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2012年4月

2012年4月25日 (水)

神奈川近代文学館「中薗英助展─〈記録者〉の文学」

 先日、神奈川近代文学館「中薗英助展─〈記録者〉の文学」を見に行った(4月22日で終了)。遺族や関係者から提供された資料をもとに中薗の軌跡をたどるという趣旨で展示が行なわれていた。展示で関心を持った点をいくつかメモしておくと、

・親友だった陸柏年の映った写真、及び上海で憲兵隊に殺されたことを知って中薗が驚いている瞬間の写真。陸柏年との出会いについては、彼が同人誌『燕京文学』に発表した「第一公演」(戦後に改稿され、「烙印」として『彷徨のとき:中薗英助・初期中国連作小説集』[批評社、1993年]に所収)に描かれているほか、中薗作品のあちこちで彼のことに触れている。
・やはり友人の袁犀(戦後は李克異という筆名で執筆)は密かに抗日組織とつながっていたが、戦時中に大東亜文学賞次賞を受賞したため、文革期には.漢奸として迫害され死去(後に再評価)。彼の娘が1980年代末に日本へ留学したときに中薗と一緒に映った写真があった。
・日本敗戦後の1945年10月に、大陸生まれの日本人女性と結婚した写真。背景が北京神社となっていた。どこにあったんだ?
・中薗は戦後、スパイ・ミステリーというジャンルを開拓。小説的な虚構を通して政治の本質に迫っていく作風。この方面を私はあまり読んでいなかった。金大中拉致事件がテーマの『拉致』を原作とした阪本順治監督の映画「KT」は観た。それから、『密書』という作品に絡めて、先日読んだばかりの増田与編訳『スカルノ大統領の特使─鄒梓模回想録』(中公新書、1981年)も展示されていた。鄒梓模はインドネシア華僑(客家系)で戦前から日本人と関係を持ち、戦後はスカルノと日本側との間でフィクサー的役割を果たした。彼は中薗の『密書』のモデルとなっているのだが、「中薗氏の小説で描かれているような人間じゃないよ」という趣旨のことが序文に書かれていた。

 私自身が中薗英助作品を読み始めたのはそう古いことではない。彼は日本軍占領下、いわゆる「淪陥期」の北京で邦字紙『東亜新報』記者をしながら文学活動をしていた。当時の北京の事情を知りたいという意図から、半ば資料的な感覚で『北京飯店旧館にて』(筑摩書房、1992年/講談社文芸文庫、2007年)や『北京の貝殻』(筑摩書房、1995年)を手に取った。それから人に勧められて『夜よ シンバルをうち鳴らせ』(福武文庫、1986年/初版は現文社、1967年)や『何日君再来物語』(河出書房新社、1988年/七つ森書館、2012年)などを続けて読み進めていった。

 漫然とした動機で中国大陸に渡った、と中薗は語っている。若き日々のアモルファスな情熱に明瞭な表現を与えるのはもちろん難しいことであろうが、一つには若者らしい冒険心燃え滾るロマンティシズムがあったであろうことは容易に想像できる。それが異郷への憧れというプル要因になっていたとしたら、では、プッシュ要因は何か。いわゆる「外地」には日本の内地にはいられなくなった左翼くずれやヤクザ者、あるいは一旗挙げようと考える輩など、様々なあぶれ者が流れ込んで来ており、彼らを許容するだけのいわゆる「植民地的自由」があった。「敵」と向かい合うアナーキーな緊張感ゆえの束縛のゆるさがあった。中薗が家出した直接のきっかけは、将来の進路をめぐる父親との葛藤であった。父親の権威への叛逆は私的なものであると同時に、戦時統制の強まりつつある時代、国家による束縛への反抗心もそこには重ね合わされていたと言えるだろう。(なお、短編「エサウの裔」[『エサウの裔』河出書房新社、1976年、所収]では家出して学生運動にのめり込む息子との葛藤が描かれているが、あるいは同様に父に反発して大陸放浪をした中薗自身を父の視点で見つめる気持ちをそこに仮託しているのかもしれない。)

 ロマンティックな自由を求めた異郷、そこはまた裸の自己を試される厳しい葛藤の世界でもあった。裏切りや卑怯、傲慢といった人間の醜さをいやというほど見せつけられた一方、気持ちの通い合う友人たちとも出会った。とりわけ、上述の陸柏年や袁犀といった中国人の友人と知り合えたことは中薗の北京体験で特筆される。しかし、「淪陥期」の北京にあって、中薗自身は中国人側に親近感を寄せているつもりでも、彼らからは「日本人=支配者」と見られ、なかなか胸襟を開いてくれない。「支配者」側にいるという立場性は主観的な善意だけではどうにもならない。引け目の懊悩はさらに「原罪」意識へと深められていく。こうした矛盾への葛藤が以後における中薗の文学活動の原点となっており、『彷徨のとき』『夜よ シンバルをうち鳴らせ』をはじめとした様々な作品で繰り返し表現されている。攻め込んだ側が、攻め込まれた側の者と友情を築くことができるのか。中薗は陸柏年からの「きみは、人類という立場に立てますか?」という問いかけを書き留めている。青くさい。しかし、こうした青くさい言葉が強烈な印象として中薗の脳裡に刻み込まれていたのは、それだけ深刻に矛盾した体験に身を引き裂かれるような思いをしていたからだろう。中薗は敢えてこの言葉を自らの問題として引き受け、終生のテーマとした。後年、アジア・アフリカ作家会議などへ積極的に活動を行なったことも、こうした彼自身のテーマの延長線上にあると考えることが出来る。

 なお、立石伯『北京の光芒──中薗英助の世界』(オリジン出版センター、1998年)が、戦時下の中国における実体験でその後の思想的営みが決定付けられた点で中薗と竹内好との比較をしていた。中薗の肉感的な中国理解とコスモポリタニズム、竹内の理念的な中国理解と土着性という対比として考えていくと色々と興味深い論点がもっと掘り起こせそうな気がする。

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2012年4月22日 (日)

