシャレな台湾美人さんがテイクアウトで臭豆腐を買っていく姿が印象的だった。麻辣臭豆腐は、臭いはともかく辛さで口の中が火を噴きそうになったので、甘蔗(サトウキビ)汁で口の中を鎮めることにした。土くさいにおいもするが、素朴な甘さがおいしかった。以上で夕飯おしまい。

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台湾旅行①(5月4日、台北)

 外に出てみると、雨があがったばかりの曇り空。機内アナウンスでは台北は雨天とのことだったが、初日から傘をささねばならない煩わしさを免れたのは精神衛生的に非常によろしい。最高気温は24度ほど。湿気まじりの風が頬を打つと、蒸し暑さの中でも多少の涼気に心地よさを感じる。

 5月4日の9:40過ぎ、ほぼ定刻通りに成田を飛び立ったチャイナエアライン機は現地時間12時半頃、桃園国際空港に到着した。入国手続きをさっさと済ませてバスに乗り、松山空港まで直行した。国内線に乗り換える人のためのバス路線だが、私のお目当ては違う。松山空港近くにあるカフェ。

 松山空港のバスターミナルで下車。他の人たちは空港の中、もしくはMRT駅の方へと歩いていくが、私は地図を見ながら反対方向に向かう。空港のすぐ周りは再開発中の空地が広がっており、殺風景な中を歩いていると「果たしてこっちで良いのだろうか?」と若干の不安も首をもたげてきたが、富錦街に着くと雰囲気が変わった。

 松山空港から富錦街までは10分ほど歩いたろうか。ゆったりとした道路には街路樹が植わっており、その両脇に集合住宅が並んでいる。計画的に整備された住宅街なのだろう。台湾の都市部は人口密集地なので、一戸建てなど滅多に見かけない。車の通りは少なく、閑静な一角だ。1階部分に保育園、英語教室、陶芸のショールーム、雑貨屋、カフェやレストランなどが入居している建物も多い。喩えて言うと台北の代官山といったところだろうか(ただし、私自身は代官山に行ったことはないのだが)。平日の日中だからか、人出はほとんどない。途中の交差点でテレビドラマの撮影をやっていた。

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 朶兒咖啡館(Daughter's Cafe)は富錦街の中にある。先日観たばかりの映画「第三十六個故事」(邦題「台北カフェ・ストーリー」)のロケ用に作られ、映画が出来上がった後にはそのままカフェとして営業しているお店である(写真写真)。

「第三十六個故事」の製作総指揮は侯孝賢、監督は侯孝賢の助監督をしていた蕭雅全、そして主演は桂綸鎂(グイ•ルンメイ)。脱サラした女性(桂綸鎂)がカフェを開く。妹の発案によって店のコンセプトとなった物々交換に桂綸鎂は戸惑うが、これをきっかけに人々が触れ合っていく様子を描いたヒューマン・ドラマであった。映画中では客のスチュワーデスに妹がほら話を語って感動させるシーンがあり、またラストになると桂綸鎂は海外へと旅立つのだが、確かにこのお店は空港から近い。

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 入口は目立たないのでちょっと通り過ぎてしまった。店内に入ると、確かに映画に出てきたあのままのカウンターがすぐ目に入る。あのカウンターで憧れの桂綸鎂が立ち働いていたんだなあ、などと彼女の姿を想像しつつ、壁際の席に着いた。カウンター脇にも椅子は置いてあったが、目の前で店員さんたちが慌しく動き回っているので何となく座りづらそうな雰囲気。なお、店内を見回しても、物々交換のきっかけとなった“ガラクタ”はない。

 奥の中庭まで店舗は広げられ、天日を入れるピロティのような感じの場所でグループが話し合いながらお茶を飲んでいた。私が店に入るとき店先でタバコを吸っていた大学生風の青年が店内に戻ってきて勉強を再開。窓際の席には静かに語らうカップル。私の座った席の隣では女の子二人組みの会話がはずんでいる。店員さんはそろいの黒い上着を着た4人の若い女性たち。こちらも談笑したり、時にはつまみ食いしたりしながら楽しげな仕事ぶり。気分を落ち着けるには良い感じのカフェだと思った。

