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2012年3月

2012年3月30日 (金)

ポール・ロバーツ『食の終焉──グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』

ポール・ロバーツ(神保哲生訳)『食の終焉──グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』(ダイヤモンド社、2012年)

 ふだん何気なく訪れるスーパーマーケットを思い浮かべてみよう。熟れた果物、食べやすくカットされた生鮮食品、安価な加工食品──多種多様な品物が豊富に取り揃えられているのを見ると、「食の崩壊」などと言っても実感はわかない。だが、それらの製造・流通過程の内幕を知ってしまうと、安閑たる気持ちではいられなくなる。

「それはたとえば、まったく同じ外見をした動物が何千頭も飼われている飼育場や、同じ植物が何エーカーもの土地を埋め尽くす広大な工場式農場。農場に流れ込んではこぼれ出す大量の飼料や肥料、アトラジンやラウンドアップなどの農業用化学物質。侵食が進む土壌、農薬耐性を持つ害虫。森が農地に変わり、農地がショッピングセンターに変わる姿。低下する地下水面を追いかけるようにますます深く掘られる灌がい用井戸、低賃金の労働力を求めてどこまでも延びる貨物用航空路。低い利益率や少ない在庫、そして時間当たりの処理能力の要求レベルがどんどん上がり、失敗の余地がなくなっていく中で、細く長く延びていくサプライチェーン…。」(490ページ)

 食にまつわる様々な問題点が本書では多角的に網羅されており、その意味では概論的な内容と言っていいかもしれない。一部だけでもピックアップしてみると…
・大量生産のシステムが成立すると、必要に応じて生産するのではなく、新製品のアピールのため広告に多額な費用をかけて需要を無理やり喚起。
・市場原理によって小売業者が値下げ競争→末端の農家にしわ寄せ。
・大規模な畜産による水質汚染、農業肥料に使われた化学物質の流出による環境汚染。
・低価格の食料ほど高カロリー→貧困層ほど肥満に苦しむ。
・ワシントン・コンセンサスによる貿易自由化→農業生産の基盤が厚いため大量生産により低価格の食料品を輸出できる先進国(農業に従事する人口やGDPは1~2%に過ぎない)が有利で、輸入する途上国(人口の大半が農業に従事)で農業システムが崩壊。輸出主導型農業の限界→リカード的な比較優位説が単純に成立するのか?という疑問。小規模農家の存在を開発計画に取り込む必要を指摘。
・牛肉の生産には大量の穀物が必要→新興国の所得水準向上により牛肉消費量が増大すると穀物が足りなくなる。
・鳥インフルエンザや様々な病原菌→食品保護システムの不備、汚染経路が特定されないにもかかわらず、輸出が拡大されるリスク。とりわけ中国、インド、ベトナム、インドネシアなどの逼迫した食品市場の問題点を見ると、食のシステムの致命的な崩壊はアジアを発端に生じかねないと指摘。
・遺伝子組み換え食品が未知の災厄をもたらしかねないことへの警戒感が話題となるが、それ以前に、「飢餓とは、社会的、政治的、経済的および生物学的な要素が複雑に絡まり合った結果であり、遺伝子工学だけで解決できるものではない」(439ページ)。遺伝子組み換えがダメならオーガニック運動か? だが、オルタナティブのはずのオーガニック運動もまた、①イデオロギー的純血主義、②市場原理に則って収益性を第一に考える現在の政治・経済モデルに組み込まれていく、という問題がある。

 一つ一つの論点はすでに周知の問題で、本書を読んでことさら驚くというわけではない。ただ、これらの問題点が一つながりの見通しの中で関連付けられると、現代の消費文明が構造的に生み出している落とし穴が人類の文明史にとって致命的な災厄をもたらしかねない危うさがクリアに提示される。

 ものを作って食べる、その一連の行為は本来有機的なものだ。食の生産と消費とが完全に分離したあり方は他ならぬ自分自身の人生をも他人に委ねたに等しい、と本書が言うのはもちろんまっとうだとは思う。結論として、食料生産工程のせめて一部でも取り戻すことで能動的なものにしていく、つまり地域密着型の食のシステムが推奨される。しかしながら、生産と消費の分離こそが社会的効率性・利便性を高めるのに役立っており、この高度に複雑化したシステムを現代の我々が果して手放すかどうかと考えると、なかなか難しいだろう。また、食料生産を持続可能なものにするには、投入資源を別なものに代替したり、新技術を開発したりするだけでも問題は解決できない。広いレベルで既存の政治経済システムそのものを根源的に問い直さねばならなくなってくる。

 持続可能な食料生産を支えるには相応の代価が必要である。激安の食料品など本来ならあり得ない。ところが、そうした代価を支払えるのは一定の富裕層に限られてしまう。現実として貧困に喘いでいる人々にとって、大量生産された低価格食料品以外の選択肢はない。選択肢が限られている以上、「消費者の自己責任」という言説は成立ち難いし、そもそもこの大量生産工程自体が食のシステムを不自然に歪めているわけだが。

 問題は現代社会の利便性と分かちがたく絡まり合っている。生産者はたくさん作りたい。小売業者はたくさん売りたい。消費者は安く買いたい──社会を構成する各プレイヤーにとっては合理的な行動であっても、合成されると意図せざる形でマイナスのスパイラルにはまってしまう。テクノロジーの進歩は問題の一部を解決はするが、別の派生的な問題も生み出しかねない。こうしたアポリアを人類は果たして乗り越えていけるのか、本書を読んでいると心許ない焦燥に駆られた居心地の悪さをどうしても感じてしまう。

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2012年3月27日 (火)

ドミートリー・トレーニン『ロシア新戦略──ユーラシアの大変動を読み解く』

ドミートリー・トレーニン(河東哲夫・湯浅剛・小泉悠訳)『ロシア新戦略──ユーラシアの大変動を読み解く』(作品社、2012年)

 ソ連解体から10年ほど経った頃、上海の空港に着いた著者がその時もまだ持っていたソ連時代のパスポートを提示したところ、航空会社の女性職員が戸惑っていたという冒頭のエピソードが示唆的だ。彼女の上司が出てきて曰く「失礼しました。この頃の若い女性はソ連のことを知らないのですよ」──ソ連は遠くなりにけり、といったところだろうか。著者は別にノスタルジーを語りたいわけではない。むしろ本書で示される著者の最終的な見解は、ソ連解体後の状況が既定事実となっている中、この現実を認めるところからロシアは今後の歩みを始めなければならないという点にある。

 著者はカーネギー国際平和財団モスクワ・センター所長として欧米にもよく知られた国際政治学者である。トレーニンの単著の邦訳は本書が最初であろうか。旧ソ連諸国をめぐる現在の地政学的環境の中、ポスト帝国時代のロシアが直面している問題群について安全保障、エネルギー、人口動態と移民、イデオロギーなどのテーマに沿って網羅的に整理する構成となっている。内容の詳細をここで逐一紹介することはできないが、現在におけるロシアの政治外交について概説的な知識を得るには有益な書物である。

 ソ連解体は各民族が独立闘争の末に独立していったのではなく、モスクワの政権内部の決定で進められた点で、比較的に平和な過程をたどったと指摘される。ソ連解体後、ロシアとある程度でも同質性があり得るのはウクライナとベラルーシくらいのもので、それ以外の国々が独立した状態は既定事実となった。中央アジアやコーカサスを舞台に米ロがパワー・ゲームを展開しているという捉え方は間違っていると著者は言う。米ロばかりでなく中国、日本、インド、イラン、トルコなどの地域大国やEUが影響力を及ぼす中で、中央アジア諸国家も自らの意思を持った多角的な戦略行動を取り得るため、どこか一方の勢力に依存しようとは考えていない。そもそもロシア自身の国際政治経済における比重は低下し、ソ連時代とは異なって複数の極の一つに過ぎない。旧ソ連の空間は世界に開かれており、ロシアにはすでに経済的支配力はない。

 それでもロシアが敢えて周辺国を自らの勢力圏内に引き寄せていくには経済的恩恵でつなぎとめるしかないが、現在のロシアにはそのための財政的余裕も意思もない。それにもかかわらず、再び統合を求める言説も表れてはきたが、逆に自国中心の勢力圏の確立によってロシア自身の利益を引き出そうという意図を露にする結果となっている。その点では、かつてのソ連体制がイデオロギー的な理由から勢力圏=帝国を維持するために非効率でも衛星国への援助を行ってきたのとは異なり、現在のプーチン政権は自らの国力的な優位を利用するプラグマティックな大国主義に変化しているという。プラグマティックというのは、つまり名(イデオロギー的な大義名分)よりも実(国益志向がいっそう露骨になった)を取るということだろうが、同時にそれは、国益を効果的に増進させるため、利害関係が複雑に錯綜する中、個々のケースに合わせてデリケートな政策を組み合わせていかねばならないということでもある。そのような繊細なタクティクスはロシアには苦手だから、面倒くさくなって力で恫喝するのだろうか?