内海愛子・村井吉敬『シネアスト許泳の「昭和」──植民地下で映画づくりに奔走した一朝鮮人の軌跡』『赤道下の朝鮮人叛乱』

 「大東亜共栄圏」という名目で日本が対外的侵略を活発にしていたあの時代、歴史のうねりに翻弄されるかのように異郷へたどり着き、複数の「人生」を生きた多くの人々がいた。内海愛子・村井吉敬『シネアスト許泳の「昭和」──植民地下で映画づくりに奔走した一朝鮮人の軌跡』(凱風社、1987年)が描き出すドクトル・フユンこと許泳もそうした一人である。

 朝鮮半島に生まれた彼は日本へ渡り、日夏英太郎と名乗る(詩人の日夏耿之介にあこがれていたようだが、由来はよく分からない)。無声映画からトーキーへの移行期にあった映画界に飛び込み、実力勝負の業界で彼は脚本を書きながらチャンスを待つが、ある事件が運命を変えた。姫路城のロケで爆発事故を起こして起訴され、朝鮮人であることが公にされてしまったのである。映画製作現場には比較的リベラルな考え方を持っている人たちが多かったので映画への情熱さえあれば彼が朝鮮人だからと言ってそれほどの差別を受けることはなかったかもしれない。そもそも何人かは彼が朝鮮人であることに気づいていたが、彼が隠し通そうとしている気配を感じて何も言わなかったという。いずれにせよ、そうした差別される側にあった者の心情的な機微については軽々なことは言えない。

 1941年、彼は京城(ソウル)へ行く。「内鮮一体」が叫ばれる時代状況の中、映画作りのチャンスをつかもうと朝鮮総督府や朝鮮軍司令部に働きかけ、国策映画「君と僕」の製作に漕ぎ着けた。李香蘭をはじめ有名映画人を動員した大掛かりな作品であったが、まだ無名の許泳では製作過程のコントロールが難しく、また国策映画である以上、興行的にも評判は良くなかったらしい。だが、政府や軍の意向に沿う大作映画を作ったという実績は残った。時あたかも太平洋戦争が始まり、1942年3月には日本軍がジャワに上陸するというあわただしい政治情勢に突入しつつあった。彼は次なる映画づくりのチャンスを求めて軍の宣伝班所属としてインドネシアへ赴き、軍の謀略映画「豪州への呼び声」を製作する。

 1945年8月、日本の敗戦。インドネシアは独立への気運に沸き立ち、許泳自身の祖国もまた独立が決まった。彼は在ジャワ朝鮮人民会の結成に向けて日本軍側と交渉し、政治犯として捕まっていた高麗独立青年党の8人の釈放にも尽力した。ようやく朝鮮人として堂々と生きていけるはずだった。しかし、彼は国策映画を積極的に作ってきた「対日協力者」という負い目があるし、日本語に比べて朝鮮語があまり上手ではなかったらしく、結局、1945年12月頃には朝鮮人民会を離脱、インドネシアで生きていく決意を固めた。その後は映画や演劇の仕事を通してインドネシア独立戦争に参加することになる。1952年9月9日、ドクトル・フユンとしてジャカルタで死去。44年の短い生涯であった。

 インドネシア独立戦争に身を投じた日本人のことは比較的よく知られている。「アジア解放」という大義に殉じた者もいれば、戦中の残虐行為への負い目から戦犯裁判にかけられるのを恐れた者もいたり、思惑は様々であった。ところで、日本軍としてインドネシアへ上陸したのは日本人ばかりではない。俘虜収容所監視要員として植民地支配下にあった朝鮮半島や台湾からも軍属が連れて来られていた。日本人と現地人や捕虜との間に立った彼らの立場は複雑で、それぞれに理不尽な運命に引きずり回されることになった。

 このあたりについては、内海愛子・村井吉敬『赤道下の朝鮮人叛乱』(勁草書房、1980年)が戦争末期、日本軍政下ジャワで独立を求めた朝鮮人軍属たちの足跡を掘り起こす調査として労作である。朝鮮独立を目指した青年たちはひそかに高麗独立青年党を結成、1945年1月には叛乱を起こして失敗、自決するという事件も起きている。他方で、捕虜虐待の容疑をかけれらて戦犯裁判で処刑された人もいた。

 本書では梁七星(日本名:梁川七星、インドネシア名:コマルディン)という人物の名前を聞いたことが調査のきっかけになっている。彼はオランダ軍再上陸に抵抗するインドネシアの人々のゲリラ戦に身を投じた一人で、戦死した後、独立英雄として丁重に埋葬された。ただし、それは「元日本兵」としてであった。彼が朝鮮人であったことをインドネシア側は知らなかった。こうした形で行方の分からなくなった朝鮮人や台湾人が他にもいたであろうことは想像に難くない。

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2012年4月18日 (水)

和泉司『日本統治期台湾と帝国の〈文壇〉──〈文学懸賞〉がつくる〈日本語文学〉』

和泉司『日本統治期台湾と帝国の〈文壇〉──〈文学懸賞〉がつくる〈日本語文学〉』(ひつじ書房、2012年)

 現代の我々にはなかなか実感のわかないことではあるが、1945年以前の日本は複数の民族を抱えた多元的な〈帝国〉として成り立っていた。しかし、民族的分布として多元的ではあっても、公的使用言語が国語=日本語にほぼ限定されていたことは、植民地化された地域の人々に多大な負担を強いる結果を当然ながらもたらしていた。そして、東京を軸として〈中央文壇〉が確立された状況下、植民地化された地域で文学を志す者たちは地域的文壇サークルに集いつつも、そこから中央をはるかに望めるだけで、乗りこえるべき壁は極めて高い。

 文学は自己表現の手段でもあり、あけすけに言えば作家として認められたいという欲求と表裏一体である。どうすれば〈中央文壇〉に打って出られるか? 一つの経路として注目されたのが〈文学懸賞〉である。しかし、〈文学懸賞〉には主催する側(つまり、出版社や選考委員となる既存文壇の作家たち)の思惑によって恣意的な選別が行われる側面もあった。さらに戦時統制が厳しくなると、総督府が推奨する〈皇民文学〉なるスローガンには逆らえないという難しい局面も現われてくる。本書は〈台湾文壇〉をテーマとして、そうした帝国の〈文壇〉が帯びた重層的構造の中で翻弄された作家たちの姿を描き出している。

