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2012年4月14日 (土)

ニック・ノスティック『赤vs黄──タイのアイデンティティ・クライシス』

ニック・ノスティック(大野浩訳)『赤vs黄──タイのアイデンティティ・クライシス』(めこん、2012年)

 2006年、当時のタックシン首相の不透明な株式取引への批判をきっかけに混乱が始まったタイの政局は、2011年の総選挙でタックシン派が勝利し妹のインラックが首相に就任したものの、依然として波乱要因がくすぶったままだ。タイ国王のシンボルである黄色のシャツを着込んだPAD(People's Alliance for Democracy:民主主義のための国民連合)と赤シャツを着込んだタックシン支持派のUDD(National United Front of Democracy against Dictatorship:反独裁民主戦線)とが対峙し、暴力的混乱がエスカレートして政治機能が停止してしまっていた様子には、「微笑みの国」というイメージを裏切るかのような驚きがあった。

 本書は、2008年のデモ隊衝突の現場に飛び込んで取材したドイツ人報道カメラマンによるレポートである。デモ隊は騒ぎまわり、血を流して倒れた人も散見される。しかし、どのような経緯で彼らが動いているのか、実のところよく分からない。事情が見えない混乱の中で戸惑う様子が、現場で撮り続けた多くの写真を通して活写されている。

 PADのデモ隊に潜り込んで取材しようとすると外国人嫌いの乱暴な態度で食って掛かられたりした一方、UDDの方がまだ理性的だという印象を持ったらしい。警察が放った催涙弾によってPAD側にも死傷者が出た。しかし、その現場に居合わせた著者によると、PAD側も暴力的な行動を取っている以上、催涙弾を使って双方の間にスペースを空けなければ肉弾戦となり、さらに多くの死傷者が出たはずだと言う。そもそもPADが法律を無視した行動を取ったのが発端である以上、その責任をなすりつけるべきではないとしてPADに対してかなり批判的な態度を示している。赤シャツはタックシン支持派が中心だが、中には必ずしもタックシンを支持していない者も含まれていた。彼らを結び付けているのは軍の政治介入と伝統的なエリートによる統治への反発であったと指摘される。

 こうした政治混乱の背景には、タックシンという一政治家をめぐる政局的対立と言うよりも、タイ社会における階級格差の問題、つまり都市部富裕層と農村及び都市下層における貧困層との根深い対立が考えられる。タックシンは選挙で多数を獲得するため農村の貧困対策に力を入れた。エリート層は農民層を信用していない。柴田直治『バンコク燃ゆ──タックシンと「タイ式」民主主義』(めこん、2010年→こちら)に、教養ある人ですら「農民は所詮バカだから、金で買収されたのさ」と平気で侮蔑的な発言するのを聞いて驚いたという記述があったのを思い出した。しかし、タックシンの思惑がどうであったかは別として、農民たちが政治に目覚めたのは事実である。タックシン派は選挙で5連勝したにもかかわらず、司法判断による解党命令でたびたび政治危機に見舞われ、そうした議会政治の機能不全が路上政治へと人々を駆り立てる結果になってしまっている。

 なお、PADデモ隊の死者の葬儀に王族が参列していたが、王室が片方の政治勢力に肩入れするのは極めて異例なことであった。一連のタックシンおろしの背後では、国王の信任の厚いプレーム枢密院議長が糸を引いていたとも噂されている。タイ政治における最大のタブーである王室については、Paul M. Handley, The King Never Smiles: A Biography of Thailand’s Bhumibol Adulyadej(Yale University Press, 2006→こちら)がプミポン国王の伝記という形でタイ現代史を描き出しており、非常に興味深かった(なお、この本はタイでは発禁処分を受けている)。近年のタックシンをめぐる政治混乱について補いながら翻訳してみたら、タイの政治事情を考える上で面白い読み物になると思うのだが。

 どうでもいいけど、著者はドイツ人で名前のスペルはNick Nostitzとなっているのだが、ニック・ノスティックとなっている。ノスティッツじゃないんだ。

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