 いずれにせよ、現実的な条件にはそぐわないにもかかわらず、ロシアの指導層における自己認識においてはかつてのソ連帝国時代へのノスタルジーから地域大国レベルでは満足できず、あくまでもグローバル・プレイヤーを自任する傾向がある。「帝国は時として強制的な行為をとらざるを得ない局面に立ち、特別な使命という名のもとに、ある種の公共財を作り出す。大国はいずこも、粗野であるのと同じように抑圧的であり、本質的に利己的な生き物である。」(348ページ)

 もはや帝国ではないが、国民国家未満の状態にあり、近代化の遅れも目立つロシア。本当に必要なのは、過去の栄光の復活を求めるのではなく、現在の条件を見据えながら変革していくための新しい世界観を打ち出すことであるとして、国内体制の近代化や周辺諸国との協調を促すリベラルな提言で最後はしめくくられる。

 本書でとりわけ特徴的なのは、ロシアはユーラシア国家というよりも、ヨーロッパ・太平洋国家であるという見取り図の提起だろう。「ロシアの最重要地点、二一世紀のフロンティアは東方にある。そこには、目前にある太平洋の隣国たち、すなわち中国、日本、韓国に追いつくための必要と機会の双方をロシアは持っている。北京、東京、ソウルはこぞって太平洋を見据えている。地球規模で進む太平洋へのパワーシフトは、ロシア対外政策における新たな注目点を必然的に生み出しているのである。もしもピョートル大帝がいま生きていたとしたら、彼は再びモスクワから遷都するだろう──ただし、今回はバルト海ではなく日本海に向けて」(395ページ)。

 なお、ここに引用したフレーズは著者の決め台詞なのだろうか、以前に読んだ“Russia Reborn”(Foreign Affairs, vol.88 no.6,Nov/Dec 2009)という論文で見かけたのをよく覚えている(→こちらで取り上げた)。また、Dmitri V. Trenin, Getting Russia Right(Carnegie Endowment for International Peace, 2007)では、ロシアは地理的・文化的アイデンティティとしてヨーロッパにはなれないが、近代化・民主化は可能であるとして、それを「新しい西洋」(the New West)と呼んでいた(→こちらで取り上げた)。

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2012年3月22日 (木)

大田俊寛『オウム真理教の精神史──ロマン主義・全体主義・原理主義』

大田俊寛『オウム真理教の精神史──ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社、2011年)

本書はオウム真理教を一つの取っ掛かりとして近代日本社会が構造的にはらんでいるアポリアを照射していく。分析視角として採用されるロマン主義、全体主義、原理主義という3つのキーワードはそれぞれ多義的で問題含みの概念ではある。しかし、本書では近代思想史のコンテクストを踏まえて理念型的にきちんと整理され、それらを概念道具として使いこなす手並みが実に鮮やかで感心した。堅実な枠組みの中で議論が進められるので、結論的に示される見通しへの賛否は別として、少なくとも巷のオウム真理教論にありがちな浮ついた軽さは感じさせない。

・生きて死んでいく存在としての人間、しかしそれは肉体的な死を以て消滅するような一過性のはかないものではなく、死後もなお他者との「つながり」の中で生きていく存在であり、「つながり」によって共同体が成立していた。その「つながり」を物語るところに宗教の役割がある。ところが、苛酷な宗教戦争の反省からヨーロッパで政教分離の原則が生成するにつれて主権国家という「虚構の人格」が確立されるが、これには3つの問題点がはらまれていた。①権威としての至高性と世俗の軍事力との一致→限界なき暴力装置としての主権国家、②彼岸と此岸との分離→葬儀の公的性質の剥奪、「死」の問題の私事化、③近代の主権国家はその来歴から見ると社会統合のための「新たな宗教」と見なすべきだが、政教分離原則により国家の「非宗教性」、宗教は主観的内面性と考える矛盾→私的妄想と区別のつかない「宗教」が、「信教の自由」の下で保護されたり、「政教分離原則」で弾圧されたりというダブルバインド的状況→歪んだ「宗教」が数多く発生しやすい構造。

・近代における啓蒙主義へのアンチテーゼとしてのロマン主義:①感情の重視、②自然への回帰、③不可視の次元の探究、④生成の愛好、⑤個人の固有性、⑥民族の固有性。
・社会の巨大化・流動化・複雑化、誰とでも代替可能な自分という存在の軽さ→「世界の全体像を知りたい」「自分が生きている意味を知りたい」という人々の欲求の困難→「複雑な社会のなかで一つの部品のように生きている自分は「偽りの自分」に過ぎず、「本当の自分」は見えないところに隠れている」と考える→ロマン主義への志向性。

・全体主義の特質:①幻想的世界観、②カリスマ的支配、③二元論的基準、④神秘的融合、人格改造、⑤自閉的共同体、⑥暴力的精鋭組織、⑦強制収容、⑧異分子排除、情報防衛。
・根無し草として生きる群衆の孤独、日々の不安、そして自分自身を含めた人間や社会への嫌悪→「淀んだ快楽と倦怠に満ちた孤独の生を過ごすか、あるいは、ある全体性のなかに身も心も没入してゆくか──近代の群衆の前にしばしば突きつけられるのは、このような究極的な二者択一である。そして、前者の生活に耐えることができなくなった群衆は、やむなく後者を選び取る。自由の基盤であると同時に、苦悩の源泉でもあった自律的自我を放棄して、カリスマの人格や閉鎖的コミュニティの秩序に深く没入することは、それまでに経験したことのないほどに強烈な恍惚的享楽の感情を、彼にもたらすことになる。彼は幻想的な充溢感のなかで、自分自身が新たな存在に生まれ変わったかのように錯覚する。そして彼は、かつて自分がそうであったような生のあり方、すなわち生きていようが死んでいようがさして実感のない淀んだ生、無用な生のあり方に鋭い敵意を向け、その存在を抹消するために、歯止めの利かない暴力性を発動することになるのである。」(167ページ)

・原理主義概念については終末思想の系譜として整理。

・「…ロマン主義、全体主義、原理主義という思想的潮流が発生し、社会に対して大きな影響力を振るうようになったのは、近代という時代の構造、より具体的に言えば、国家が此岸の世界における主権性を獲得し、宗教や信仰に関わる事柄が「個人の内面」という私的な領域に追いやられるという構造そのものに起因していると考えることができる。」(276ページ)
・「…ロマン主義は「本当の自分」という生死を超えた不死の自己を、全体主義は他者との区別を融解させるほどに「強固で緊密な共同体」を、原理主義は現世の滅亡の後に回復される「紙との結びつき」を求めることによって生み出される幻想なのである。」(277ページ)

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2012年3月21日 (水)

宮田律『イスラムの世界戦略──コーランと剣 一四〇〇年の拡大の歴史』

宮田律『イスラムの世界戦略──コーランと剣 一四〇〇年の拡大の歴史』(毎日新聞社、2012年)

 現在の国際情勢におけるイスラム世界の位置づけを考えていく上で最低限必要な知識を概説した入門書。高校世界史のイスラム史に関わる部分をもう一歩踏み込んだくらいのレベルの知識は満遍なく得られる。新聞の国際面を読む際の副読本として活用すると良いだろう。例えば、イスラム圏の人々の行動パターンを理解する上で不可欠な教義について政治経済と絡ませながら解説しているところは国際ニュースを読み解く上で役立つ。ただ、イスラム経済が資本主義・社会主義とも異なる第三の経済路線を目指しているというのは興味深いのだが、それが近代的経済システムとどのような形で接合するのか、あるいは接合できないのか、この辺りをもっとはっきり整理してくれたらありがたかった。

 イスラムも決して一枚岩ではなく、例えばスンニ派とシーア派との対立などはすでに一般常識になっていると思う。しかし、報道等では教義が違うからと簡単に整理されていることも多いが、ではどのような相違があるのか、よく分からないこともしばしばある。そうした点では、例えば本書でシリアのアラウィ派をめぐる歴史を通して現アサド体制の来歴を解説している箇所は勉強になった。

 日本とイスラムとの関わりでは、井筒俊彦、山内昌之、鈴木規夫など大川周明のイスラム研究における先駆性を高く評価する見解が見られるが、本書でも同様に高評価。どうでもいいが、タイトルの「イスラムの世界戦略」というのは内容と若干合ってない気がした。歴史的に拡大してきた経緯は記されているにしても、そこに目的を目指して段取りを組むという意味での「戦略」はないだろう。

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中目威博『北京大学元総長 蔡元培 憂国の教育家の生涯』

中目威博『北京大学元総長 蔡元培 憂国の教育家の生涯』(里文出版、1998年)

著者の名前にはどこかで見覚えがあると思っていたら、『ある台湾知識人の悲劇』『豚と対話ができたころ』(岩波書店)などの著書がある楊威理の日本名か。まえがきに、日本の敗戦直後、北京大学に入学して云々と書かれていて、何のことか分らなかったのだが、読了後になってようやく事情が得心できた。