 私は二つの点に関心を持った。第一に、『文藝台湾』と『台湾文学』の評価をめぐって。『文藝台湾』は実質的な主宰者であった西川満の個人雑誌のような色彩が強く、西川に反発した張文環たちが『台湾文学』を立ち上げた。当時、『台湾文学』側に立っていた黄得時「台湾文壇建設論」によって、『文藝台湾』:エキゾチシズム、〈中央文壇〉志向/『台湾文学』:リアリズム、〈台湾文壇〉志向という対比が定式化された。しかしながら、実際には『台湾文学』派の人々は西川のエキゾチシズムは批判しても〈中央文壇〉志向にはほとんど触れていなかったこと、西川自身も台湾に根ざした作家という自覚を持っていたことを考え合わせると、必ずしも正確な規定とは言えない。黄得時の発言には党派性が濃厚だが、他方で彼の評論によって二誌競合の緊張感が生まれ、台湾文壇が活性化したことは評価される。だが、戦後/光復後の国民党統治期に入り、彼は台湾大学教授というポストにあって『台湾文学』の正統性を守るため当時から〈抗日意識〉があったとろ理論的な整形を行い、その見解が定着していった。こうしたあたりは注意深く再考されなければならないという指摘は、私自身、黄得時史観(?)をそのまま鵜呑みにしていたので教えられた。

 第二に、当時における〈皇民文学〉というスローガンは実際には空転しており、文学的にはあまり機能していなかったのではないかという指摘が興味深い。総督府からの政治的要請により台湾の作家たちは〈皇民文学〉に動員された。政治体制から逃れる術はない以上、やむを得ない。しかし、〈皇民文学〉なるものも実に曖昧な概念で、結局のところ「他人から「〈皇民文学〉ではない」と言われないテクストのことだ」(360ページ)と指摘される。しばしば周金波「志願兵」という作品が〈皇民文学〉の代表例として取り上げられ、それゆえに彼は対日協力者として指弾されることになった。ところが、彼のテクストを注意深く読んでみると、実は彼にとってあまり馴染みある題材ではなかったと指摘される。周金波は新人作家だったので、要請されたテーマで書くしかなかったのだ。

 作品を書いて発表しなければ作家としての名声は確保されず、新人であればなおのことそうした重圧からは逃れがたかったはずだ。その点、うまく立ち回った作家がいた。龍瑛宗──本書のテーマの背骨をなすキーパーソンだ。彼は「傾向と対策」に沿って作品を書き分けることができた。彼の作品「パパイヤのある街」は『改造』懸賞創作に佳作推薦という形で通り、従って〈中央文壇〉に知名度を上げることができた。ただし、背景として、その以前に朝鮮半島出身の作家・張赫宙の作品が文学懸賞に入選したとき物珍しさから興行的に受けて、同様の作家を台湾から見つけ出そうという意図が『改造』編集サイドにあった。だからこそ、〈中央文壇〉の望む形で台湾を描くという龍瑛宗「傾向と対策」は当ったのである(なお、楊逵「新聞配達夫」についても、プロレタリア文学という流行に受けたという側面は否定できない)。こうした龍瑛宗のスタイルは、『文藝台湾』から『台湾文学』へ移動したときのテクスト上の転換、あるいは、戦後/光復後において多くの〈日本語作家〉たちが筆を折る中、中国語による創作活動を彼は旺盛に行っていたあたりにも見受けられる。ここには、何が何でも作家としての名声を維持していきたいという強い意志を認めることができる。

 作家として自己実現をめざす欲求は俗っぽいかもしれないが、作家として生きていこうとする一つの動機であり、それはまた強烈な個性でもある。しかしながら、そうした個性をそのままに見つめていくのが難しい状況があった。日本統治期の皇民意識、それへの批判として国民党の中華意識、さらにそれへの批判として台湾意識──台湾はわずか100年の間にもたびたび統治者が代わるという経験をしており、そのたびに文学に関してもスタンダードな解釈基準から逃れられないという困難を抱え込まざるを得なかった。政治意識という枠組みからいかに自由なテクストの読み方を確保するか、それが一つの課題になっていると言えるだろう。その点で、作家自身の名声を求める欲求に注目することで、まとわりついてくる拘束的枠組みの解体を図り、テクストそのものの読みを開かれたものにしようとする本書の試みは、〈台湾文壇〉に限らずもっと応用できる視点なのかもしれない。

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【映画】「台北カフェ・ストーリー」

「台北カフェ・ストーリー」

 シネマート六本木で「台北カフェストーリー」を観た。映像のカットは工夫されているし、ストーリーのテンポも良い。そこに合わせて、憧れの桂綸鎂(グイ・ルンメイ)様が不機嫌そうにむくれたり、嬉しそうに飛び跳ねたり。彼女の豊かな表情を堪能できた、何とも至福な1時間20分。

 原題は《第36個故事》、英題はTaipei Exchangesとなっている。タイトルで示された強調点がそれぞれ異なるのは面白いが、この3つを合わせるとストーリーの概要が浮かび上がってくる。

 会社を辞めて念願のカフェをオープンさせた朵兒(ドゥアル:桂綸鎂)。しかし、手作り感覚のオシャレな店内には閑古鳥が鳴く。開店祝いと言って友人たちが持ってきてくれたガラクタをどうしようか困っていたところ、妹が物々交換すれば良いと発案した。「何と交換しようかお客さんは考える、そのときまず何をする?」「…?」「とりあえずコーヒーを頼むでしょ」。妹のアイデアでお店は軌道に乗ったが、ドゥアルは自分のコーヒーやケーキが脇役みたいで何となく腹立たしい。

 ある日、たくさんの石鹸を持ってきた男性。「物々交換したいんだけど、何と交換したら良いか分からないんだ」。海外へ行くたびに集めて来た、それぞれ国籍の異なる35個の石鹸。彼は一つ一つにまつわる物語を語り始め、聞き入るドゥアルはそのたびに絵を描き始める。では、36個目の物語は?──というのがこの映画の落としどころ。

