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2012年2月13日 (月)

余英時『中国近世の宗教倫理と商人精神』

余英時(森紀子訳)『中国近世の宗教倫理と商人精神』(平凡社、1991年)

 要するに、ウェーバーの言う「プロテスタンティズムの倫理」では、上帝と現世との緊張関係の中で、上帝の命令を内面化→現世において禁欲的な活動を促した(外在超越)。これに対して、理気二元論を軸とした新儒学では、現世たる「気」の中に「理」が一貫しており、「気」が濁らないよう「理」に従って一所懸命に物事に取り組む真面目な態度を促した(内在超越)。従来の儒学に欠如していた内面的契機に対して新禅宗における「世俗内的転回」が与えた心性論の影響、明清期に現われた「良い商人は立派な儒者に劣ることはない」という考え方などが相俟って近世中国の商人倫理が成立した、と論じられる。
 本書執筆の動機は、第一に、ウェーバーが中国には超越的宗教道徳の信仰がないと考えたことへの批判。第二に、中国とヨーロッパとでは歴史的経緯が異なるにもかかわらず、大陸の歴史学界ではマルクス主義的な発展段階論に基づいて「資本主義の萌芽」をめぐる論争が展開されてきたことへの懐疑。第三に、東アジアにおける近代的資本主義受容にあたって儒家倫理が受け皿となったという議論を意識。

(以下はメモ)
・「プロテスタンティズムの倫理」に匹敵するのは、新禅宗から新儒学への転回。新禅宗における「世俗内的転回」を新儒学が継承(韓愈→「人倫日用」の儒学)。
・新旧儒学の最大の相違は、心性論の有無にある。もともと儒学には「彼岸」はなかったが、新禅宗の新儒教に対する最大の影響は「此岸」にではなく「彼岸」にあった。人々に精神的な「安心立命」をもたらす心性論が儒学には欠けており、新禅宗の挑戦を受けてこの部分を発展させていったのが宋明理学。宋代の新儒教は「仏教を体となし、儒学を用となす」という考え方を破ろうとした→「釈氏は心に本づき聖人は天に本づく」との弁別→「天理」は超越的かつ実有の世界→儒家の「人倫という卑近なこと」のためにひとつの形而上の保証→新儒教の「彼岸」は「此岸」という一対の観念の対立で相補う。
・善は「理」より出で、悪は「気」より来る。しかし、「理は弱く」しかも「気は強い」→修養の工夫が必要。儒家の「此岸」に対する基本的態度は、もともと消極的な「適応」ではなく、積極的な「改変」であった。内在超越の文化形態のもとで、新儒教は彼らと「此岸」との間の緊張を最大限にまで高めた。
・新儒教倫理における「彼岸」と「此岸」の展開→仏教を参考にしながら「理の世界」と「事の世界」を確立→こうした改造は仏教における「空幻」を儒家の「実有」と化した。新儒教の「此岸」とは、理と気が離れながらも「理は弱く気は強い」という「存在」であって、仏教の「此岸」が「心」の負の側面(無明)から生ずるのとは異なる。新儒教では「彼岸」は「此岸」と向き合っており、隔絶はしていない。仏教で「彼岸」が「此岸」と背離しているのとは対照的。
・ウェーバーが強調したプロテスタンティズムの倫理では、世俗内的禁欲を上帝の絶対的命令とし、上帝の選民は此岸における成就によって彼岸の永世を保証するのでなければならない。対して新儒教は「天理」(あるいは「道」)の存在を信じている。しかし、「理」は「事」の上だけでなく「事」の中にもあるので、この世で各人が自己の持ち場において「事をなし」、理の分を完成しなければならない→「本分を尽す」
・新儒家とカルヴィン教徒は、自己に対する期待の高さでは完全に一致。ただし、前者では社会に対する責任感を発展させて宗教精神にまでしているのに対して、後者は宗教精神を転嫁して社会に対する責任感となしている。

