【映画】「生きてるものはいないのか」
「生きてるものはいないのか」
石井聰互改め石井岳龍監督の最新作「生きてるものはいないのか」を観た。10年ほど前の「五条霊戦記」以来というから、そんなにブランクがあったのか。今回の作品は饒舌だがひねりのきいた会話のやり取りが面白いと思っていたら、もともとは舞台作品らしい。原作を手がけた五反田団の前田司郎が映画版の脚本も担当している。
大学のキャンパスで学生や行き合わせた人々が馬鹿馬鹿しいほどたわいないおしゃべりに興じている中、突然みんな次々と死に始めるという設定の不条理劇(そう言えば、石井監督の昔の作品「水の中の八月」もこのような設定だった)。理由は分からない。ただ、原因が何であろうと、人はいずれ必ず死ぬという厳粛な事実は避けられない。それが予期していなかったシチュエーションで唐突に自らの身に降りかかったとき、どのように受け入れるのか。いまわの際にもだえ苦しみながら最後の言葉をひねり出そうとする時のやり取りが妙に「論理的」で、それが何ともコミカルと言うか、シュールと言うか。死を茶化すシーンの連続に居心地の悪さも感じつつ、不謹慎な笑いの快楽につい浸ってしまう。
だが、ラストにさしかかるとトーンが一変する。最後まで生き残った少年と少女が海辺までたどり着く。「世界の終わり」を見に行くというストーリーの岩井俊二監督「PICNIC」をふと思い浮かべた。あるいは、核戦争の勃発で放射能が拡散していく中、人類滅亡の瞬間を待ち受けるシーンを描いたSFの古典、ネヴィル・シュート『渚にて』(ハヤカワ文庫)も。高潮していく音楽と共に映し出される茜色に染まった空が実に美しい。墜落していく飛行機を映し出すことで立体的な奥行きを示し、いま目に見えていることだけでなく、全世界で同時に生じている出来事に自分たちも巻き込まれていると気づかせる演出は、例えば黒沢清監督の「カリスマ」「大いなる幻影」「回路」などでも見られた手法だろう。
やがて少女も死に、残された少年は黄昏色に染まった世界とたった一人で向き合う。絶対的な孤独、むき出しの実存。ついさっきまで繰り返されていた日常のどうでもいい馬鹿馬鹿しさと対比されたとき、この厳しさがまた無性に美しく感じられる。
この最後まで生き残った少年を演じるのは染谷将太。無垢でニヒルな表情が印象的だ。最近公開された園子温監督「ヒミズ」でも同様だったが、こうした役どころが定着しそうだ。
【データ】
監督:石井岳龍
監督・脚本:前田司郎
2011年/113分
(2012年3月10日、渋谷・ユーロスペースにて)
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