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2012年2月

2012年2月26日 (日)

ジェローム・B・グリーダー『胡適と中国のルネサンス:中国革命におけるリベラリズム1917~1937年』

Jerome B. Grieder, Hu Shih and the Chinese Renaissance: Liberalism in the Chinese Revolution, 1917-1937, Harvard University Press, 1970

 中国の近代化を進めるため伝統拘束的な思想状況からの脱却こそが必要だという問題意識から胡適は合理主義と個人主義とを武器に引っさげて1917年、中国の論壇に鮮やかなデビューをした。雑誌『新青年』や北京大学を舞台に彼が展開した議論は当時の思潮に大きな影響をもたらしたものの、逼塞する時代状況の中、彼はやがて孤立していく。20世紀前半の中国において彼の唱えたリベラリズムはどのような反応を受けたのかというテーマを軸に本書は彼の生涯をたどる。

 彼の伝統批判が保守派から猛反発を受けたのは当然だが、他方で物事の変化は漸進的に進む、それを着実にするためにこそ教育が必要という彼の考え方は急進派をも苛立たせ、結局、彼は板ばさみになってしまう。(なお、余英時『中国近代思想史上的胡適』では現実の問題に対して即効性のある具体案を出せなかったところに彼への信頼が失われ、マルクス主義にその立場を奪われた原因があったと指摘していた。)

 時代状況の変化の中にあっても、彼の理性と民主主義への信頼、上からの急激な革命ではなく人々のものの考え方そのものを変えていくことで下からの漸進的な革命を促すのでなければ何も変わらないという確信は一貫して変わっていなかったことが見て取れる。この点、例えば梁啓超や陳独秀が状況変化に応じて考え方をクルクル変えていったのとは対照的に思った。もちろん、どちらが正しいという話ではないが。

 陳独秀はマルクス主義に基づく実践政治活動へと乗り出す頃、一部の知識人に見られる非政治的な「隠者」的退行を批判していた。これは「政治」概念を一元的に把握した立場だったとするなら、胡適の場合にはむしろ、権力闘争に巻き込まれてしまったら「公」を基準とした議論が出来なくなってしまう、従って無党派の形成による世論の主導を目指すためにこそ非政治的な知識人が必要だという点にあった。これは狭い意味での「政治」=執政と「公論」とを区別し、両方をひっくるめた広い意味での「政治」を目指していたと言える。ちなみに、胡適とは文明観で見解が異なっていた梁漱溟が戦後、毛沢東からポスト提供の打診を受けたとき辞退したのも同様の理由による。さらに言うと、福澤諭吉が在野の立場を一貫して守ったのもやはり同様だ。

 なお、私見だが、プラグマティズムを基にした合理主義と個人主義を主張した胡適と、合理主義と個人主義の限界を指摘して儒教的共同体の再評価を主張した梁漱溟とではその文明観の根本的な相違が際立つ一方、いくつか共通点も見られるのが興味深い。①上記のように政権の座について権力闘争に関わると公のための議論ができなくなるから、知識人は無党派の立場に立って公論の形成に努めるべきという主張。②胡適は個人、梁漱溟は共同体に注目したという違いはあるが、二人ともトップダウンではなくボトムアップによる合意形成に政治の意義を求めていた。③教育を通した啓蒙により個人の自律的な思考が社会の基礎になると考えていた。胡適が教育を重んじていたことは有名だが、梁漱溟の郷村建設にも行政機関はすなわち学校であるという考え方があった。