・1866年、紹興の商家に生まれた。科挙を受験して進士に合格、翰林院に入る。
・西洋文化を吸収するために外国語を勉強。日本語は野口茂温という人に学ぶ。日本語速成法でリーディング重視なので会話はできない。他に英語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語。
・変法運動には同情的だったが、少人数のクーデターでは体制立て直しはできない→民衆教育。1898年に故郷の紹興に戻る。1901年に上海へ行き、南洋公学(1897年に盛宣懐が創立、現在の交通大学)に勤務。1902年に仲間と一緒に中国教育会(他に章炳麟、呉稚暉など)。同年、南洋公学の学生運動で退学する学生と一緒に辞職、愛国学社を創立。校規第1条には「本社は略日本吉田氏の松下講社(村塾)と西郷氏の鹿児(島)私学の意を師とし、精神教育を重んずる。授ける所の各学科、これ皆精神の鍛錬、志気の激発の助けになるものとす」。また商務印書館の編訳所長も兼任。
・1905年、東京で中国同盟会が創立された際、蔡元培は上海分会長となった。
・1906年、北京へ行き、訳学館で国文学と西洋史の授業を担当。この頃から言文一致を主張。
・1907年、ドイツ留学へ。ライプチヒ大学に入り、ヴィルヘルム・ヴントやカール・ランプレヒトなどの講義に出る。1911年、辛亥革命の報に接して陳其美からの催促で帰国。
・1912年、中華民国臨時政府の教育総長(文部大臣)に就任。教育の5つの方針→軍国民教育、実利教育、道徳教育、世界観教育、美的教育。7月には「袁世凱と協力せず」の声明を出して辞職。
・1913年、フランスへ行き、李石曽や汪兆銘らと「勤工倹学運動」にたずさわる。
・袁世凱の死後、文部大臣となった范源濂(蔡元培が文部大臣だったときの次官)が蔡元培を北京大学総長に推薦→帰国。1916年12月に就任、大学改革に着手。
・教授陣の刷新・強化→文学部長に陳独秀を招聘。陳独秀は胡適を紹介。他に李大釗、魯迅、周作人、銭玄同、劉半農などの著名人ばかりでなく、まだ青年で学歴のない梁漱溟も抜擢。「思想の自由と兼容並包」の原則、真理の相対性、特定の学派の絶対性を認めない、大学の自由という方針→進歩派ばかりでなく学識があれば保守派(辜鴻銘、劉師培、黄侃、崔適、陳漢章など)も招聘した。「孔子を全面否定する呉虞の講座もあれば、孔子を全面肯定する陳漢章の講座もある。その中間帯に梁漱溟がいて、「孔子哲学研究会」を作り、客観的に孔子を見直そうとする。アメリカ帰りの胡適が斬新な「中国哲学史」の講義を法学部の大講堂で開けば、理学部の大講堂では中国哲学とインド哲学に造詣のある梁漱溟が「東西文化及びその哲学」の講義をする。この二人の講義はとくに土曜日の午後に設定されて、多くの学生が聴講できるように配慮されている。」(137頁) 「総長と教授の間では、学術面でも平等で民主的であった。年若い胡適は『紅楼夢考証』のなかで、総長・蔡元培の著作『石頭記索隠』を批判し、総長は「間違った道を歩いた」、この本は「牽強付会な紅楼夢研究」で「愚かなる謎当て」である、などと遠慮もせずに否定してしまった。蔡元培も負けずに1922年に長文の反論「胡適之先生の『紅楼夢考証』についての討議」を公開し、自説を擁護した。このような激しい論争があっても、二人の間にいささかなひびも入らない。若い教員の梁漱溟も蔡元培の著作『中国倫理学史』を批判し、「仁」の定義について異なった意見を出して、蔡元培と論争し合った。」(138頁)
・「前近代社会では個性は押えられている。そこには民主も自由もない。個の目覚めなくば、社会の進歩はありえない、と蔡元培は考えていた。ゆえに彼はことさら個性の尊重、人権の保障、教育の独立、学術の自由を強調していたのである。」(141頁)
・一般市民にも開かれた大学にしようと傍聴生の制度。さらには「盗聴生」も事実上黙認→知識欲に燃える貧しい若者が恩恵にあずかった。1920年には女子学生の入学を認める。
・軍閥政権からは蔡元培追放の圧力。
・五四運動で学生たちが曹汝霖宅を焼き討ち→度を越したと諭したが、学生が逮捕されたと聞くと救出に奔走。学生の釈放後、辞職を表明→慰留の声が高まる→辞意取り消し。
・周作人が武者小路実篤の新しき村を紹介、クロポトキン『相互扶助論』の影響→蔡元培、陳独秀、胡適、周作人、李大釗らが発起人となって工読互助団(やがて失敗)。蔡元培には無政府主義の傾向。
・蔡元培の非暴力主義は孫文との意見に相違。
・軍閥政府の圧力に抗議する形で1923年1月に辞表を提出。慰留されたので職位はそのままにして(総長代理は蒋夢麟)彼自身は海外へ。帰国後も北京には戻らず、1927年7月に正式に総長解任。
・蒋介石の北伐に協力。浙江省、江蘇省、安徽省に基盤を置く孫伝芳に反対するため三省自治運動に参加→省自治の連合制に賛成。
・1927年の四・一二クーデターの決定に蔡元培も張人傑、呉稚暉、李石曾(4人合わせて“四老”)と共に参与(共産党の暴力行為は自由と民主に反するという考え方)→知識人の間に衝撃。他方で蔡元培は「平和的対処」を強調→しかし、実際には無意味。
・南京国民政府に参加、大学院長に就任。中央研究院を設立、その院長。
・他方、蒋介石のファッショ化には批判的態度。国民政府の人権侵害には抗議。1932年、宋慶齢たちと共に中国民権保障同盟。
・晩年は上海から香港に移り、1940年に死去。

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M.メイスナー『中国マルクス主義の源流──李大釗の思想と生涯』、森正夫『李大釗』

M.メイスナー(丸山松幸・上野恵司訳)『中国マルクス主義の源流──李大釗の思想と生涯』(平凡社選書、1971年)

・1888年、河北省の農村に生れた。幼いうちに両親を亡くし、祖父母に育てられた。祖父母も亡くなった後、残してくれた遺産を使って1907年に天津の北洋法政専門学校に入学。英語、日本語、経済学を学ぶ。1913年に卒業後、『法言報』紙編集のため北京に行く。
・辛亥革命後の状況の中では進歩党とつながり(湯化竜との縁)。
・湯化竜の経済的援助で1913年秋に日本留学、早稲田大学に入学。
・実践への志向を持つ個人の自覚の役割の強調はベルグソン『創造的進化』に由来。「自由意志」→自覚した人間が自分の生きている環境を変革する義務と能力、個人の参加の義務を意味している。主意主義的。
・陳独秀が民族主義を支持しないのに対して、李大釗は愛国心を称揚。
・滞日中に書かれた論文「青春」→政治能動主義的・民族主義的・楽観主義的傾向への哲学的支柱。
・進歩党の機関紙『晨鐘報』編集長→梁啓超たちが段祺瑞を支持するのを批判する論説を出そうとして禁止され、袂を分かつ。1918年から『新青年』編集委員会に入る。
・「中国におけるマルクス主義的社会民主主義の伝統の欠如は、1918年までの知識人の思想にマルクス主義の影響が全く認められないことともに、中国におけるボルシェヴィキ革命とマルクス主義学説の受容の方法に関して重要な意味を持っている。ヨーロッパやロシアのマルクス主義者が、おおむね政治活動の道に入るまでにマルクス主義理論の中心問題の研究に何年か没頭しているのとは異なって、中国で共産主義の信者になった人々は、マルクス主義世界観の基本的仮定さえ知らぬままに、「マルクス主義」革命に身を投じることになったのである。」(90頁)
・1918年2月、陳独秀の推薦で北京大学図書館主任。経済学教授も兼ねる。
・「李のロシア革命への反応を単に新思想の影響という見地からのみ理解することはできない。彼は単にマルクス、レーニン、トロツキーの学説の衝撃だけであのように熱狂的なボルシュヴィズムの唱道者となったのではない。むしろ、革命という行為そのもの、至福世界(ミレニアム)が眼前に実現しつつあるという期待に鼓舞されていたのだ。至福世界がいかなるものであるかについては、1918年7月と11月の論文では、いま現にそれが創造されつつあるという事実に対するほどには関心が払われていない。彼は革命を個々の圧制者に対する反乱というよりは、むしろ全世界の秩序を変革せんとする偉大な、普遍的・根源的力であると考えていた。」「1918年の李にとっては、革命それ自体が唯一の価値の源泉であり、真の創造力であった。」(105~106頁)
・1919年夏、胡適が提起した「問題と主義」論争。
・北京大学教授だった五四時期の師弟関係→学生たちの共産党加入。
・形の上ではマルクスの唯物論的歴史解釈の一般原理を受け入れたが、自己の意志に従って社会を改造する意識的・能動的人間の能力に対する信頼を捨てようとはしなかった。決定論と能動主義との矛盾の問題。
・1919年、アジア連邦の提唱(日本の大アジア主義と区別して新アジア主義)
・「陳独秀のような、より国際主義的・西洋指向的な中国マルクス主義者たちは、中国の都市プロレタリアートと提携することが必要だと感じていた、なぜならこの階級は(萌芽的ではあるが)西洋のイメージの中で作り出されたものだからである。李大釗はこれに反して中国民族の根源的な勢力と提携することが必要だと感じていた。農民の中に、彼は、偉大なる革命のいきいきとしたエネルギーの体現者、中国の民族的伝統の伝達者としての階級を見出したのであった。」(339頁)
・1927年4月6日、張作霖の軍隊が北京のソ連大使館に侵入し、約百人のロシア人や中国人を逮捕、李大釗もその中にいた。その後、処刑。
・能動主義的・主意主義的衝動→民族主義的衝動によって鼓舞、救世主的な民族主義へ。李大釗も毛沢東も革命的主意主義と中国民族主義との結合によって階級闘争を推進。

 メイスナーの本は李大釗の伝記的叙述よりも、毛沢東主義登場の前史として、李のマルクス主義理解と一般的なマルクス主義理論との比較検討の方が重視されており、それは必ずしも読みやすくないだけでなく、たいして面白くもない。森正夫『李大釗』(人物往来社、1967年)の方が歴史的背景や人物的つながりを記述して評伝としてまとまっているし、読みやすい。日本との関わりでいくつかメモしておくと、
・北洋法政専門学校では袁世凱に招かれて教鞭を取っていた吉野作造の講義を受けた。
・日本留学時は牛込区戸塚町520番地のYMCA内が宿舎。後に李大釗は北京で付き合いのあった牧師の清水安三に「東京で安部磯雄と接し、感化を受けました。大山郁夫からはそれほど影響は受けませんでした」と語っている。
・1919年「私のマルクス主義観」→中国における最初の体系的なマルクス主義の紹介。マルクスの経済学における地位、マルクス主義の体系の3つの構成部分への整理、史的唯物論について、用語も含めて河上肇から多くを学んでいる。マルクス文献の重要箇所は河上の日本語訳から現代中国語に翻訳。

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2012年3月11日 (日)

村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史──独立戦争からユーロ危機まで』

村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史──独立戦争からユーロ危機まで』(中公新書、2012年)

 現在の我々が「国家」や「民族」として自明視しがちなものは近代の産物であるということはもはや常識に属するだろうが、その形成過程には地域ごとに複雑な力学が絡まりあっており、一般論として語ることはなかなか難しい。本書はギリシャを中心軸に叙述されたリーダブルな近現代ヨーロッパ史であると同時に、前近代的社会の中で近代的な「国民国家」が形成されていく過程の具体的な有り様を描き出している。ギリシャ近現代史というと昨今話題のユーロ危機への関心から手に取る人もいるだろうが、むしろ歴史的観点によるナショナリズム論として良書だと思う。