 物の価値はお金ではなく人の気持ちで決まる──ナイーヴと言えば実にナイーヴな発想だ。無粋なことを敢えて言ってしまうと、物を交換するに当っては二つの問題がある。第一に、主観的な思い入れでは等価交換が成り立たず、他者の需要という評価を受けるために「お金」という基準を設定する必要がある(姉妹の母が価格を設定しなさいと言ったように)。第二に、限定された空間では交換相手が見つからない可能性が高いので、「お金」という抽象的等価物を通して未知なる他者とも物の交換ができるようにする。価値基準にせよ、交換可能性にせよ、具体的な表情を持った物からその個性を奪って抽象化することによって初めて成立する。そして都市空間というのは、まさにこうした匿名的抽象性を特徴とする。

 しかし、物が持っている色彩や年経りた質感、そして人が抱く思い入れの数々、そうした具体的な一つ一つにこそ物語があり、イマジネーションを広げていく余地がある。温もりある形で人と人との関係性を見つめ直してみたい──この映画を受け入れる感覚的基盤はこうしたあたりにあるのだろう。ある意味、経済的にも社会的にも成熟した先進国ならではの贅沢な悩みとも言えるが。ストーリーとしてはロハス志向の人に受けるタイプの映画だ。

 監督の蕭雅全は侯孝賢の助監督だった人らしく、侯孝賢が製作総指揮としてバックアップしている。中孝介がほんの一瞬だけ出演して歌声を披露するのだが、エンドクレジットでの扱いは目立つ。「海角七号」以来、台湾で人気は高いようだ。舞台となっている朵兒珈琲館はもともとこの映画のセットとして作られたが、そのまま今でも営業しているらしい。

【データ】
監督・脚本:蕭雅全
製作総指揮:侯孝賢
2010年/台湾/81分
(2012年4月15日、シネマート六本木にて)

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2012年4月14日 (土)

ニック・ノスティック『赤vs黄──タイのアイデンティティ・クライシス』

ニック・ノスティック(大野浩訳)『赤vs黄──タイのアイデンティティ・クライシス』(めこん、2012年)

 2006年、当時のタックシン首相の不透明な株式取引への批判をきっかけに混乱が始まったタイの政局は、2011年の総選挙でタックシン派が勝利し妹のインラックが首相に就任したものの、依然として波乱要因がくすぶったままだ。タイ国王のシンボルである黄色のシャツを着込んだPAD(People's Alliance for Democracy:民主主義のための国民連合)と赤シャツを着込んだタックシン支持派のUDD(National United Front of Democracy against Dictatorship:反独裁民主戦線)とが対峙し、暴力的混乱がエスカレートして政治機能が停止してしまっていた様子には、「微笑みの国」というイメージを裏切るかのような驚きがあった。

 本書は、2008年のデモ隊衝突の現場に飛び込んで取材したドイツ人報道カメラマンによるレポートである。デモ隊は騒ぎまわり、血を流して倒れた人も散見される。しかし、どのような経緯で彼らが動いているのか、実のところよく分からない。事情が見えない混乱の中で戸惑う様子が、現場で撮り続けた多くの写真を通して活写されている。

 PADのデモ隊に潜り込んで取材しようとすると外国人嫌いの乱暴な態度で食って掛かられたりした一方、UDDの方がまだ理性的だという印象を持ったらしい。警察が放った催涙弾によってPAD側にも死傷者が出た。しかし、その現場に居合わせた著者によると、PAD側も暴力的な行動を取っている以上、催涙弾を使って双方の間にスペースを空けなければ肉弾戦となり、さらに多くの死傷者が出たはずだと言う。そもそもPADが法律を無視した行動を取ったのが発端である以上、その責任をなすりつけるべきではないとしてPADに対してかなり批判的な態度を示している。赤シャツはタックシン支持派が中心だが、中には必ずしもタックシンを支持していない者も含まれていた。彼らを結び付けているのは軍の政治介入と伝統的なエリートによる統治への反発であったと指摘される。

 こうした政治混乱の背景には、タックシンという一政治家をめぐる政局的対立と言うよりも、タイ社会における階級格差の問題、つまり都市部富裕層と農村及び都市下層における貧困層との根深い対立が考えられる。タックシンは選挙で多数を獲得するため農村の貧困対策に力を入れた。エリート層は農民層を信用していない。柴田直治『バンコク燃ゆ──タックシンと「タイ式」民主主義』(めこん、2010年→こちら)に、教養ある人ですら「農民は所詮バカだから、金で買収されたのさ」と平気で侮蔑的な発言するのを聞いて驚いたという記述があったのを思い出した。しかし、タックシンの思惑がどうであったかは別として、農民たちが政治に目覚めたのは事実である。タックシン派は選挙で5連勝したにもかかわらず、司法判断による解党命令でたびたび政治危機に見舞われ、そうした議会政治の機能不全が路上政治へと人々を駆り立てる結果になってしまっている。

 なお、PADデモ隊の死者の葬儀に王族が参列していたが、王室が片方の政治勢力に肩入れするのは極めて異例なことであった。一連のタックシンおろしの背後では、国王の信任の厚いプレーム枢密院議長が糸を引いていたとも噂されている。タイ政治における最大のタブーである王室については、Paul M. Handley, The King Never Smiles: A Biography of Thailand’s Bhumibol Adulyadej(Yale University Press, 2006→こちら)がプミポン国王の伝記という形でタイ現代史を描き出しており、非常に興味深かった(なお、この本はタイでは発禁処分を受けている)。近年のタックシンをめぐる政治混乱について補いながら翻訳してみたら、タイの政治事情を考える上で面白い読み物になると思うのだが。

