M.メイスナー『中国マルクス主義の源流──李大釗の思想と生涯』、森正夫『李大釗』
M.メイスナー(丸山松幸・上野恵司訳)『中国マルクス主義の源流──李大釗の思想と生涯』(平凡社選書、1971年)
・1888年、河北省の農村に生れた。幼いうちに両親を亡くし、祖父母に育てられた。祖父母も亡くなった後、残してくれた遺産を使って1907年に天津の北洋法政専門学校に入学。英語、日本語、経済学を学ぶ。1913年に卒業後、『法言報』紙編集のため北京に行く。
・辛亥革命後の状況の中では進歩党とつながり(湯化竜との縁)。
・湯化竜の経済的援助で1913年秋に日本留学、早稲田大学に入学。
・実践への志向を持つ個人の自覚の役割の強調はベルグソン『創造的進化』に由来。「自由意志」→自覚した人間が自分の生きている環境を変革する義務と能力、個人の参加の義務を意味している。主意主義的。
・陳独秀が民族主義を支持しないのに対して、李大釗は愛国心を称揚。
・滞日中に書かれた論文「青春」→政治能動主義的・民族主義的・楽観主義的傾向への哲学的支柱。
・進歩党の機関紙『晨鐘報』編集長→梁啓超たちが段祺瑞を支持するのを批判する論説を出そうとして禁止され、袂を分かつ。1918年から『新青年』編集委員会に入る。
・「中国におけるマルクス主義的社会民主主義の伝統の欠如は、1918年までの知識人の思想にマルクス主義の影響が全く認められないことともに、中国におけるボルシェヴィキ革命とマルクス主義学説の受容の方法に関して重要な意味を持っている。ヨーロッパやロシアのマルクス主義者が、おおむね政治活動の道に入るまでにマルクス主義理論の中心問題の研究に何年か没頭しているのとは異なって、中国で共産主義の信者になった人々は、マルクス主義世界観の基本的仮定さえ知らぬままに、「マルクス主義」革命に身を投じることになったのである。」(90頁)
・1918年2月、陳独秀の推薦で北京大学図書館主任。経済学教授も兼ねる。
・「李のロシア革命への反応を単に新思想の影響という見地からのみ理解することはできない。彼は単にマルクス、レーニン、トロツキーの学説の衝撃だけであのように熱狂的なボルシュヴィズムの唱道者となったのではない。むしろ、革命という行為そのもの、至福世界(ミレニアム)が眼前に実現しつつあるという期待に鼓舞されていたのだ。至福世界がいかなるものであるかについては、1918年7月と11月の論文では、いま現にそれが創造されつつあるという事実に対するほどには関心が払われていない。彼は革命を個々の圧制者に対する反乱というよりは、むしろ全世界の秩序を変革せんとする偉大な、普遍的・根源的力であると考えていた。」「1918年の李にとっては、革命それ自体が唯一の価値の源泉であり、真の創造力であった。」(105~106頁)
・1919年夏、胡適が提起した「問題と主義」論争。
・北京大学教授だった五四時期の師弟関係→学生たちの共産党加入。
・形の上ではマルクスの唯物論的歴史解釈の一般原理を受け入れたが、自己の意志に従って社会を改造する意識的・能動的人間の能力に対する信頼を捨てようとはしなかった。決定論と能動主義との矛盾の問題。
・1919年、アジア連邦の提唱(日本の大アジア主義と区別して新アジア主義)
・「陳独秀のような、より国際主義的・西洋指向的な中国マルクス主義者たちは、中国の都市プロレタリアートと提携することが必要だと感じていた、なぜならこの階級は(萌芽的ではあるが)西洋のイメージの中で作り出されたものだからである。李大釗はこれに反して中国民族の根源的な勢力と提携することが必要だと感じていた。農民の中に、彼は、偉大なる革命のいきいきとしたエネルギーの体現者、中国の民族的伝統の伝達者としての階級を見出したのであった。」(339頁)
・1927年4月6日、張作霖の軍隊が北京のソ連大使館に侵入し、約百人のロシア人や中国人を逮捕、李大釗もその中にいた。その後、処刑。
・能動主義的・主意主義的衝動→民族主義的衝動によって鼓舞、救世主的な民族主義へ。李大釗も毛沢東も革命的主意主義と中国民族主義との結合によって階級闘争を推進。
メイスナーの本は李大釗の伝記的叙述よりも、毛沢東主義登場の前史として、李のマルクス主義理解と一般的なマルクス主義理論との比較検討の方が重視されており、それは必ずしも読みやすくないだけでなく、たいして面白くもない。森正夫『李大釗』(人物往来社、1967年)の方が歴史的背景や人物的つながりを記述して評伝としてまとまっているし、読みやすい。日本との関わりでいくつかメモしておくと、
・北洋法政専門学校では袁世凱に招かれて教鞭を取っていた吉野作造の講義を受けた。
・日本留学時は牛込区戸塚町520番地のYMCA内が宿舎。後に李大釗は北京で付き合いのあった牧師の清水安三に「東京で安部磯雄と接し、感化を受けました。大山郁夫からはそれほど影響は受けませんでした」と語っている。
・1919年「私のマルクス主義観」→中国における最初の体系的なマルクス主義の紹介。マルクスの経済学における地位、マルクス主義の体系の3つの構成部分への整理、史的唯物論について、用語も含めて河上肇から多くを学んでいる。マルクス文献の重要箇所は河上の日本語訳から現代中国語に翻訳。
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