 本書によると、ギリシャ人意識は18世紀後半以降の政治、社会、文化の大きなうねりの中で生み出されたものだという。かつてビザンツ帝国においては「ヘレネス」(ギリシャ人)ではなく、「ロミイ」(ローマ人)という意識が持たれていた。すなわち政治社会における皇帝とキリスト教世界の教皇とが一体化した体制の中でのローマ帝国臣民かつ正教キリスト教徒という意識が中心であり、古代ギリシャ世界のことは知りつつもそこには距離を感じていた。こうした意識はオスマン帝国のミッレトによる宗教的コミュニティーの分立が許容された体制において維持された。つまり、ギリシャ人のアイデンティティはキリスト教徒としての宗教意識に基盤を置くものであった。

 18世紀以降、オスマン帝国とロシア帝国との抗争が激しくなるにつれてギリシャ人たちも自分たちの新たな運命を切り開く可能性に思いをはせるようになったが、それは民族的独立という近代的な性格を帯びたものではなく、むしろ正教キリスト教世界の復活への願望であった。彼らが「古代ギリシャ」を見出したのは啓蒙思想がきっかけだったという。オスマン帝国支配を肯定してきた正教会組織(これはビザンツ帝国に由来する)の後進性への批判がビザンツ時代軽視につながり、それに替わるものとして古代ギリシャ世界との絆が新たなアイデンティティの中核となった。

 そうした中で歴史学者のパパリゴプロスが著した『ギリシャ民族の歴史』は、古代ギリシャ─中世ビザンツ帝国─近代ギリシャという万古不易のギリシャ民族という国民の物語を生み出していく。ただし、それがただちに国民国家の誕生につながったわけではない。19世紀初頭のギリシャ独立戦争は①キリスト教対イスラーム教の宗教戦争、②列強諸国の復古体制としてのウィーン体制への不満という側面が強く、また、オスマン帝国の体制で既得権益を享受していたギリシャ人エリート層もいて、ギリシャ人内部も決してまとまっていたわけではなかった。ヨーロッパ列強の駆け引きの中で偶然的にギリシャは独立を果たしたに過ぎず、「ギリシャ国民」なるものの創造はむしろ国家建設後の課題となった。

 地続きの大地に様々な人々が広がって暮らしている中、宗教、言語、国境が完全に一致するなどということはあり得ない。ギリシャという国民国家の誕生にあたり、当然ながらまず言語をめぐるアイデンティティの相克が問題となった。

 例えば、コイネーで記された福音書の口語ギリシャ語への翻訳はギリシャ国内で大騒動となったという。古代語が読めないという事実の認識は、言い換えると古代から近代まで一貫して継続してきたギリシャ民族の一体性という「神話」のタブーに触れてしまうからだ。当時のギリシャの言語状況はダイグロシアと言われ、文章語として用いられる古代ギリシャ語を基本とするカサレヴサと都市部の口語を基にした民衆語ディモティキの並存を指す。カサレヴサはエリートの社会的地位保持の根拠となっていたが、これによって古代との一体性を重視するか、民衆的基盤を重視するか、いずれにせよギリシャ・ナショナリズムの二つの側面が表れていた。

 歴史意識に基づく言語問題以上に、国境をめぐる言語的同化も深刻な問題となる。国境を画定する上では当然ながら周辺との係争地域で軋轢が生じることになるが、例えばマケドニアの住民にとって民族的アイデンティティは外来の概念に過ぎなかった。ギリシャ人、セルビア人、ブルガリア人といった母語に基づくエスニックな自覚よりも正教徒としてのアイデンティティの方がもともとは普通であった。ところが、ギリシャ王国の民族主義者たちは彼らにギリシャ人意識を植え付けるための言語教育に着手、こうしたプロパガンダに対抗するためブルガリア王国でも同様のことが実施された。

 また、「メガリ・イデア」(大きな理想)による領土拡張を動機として第一次世界大戦にあたりギリシャ軍はスミルナを占領したが、こうした動向はトルコ人のギリシャ人への敵対感情を生み出し、さらにはトルコ共和国を生み出すことになるトルコ側のナショナリズムの原動力として作用することにもなった(なお、ギリシャ・トルコ双方の領土確定の際に強制的住民交換協定が結ばれたが、民族籍は宗教を基準に決められ、ギリシャ王国側に移住せざるを得なくなった人々の中にはトルコ語話者の正教徒も含まれていた)。いずれにせよ、一方のナショナリズム意識が、近隣においてもう一方のナショナリズムを触発していく連鎖関係がうかがえる。

 民族的アイデンティティをめぐる複雑な問題の絡まり方は、他にも第6章で説明されるポンドス(黒海沿岸)のギリシャ人とソ連との関係やキプロス問題でもうかがえ、問題の根の深さを感じさせる。キプロスはギリシャ・トルコの対立がNATOの結束を崩しかねない懸念から妥協の産物として独立を果たしたが、ギリシャ系住民の代表として大統領に就任したマカリオス大主教は共和国の独立維持を優先課題としたため、ギリシャの軍事政権から暗殺されそうにもなったらしい。

 第一次世界大戦後、ヨーロッパ列強の支持が得られなくなった状況下、領土の現状維持を図るしかなくなったヴェニゼロス(後述)は周辺諸国との協調関係を模索、これに呼応したのがトルコのムスタファ・ケマルだったというのが興味深い(ヴェニゼロスはケマルをノーベル平和賞の候補に推薦までしたそうだ)。トルコもまた内政に専念するため対外的安定を意図していたからだが、裏を返せば両国とも確定した領域内部での国民的均質化の段階に入ったと考えることもできるだろうか。ただし、このヴェニゼロスの方針は同時にトルコ領域内から移住してきた難民から帰郷の希望を奪うことでもあり、ヴェニゼロスは彼らの支持を失うことになる。なお、オスマン帝国の時代から繁栄していた大都市テッサロニキ(サロニカ)はギリシャ編入後はアテネに次ぐ第二の都市となった。しかし、ここはもともとユダヤ人が多数派を占めており、反ユダヤ主義的だったヴェニゼロスは「ギリシャ化」するためギリシャ人難民をここに集中的に住まわせる政策をとった。(※この都市をめぐる歴史については、Mark Mazower, Salonica, City of Ghosts: Christians, Muslims and Jews 1430-1950で描かれている。手元にあるのだが、まだ通読しておらず、邦訳を刊行してくれる版元があったら嬉しい)

 独立当初から分裂抗争を繰り返してきたギリシャにおいては軍事クーデターも頻発した(こうした中、日露戦争に刺激されて改革を志したディミトリオス・グナリスなど7人の政治家が「日本人党」と呼ばれたのが興味深い)。そこでカリスマ的な指導者として頭角を示したのが、クレタ蜂起の活躍で名声の轟いたヴェニゼロスであった。彼は一連の近代化政策で大きな実績をあげたが、第一次世界大戦にあたり中立の態度を取ろうとした国王に対し彼は連合国側に立っての参戦を主張、結果としてヴェニゼロスの判断が正しかったにせよ、国王支持派との対立は再び国内を分裂させることになってしまった(ヴェニゼロスは1936年に亡命先のパリで死去)。

 国内の分裂抗争はギリシャ政治の習い性になってしまったものか、第二次世界大戦後になると今度は左翼・共産主義勢力との内戦が激化、共産主義者はギリシャ民族とは異質な存在と位置づけられて次々と殺害されていく。ところが、軍事政権の強硬姿勢に耐え切れなくなった国王コンスタンディノス2世はローマに亡命。パパドプロスは王制を廃止して自ら大統領に就任、強圧的かつ時代錯誤な政策を断行した。反体制運動が盛り上がる中、これまで対立してきた左右両翼の政治家や知識人たちはようやく結束、1974年の民主化へとつながっていく。これ以降、カラマンリスが結成した新民主主義党(ND)とアンドレアス・パパンドレウ(最近辞任したパパンドレウ首相の父親)率いる全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が交互に政権交代を行う政党政治が確立する。

 しかしながら、PASOKは特権なき者への政治をスローガンにしつつも、実際には借金に依存したバラマキであった。対抗勢力たるNDもこれに追随してチェック機能を果たすことができず、財政は悪化する一方、結果として現在のユーロ危機につながっていく。

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【映画】「生きてるものはいないのか」

「生きてるものはいないのか」

 石井聰互改め石井岳龍監督の最新作「生きてるものはいないのか」を観た。10年ほど前の「五条霊戦記」以来というから、そんなにブランクがあったのか。今回の作品は饒舌だがひねりのきいた会話のやり取りが面白いと思っていたら、もともとは舞台作品らしい。原作を手がけた五反田団の前田司郎が映画版の脚本も担当している。

 大学のキャンパスで学生や行き合わせた人々が馬鹿馬鹿しいほどたわいないおしゃべりに興じている中、突然みんな次々と死に始めるという設定の不条理劇(そう言えば、石井監督の昔の作品「水の中の八月」もこのような設定だった)。理由は分からない。ただ、原因が何であろうと、人はいずれ必ず死ぬという厳粛な事実は避けられない。それが予期していなかったシチュエーションで唐突に自らの身に降りかかったとき、どのように受け入れるのか。いまわの際にもだえ苦しみながら最後の言葉をひねり出そうとする時のやり取りが妙に「論理的」で、それが何ともコミカルと言うか、シュールと言うか。死を茶化すシーンの連続に居心地の悪さも感じつつ、不謹慎な笑いの快楽につい浸ってしまう。