 どうでもいいけど、著者はドイツ人で名前のスペルはNick Nostitzとなっているのだが、ニック・ノスティックとなっている。ノスティッツじゃないんだ。

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スカルノについて何冊か

 後藤乾一・山﨑功『スカルノ──インドネシア「建国の父」と日本』(吉川弘文館、2001年)はインドネシアの独立闘争を中心にスカルノの生涯が描かれている。日本が軍政を敷いていた時期に彼は対日協力を行ったという事情があるため、戦中・戦後を通じた日本人との関係にもページの多くが割かれている。独立に際して西欧型民主主義を目指したハッタ、オランダとの協調の中で独立を模索したシャフリルとは異なり、スカルノは「民主主義と軍国主義のどちらを選ぶかと尋ねられれば民主主義を選ぶ。しかしながら、もしオランダ民主主義を選ぶか日本軍国主義を選ぶかと問われれば、日本軍国主義を選ぶ」(68ページ)と語っていたほど日本の近代化やアジア主義に好意的であった。他方で、彼が独立闘争に向けてアジアの連帯を説くとき、日本は連携すべき「アジアの仲間」ではなく帝国主義の一員とみなしてもおり、こうしたジレンマは孫文の晩年における「大アジア主義」講演の「覇道か、王道か」という問題提起と相通ずるものだったのだろう。

 なお、土屋健治『インドネシア──思想の系譜』(勁草書房、1994年)ではインドネシアにおける植民地の成立から独立に至るまでのナショナリズム思想をめぐる言説が検討されている。1920~30年代の独立闘争において、オランダ留学経験があり西欧型民主主義を目指すハッタやシャフリルと土着的な民族主義を目指すスカルノとの論争がまとめられている。また、スカルノはトルコのケマルによる政教分離に関心を示していたようだ。

 白石隆『スカルノとスハルト──偉大なるインドネシアをめざして』(岩波書店、1997年)はインドネシア独立後の政治システムにおいてスカルノとスハルトが果たした役割を中心に叙述。スカルノの政治はロマンティックな理想主義による「革命の政治」であったと規定される。彼が掲げたナサコム(NAS=ナショナリズム、A=アガマ[宗教、主にイスラム]、KOM=コミュニズム)というスローガンは、ナショナリズム・イスラム・コミュニズムなど立場の相違があってもオランダ植民地支配からの独立・革命という目的に向かって一致団結しようという大義名分になっていた。しかし、独立後の体制が一応出来上がり、国内勢力の対立が顕在化してくると、今度は国軍と共産党とのバランスの中でスカルノが自らの権力を維持するためのシンボルとして機能した。また、西イリアン併合後は植民地主義という目に見える敵がいなくなり、外に敵を見出すためマレーシア対決政策が打ち出された。1965年9月30日事件をきっかけとしたクーデターでスカルノの影響力は失墜し、スハルトが全権を掌握。彼が国軍・内務省機構・ゴルカルの三本柱によって確立させたシステムは「安定の政治」「開発の政治」であったと規定される。

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2012年4月 8日 (日)

ポール・コリアー『収奪の星──天然資源と貧困削減の経済学』

ポール・コリアー(村井章子訳)『収奪の星──天然資源と貧困削減の経済学』(みすず書房、2012年)

 経済活動を行う以前に政治的・社会的構造が機能不全に陥っている国々では、援助をつぎ込んでも無駄だし、自立を促しても混乱を深めるばかりとなってしまう。貧困そのものが足かせとなって悲惨な状態から抜け出すことの出来ない「最底辺の10億人」──ポール・コリアーはアフリカを中心とした調査によってこうしたカテゴリーを対象化し、貧困からの脱却を阻害している問題点を提起してきた。本書はさらに資源の希少性をテーマとして、「最底辺の10億人」をめぐる課題は富裕国も含めたグローバルな責任にかかっていることを問いかけてくる。

 貧困を解決するには資源の活用によって生産性を高めることが大前提となる。しかし、地球上の資源が枯渇しつつあり、地球温暖化も問題視される中、資源の無駄遣いは許されない。ここに一つの対立軸が現れてくる。環境保護主義者は天然資源を守るため経済開発には抑制的な態度を取るのに対し、経済学者は天然資源が人類に恩恵をもたらす限り、その活用に問題はないと考える。コリアーは両者を折衷した立場を取る。持続可能性は必ずしも現状維持を意味するわけではない。「私たちは自然資源の価値を維持する管理者、金融用語で言うならカストディアンである。先の世代から引き継いだこの資産を、価値を減ずることなく将来世代に引き渡す責任を私たちは負っている。自然が私たちに課す義務は、本質的には経済価値にかかわるのである」(25ページ)。つまり、効率性重視の経済学的発想と環境保護とはトレードオフの関係にあるのではない。現世代は地球上の資源を浪費してしまうのではなく、将来世代の権利を考慮しながら効果的な投資へと振り向けていくべきだという考え方が本書のテーマとなっている。当たり前とも言える結論ではあるが、それを経済学的・政治学的検証を通して提言につなげていくのが本書の持ち味と言えるだろう。

 天然資源をはじめとした公共財には所有者が明確でないため、誰もが自分の権利を主張して収奪の対象となりやすい。そこで保護が必要となるが、誰が行うのか。将来世代への責任を図るため政府が管理すべきという話になる。しかし、二つの問題点がある。第一に政府が機能していない場合、第二に公海など帰属が明快でない場合。後者については、水産資源を例にとると、あらゆる海をどこかの国に帰属させるのも一つの考え方だが、実際には無理である。そこで、公海を国連の管理下に置くべきと提言される。

 前者の問題は、コリアーの前著『民主主義がアフリカ経済を殺す──最底辺の10億人の国で起きている真実』(甘糟智子訳、日経BP社、2010年。原題はWars, Guns, and Votes: Democracy in Dangerous Places, HarperCollins, 2009→こちら)の内容とも関わってくる(この本の邦題は刺激的だが、エスニシティーの対立をはらんだ国で政府が統治ではなく利権獲得の手段とみなされているとき、選挙はかえって部族間の対立を過熱させ、暴力を生み出してしまうという趣旨であることに留意)。例えば、「資源の呪い」の項では次の問題が指摘されている。農産物では投下された投資と労働の見返りとして利益がもたらされるのに対して、鉱物資源の場合、投資や採掘作業を大幅に上回る利益が生み出され、略奪の対象になりやすい。採掘コストを上回る枯渇性資源の価値は本来的には国民のものであり、政府は国民に代わってその価値を守る義務がある。ところが、そうした努力がなされない場合、経済的にはマイナスになってしまう。結局、ガバナンスが有効に機能しているかどうかが問題となってくる。「最底辺の10億人」の国々では、国家とは国民に公共財を提供する存在とは認識されておらず、資源収入は政府が独占してしまい、そしてその政府は一部特権階級により独占されている。従って、チェック・アンド・バランスが必要なのだが、これが構築できるかどうか。こうした問題を等式化して、先進国は「自然+技術+法規=繁栄」、最貧国は「自然+技術-法規=略奪」と要約される。

