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2012年3月21日 (水)

中目威博『北京大学元総長 蔡元培 憂国の教育家の生涯』

中目威博『北京大学元総長 蔡元培 憂国の教育家の生涯』(里文出版、1998年)

著者の名前にはどこかで見覚えがあると思っていたら、『ある台湾知識人の悲劇』『豚と対話ができたころ』(岩波書店)などの著書がある楊威理の日本名か。まえがきに、日本の敗戦直後、北京大学に入学して云々と書かれていて、何のことか分らなかったのだが、読了後になってようやく事情が得心できた。

・1866年、紹興の商家に生まれた。科挙を受験して進士に合格、翰林院に入る。
・西洋文化を吸収するために外国語を勉強。日本語は野口茂温という人に学ぶ。日本語速成法でリーディング重視なので会話はできない。他に英語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語。
・変法運動には同情的だったが、少人数のクーデターでは体制立て直しはできない→民衆教育。1898年に故郷の紹興に戻る。1901年に上海へ行き、南洋公学(1897年に盛宣懐が創立、現在の交通大学)に勤務。1902年に仲間と一緒に中国教育会(他に章炳麟、呉稚暉など)。同年、南洋公学の学生運動で退学する学生と一緒に辞職、愛国学社を創立。校規第1条には「本社は略日本吉田氏の松下講社(村塾)と西郷氏の鹿児(島)私学の意を師とし、精神教育を重んずる。授ける所の各学科、これ皆精神の鍛錬、志気の激発の助けになるものとす」。また商務印書館の編訳所長も兼任。
・1905年、東京で中国同盟会が創立された際、蔡元培は上海分会長となった。
・1906年、北京へ行き、訳学館で国文学と西洋史の授業を担当。この頃から言文一致を主張。
・1907年、ドイツ留学へ。ライプチヒ大学に入り、ヴィルヘルム・ヴントやカール・ランプレヒトなどの講義に出る。1911年、辛亥革命の報に接して陳其美からの催促で帰国。
・1912年、中華民国臨時政府の教育総長(文部大臣)に就任。教育の5つの方針→軍国民教育、実利教育、道徳教育、世界観教育、美的教育。7月には「袁世凱と協力せず」の声明を出して辞職。
・1913年、フランスへ行き、李石曽や汪兆銘らと「勤工倹学運動」にたずさわる。
・袁世凱の死後、文部大臣となった范源濂(蔡元培が文部大臣だったときの次官)が蔡元培を北京大学総長に推薦→帰国。1916年12月に就任、大学改革に着手。
・教授陣の刷新・強化→文学部長に陳独秀を招聘。陳独秀は胡適を紹介。他に李大釗、魯迅、周作人、銭玄同、劉半農などの著名人ばかりでなく、まだ青年で学歴のない梁漱溟も抜擢。「思想の自由と兼容並包」の原則、真理の相対性、特定の学派の絶対性を認めない、大学の自由という方針→進歩派ばかりでなく学識があれば保守派(辜鴻銘、劉師培、黄侃、崔適、陳漢章など)も招聘した。「孔子を全面否定する呉虞の講座もあれば、孔子を全面肯定する陳漢章の講座もある。その中間帯に梁漱溟がいて、「孔子哲学研究会」を作り、客観的に孔子を見直そうとする。アメリカ帰りの胡適が斬新な「中国哲学史」の講義を法学部の大講堂で開けば、理学部の大講堂では中国哲学とインド哲学に造詣のある梁漱溟が「東西文化及びその哲学」の講義をする。この二人の講義はとくに土曜日の午後に設定されて、多くの学生が聴講できるように配慮されている。」(137頁) 「総長と教授の間では、学術面でも平等で民主的であった。年若い胡適は『紅楼夢考証』のなかで、総長・蔡元培の著作『石頭記索隠』を批判し、総長は「間違った道を歩いた」、この本は「牽強付会な紅楼夢研究」で「愚かなる謎当て」である、などと遠慮もせずに否定してしまった。蔡元培も負けずに1922年に長文の反論「胡適之先生の『紅楼夢考証』についての討議」を公開し、自説を擁護した。このような激しい論争があっても、二人の間にいささかなひびも入らない。若い教員の梁漱溟も蔡元培の著作『中国倫理学史』を批判し、「仁」の定義について異なった意見を出して、蔡元培と論争し合った。」(138頁)
・「前近代社会では個性は押えられている。そこには民主も自由もない。個の目覚めなくば、社会の進歩はありえない、と蔡元培は考えていた。ゆえに彼はことさら個性の尊重、人権の保障、教育の独立、学術の自由を強調していたのである。」(141頁)
・一般市民にも開かれた大学にしようと傍聴生の制度。さらには「盗聴生」も事実上黙認→知識欲に燃える貧しい若者が恩恵にあずかった。1920年には女子学生の入学を認める。
・軍閥政権からは蔡元培追放の圧力。
・五四運動で学生たちが曹汝霖宅を焼き討ち→度を越したと諭したが、学生が逮捕されたと聞くと救出に奔走。学生の釈放後、辞職を表明→慰留の声が高まる→辞意取り消し。
・周作人が武者小路実篤の新しき村を紹介、クロポトキン『相互扶助論』の影響→蔡元培、陳独秀、胡適、周作人、李大釗らが発起人となって工読互助団(やがて失敗)。蔡元培には無政府主義の傾向。
・蔡元培の非暴力主義は孫文との意見に相違。
・軍閥政府の圧力に抗議する形で1923年1月に辞表を提出。慰留されたので職位はそのままにして(総長代理は蒋夢麟)彼自身は海外へ。帰国後も北京には戻らず、1927年7月に正式に総長解任。
・蒋介石の北伐に協力。浙江省、江蘇省、安徽省に基盤を置く孫伝芳に反対するため三省自治運動に参加→省自治の連合制に賛成。
・1927年の四・一二クーデターの決定に蔡元培も張人傑、呉稚暉、李石曾(4人合わせて“四老”)と共に参与(共産党の暴力行為は自由と民主に反するという考え方)→知識人の間に衝撃。他方で蔡元培は「平和的対処」を強調→しかし、実際には無意味。
・南京国民政府に参加、大学院長に就任。中央研究院を設立、その院長。
・他方、蒋介石のファッショ化には批判的態度。国民政府の人権侵害には抗議。1932年、宋慶齢たちと共に中国民権保障同盟。
・晩年は上海から香港に移り、1940年に死去。

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