 だが、ラストにさしかかるとトーンが一変する。最後まで生き残った少年と少女が海辺までたどり着く。「世界の終わり」を見に行くというストーリーの岩井俊二監督「PICNIC」をふと思い浮かべた。あるいは、核戦争の勃発で放射能が拡散していく中、人類滅亡の瞬間を待ち受けるシーンを描いたSFの古典、ネヴィル・シュート『渚にて』(ハヤカワ文庫)も。高潮していく音楽と共に映し出される茜色に染まった空が実に美しい。墜落していく飛行機を映し出すことで立体的な奥行きを示し、いま目に見えていることだけでなく、全世界で同時に生じている出来事に自分たちも巻き込まれていると気づかせる演出は、例えば黒沢清監督の「カリスマ」「大いなる幻影」「回路」などでも見られた手法だろう。

 やがて少女も死に、残された少年は黄昏色に染まった世界とたった一人で向き合う。絶対的な孤独、むき出しの実存。ついさっきまで繰り返されていた日常のどうでもいい馬鹿馬鹿しさと対比されたとき、この厳しさがまた無性に美しく感じられる。

 この最後まで生き残った少年を演じるのは染谷将太。無垢でニヒルな表情が印象的だ。最近公開された園子温監督「ヒミズ」でも同様だったが、こうした役どころが定着しそうだ。

【データ】
監督:石井岳龍
監督・脚本:前田司郎
2011年/113分
(2012年3月10日、渋谷・ユーロスペースにて)

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【映画】「四川のうた」

「四川のうた」

 四川省・成都近郊にある国営の軍需工場を舞台とした賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督によるセミ・ドキュメンタリー映画「四川のうた」をDVDで観た。

 かつて中国では朝鮮戦争以降、西側との対決姿勢が強まる中、核戦争等によって沿岸部が壊滅する事態に備え、内陸部に軍需施設を移転させる政策(三線建設。沿岸部を第一線、内陸部を第三線と呼称)が進められた。この方針に基づいて沿岸部や東北地方から移住してきた人々は、工場を中心に周辺とは切り離された独自のコミュニティーに暮らしていたらしい。しかし、改革開放以降の社会的・経済的変化の波はここにも及び、工場は香港資本に買収されて大型商業施設として再開発されることになった。この映画は解体が進む工場を背景に、ここで暮らしてきた人々の語りを通して中国現代史の一端を描き出そうとしている。

 新旧様々な世代にわたる多くの人々への取材が基になっているが、映画に登場する語り手はプロの俳優が演じている。すべてのエピソードを網羅することはできないから少数のキャラクターに必要な要素を凝縮させているのだろうが、ジョアン・チェンなど有名人を起用することによる商業的な思惑もあるのだろうか。党の政策で移住してきた苦労話を語る老婆から、屈託なく自己実現の夢を語る現代っ子まで、それぞれの語りが並べられていくと、時代的なメンタリティーの相違が浮かび上がってきて興味深い。

 賈樟柯監督はインタビューで中国社会における自我の目覚めについて語っている。しかし、それは1910~20年代における五四運動/新文化運動期のメイン・テーマではなかったか。中華人民共和国成立以降の半世紀で捉えるよりも、一世紀にわたるタイムスパンを経てこのテーマが再浮上していることに私個人的としては関心がひかれている。

 1970年生まれの男性が憧れの少女の髪型を形容するのに山口百恵カットと言っているのが目を引いた。山口百恵主演の「赤い疑惑」という日本のテレビドラマを私自身は知らないのだが、これがかつて中国で放映されて大ブームになっていたことは、劉文兵『中国10億人の日本映画熱愛史』(集英社新書)で初めて知った。

【データ】
原題:二十四城記
監督:賈樟柯(ジャ・ジャンクー)
2008年/中国・日本/112分
(DVDにて)

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【映画】「私を離さないで」

「私を離さないで」

 カズオ・イシグロの原作(ハヤカワ文庫)は映画化以前にすでに読んでいた。最初は「ん?学園ものか?」と思いつつ設定の奇妙さに戸惑いながら読み進めていくと、徐々に主人公たちが臓器提供のためのクローンであることが分かっていく構成だったと思うが、映画では最初からそのことが分かるようになっている。2通りの受け止め方があり得るだろうか。第一に、臓器提供のためクローンを作り出したとして、では「人間らしさ」とは何か?という問題。第二に、物語世界としてクローンがすでに所与の条件となっている中で、自分が生きて死んでいくことにどのような意味づけを図るかを考える寓話として。私としては後者の方で、運命への屈従でも諦念でもない形で受け入れていく姿、それを描き出す静かに落ち着いた映像がしんみりと美しく、印象的だった。

【データ】
監督:マーク・ロマネク
原作:カズオ・イシグロ
2010年/イギリス・アメリカ/105分
(DVDにて)

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2012年3月 4日 (日)

ガイ・S・アリット『最後の儒者:梁漱溟と近代をめぐる中国のジレンマ』

Guy S. Alitto, The Last Confucian: Liang Shu-ming and the Chinese Dilemma of Modernity, 2nd edition, University of California Press, 1986

 梁漱溟(1893~1988)は五四運動・新文化運動の時期に頭角をあらわした思想家の一人。まだ20代後半の若さで蔡元培に見出されて北京大学で教鞭をとった。当初は仏教学を担当していたが、独自の文明論を展開するうちに儒教の再評価を主張、同僚であった胡適や陳独秀などと交わした東西文明論争は当時、注目を浴びた。自身の文明論に則った実践活動を志して北京大学を辞職、郷村建設運動に取り組む。抗日戦争・国共内戦に際しては第三党派の立場から国共の調停に奔走したが、最終的には失敗。中華人民共和国の成立後は北京に留まった。毛沢東を批判したため事実上引退していたが、文化大革命の終了後、再び注目を集め始める。本書は彼の生涯と思想について体系的に叙述された伝記である。

 梁漱溟は後に現代新儒家の先駆者と評価されることになる。しかし、①近代的教育を受けて育ったため、もともと儒学の素養があったわけではない。あくまでも彼自身の構想する文明論のロジックに従った儒教再評価であったため、伝統回帰的な復古派とは精神的土壌が全く異なるし、ベルグソン、オイケン、ショーペンハウアーをはじめ西洋の思想家を頻繁に引用している。②彼の文明論は、第一段階=西洋文化(→個の自覚を基礎とした科学と民主主義の精神で物質文明を発達)、第二段階の=中国の儒教文化(→内面的倫理性に基づき協同社会を形成)、第三段階=印度文化(→宇宙的一体感の悟りにより世界の寂滅へと向かう)の順序で世界文化は進化するという論法を取り、個々の段階に優劣はつけていないし、さらにクロポトキンやギルド社会主義を引き合いに出して、これも第一段階の限界の自覚から第二段階へ向かおうとする徴候だと捉えている。従って、単純なナショナリズムが儒教文化再評価の動機となっているわけではない。③晩年になると「本当は一貫して仏教徒だった」と発言しており、これに著者のアリットは戸惑いを見せている。しかし、彼の三段階文明論のロジックに基づけば、現在は第二段階たる中国の儒教精神が必要ということであって、遠い将来には第三段階へと向かうことになっているのだから、矛盾はしないだろう。

 第一段階をきちんと発展させないまま第二段階だけ成熟させてしまったところに中国社会の問題があったと考え、第一段階たる西洋の物質文化を摂取すると同時に、第二段階たる中国自身の儒教文化も再評価しなければならないと梁漱溟は主張した。ところで、彼が若い頃の精神的煩悶をクリアするため仏教に傾倒したところには、伝統的感性から離れた近代的自我に近いものすら感じさせる。彼の文明論的ロジックによって考えると、彼自身は第一段階の「個」のあり方で悩んだ末に、第三段階の仏教的悟りへと飛躍しようとしてしまったということになり、このあたりのジグザクな関係はややこしい。

 私自身が梁漱溟に関心を持っているポイントは、①最終的には世界が寂滅へと至る文明論(これは章炳麟「五無論」とも共通)と彼自身の自我意識との関わり方、さらには同時代的な思潮との比較。②新文化運動においては胡適や陳独秀の合理主義・個人主義に注目されがちだが、それとは違った立場の梁漱溟のような議論もあり、全体として闊達な言論の自由があったこと。③郷村建設運動と農本主義との比較。④自らを「中国のガンディー」になぞらえた非暴力主義。⑤公論形成のため知識人は権力と距離を置く必要があると考えて無党派・第三党派を目指したこと、など。

(以下は本書を読みながらとった箇条書きメモ)
・梁漱溟の父である梁済(巨川)自身は儒学的教養を備えた知識人であったが、西洋的な改革の必要を感じていたため、息子には西洋式教育を受けさせた。そのため梁漱溟は大人になるまで儒学の古典を学ぶことはなかった。
・他方、梁巨川は辛亥革命後、北京に享楽的な消費生活が蔓延し始めた状況を目の当たりにして、これは西洋文明の表面的な模倣に過ぎないと批判。近代化の必要を主張した彼の本来的なスタンスは変ってはいなかったものの、理想と現実との落差から疎外感を募らせつつあった彼は伝統的モラルの再生を痛感するようになった(この点は梁啓超と同様だと指摘されている)。中国同盟会に賛同して革命に飛び込んだ梁漱溟は(辛亥革命に感動して早速南京へと赴き、『国民報』の記者となった)父と見解に齟齬を来たすことになり、これが梁漱溟の原罪意識の一因になったと本書では捉えている。
・快楽と苦痛とはどこから生ずるのか?という精神的模索や父との葛藤から生じた懊悩の解決を模索する中で仏教、とりわけ日本経由でもたらされたばかりの唯識思想への関心を深めた。父との葛藤に着目し、エリクソンのアイデンティティ論で解釈しようとするのはいかにもアメリカの研究者らしい視点だ。