(以下はメモ)
・胡適の若い頃の日記を見ると、基本的な考え方はアメリカ留学以前からすでに形成されていた。そこに確信を与えたのがジョン・デューイのプラグマティズム。
・1917年に帰国後、陳独秀が編集していた雑誌『新青年』や北京大学で言論活動を活発に開始。過去の伝統から脱却し、合理的な思考方法を広めるためにはまず教育が必要。人々の考え方を変えることで、一人ひとりの責任によって下から社会を変えていくという漸進主義。ここには歴史の飛躍はあり得ないという社会進化論的な考え方もあった→急進派とは考え方に距離が出てくるが、伝統回帰派に対しては共闘。
・中国が近代化を進めるにあたり西洋画モデルになるのは確かだが、他方でその西洋は帝国主義的侵略をしていたし、また第一次世界大戦後、西洋文明の技術文明こそが甚大な惨禍をもたらしたという思潮が現われた。こうした中で中国の伝統的価値を見直そうという主張→梁啓超(ヨーロッパを旅行したこうした風潮を実見、クロポトキンやオイケン、ベルグソンに関心)や梁漱溟はかつての反動的な復古派とは異なり、近代的価値にも理解を示していた人々→伝統回帰の動向とみて胡適は論戦。梁漱溟が示した文明論的段階説には理解を示しつつも、梁が発展段階における環境への順応という側面を強調しているのに対して、胡適は知識による精神の自由や真実へ向けた探求を強調。
・中国哲学史の講義:中国の過去の知的発展の読み直し→西欧的とは言わないまでもモダンなものに近いものもあることへ注意喚起→中国にとっても馴染みがあるはず、という論法。
・中国の恥辱の歴史は重々承知の上だが、かと言って反帝国主義のスローガンを掲げて気炎を上げるだけではかつて伝統中国を支配していた「言葉の魔術」への信仰と大同小異で、単純な「革命」志向では実質的な解決にはつながらない。「革命」とは意識的に「進化」を促進させるものではあるが、ただし暴力的な革命とは区別→教育、法制化、制度的な政治過程を通して目的達成を図るものと胡適は考えていた。民主的な教育制度を通した改革を主張→権威主義的な独裁政治には反対。
・国民党などの過激なナショナリズム志向(反満主義以来)に内在する伝統回帰的な側面は近代化の促進を阻害、一般人の政治参加能力に大きな疑問を投げかけていた点で孫文の責任も大きいと指摘。民主主義は将来の問題ではなく、現在の必要。
・日本の侵略に直面してジレンマ。もちろん日本の侵略に対しては抵抗しなければならないが、他方でその抵抗の手段そのものが数十年にわたって中国が獲得してきた知的達成をダメにしてしまうかもしれないという不安。
・戦後も状況は悪化。1930年代ですら難しかった無党派的立場は、戦後になると不可能になった。北京大学総長に復帰後、思想の自由を抱負として述べた。学生たちのデモに対する蒋介石の弾圧には抗議する一方、学生たちの動機には理解を示すものの方法は支持せず。
・アメリカは胡適を国民党政権の職位につけるよう求めたが、これは逆に彼の評判を落とすことにつながってしまった。共産党は彼をアメリカ帝国主義の手先とみなす。
・1958年、蒋介石政権の下で中央研究院長に任命された→五四世代の栄誉あるつながりの象徴とはなったが、もはや台湾で若い世代の知識人に影響を与えることはできず。
・胡適のリベラリズムは五四世代の急進派にも支持されたが、他方で蒋介石『中国の運命』でも指弾されたように伝統文化の破壊者として批判を受けた。この批判は戦後の台湾でも再び現われたが、国民党とはイデオロギーが違うはずの共産党からも1950年代に同様の批判を受ける。国民党は儒教的価値に力点が置かれたのに対し、共産党は民衆文化に力点。
・胡適はデューイと同様に、政治的・社会的制度の価値が試される肝心な点は、どの個人も自らの可能性を全面的に成長していくよう促していく範囲にあると考え、政府がこうした可能性を制限してしまうような主張には反対。個人が自らの可能性を追求していくのに役立つよう制度を整えるのが政府の仕事であって、逆に価値判断などの基準を決めてはいけない。
・胡適の思想や漸進的で穏健な社会改革プログラムには、すべての人には本来的に理性があるはず、偏見を取り除いて考え方が変われば合意の方法はあり得るという前提→リベラルな価値や方法論への過信から中国の現状を見誤った。
・中国はいかに生き残るかという問題意識→解決法を模索するには問題はどこから生じているのかを理解する必要→現在の危機に関わる歴史的要因をすべて考えていく必要→「民族的遺産の体系化」という学問的仕事。もちろん、自分の学問の限界は弁えていたが、自分の出来ることをやるという「分業」の自覚を持っていた。
・胡適や彼のリベラルな友人たちは民衆の福利のために語ったが、それは彼ら自身に対して語るよりも彼らに代わって語る、政治的なオルターナティヴを形成できなかった→結局のところ儒教的な意味での「賢者」のままではなかったか?

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【映画】「シルビアのいる街で」

「シルビアのいる街で」

 古都ストラスブールの街並が良い感じだ。セリフは最小限にとどめられ、明確なストーリーが浮かび上がってくるわけでもない。主人公がただひたすら街中を歩き回っているだけだ。街で見かけた女性の後をつけわますのは単なるストーカーじゃないかと思うが、主人公がハンサムな青年画家だからとりあえず絵になる。新感覚のラブストーリーと謳われているが、ちょっと違うと思うぞ。彼が追い求めたのは6年前に出会った女性の面影だったという設定はもちろん分かっているけど。

 それよりも、カフェ、酒場、市電の待合所──街のあちこちで行き合わせた人々の表情が丁寧に観察されるところが興味深い。普段はそんなのいちいち気にしながら街を歩いていないが、青年がスケッチする観察眼を通してこちらにも注意が喚起される。談笑していたり、不機嫌だったり、あるいは事情ありげにふさぎこんでいたり。何気なくすれ違うだけの人々でも、注意深く表情を見ていくと、各々が抱えた人生の機微が、少なくともその断片がそれとなくほのめかされてくる。様々な人生の物語が織り成されて一つの街が出来上がっているのか、などど想像も羽ばたいていく。