 なお、『最底辺の10億人』(→こちら)ではアフリカの天然資源目当てに進出してきた中国に対する警戒感が見られたが、本書では見解が変わっており、インフラ建設との交換条件で天然資源を輸出するチャイナ・ディールにも、透明性確保という条件付ながら建設的な意義を認めている(140~143ページ)。中国のアフリカ進出についてジャーナリズムでの反応は否定的だったが、近年、アカデミズムにおいては公平に評価しようという論調が主流である。例えば、Deborah Brautigam, The Dragon’s Gift: The Real Story of China in Africa(Oxford University Press, 2009→こちら)、Sarah Raine, China’s African Challenges(Routledge, 2009→こちら)、Ian Taylor, China’s New Role in Africa(Lynne Rienner, 2009→こちら)などを参照。

 「最底辺の10億人」が暮らす国々における経済を活性化させるだけでなく、緊急の課題として食料問題がある。スラム化した都市に暮らす貧困層にとって世界的な食料価格の高騰は深刻であり、それはとりわけ発育前の子供たちに致命的な影響をもたらしてしまう。安価な食料供給を確保する必要があるが、それを富裕国が阻害している三つの要因を本書では指摘している。第一に、商業的農業のグローバル化を拡大すべきである。小農による地産地消など牧歌的な農業モデルは富裕国の贅沢に過ぎない。第二に、遺伝子組み換え技術を禁止すべきではない(自然+法規-技術=飢餓」という等式に要約される)。第三に、アメリカはバイオ燃料によるエネルギー供給という空想を捨てるべきだ、バイオ燃料にするだけの穀物があれば食糧供給にまわさねばならない、と著者は言う。こうした指摘は、先進国における食の安全(例えば、ポール・ロバーツ『食の終焉』を参照→こちら)やエネルギー安全保障などの考え方とぶつかってしまう側面がある。先進国と貧困国との間で利害の衝突してしまう論点についてはよく検討してみなければならない。

「安い自然が豊富にある時代は終わったのである。私たちは、自然が貴重になった時代の世界共通のルールを作る必要がある。…自然を管理するカストディアンとしての責任はどの国にも共通すると市民が認めるなら、政府はそれをしなければならない。とは言え、どんな力も、しっかりした根拠がなければむなしい。富裕国の市民が現実離れした夢を見る誘惑に迷ってしまったように、新興市場国の市民もさまざまな誘惑に惑わされるだろう。新興市場国の場合、それは夢想的な環境保護主義ではなく、夢想的な国家主義になるのかもしれない。この先に待ち受けるのは、国益を優先する甘い誘惑とカストディアンの倫理規範との闘いである。」(268~269ページ)

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2012年4月 4日 (水)

キャロル・オフ『チョコレートの真実』

キャロル・オフ(北村陽子訳)『チョコレートの真実』(英治出版、2007年)

 先進国では手軽な嗜好品として好まれるチョコレート。しかし、原材料であるカカオを栽培している西アフリカで、子供たちがこのチョコレートを味わうことはない。本書はカカオ生産にまつわる様々なエピソードを描いた歴史ノンフィクションであるが、そこからは甘くておいしいお菓子の裏に隠されてきた人間社会の苦い歴史が垣間見えてくる。

 カカオはもともと中南米原産であり、チョコレートという言葉もアステカ人が使っていた「カカワトル」(カカオの水)が転訛したものと言われている。アステカ帝国では、搾取された膨大なカカオが富と権威の象徴として王や貴族たちによって消費されていた。カカオの食べ方が現在と違ってはいても、貧しき者が生産したカカオ製品を富める有力者が消費するという構図は本質的に変わらない──極めて悲観的なテーマが本書には一貫している。問題は構造的である。チョコレートは、最貧国の悲劇と豊かな我々の日常生活とを皮肉な形で結びつける一例に過ぎない。

 コルテスによる残虐なアステカ帝国征服後、カカオはヨーロッパにもたらされた。16世紀以降、現在の我々にも馴染みのある消費方法が徐々に確立していく。需要の増加と共にヨーロッパ諸国の植民地政策によってアフリカでのプランテーション栽培が進められていった。チョコレート消費の大衆化は大量生産による低廉化が求められ、コストを安くするために奴隷労働が活用された。

 その後、奴隷労働は非合法化されたものの、実質的にはなくなっていない。コートジボワールでの取材を基にした本書の後半部分はそうした苛酷な実態を描き出し、社会派ノンフィクションとして実に生々しい。

 フランスからの独立後、コートジボワールはカカオ栽培を中心とした産業振興により奇跡的な経済成長を遂げたが、フェリックス-ウーフェ・ボワニ大統領の死後、モノカルチャー構造の経済は様々な矛盾を露呈していった。国際市場では低価格が求められる。貧困に窮したカカオ生産農家は隣国マリからの移民を利用し、違法な児童労働すら当り前になっている。貧しい者がさらに貧しい者を使い捨てにするマイナスの連鎖。生産農家の生活が成り立つよう十分な報酬が支払われるようにしなければならないが、フェアトレード等の取組みは主流にはなっていない。政治構造の腐敗は少数の高官による富の独占を恒常化させる上、非効率な統治によって国内産業の基盤を侵食し、カカオの利権をめぐる紛争はいわゆるブラッド・ダイヤモンドに近い問題をはらんでいる。

