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2012年2月 6日 (月)

横山宏章『陳独秀の時代──「個性の解放」をめざして』、周程『福澤諭吉と陳独秀──東アジア近代科学啓蒙思想の黎明』

横山宏章『陳独秀の時代──「個性の解放」をめざして』(慶應義塾大学出版会、2009年)
・五四運動期の新文化運動で指導的な役割を果たし、マルクス主義を受容した後は中国共産党初代総書記となったが、その後、コミンテルンの方針に異議を唱え、トロツキストとして除名された陳独秀。こうした経歴を持つ彼については中国共産党・国民党の双方から評価が厳しかったが、イデオロギー的なタブーが相対的に低くなった近年、見直しも進んでいるらしい。本書は本格的な伝記的研究で、以前に刊行された『陳独秀』(朝日選書、1983年)の増補がほぼ半分ほどの分量を占めている。
・陳独秀は1879年、安徽省懐寧県の生まれ。科挙を受験はしたが合格することもないまま、1902年以降、何度か日本に留学。他の留学生や革命家と交流したが(ただし、中国同盟会には加入せず、孫文と会ったのも日本ではなくだいぶ後のことらしい)、日本人とは親しく付き合っていなかった点が指摘されている。
・1915年、上海で『青年雑誌』(第2号から『新青年』と改称)を刊行、「民主」と「科学」をキーワードに伝統思想を排撃する論陣を張って注目される。彼の議論を目に留めた蔡元培が北京大学に招聘、ナンバーツーの文科学長に就任。五四運動期の言論で指導的な役割を果たす。
・社会的変革の出発点は個人の自己改革にある。伝統の停滞性を否定していく武器として「民主」と「科学」、こうした西欧思想は変革のための手段であって、目的ではない。為政者を糾弾しておしまい、というのではなく、民衆自身の意識改革を求めた→政治の相対化。革命そのものよりも、革命の必要性を民衆に認識させることが必要と考えていた点で本質的に啓蒙者であったと指摘。ポイントを強調しながら論難するため西欧思想を意図的に単純化、理想化→対比的に攻撃対象としての中国の伝統思想も単純化された。
・ロシア革命の衝撃でマルクス主義を受容。「強い力による公理の擁護」→大衆を組織化する理論が必要→マルクス主義が適合的。ただし、これ以降の彼の言動は権力闘争に偏重し、これ以前における個人の精神的変革というモチーフが薄くなってしまったと指摘される。
・1921年7月、中国共産党の成立。国共合作を受け入れ→二段階革命論。
・蒋介石の北伐が成功、上海クーデター、汪精衛ら国民党左派と組もうとしたが決裂→国共合作を指示したのはコミンテルンだったが、失敗の責任は陳独秀に負わされ、総書記から外される。
・1928年、張学良と蒋介石はソ連が権益を持っていた中東鉄路の電信施設回収を宣言、ロシア人を逮捕→民族意識を高揚させ、国民政府の威信確立が狙い(中東鉄路事件)→共産党は「ソ連を擁護しよう」と呼びかけ→しかし、陳独秀は「中国を擁護しよう」という国民党のスローガンが持つ現実的な力は無視できない、「ソ連を擁護しよう」では中国人大衆はついてこないと考えた→コミンテルンに盲従する李立三コースへの疑問→トロツキーと連絡を取りながら反対派に立ち、1929年に共産党から除名された。
・共産党が農村に立脚するのに対して、トロツキストは都市で活動→国民党の特務や日本軍の過酷な弾圧。また、トロツキストのグループも4つに分裂→中国トロツキズムはつぶされていき、陳独秀も1932年に逮捕された。国民党内の旧友たちが助命要請して処刑は免れたが、投獄→1937年に出獄。共産党への復党も取りざたされたが、王明の強硬な反対。
・1942年、四川省で死去。
・彼は生涯で3人の女性と結婚もしくは同棲。家中心の家族制度への反感。また、彼の二人の子供も初期共産党の中央委員となったが、彼らは陳が恋人と駆け落ちしたときに置いていった子供であり、必ずしも仲は良好ではなかった。彼ら二人は独立して世に出た→二人とも国民党に処刑された。
・叛徒、漢奸(濡れ衣)、トロツキスト、右派機会主義、右派投降主義など、戦後の陳独秀評価における政治的レッテル貼りの問題。

周程『福澤諭吉と陳独秀──東アジア近代科学啓蒙思想の黎明』(東京大学出版会、2010年)
・日中比較思想史的な枠組みの中で、国家の独立とそれを支える個人の精神的独立とを目指した啓蒙思想の展開を検討、具体的には福澤諭吉と陳独秀に焦点を合わせて論じられている。
・福澤諭吉が提示した「一身独立して、一国独立す」というテーゼに注目。彼は、明治初期においては「窮理学」を中核とする「実学」の提唱によって儒学をはじめとした伝統的な学問を批判、人々の精神構造を根本的に変革しようとしたが、その後、関心の対象が啓蒙主義的理想主義から逸脱、強兵のための「科学帝国主義」へと転換した。そうした「啓蒙主義の凋落」傾向は福澤個人の問題というよりも、国際社会における近代日本の地位の影響があったと総括する。
・19世紀から20世紀にかけての中国における厳復、梁啓超など啓蒙思想の動向をたどりながら、新文化運動における陳独秀に注目。彼が唱えた「立国」と「立人」という問題意識は福澤の上記のテーゼに相当すると指摘、宗教や迷信を批判する武器として「サイエンス」を唱えた。19世紀後半以降、「科学」が物質的な有用性という皮相なレベルでしか捉えられていなかったのに対して、陳独秀は伝統社会を攻撃、精神面での有用性を唱えたことの意義を本書では強調。福澤が国権論に傾いたのに対して、陳独秀はマルクス主義を縦横して死ぬまで転向せずに「科学」と「民主」を重視、反帝国主義の旗幟をを貫徹した点が異なるとされる。

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