・1916年、梁漱溟はそれまでの社会心理的モラトリアムから抜け出したかのように論壇へ再登場。最初の記事は陳独秀の仏教論への批判。西洋思想の知識を用いながら唯識思想によって世界観を構築していこうとする彼の議論は論壇に認められ、蔡元培や陳独秀に招聘されて1917年の後半から北京大学でインド哲学を講ずることになった。
・1918年11月、梁巨川は還暦の誕生日を迎える頃、警世の遺書を残して自殺した→新旧世代に論争を巻き起こし、彼の遺書は出版された。彼は袁世凱の帝政運動も張勲の復辟も支持しておらず、単純に清朝や帝政など伝統的体制に殉じたわけではなかった。共和主義を歓迎しつつも清朝に殉じた矛盾→むしろ、共和国の世代に理想や道徳的高潔さに殉ずる姿勢を示したかったのだと解釈される(※こうしたメンタリティーは福澤諭吉「痩せ我慢の説」「丁丑公論」と比較できるだろうか?)。陳独秀は感動したが、胡適は合理主義の観点から共感を示さず。
・梁漱溟は学歴も留学経験もなく、しかも一番若かったので北京大学に馴染めたわけではなかった。1919年の五四運動では学生たちの心情には全面的に賛成ながらも、曹汝霖邸を襲撃したことを批判→将来の中国に法治が必要なら学生も法治の原則を守るべき。
・梁漱溟は一般世論から仏教学者とみなされていたが、1921年に儒教のために仏教を捨てたと宣言→清貧の生活を捨てて結婚。この転向には父の死が影響したと解釈したくもなるが、2年以上のタイムラグがある。以前から儒教への関心は言及されていたので、むしろ父の死以前、1911~16年あたりの精神的危機の頃までさかのぼるだろうと指摘される。

・第一次世界大戦後の西洋文明に対する懐疑→梁啓超、張君勱(Zhāng Jūnmài)と共に梁漱溟も伝統回帰の保守派とみなされた。1921年に刊行した『東西文明とその哲学』は「文化論争」に火をつけた点で大きな影響があった。
・梁漱溟の言う「文化」は唯識思想を基本としつつ、ショーペンハウアーの「意志」の概念も応用。この世界における人間存在とは根源的な「意志」が環境と相互反応しながら具体化されていくプロセスそのもの、こうしたプロセスのあり方=人生のあり方が「文化」であり、「文化」の相違とは、この「意志」が環境へと向き合う方向の相違であると捉える。
・「文化」の三段階:第一段階では「意志」は環境を積極的に変えていこうとする。第二段階では「意志」は環境に適応しようとする。第三段階では「意志」そのものを消し去ろうとする、つまり自己及び外界という幻影を打ち破ることでニルヴァーナへと至る。それぞれの段階は西洋、中国、インドに比定される。最終的には一つの段階がクリアされてから次に進むという進化論的な段階説をとり、それぞれの段階は相対的に捉えられ優劣はない。第一段階を経なければならないという点で西洋文明の摂取が正当化されると同時に、第二段階として中国文化の再評価も両立する。経済構造が文化のあり方を決めるという考え方ではマルクス主義も受け入れるが、ただし「意志」について閑却されている点で十分な説明ができないと考えた。
・現在、西洋が優勢なのは第一段階に適応しているからであり、中国の場合は第一段階をとばして先に第二段階に適応してしまったところに問題がある。こうしたロジックに基づいて、西洋と中国の良い所どりをしようとする東西文明融合論を批判。いまやコミュニケーション手段の発達により世界は一つになった→第二段階としての中国文化を世界に向けて発信する積極的な意義。
・西洋文明の核心を科学と民主主義に求める点で陳独秀の見解に同意。個人の自由や自我の自覚は、単に個人的レベルだけでなく、共同体を活性化させるので集団にとっても価値がある。
・西洋人の知的な計算→個人をコスモスから疎外した。
・五四運動後の思想では急進派も保守派も西洋(帝国主義)への反感を抱きつつも、西洋思想の言葉を用いて議論するという逆説では梁漱溟も例外ではない。例えば、易経をアインシュタインの相対性理論になぞられる。中国の形而上学では概念を固定的にではなく動的に捉える→ベルグソンの「直観」概念やドイツの「生の哲学」によって王陽明を説明。
・梁漱溟の考えでは、西洋における直観重視の哲学やギルド社会主義などの動向は西洋文化の精神的な中国化と捉えられた。例えば、クロポトキンの相互扶助論。ラッセルの実証主義的な側面は梁漱溟の志向性に合わないようにも思われるが、ラッセルの人道主義への情熱に梁漱溟は共感。それから、タゴール、オイケン、心理学、社会主義。
・「科学」は知的計算によって生み出されるが、自然を死物の堆積としてしまう。「民主主義」は自己と他者の分割によって維持されるが、自己と他者との感情的融合という中国の精神とは正反対、と考えた。
・胡適は環境決定論だと批判→しかし、彼はきちんと読んでいなかった。梁漱溟の描く「中国文化」は理想化されすぎているという批判。蔡元培は現代の思想的課題を提起したと評価→梁漱溟の中心的なテーマは近代の危機に関わる。
・『東西文化とその哲学』は、梁漱溟自身の西洋的功利主義と仏教の慰安との間をさまよった果ての解決策として儒教に行き当たったもの。

・道家的ユートピア志向の農業国家の実効性には疑問→中国の貧困を何とかするには産業的発展が必要という認識。
・理論的問題に決着をつけた→次は実践。1924年に北京大学を去る。
・ドイツ人の音楽家・教育家Alfred Westharpと太原で出会った。
・教育改革の問題では、西洋的な方法は中国の現実に合わないと考えた→学生たちとアカデミックなコミューンを運営していく講学のスタイル。人生はすべからく教育だから、クラスはない。教師も生徒も共に畑で働きながら日常の問題の解決を通して学ぶ。学生自身が運営し教師は監督や手助け。(※日本の農本主義と比較は可能か?)
・山東省の曲阜大学では失敗→1925~26年まで一時隠退。広東の国民党から招聘の手紙が舞い込むがためらう。息子の死去など→気分がふさぎこむ。
・共産主義の登場は、個人の物質的利害という観点から西洋文明では理の当然として出てくる結論→代替的なプランを出さないと若者たちはみな共産主義に引き寄せられてしまう→郷村建設に取り組む。国民党も胡適たちリベラルも代替案を出せていなかった。
・1927~28年まで国民党の勢力下にあった広東に行き、教育分野などで活動。教育長官や中山大学教授などポスト提供の話もあったが辞退。
・1929年2月、北京に戻る。各地を回り、閻錫山支配下の山西にも行く。各地を見てまわりながら、徴税等の近代的行政システムがかえって問題を深めているのを実見。地方再建や農村自治は草の根からの人々の大衆動員という形を取るのでなければ失敗する。地方行政機構の拡大は地方自治ではなくただの官僚化であって、こうした傾向は悪い結果をもたらすだけ。社会運動は、単に行政からの独立だけでなく、行政に反対する運動。つまり、近代的行政の拡張が草の根レベルでは逆に機能不全に陥っている問題を指摘している(※梁漱溟のこうした見聞は、Prasenjit Duara, Rescuing History from the Nation: Questioning Narratives of Modern China[The University of Chicago Press, 1995]でも引用されていた。この引用は、未見だがPrasenjit Duara, Culture, Power, and State: Rural North China, 1900−1942[Stanford University Press, 1988]での研究がもとになっているのだろう)。
・1929年10月から、梁漱溟は河南の学校と北京の『村治月刊』事務所との両方で時間を過ごす。

・西洋文化は理性により物質的な自己利益を図る。だからこそ、制度としての立憲主義やリベラル・デモクラシーが必要となった。対して中国の儒教文化は外力ではなく内面的な倫理に基づくという相違があると主張。
・梁漱溟が主張した中国に特有の文化的ジレンマを解決する方法は、文化的復興による近代化→郷村建設の理論につながっていく。
・彼が地域的・文化的復興を正当化する最終的な考え方は、ナショナル・アイデンティティによる一体化やロマン主義によるものではなく、彼自身の考察による「客観的現実」に対応しようとしたもの。
・ソビエト体制は資本主義の問題点を回避しようとはしているものの、都市集中の産業化、中央集権などの機械化傾向は資本主義と同様の問題をはらんでいると考えた。
・西洋と比べて組織・科学の面で中国は劣っている→中国的な解決をするのが郷村建設の課題。農民たち自身の手で新たな慣習が形成されるであろう。
・彼の郷約の構想と毛沢東の農村工作との類似。基本的な方向性は同じだと考えており、その点では後に共産党体制を受け入れる素地もあった。ただし、階級闘争の有無で相違(郷村建設運動では「悪い地主階級」については糾弾するのではなく教育を通して考え方を変えさせようとした)。梁漱溟は闘争や強制では何も解決できないと考えた。共産党の視野の狭い戦略は別の抑圧者を生み出すだけ。儒教的社会主義。非暴力に徹して内心から沸き起こるモラルによって社会的関係を築き直す→ガンディーのサチャーグラハの中国版と評価。ただし、梁漱溟のユートピニズムが参加者たちに理解されたとは限らない。
・1930年代は郷村建設運動の絶頂期。しかし、純粋な市民運動としての郷村建設は国民党の中央集権化志向とぶつかる。
・政府の学校化→社会の学校化。紛争が起こっても裁判ではなく、学校が仲裁。また、農業技術の教育やイノベーションも担う。
・日本軍の侵略→農民大衆からの支持が不可欠であり、そのためにこそ郷村建設は役立つと山東省政府に認めさせたが、まさにその侵略によって郷村建設は挫折。
・郷村建設を通して中国的な「理性」に基づく社会建設→物質面での劣勢を挽回しながら、同時に都市化による問題の回避を意図した。しかし、それは両立し得るのか?という根本的な問題。