 義憤に駆られた人々もいる。例えば、人身売買の問題を告発して免職されたマリの外交官アブドゥライ・マッコやカカオ・コネクションの闇を探って暗殺されたフランス出身のカナダ人ジャーナリストであるギー-アンドレ・キーフェル(GAK)──本書が取り上げる彼らの活動は、アダム・ホックシールド『レオポルド王の亡霊:植民地アフリカにおける強欲、恐怖、そして英雄たちの物語』(Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa, Pan Books, 2006→こちら)に登場するジョージ・ワシントン・ウィリアムズ、エドマンド・モレル、ロジャー・ケースメントをはじめとした人々を想起させる。ただし、彼らが告発したベルギーによるコンゴ植民地支配の苛酷さ──その収奪構造の実質はコンゴ(ザイール)独立後のモブツ政権になっても何も変らなかったというのが『レオポルド王の亡霊』の悲しい結末であるが、同様のことはコートジボワールについても言える。

「私が会ったマリ人少年は仕事と冒険を求めてコートジボワールに行き、人生の一部をカカオ農園の強制労働に費やした。彼らはチョコレートを見たことさえなくても、チョコレートの本当の値段を身をもって知った。チョコレートには、自分たちのような何百人という子供を奴隷にするという計り知れないコストが含まれているのを、今や彼らは知っている。彼らはチョコレートの味を知らず、これからも知ることはないだろう。チョコレートの本当の歴史は、何世代にもわたって、多かれ少なかれ彼らのような人々の血と汗で書かれてきた。未来を見通してみるとすれば、ずっと昔から続くこの不公正が正される見込みは、ほとんどない。」(372~373ページ)

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最近の中国の小説を何冊か

 郭敬明(泉京鹿訳)『悲しみは逆流して河になる』(講談社、2011年)を読んだ。原題は《悲傷逆流成河》。郭敬明は中国の八〇后世代の作家としてカリスマ的人気を誇る。

 リリカルな文体にしっかり練られた翻訳はとても上手なのだが、肝心のストーリーはありがちな学園もの。『セカチュー』系の青春小説、ラノベといった感じ。上海が舞台なのだが、描きこまれている心情描写を見ていると、固有名詞を入れ替えればそのまま日本のラノベといっても通用しそうな錯覚すら覚える。同様に八〇后世代の田原(泉京鹿訳)『水の彼方』(講談社、2009年)を読んだ時にも思ったが、日本人にも読みやすい。それだけ若年層では共通した感性が醸し出されつつあることは非常に興味深いのだが、逆に考えると、この手のラノベは日本には掃いて捨てるほどあるから、日本人がわざわざこの作品を読む必然性はないとも言える。

 余華(泉京鹿訳)『兄弟』(上・文革篇/下・開放経済篇、文春文庫、2010年)は刊行当初から話題になっていたのは知っていたが、確かに面白い。公衆トイレ(ボットン便所)で女の尻を覗き見してたら肥溜めに落っこって窒息死した父。その息子である主人公もやはり覗き見してたら捕まって吊し上げられたが、その時に見た村一番の美少女の尻の話をネタに商才を発揮して…って、なんだこのシュールな出だしは(笑)

 しかし、読み進めていくと文革時の悲劇の描写が続き、改革開放の気運に乗じて出世していく過程では金儲けに浮かれた世相がたくみに織り込まれている。世相諷刺が直截的だと正義感の臭みで興醒めするものだが、この小説の場合、荒唐無稽なファルスだからこそ人間の欲望のむき出しになった姿があられもなく描き出されていく。そこが面白い。

 余華(飯塚容訳)『活きる』(角川書店、2002年)を読んだ時にも思ったが、彼の作品は、第一に中国ならではの歴史的背景を踏まえた内容を持ち、第二に人生の哀歓を感じさせるストーリーは老若男女を問わず鑑賞できる。だから、書評でも頻繁に取り上げられ、読者層も広がったのだろう。

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2012年4月 1日 (日)

ローレンス・C・スミス『2050年の世界地図──迫りくるニュー・ノースの時代』

ローレンス・C・スミス(小林由香利訳)『2050年の世界地図──迫りくるニュー・ノースの時代』(NHK出版、2012年)

 世界的な人口構造の変動(とりわけ先進国を中心に進展する高齢化や都市の過密化)、資源供給の逼迫、こうした問題に加えて地球全体の温暖化による影響も懸念される中、将来の見通しには楽観を許す余地はない。だが、何がしかでもプラスの要因を見出すことはできないものだろうか? 

 サブタイトルにある「ニュー・ノース」とは、北緯四五度線以北の環北極圏に位置するNORCs8カ国、すなわちロシア、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、アイスランド、グリーンランド(デンマーク)、カナダ、アラスカ(アメリカ)を指す。著者は水文学、氷河・氷床、永久凍土融解の影響などを専門に研究する地理学者で、カリフォルニア大学ロサンゼルス校ではジャレッド・ダイアモンドの同僚らしい。もともとは気候変動の研究のため環北極圏に関心を持っていたという。

 本書は、①急速な科学技術の進歩はない、②現在の地政学的状況が根本的に変わることはない、③突発的な気候変動、世界的大不況、疫病の大流行などはない、④理論モデルの信頼性、こうした前提を置いた上で、コンピュータ予測や現地におけるフィールドワーク経験の知見を駆使、気候変動が「ニュー・ノース」にもたらしつつある変化を明らかにする。単に自然科学の議論にとどまるのではなく、社会経済的なポテンシャルも提示されるのが本書の強みだ。

 地球全体の平均気温の上昇は多くの地域にマイナスの影響をもたらすのは確かだが、他方で北極圏における温暖化の増幅、北の高緯度地方周辺での冬の降水量の増加といったメガトレンドも見て取れる。北部高緯度地域では温暖化効果が最も表れるのは冬の時期で、極寒の「シベリアの呪い」がやわらぎ始めているという。こうした傾向を踏まえて予測すると、2050年の時点で「ニュー・ノース」は湿潤で人口が少なく、天然資源が豊富、今ほど酷寒ではない地域へと変化することになる。ただし、今後も住みやすい場所になるわけではない。著者はアメリカのネバダ州のイメージにたとえる。つまり、土地の大半には何もないが、いくつかの定住都市での産業の発達によって経済が成長し、豊富な資源の供給元としてグローバル経済につながっていく可能性が指摘される。ただし、「ニュー・ノース」の可能性がそのまま世界規模の問題の解決に直結するわけではない。その点では本書の論旨は慎重だ。