 ホットのカフェラテとエクレアを注文した(写真)。ケーキは週替わりという映画のコンセプトをそのまま受け継いでいる様子で、私が訪問した金曜日がちょうどエクレアの日だった。「手指泡芙」と言うらしい。隣の女の子二人組みもエクレアを食べてたので、それを指さしながら注文した。エクレアのシューはややかためでチョコクリームがしっかり入っている。食べ応えがあって、なかなかおいしかった。

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 桂綸鎂がいるわけないから残念がっても仕方ないが、帰り際、可愛らしい店員さんが愛想笑いしてくれたので、旅の幸先が良いぞという気持ちで外に出た。

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2012年5月 2日 (水)

坂野徳隆『台湾 日月潭に消えた故郷──流浪の民サオと日本』

坂野徳隆『台湾 日月潭に消えた故郷──流浪の民サオと日本』(ウェッジ、2011年)

 夕日の美しさで知られる台湾中部の景勝地、日月潭。私自身はいずれ行ってみたいと思いつつ、いまだその機会を得ないままだが、日本統治期から観光地として人気があった。戦後は蒋介石も別荘を構え、今は大陸からの観光客で賑わっているという。

 本書は古老から話を聞き取りながら、日月潭に暮らす300人ほどの少数民族・サオ(邵)族の来歴をまとめ上げたノンフィクションである。日本統治期、国民党政権時代を通じてこの原住民族が翻弄されてきた経緯は、民族的覚醒が可能になった現在だからこそヴィヴィッドな問題意識を持って振り返ることができると言えるだろうか。

 日月潭の国定風景区とされた一角に、伊達邵という街並がある。「イタ・サオ」と読み、「私は人間だ」という意味らしい。サオ族の言葉で、「サオ」とは「人間」を意味する。民族学者が初めて原住民族と邂逅した際、「あなたは何者か?」という問いかけに「オレは人間だ」という答えが返ってきて、その「人間」を意味する言葉がそのまま民族名になったケースはよくある。サオ族についてもそれは同様だが、原住民族の置かれた歴史的経緯を考え合わせると、「私は人間だ」というこの言葉には、自分たちの尊厳を求める深刻な意味合いが刻み込まれていることがうかがえてくる。

 日本統治期、当時としては東洋最大と言われた発電所が日月潭に建設されたが、そのあおりを受けてサオ族は強制移住させられた。以降、国民党政権期を通じて、観光業が彼らの重要な生業となったが、伝統文化としての杵歌は有名となった一方で、「原住民」という他人によって押し付けられた表象が固定化されてしまう。観光産業によって貨幣経済のシステムに取り込まれてサオ族内での経済格差が拡大し、人間関係的にギスギスした空気も醸成されてしまったようだ。また、国語(=中国語)の浸透は、民族的アイデンティティの根幹としてのサオ語話者の減少にもつながっている。

 台湾の原住民族は全人口のうち2%ほどを占めるに過ぎないが、この2%の中には実に多様で豊饒な言語や伝統文化が凝縮されている。南方から渡来したマライ・ポリネシア語族が中心だが、後代に渡って来た漢族系に吸収・同化されて消滅してしまった原住民族も少なくない(逆に、文化的には漢族系であっても血統的には原住民族の要素の方が強いと考えて台湾独立論の根拠とする主張もある)。日本統治期の民族学的調査を基に9民族が認定され、戦後の国民党政権もこれを踏襲していた。

 しかし、近年、この認定基準から漏れてしまった人々の間で民族的アイデンティティを訴える動向が顕著になってきている。復権を求める嚆矢をなしたのがサオ族である。サオ族はもともとツォウ(鄒)族の中に分類されており、独自性が認められていなかった。政府見解は過去の不正確な民族学的調査を基にしており、その後の研究の進展も考慮しないまま放置されてきたからである。1990年代以降の民主化の流れの中で原住民族の問題も重視されるようになり、2001年になってサオ族はようやく民族認定された。こうした民族認定を求めるアイデンティティ・ポリティクスは進行中で、現在では14民族とされている。

