神奈川近代文学館「中薗英助展─〈記録者〉の文学」
先日、神奈川近代文学館「中薗英助展─〈記録者〉の文学」を見に行った(4月22日で終了)。遺族や関係者から提供された資料をもとに中薗の軌跡をたどるという趣旨で展示が行なわれていた。展示で関心を持った点をいくつかメモしておくと、
・親友だった陸柏年の映った写真、及び上海で憲兵隊に殺されたことを知って中薗が驚いている瞬間の写真。陸柏年との出会いについては、彼が同人誌『燕京文学』に発表した「第一公演」(戦後に改稿され、「烙印」として『彷徨のとき:中薗英助・初期中国連作小説集』[批評社、1993年]に所収)に描かれているほか、中薗作品のあちこちで彼のことに触れている。
・やはり友人の袁犀(戦後は李克異という筆名で執筆)は密かに抗日組織とつながっていたが、戦時中に大東亜文学賞次賞を受賞したため、文革期には.漢奸として迫害され死去(後に再評価)。彼の娘が1980年代末に日本へ留学したときに中薗と一緒に映った写真があった。
・日本敗戦後の1945年10月に、大陸生まれの日本人女性と結婚した写真。背景が北京神社となっていた。どこにあったんだ?
・中薗は戦後、スパイ・ミステリーというジャンルを開拓。小説的な虚構を通して政治の本質に迫っていく作風。この方面を私はあまり読んでいなかった。金大中拉致事件がテーマの『拉致』を原作とした阪本順治監督の映画「KT」は観た。それから、『密書』という作品に絡めて、先日読んだばかりの増田与編訳『スカルノ大統領の特使─鄒梓模回想録』(中公新書、1981年)も展示されていた。鄒梓模はインドネシア華僑(客家系)で戦前から日本人と関係を持ち、戦後はスカルノと日本側との間でフィクサー的役割を果たした。彼は中薗の『密書』のモデルとなっているのだが、「中薗氏の小説で描かれているような人間じゃないよ」という趣旨のことが序文に書かれていた。
私自身が中薗英助作品を読み始めたのはそう古いことではない。彼は日本軍占領下、いわゆる「淪陥期」の北京で邦字紙『東亜新報』記者をしながら文学活動をしていた。当時の北京の事情を知りたいという意図から、半ば資料的な感覚で『北京飯店旧館にて』(筑摩書房、1992年/講談社文芸文庫、2007年)や『北京の貝殻』(筑摩書房、1995年)を手に取った。それから人に勧められて『夜よ シンバルをうち鳴らせ』(福武文庫、1986年/初版は現文社、1967年)や『何日君再来物語』(河出書房新社、1988年/七つ森書館、2012年)などを続けて読み進めていった。
漫然とした動機で中国大陸に渡った、と中薗は語っている。若き日々のアモルファスな情熱に明瞭な表現を与えるのはもちろん難しいことであろうが、一つには若者らしい冒険心燃え滾るロマンティシズムがあったであろうことは容易に想像できる。それが異郷への憧れというプル要因になっていたとしたら、では、プッシュ要因は何か。いわゆる「外地」には日本の内地にはいられなくなった左翼くずれやヤクザ者、あるいは一旗挙げようと考える輩など、様々なあぶれ者が流れ込んで来ており、彼らを許容するだけのいわゆる「植民地的自由」があった。「敵」と向かい合うアナーキーな緊張感ゆえの束縛のゆるさがあった。中薗が家出した直接のきっかけは、将来の進路をめぐる父親との葛藤であった。父親の権威への叛逆は私的なものであると同時に、戦時統制の強まりつつある時代、国家による束縛への反抗心もそこには重ね合わされていたと言えるだろう。(なお、短編「エサウの裔」[『エサウの裔』河出書房新社、1976年、所収]では家出して学生運動にのめり込む息子との葛藤が描かれているが、あるいは同様に父に反発して大陸放浪をした中薗自身を父の視点で見つめる気持ちをそこに仮託しているのかもしれない。)
ロマンティックな自由を求めた異郷、そこはまた裸の自己を試される厳しい葛藤の世界でもあった。裏切りや卑怯、傲慢といった人間の醜さをいやというほど見せつけられた一方、気持ちの通い合う友人たちとも出会った。とりわけ、上述の陸柏年や袁犀といった中国人の友人と知り合えたことは中薗の北京体験で特筆される。しかし、「淪陥期」の北京にあって、中薗自身は中国人側に親近感を寄せているつもりでも、彼らからは「日本人=支配者」と見られ、なかなか胸襟を開いてくれない。「支配者」側にいるという立場性は主観的な善意だけではどうにもならない。引け目の懊悩はさらに「原罪」意識へと深められていく。こうした矛盾への葛藤が以後における中薗の文学活動の原点となっており、『彷徨のとき』『夜よ シンバルをうち鳴らせ』をはじめとした様々な作品で繰り返し表現されている。攻め込んだ側が、攻め込まれた側の者と友情を築くことができるのか。中薗は陸柏年からの「きみは、人類という立場に立てますか?」という問いかけを書き留めている。青くさい。しかし、こうした青くさい言葉が強烈な印象として中薗の脳裡に刻み込まれていたのは、それだけ深刻に矛盾した体験に身を引き裂かれるような思いをしていたからだろう。中薗は敢えてこの言葉を自らの問題として引き受け、終生のテーマとした。後年、アジア・アフリカ作家会議などへ積極的に活動を行なったことも、こうした彼自身のテーマの延長線上にあると考えることが出来る。
なお、立石伯『北京の光芒──中薗英助の世界』(オリジン出版センター、1998年)が、戦時下の中国における実体験でその後の思想的営みが決定付けられた点で中薗と竹内好との比較をしていた。中薗の肉感的な中国理解とコスモポリタニズム、竹内の理念的な中国理解と土着性という対比として考えていくと色々と興味深い論点がもっと掘り起こせそうな気がする。
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