 これまで権利や尊厳が無視されてきた北方先住民の問題を取り上げた第8章に関心を持った。ノルウェイのサーミ人議会議長との対話で「気候変動のおかげで、北方の石油やガスや鉱物資源にアクセスしやすくなる。だから、資源管理を掌握することが重要になる」と話したところ、「自分たちには中央の議会に代表がいないのに、どうやって資源管理に影響を及ぼせるのか?」という反応があった。地球温暖化、天然資源の需要、政治的影響力の綱引き、こうした中で北方先住民の自治拡大、権限強化の要求もまたクローズアップされていく。

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まだ読んでない本だけど

 アマゾンのおすすめメールが来て、こういう本が近々刊行予定であることを知った。Taner Akcam, The Young Turks' Crime Against Humanity: The Armenian Genocide and Ethnic Cleansing in the Ottoman Empire (Human Rights and Crimes Against Humanity) Princeton Univercity Press, 2012(「青年トルコ党」の人道に対する罪:オスマン帝国におけるアルメニア人ジェノサイドと民族浄化)→こちら

 1905年のいわゆる「青年トルコ」革命でオスマン帝国の政権の座に着いた青年将校たち、いわゆる「青年トルコ党」は当初政治改​革を推進しようとしていた。ところが、「国民国家」化を目指して彼らの推進した同質化政策は少数民族への抑圧を引き起こし、とりわけ第一次世界大戦中の1915年に生じたアルメニア人に対する大虐殺は、20世紀におけるジェノサイドの歴史の忌まわしい幕開けとなったことで知られている。

 ところが、トルコはオスマン帝国解体後の共和国成立以降も現在に至るまで強硬な民族主義政策からアルメニア人ジェノサイドを一切認めようとしてこなかった。トルコ国内でアルメニア人ジェノサイドに言及すると刑法に問われてしまう。例えば、ノーベル賞作家の​オルハン・パムクもこの問題で危うく起訴されそうになった。トルコ国内では情報が制限されているため、一般国民のこの問題に対する認識には国際社会とのギャップが大きい。

 著者のTaner Akcamはトルコ人歴史家として初めて公式にアルメニア人ジェノサイドを認めた歴史学者らしい。読んでないので何とも言えないが、そうした意味で画期的な本なのかもしれない。英語で刊行しているのは、他ならぬトルコ国内では無理だからだろう。現在のエルドアン政権は、かつての政権とは異なって民族問題にも柔軟な姿勢を示しているから、少しずつでも変化が見られればいいと思う。

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【映画】「父の初七日」

「父の初七日」

 父危篤の知らせを受けて台北から故郷・彰化に駆けつけた阿梅。病院で父を看取ったのも束の間、父の死を実感する間もなく、そのまま葬式という慌しい行事に巻き込まれていった火葬までの七日間。

 葬式もの映画で比較すると、例えば韓国のイム・グォンテク監督「祝祭」のようにギスギスした騒動を通して人間観察するというタイプではなく、また伊丹十三監督「お葬式」のようなシニカルな毒気もない。葬式の厳粛さを茶化したコメディー・テイストでほんのり味付けをしつつ、基本は人情ドラマ。さり気ない仕草から微妙な感情的な機微がきちんと描きこまれている。道教や仏教の混淆した伝統的しきたりに田舎の人間関係も絡まった葬儀のプロセスが見えてくるのが興味深い。

 阿梅は台北を拠点に英語も駆使してバリバリ働くキャリア・ウーマンだが、故郷に戻り、勝手の分からぬ葬儀の渦中ではどうしたら良いのか分からず、采配をふるってくれる道士の指示に従うしかないというギャップが面白い。来客やトラブルで考える間もなく慌しい中、肝心の死者のことなど忘れがちになってしまうが、それでもふとしたきっかけで父の面影を想起する。例えば、父から誕生日プレゼントだと貰った肉ちまきを食べた橋の上。父とデュエットした夜市の露店。場所と結びついた父にまつわる思い出の数々──。

 葬儀には家族関係の諸々をつなぎとめてきた伝統的感性が凝縮されているはずだ。しかし、まさにその葬儀を一つのカルチャー・ギャップとして客観視しながら描き出す視点は、それがすでに自分の感性から半ば離れたものになっていることの表れでもある。この映画を観ながら、ある種のノスタルジーすら感じられてくるのは、単に村の風景の穏やかさだけではあるまい。知らぬ間に近代的都市生活に馴染んでしまった感性が、葬儀をきっかけとして伝統的習俗になつかしく邂逅するという側面も見逃せないだろう。父の面影はすなわち故郷の思い出なのである。

 葬儀を手伝うためにやはり台北から戻った従兄弟の大学生・小荘が、道士に憧れの眼差しを向けるのも話の伏線としてつながっている。道士は、実は彼の母の元カレである。そして、母は海外で仕事をしており、今回も故郷には戻ってこない。つまり、阿梅と同様な母の海外志向に対して、小荘は道士から色々なことを学ぼうとする。道士は詩人を自称しており、自ら書いた詩を小荘に披露した。標準中国語で格調高く読み上げる一方、台湾語を使って粗野とも言える言葉遣いながら本音を叫ぶ詩を謳い上げる。小荘も台湾語で復唱して言う、「リズムが良いね!」英語=海外志向or都市生活/標準中国語/台湾語=土着性、こうした台湾における重層的アイデンティティのあり方が垣間見られるシーンだ、と言ったら深読みに過ぎるだろうか。台湾語で「疲れた」は「父のために嘆く」と書く、というセリフもあった。

 蛇足ながら、夜市で阿梅が父と一緒に歌っていたのは中国語の歌詞だが、メロディーは日本の演歌の「なみだ酒」ではないか? 他にも私の知らない日本語の演歌が流れるシーンもあった。それから、お供え物としてポルノ雑誌を遺体の上に置いたとき、表紙に日本語があったのも見逃さなかった(笑)

【データ】
原題:父後七日
製作・監督:王育麟
原作・脚本・監督:劉梓潔
2009年/台湾/92分
(2012年3月30日、東京都写真美術館ホールにて)

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