 古老から聞き取った伝説についても本書は多くのページを割いている。中でも矮黒人にまつわる伝説は、私自身も台東の国立台湾史前文化博物館の展示解説で知って以来、関心があった。サオ族に限らず他の原住民の伝説にも何らかの形で登場するので、実際の出来事に由来する記憶なのだろう。矮黒人とは台湾原住民のさらに以前に存在したと言われる伝説の先住民族で、色が黒くて小柄、先進文明の持主だったという。後から渡来してきた現在の台湾原住民に農耕など高度な技術を教えてくれたが、その恩義ある矮黒人を虐殺してしまった。サイシャット族の矮黒祭をはじめ、矮黒人の霊を祭る儀式や伝説が各原住民族に伝えられている。巨石遺跡の担い手とも想像されるが、遺骨等は見つかっていないので分からない。南方のネグリトではないかという説もある。日本統治期にも矮黒人を目撃したという話が本書に記されている。色々とイマジネーションがかき立てられて実に面白い。

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【映画】「少年と自転車」

「少年と自転車」

 孤児院に入れられた少年、シリル。父と一緒に住んでいた団地に押しかけるが、すでに引越し済みで部屋はもぬけの殻。大事にしていた自転車もない。連れ戻された孤児院で悲嘆にくれていたところ、訪問者が来たと告げられる。団地で孤児院の職員ともみ合って診療所に逃げ込んだときにたまたま居合わせた美容師のサマンサが、シリルの自転車を持ってきてくれたのだ。しかし、それは父が売り払ったものだった。シリルはサマンサに週末だけの里親になってくれるよう頼み、一緒に父に会いに行くが、「もう会いに来るな」と言われてしまう。サマンサはシリルを自分の手に引き受けていこうと徐々に心を決め始めるが、その矢先、彼は不良少年に誘われて事件に巻き込まれてしまった──。

 ダルデンヌ兄弟の作品では、カンヌでパルムドールを受賞した「ある子供」(2003年)を観たことがある。だらしない生き方をして自分の子供まで売ってしまおうとした青年を演じていたジェレミー・レニエが今回も父親役で出演しており、「少年と自転車」は「ある子供」のその後という設定なのかもしれない。以前に「息子のまなざし」のプロモーションで来日した折のシンポジウムで聞いた孤児の話が本作「少年と自転車」のアイデアとなっているらしい。

 自転車に乗っているとき、シリルの身のこなしは軽やかだ。自転車は彼の分身そのものであるが、金に困ったお父さんは他人に売り払ってしまった。それをわざわざ買い戻してくれたのがサマンサだった。大げさな言い方をすると、大人の思惑で翻弄されてばかりのシリルの人生を彼女が取り戻してくれたということになる。最初は気軽な気持ちだったのかもしれない。しかし、シリルの扱いをめぐって恋人とも別れてしまうほど本気になっていったのはなぜなのか、本人にすら分からないし、また分かる必要もないだろう。この子を自分の問題として引き受けることが自然だと彼女が感じた、その事実が重要であって、血縁関係があるかどうかは本質的な問題ではない。血縁というのもそうした密接な関係性の決意を促す要因のあくまでも一つに過ぎず、他人とも同様の関係が構築できるという筋立てにこの映画の希望があると言ってもいいのかもしれない。

 シリルが傷害事件を起こしたとき、サマンサは彼を連れて出頭し、損害賠償を引き受けた。その子のすべてを引き受けるという「親」の決意は、それはまた別様にもあり得る。シリルが木から落ちて死んだ(ように見えた)とき、きっかけを作った息子のためにその親が証拠隠滅するシーンがあったが、これもまた同じような決意の表れでもある。良い悪いの問題ではない。

 シリルとサマンサが二人でサイクリングするシーンが印象的だ。サマンサの乗る大人用の自転車の方が早い。取り替えてもらって乗ったシリルの走り方はぎこちないが、表情は晴れやかだ。この子の将来を、ダルデンヌ兄弟がもし描くとしたらどのようになるだろうか。

 サマンサ役がセシル・ドゥ・フランスだったとはエンドクレジットを見るまで気づかなかった。すっかりおばさんになっていたので驚いた。「モンテーニュ通りのカフェ」(2006年)の無邪気なかわいらしさが好きだったのだが、あの時点でもすでに30歳前後だったな。

【データ】
原題:Le Gamin au Vélo
監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
2011年/87分/ベルギー、フランス、イタリア
(2012年4月29日、渋谷、BUNKAMURAル・シネマにて) 

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