・1937~1947年の間、梁漱溟は中国における無党派や第三党派などリベラルの指導者として現われた。抗日戦争における愛国心で国民党とも協力関係に入り、National Defense Advisory ouncilメンバーとなった。また、延安を訪れて毛沢東とも会う。他のリベラルな知識人たちと比べると二人は「中国的」な部分を共有、友好関係→毛沢東が海外から輸入された「形式主義」「教条主義」を批判して社会主義の中国化(毛沢東主義)へと向かっていく傾向と無関係ではない。毛沢東は反国民党的な人士を共産党の側に集めようとして梁漱溟を騙しているという批判もあった。
・梁漱溟の仲間たちは内戦は避けるべきという主張。政治的な民主主義と軍事的な全国民化のどちらが最初に問題となるのか?→共産党は前者を、国民党は後者を主張→両者の調停を図るため第三党派。しかし、この基本的な論点は1948年まで続き、内戦の結果、少数党派は駆逐されていく。
・1941年3月25日、中国民主政団同盟を結成(1944年9月に中国民主同盟と改称)。9月18日に政治的プログラムを発表→①抗日で領土回復。②民主的制度の確立。③国内的統一。④国民党を監督、支援。⑤中央・地方関係を法制化しながら分裂には反対。⑥武力による党派抗争には反対。⑦法治の確立。⑧学問や言論の自由を保障。⑨一党支配廃止後の注意点。⑩現在の政治状況への注意点。⇒国民党は反発。
・梁漱溟は立憲主義者の運動(constitutionalist movement)に政治的には取り組みつつも、哲学的には賛成ではなかった。
・戦後、国共の調停に奔走するが、失敗。政治から引退。
・1950年、毛沢東から招聘されて北京へ行く。その頃はブルジョワ知識人に自己批判が求められてた→1951年10月に梁漱溟も思想的変化を発表したが、大衆運動などで共産党の達成した功績を認める一方、『中国文化要義』にまとめた自らの思想は変わらず、共産党とは基本的な相違もあると述べた。自己批判は新しい政治環境の中で自らの主張との調和を図るため。彼の主張には一般に共感者も多く、彼個人は毛沢東と良好な関係にあったため、失脚はせず。
・ソビエト・モデルに基づく政府の経済発展プランを批判。
・1953年9月に公の場で毛沢東と口論→毛沢東の指示で公職から追放されることはなかったが、1955年半ば頃からマスメディアを通した梁漱溟批判。胡適のブルジョワ思想の封建主義的なカウンターパートだったと批判。熊十力を除き、中国の主だった哲学者たちはみな梁漱溟批判を展開。こうした大陸における反梁漱溟キャンペーンは、逆に香港や台湾の反共派から儒教精神の体現者として賞賛されることにもなる。
・しかしながら、1956年2月、全国人民政治協商会議の席上、罪を告白。政治協商会議のメンバーではあり続け、1950年代の反右派闘争や1960年代の文化大革命も何とかやり過ごす(→これは香港情報だが、実際には文革が始まってすぐの1966年8月24日に彼の家も紅衛兵の襲撃を受けたことを、後述のインタビューで知る。彼の妻は70代の年寄りなのに批判闘争に引き出されて殴られたのだが、なぜか梁漱溟自身は攻撃されなかった。毛沢東と個人的関係があったからではないかと推測している)。1970年代、ある高官が反儒教キャンペーンのため梁漱溟のエッセイを捻じ曲げて解釈。

・本書の第1版を刊行後、偶然の機会を経て、1980年と1984年の2度にわたり晩年の梁漱溟をインタビューできた。
・最初の会見で、梁漱溟が仏教を捨てて儒教を取った件に言及したとき、彼は「自分はいまでも仏教徒ですよ!」と言った。1921年に公言したじゃないですか?→「そんなことは問題ではない。私は仏教を捨てなかったし、あの時点ですら本当は捨てていなかった。16、17歳の頃から僧侶になりたかったが、29歳で結婚してしまったので諦めたんだ。」
⇒梁漱溟の親しい友人も含めてみんな彼を儒者と考えているのに、これは一体どうしたことだ?と著者は戸惑う。彼の内面の中で儒教と仏教とが階層化されており、年齢に応じて出方が違ってくるものと解釈。
・梁漱溟は二度の結婚→最初の妻への低評価と二度目の妻への高評価とがインタビューの時点で逆転しているのは?→自分は一貫して仏教徒だったという彼の言明にも、無意識的な心境の変化があったのではないか、と推測。
・唯一の西洋人の友人であったアルフレッド・ウェストハープ(Alfred Westharp)のこと。彼はプロシア貴族の息子だが、アメリカで音楽を学び、市民権を取得。彼の音楽はインド人と日本人に好まれた。中国へ来たが、第一次世界大戦で家からの送金が途絶えると、厳復に支援を求めた。後に日本軍に敵国人として捕虜になり、日本へ送られ、気落ちして自殺を試みたところ禅僧に助けられ、そのまま禅僧として過ごした。

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【映画】「玲玲の電影日記」

「玲玲の電影日記」

 地方から出てきて水配達の仕事をしている青年。自転車で配達途中のある日、道に積まれたレンガにつまづき、しかも居合わせた女性にレンガで殴られてしまった。訳もわからないまま彼女の部屋の金魚に餌をやらねばならない羽目に…。部屋に入ると映画の機材がたくさんあり、人生の慰めを映画から得ていた彼は大喜び。ふと見つけた日記帳──映画にまつわる彼女の過去を読み始めると、そこには彼自身にとっても驚きの事実が記されていた。

 文化大革命の時期、映画の野外上映会を観ながら育った少女が家族の複雑な機微に悩む姿が描かれている。中国版「ニュー・シネマ・パラダイス」という触れ込みだが、ところどころ映写される作品を通して中国の人たちがどんな映画を観てきたのか、その一端が垣間見えるのが興味深い。少女の母親が自らをなぞらえるスター・周璇は知っているし、「馬路天使」は観たことはないにせよ映画史関連の文献でタイトルに記憶はあるが、これ以外はさすがに分からないな。文革の時期、外国映画は珍しくて人気があったが、それがアルバニア映画だったというのも時代をうかがわせる。

 回想シーンの舞台は寧夏らしい。街を取り囲む黄土高原の無骨な空間が夕陽に照らし出され、そのシーンが醸し出す黄金色は、ノスタルジックな感傷をいっそう強めてくる。このように過去を振り返る心境を捉えた映像は、繊細な美しさがじんわりと胸にしみこんで来て、実に良い。

 文革の時期を舞台とした映画にはノスタルジーをテーマにした作品が多いような気もする。例えば、「1978年、冬。」(原題は「西干道」)も印象的だった。文革も終わりに近づいた頃ではあるが、青春のほろ苦さが描かれており、そのノスタルジックな感傷が中国北部の工業都市の寒々とした風景と重ね合わさると、これがまた切ないからこそ美しい。

【データ】
原題:梦影童年
監督:小江
中国/100分/2004年
(DVDにて)

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【映画】「レバノン」

「レバノン」

 1982年、イスラエル軍のレバノン侵攻に戦車兵として参加した若い兵士4人の極限状態を描いた映画。ベネチア国際映画祭金獅子賞受賞作品。

 第一に、戦車の中という密室での心理劇としてストーリーは進行するのだが、外のシーンの大半は照準器を通して見えるだけ。自分たちを取り囲むものは何なのか? 誰を信用したらいいのか? そもそも自分たちは何を目的としてここにいるのか?…そうした不安や疑問が止め処なくあふれ出てくる兵士たちが戸惑う心情にリアリティーが刻み込まれる。第二に、照準器を通して外を見る映像構成は、同時に侵略する側、殺す側の視点をも表している。戦争の恐怖と悲惨さを描写する独特な視点の取り方が見事だ。

【データ】
監督・脚本:サミュエル・マオス
イスラエル・フランス・ドイツ/2009年/90分
(DVDにて)

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【映画】「ここに幸あり」

「ここに幸あり」

 フランスで活躍するグルジア出身の名匠オタール・イオセリアーニの作品。失脚して無一文になった大臣が放浪生活をしながら昔なじみの友人たちのもとを訪ね歩くコメディ・タッチのドラマ。出世ばかりが人生じゃないよ、たまには休みがてらバカなことやってもいいじゃない、というノリ。ところどころのシーンでさり気なくピロスマニ風の絵が映る。放浪生活を送った画家の生涯を重ね合わせているのか。グルジアというと、どうしてもピロスマニとワインというイメージを思い浮かべてしまう。

【データ】
監督・脚本:オタール・イオセリアーニ
フランス・イタリア・ロシア/2007年/121分
(DVDにて)

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クリスティアン・アングラオ『ナチスの知識人部隊』

クリスティアン・アングラオ(吉田晴美訳)『ナチスの知識人部隊』(河出書房新社、2012年)

 頭脳明晰で教養豊かな若者たちがなぜナチスに積極的に加担したのか?というテーマを追求するため、大学卒業者80人の経歴を分析した研究である。フランス人研究者による著作で、もともとは博士論文のようだ。殺戮行為を正当化した信仰システムの担い手として彼らSS知識人を位置づけ、第一次世界大戦で形成された戦争文化がその信仰システムに影響を与えたことが強調されている。
 思想内容よりも、メカニズムの分析が中心。以下にメモ書きしておくと、
・SS知識人は中産階級出身→第一次世界大戦期に支配的だった表現システムを伝達する主要媒体の一つ→戦争文化が前線から後方へ、富裕層から庶民層へ、大人から子供へと拡散→戦争文化を通して戦争に意味を与え、民間人にも犠牲の正当性を納得させる。
・大学は知的形成の時期であると同時に、政治的社会化の時期でもある。歴史は「正当化の学問」「闘う学問」→学問的厳密さを闘争的欲求へと結びつけ、戦争の正当化、敵のイメージの形成に寄与。
・ナチスは反知性主義?→ナチス独自のコンテクストの中で知的優秀さの規範があり、これに従って彼らは職務遂行。
・「東部出動」という試練→殺戮部隊の指揮を取り、この職務をこなした者には昇進が約束された。

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南条文雄『懐旧録──サンスクリット事始め』

南条文雄『懐旧録──サンスクリット事始め』(平凡社・東洋文庫、1979年)