・明代中期以降の階層的流動化→新四民論の出現
・「儒を捨てて賈に就く」
・明清の商人倫理が勤倹で家を起こしたのはどのような動機によるのか?→「良い商人は立派な儒者に劣ることはない」という心理。商人自身と士大夫がともに商業を見直し→商業の意義。王陽明は「四民は業を異にするも道を同じくす」と言ったが、いまや商人は確実に「賈道」を有する。

・ウェーバーの中国商人に対する誤解→中国人には内在的価値の内核が欠如、超越的宗教道徳の信仰がないと考えた。
・ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理の一大成果は、親族の束縛を破り、家と商業とを完全に分離したことにあったが、しかるに中国では親族の「個人」関係を重んじ、事業効率の観点がない→経済発展制約と考えた。しかし、明清の大商人と「伙計」の関係は事業効用に向かっての一歩だった。
・明清士大夫の作品には商人のイデオロギーがすでに浮き上がっており、商人自身の言葉がそこに引用されている。
・専制の官僚制度が網の目のように覆っている中では、商人であっても手も足も出なかった。

・中国とヨーロッパとでは歴史的経緯が全く異なるので、「ヨーロッパ近代式の資本主義がどうして中国史にはいつまでも出現できなかったのか?」「儒家倫理は今日、資本主義の東アジアにおける発展にとって助けになるのか、障害になるのか?」といった問題設定は無意味。こうした問いかけは、ヨーロッパ近代式の資本主義はどの社会も必ず通過する歴史的発展段階だという、いまだ検証されたことのない仮説に基づいているだけ。大陸の歴史学界ではマルクス主義に基づき「資本主義萌芽の問題」をめぐる議論が展開されてきたが、説得力ある成果はついに生み出されなかった。近代欧米に独特な形態をとった産業資本主義の分析のため、つまりヨーロッパ文化に内在的に成立していた要素としてウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理」に注目した。
・資本主義が今日東アジアで発展しているのは、明らかにヨーロッパから直接移植したものである。しかし、強烈な経済的動機さえあれば企業経営を行なうのであって、宗教的動機は特に重要ではない。従って、ウェーバーの理論を機械的にあてはめて儒家倫理と近年の東アジアにおける資本主義の勃興とを安易に結びつけるわけには行かない。

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コメント

 朱子學以降の「新儒教」の新しさを知らなかったマックス・ウェーバーの限界は、余英時著で明らかにされたと思ひます。ただ余氏謂ふ所の「ウェーバー式の問題」は、「資本主義の精神」とか「商人精神」とかいった經濟關係のことに留まらず、もっと一般に法・行政・藝術・學問にまで及ぶ西洋近代の「合理主義」「合理化」についての問題設定でした。特に、『儒教と道教』を含む『宗教社会學論文集』や『經濟と社會』第二部第五章「宗教社會學」での主要モチーフの一つは、現世における不幸や惡の存在を合理化しようとする辯神論(神義論)でした。その線に沿った方が、思想史プロパーとしては面白くなりさうな氣がします。つまり、孟子以來の儒教正統である性善説では濟まなくなり、陽明學における無善無惡説とか荀子の再評價とかが興ってくること(cf.井上進『明清学術変遷史』「第七章 漢学の成立」p.263、p.271)、余氏著だと中篇「二」のpp.106-114ら邊、これをウェーバーの理念型と突き合はせてそれを修正しつつ再考できないか……などと妄想した次第。『中国における近代思惟の挫折』の著者にして余英時著邦譯に跋を寄せた島田虔次あたりとっくに想ひ着いてゐてもよささうなことですから、その筋で既に論考があるのか知れませんが。

投稿: 森 洋介 | 2012年3月 9日 (金) 02時16分

詳細なご教示をいただいて恐縮です。確かに私の読み方が狭く、もっと広い意味での西洋近代の「合理化」にまつわる問題設定としてのところは捉えきれていませんでした。勉強不足を痛感します。ご指摘の件は興味深く、参考に挙げられた書も読んでいきたいです。

投稿: トゥルバドゥール | 2012年3月11日 (日) 15時00分

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