・伝統的な仏教学が漢訳仏典をもとに、宗派ごとの正当性を中心に議論されていたのに対して、明治以降の近代的な仏教学は海外で新たに学びなおしたサンスクリット、パーリ語、チベット語などで原典から読み直し、宗門的な制約から離れた自由な批判的態度で歴史的・文献学的・理論的研究を進めていった。南条文雄(ぶんゆう、1849~1927年、後に大谷大学の学長)は後者の意味での先駆的な仏教学者であった。近代的仏教学草創期のエピソードがつづられた回想録で、原著の刊行は昭和2年である。
・明治10年代に選ばれて洋行、イギリスでの留学生活が本書の読みどころになるのだろう。まだ数少なかった頃の留学生仲間たちの錚々たる顔ぶれには驚くが、やはりオックスフォード大学で師事した著名な東洋学者マックス・ミュラーのもとでサンスクリットを学んだときの学問的交流が興味深いし、とりわけ同行したものの志半ばで夭逝した笠原研寿へのミュラーの情意をつくした追悼文が目を引いた。
・幕末維新の頃、僧兵として招集されたこと(ミュラーに提出した履歴書に記載したら、大笑いされたらしい)、もともと僧侶には苗字はなかったが、明治新政府の指示で急遽苗字を届出しなければならなくなったときの混乱などのエピソードも目を引いた。

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2012年3月 2日 (金)

顧頡剛『ある歴史家の生い立ち──古史辨自序』

顧頡剛(平岡武夫訳)『ある歴史家の生い立ち──古史辨自序』(岩波文庫、1987年)

 中国における近代的歴史学の先駆者、顧頡剛が記した自伝。論文集『古史辨』に附された自序として自らの生い立ちを述べるのは、司馬遷『史記』以来の伝統か。もっとも、彼自身の学風は伝統拘束的な停滞を打ち破るところに主眼が置かれていたわけではあるが。

 原著は1926年の刊行。彼は1893年生まれだから、まだ30代前半の作である。五四運動、新文化運動の中で学問的経歴を始めた知識人の精神史的歩みの一端が見えてくるのが興味深い。例えば、辛亥革命後の時代的空気についてこう記している。「その当時は社会の変動が極めてはげしく、自分の人生行路を探りあてかねていた。革命の潮流はすでに退いてしまったし、明け暮れを袁世凱の暴虐と遺老たちの復古的雰囲気とのなかに暮らしていたので、数年前に蓄積した快感や熱望も、この時にはただ悲哀の思い出を残すのみであった。私の心はいつもいらいらしておちつかない。ひたすら哲学のなかに解決を求めようとしたのである。しかし私は多血性の人間であるから、消極的な方面に走って、仏を信じて寂滅を求めることはできない。私はとにかく心理学と社会学とを基礎にして、人生問題を解決しようと考えた。…私はかならず宇宙と人生とを一挙に明白にし、前人未解決の問題を自分の手で一挙に解決する、そうでないかぎり、自分の飢渇はいやされない気がしていたのである」(65~66ページ)。

 彼はもともと読書好きではあったが、学問としての歴史学に開眼したきっかけは章炳麟だったらしい。康有為の今文家に対しては、章炳麟から厳しく非難されていたので良い印象もなかったようだが、それでも読んでみると歴史に創作された部分があることへの批判には得心がいったと記す。ただし、現在の政治的必要から歴史を利用する論法には首をかしげている。

 顧頡剛が歴史学に取り組んだ際の基本的な態度は次の言葉に表れている。「私の心のなかには何の偶像もない。私の信ずるままに活発な理性によって、公平な裁断を下すことができる」(154ページ)。「学問はもっぱら真偽を問うべきもであって、善悪を問うべきではないことを知る故に、全力をつくして功利的な成見を排除し、公平な眼でいっさいの善きもの悪しきものを観察しようとする」(157ページ)。

 理性重視の科学的学問観は胡適、陳独秀らに主導された新文化運動の特徴であるが、彼自身がその影響を受けていることを次のように記している。「もし傅斯年君と胡適先生とにお目にかからず、『新青年』の思想革命の鼓吹にめぐりあわなかったならば、伝統的な学説を打破しようとして胸中に鬱積するあまたの見解も、それを大胆に発表することもなかったであろう」(151ページ)。ここで注目したいのは、新文化運動から伝統思想への叛逆心が芽生えたのではなく、もともと彼の胸中に秘められていた情熱がこの新しい思潮によって後押しされたと言っていることだ。そもそも彼自身のパーソナリティーが極めて自己主張の激しいものであり、少年期に受けた伝統教育のつまらなさにうんざりしていたことは繰り返し強調されている。

 ちなみに、顧頡剛の師匠にあたる胡適にしても、留学先のアメリカでプラグマティズムを学んだのではなく、留学前からもともと抱いていた合理的思考方法に確信を与えたのがジョン・デューイとの出会いであった(Jerome B. Grieder, Hu Shih and the Chinese Renaissance: Liberalism in the Chinese Revolution, 1917-1937, Harvard University Press, 1970)。もともと胚胎していた思考方法にどのようなきっかけが与えられるかで、それぞれの個性の発現の仕方も変わってくる。伝統拘束的な社会体制の中だと自らの鬱積する思いを抑圧せねばならなかったであろう多くの若者たちにとって、新文化運動は大きな羽ばたきの転機になっていたと言えるだろうか。

 訳者は戦前の難しい時期に中国へ留学して顧頡剛と直接交流していた人である。戦後、音信は絶え、再会できたのは1978年になってからであり、その時の感激の気持ちは巻末に収録された「顧頡剛先生をしのぶ」の行間から如実ににじみ出ている。ところで、この追悼文では再会までの間の顧頡剛の著述については触れられているものの、アメリカへ亡命した胡適に対する共産党の非難キャンペーンで顧頡剛も論文を書いて師匠を批判せざるを得なかったこと、文化大革命で顧頡剛自身も迫害を受けたことなどについては一切触れられていない。難しい政治的背景を忖度して敢えて言及しなかったのだろう。

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2012年3月 1日 (木)

山内昌之『中東 新秩序の形成──「アラブの春」を超えて』、ジル・ケペル(池内恵訳)『中東戦記──ポスト9・11時代への政治的ガイド』

 チュニジアにおけるジャスミン革命をきっかけに澎湃として沸き起こった民衆運動による一連の政変劇は世界中の目を釘付けにした。ところで、「アラブの春」と一括りに通称されるが、その後の動向は各国ごとに大きく異なり、この地域における多様な条件の相違もまた浮き彫りになった。山内昌之『中東 新秩序の形成──「アラブの春」を超えて』(NHKブックス、2012年)は、そうした中東情勢に絡まりあった複雑な力学的変動について、現時点における横軸にパースペクティヴを設定して整理してくれる。その中から建設的な動向を見出していくのが本書の興味深いところだ。

 比較的平和裏に政権転換が進んだチュニジア、エジプトに対して、リビアでは激しい内戦の末にカダフィの無残な末路を目の当たりにしたし、シリアでも厳しい弾圧による市民の犠牲者が増え続けている。他方、湾岸の君主国が割合と安定した政治運営を行っている点について本書が高く評価しているのが興味深い。民生の安定が政治の第一の目的である以上、形ばかり民主主義の体裁を整えた革命独裁国家が倒れていくのを見ると、「共和国が善で、君主国は時代錯誤な悪」などの単純な思い込みは通用しない。ある意味で民本主義的な捉え方と言えるだろうか。下からの要求も汲み取りながら漸進的な改革を進めているバーレーンやオマーンなどを取り上げ、立憲君主制として一つの政治モデルになり得ると指摘される。

 中東世界の中の非アラブ国家としてイランとトルコの存在感も大きい。ところで、イランではかつては蜜月の関係にあったハメネイ最高指導者とアフマディネジャド大統領との確執が取りざたされている。厳格なイスラーム体制が表看板だが、大統領はむしろポピュリズムとナショナリズムの色彩を強め、「法学者の統治」が揺らいでいる。他方、イランとは対照的に世俗主義を国是としてきたトルコで現在政権を担っている公正発展党(AKP)のエルドアン首相はもともとイスラーム主義に出自を持つ。しかし、世俗主義に立つ体制派からの弾圧を受けながらも共和国の体制に順応、民主主義等の価値観を内面化していった。こうした現実感覚は、例えば議会でムスリム同胞団が多数を占めるエジプトにとって一つのモデルとなり得ると高く評価される。

 ジル・ケペル(池内恵訳)『中東戦記──ポスト9・11時代への政治的ガイド』(講談社選書メチエ、2011年)はフランスの著名なイスラーム政治研究者による中東紀行。と言っても、もちろん単なる旅行記ではない。9・11直後の時期、エジプト、シリア、レバノン、湾岸諸国、そしてアメリカを回り、9・11以前にパレスチナを訪れた記録も合間にはさまれる。各地で有名無名多くの人々と語らった記録であり、そうした断片的シーンを通して中東社会の揺れ動く姿が描き出されていく。

 アブダビでは、ハンチントン『文明の衝突』がイスラム主義者によって歓迎され、「西洋」の他者として自分たちを正当化するロジックに活用しているのが目を引いた。他方で、「今や「9・11」のレンズを通してのみアメリカは世界を見る。シャロン一派は「対テロ戦争」の論理を自らの利益にために流用する。イスラエル国内で自爆攻撃を行うことによって、アラブ人はアメリカでのイメージ戦争に敗れる危険を冒している。」と記したり、また、アメリカの大学でパレスチナ問題に無関心な学生を見て「「対テロ戦争」のマニ教的善悪二元論を疑うことはほとんど不可能になっている。「善玉」対「ならず者」という「白か黒か」の世界観の中で、パレスチナ人がその代償を支払っている。」と記している。様々な潮流がうごめいている社会的動向に対しても、双方ともに二項対立に押し込めた世界イメージに結びつけようというズレが浮き彫りにされているところに興味を持った。

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