 カフェの窓ガラス、通り過ぎる市電の車窓に乱反射するように人々の顔が映し出されるカメラワークは万華鏡のように美しく、あたかも街を彩る多面相が凝縮された小宇宙のようにも見えてくる。こうした中なら、自身のイメージとして抱えた面影を投影してしまう余地は確かにありそうだな、という気もしてくる。ストーリー以前に、街並と人々の細やかな描写がすごく良い。こういう映画は好きだな。

【データ】
監督:ホセ・ルイス・ゲリン
スペイン・フランス/2007年/85分
(DVDにて)

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2012年2月25日 (土)

【映画】「汽車はふたたび故郷へ」

「汽車はふたたび故郷へ」

 旧ソ連時代のグルジアで映画作りを志す青年ニコ。しかし、共産主義の監視体制下、彼が表現する反抗的なニュアンスはどうしても検閲を通らない。苛立ちを募らせていたある日、フランス大使と会って話す機会があり、何とかパリへ行くことができた。働きながら映画を撮り続けるが、商業ベースに乗らない彼の作風は受け入れられず、失意のうちに故郷へ帰ることになる。

 フランスで自作の映画をプロデューサーに売り込むときと、そして失望して帰国後、家族と魚釣りをしているとき、2度にわたってニコの前に人魚が現われる。彼を水中へと誘うこの人魚は一体何を表しているのだろう? 世間とのズレを感じつつも、何かに魅入られたように映画作りに没入しようとする彼の心象風景に現われたものなのだろうか。

 自身の内奥から発露した感覚をごまかしたくない、妥協したくない、そうした潔癖さは芸術的表現の根源的な駆動力となる。それはコンベンショナルなものへの反抗として現われ得るが、いたずらっ子だった少年時代なら叱られながら暖かく見守ってもらえるにせよ、実社会に出てからは周囲との軋轢が深まる。監視体制の社会にあってはなおさらだ。無理解への苛立ちは、潔癖であればあるほど自らの破滅へと向かいかねない。ニコは共産主義の監視体制から外へ逃れたが、たどり着いたフランスでもやはり資本主義のコマーシャリズムのロジックにぶつかってしまい、思うようにはならない。居場所もなく放浪する魂の行方、それは奇しくも同じ名前を持つ画家ニコ・ピロスマニの放浪の人生をも想起させる。

 いずれにせよ、挫折は宿命的だった。しかし、だからと言って単純に悲劇というわけでもないだろう。例えば、政府の方針として検閲を通らないにしても、検閲の担当者たちはニコの作品の良さは分かっていることは仄めかされている。彼らのダブルスタンダードの態度は監視社会の中で保身を図る醜さと捉えられるかもしれないにせよ。また、彼を国外へと送り出した文化問題担当の役人が大使としてパリに赴任してきたが、メーデーの祝賀会でニコが大使館に招かれたとき、大使は「私と腕を組め、笑顔を見せろ、肩をたたいてみろ」と言い、怪訝そうなニコに対して「ここにいるバカどもは、君は私と親しいと思うだろう。そうすれば監視はやめるさ」──ややこしい制度の難しさを考えた上での配慮だ。フランスのプロデューサーもニコの才能を評価したから彼を起用したわけだし、映画仲間たちもいる。非人格的なシステムというレベルでは無理解であっても、家族や友人をはじめ彼の感性をしっかり認めてくれる人々もちゃんといることの方に目を向ければ、彼のたどらざるを得なかった宿命の意味合いもまた違ってくる。彼の挫折はもちろん悲劇である。だが、決して孤独ではなかった。羽目をはずした人々をユーモラスに描くイオセリアーニ監督の眼差しは、そうした意味での暖かさを感じさせてくれる。

 この映画にはイオセリアーニ監督自身の体験が織り込まれているらしい。少年時代のシーンで映し出されるグルジアの森の風景が鮮やかで印象的だ。宗教がタブーであったソ連の時代だが、宗教画のイコン、ポリフォニックな聖歌などグルジア的要素が見えるのが興味深い。グルジア語、ロシア語、フランス語の使い分けの歴史的背景など、プログラムにあるグルジア史研究者の前田弘毅さんの解説が勉強になった。

 グルジア映画はいつも岩波ホールで観てきた。ゲオルぎー・シェンゲラーヤ監督「若き作曲家の旅」、エリダル・シェンゲラーヤ監督「青い山」、テンギズ・アブラゼ監督「懺悔」はここで観たし、DVDで観たゲオルぎー・シェンゲラーヤ監督「ピロスマニ」も最初の上映は岩波ホールだったはずだ。

【データ】
監督・脚本:オタール・イオセリアーニ
フランス・グルジア/2010年/126分
(2012年2月25日、神保町・岩波ホールにて)

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2012年2月23日 (木)

プラセンジット・ドゥアラ『ネイションから歴史を救い出す:近代中国の語り(narratives)を疑う』

Prasenjit Duara, Rescuing History from the Nation: Questioning Narratives of Modern China, The University of Chicago Press, 1995

 西欧側が研究対象たる「東洋」に対して向ける眼差しそのものにある種の偏見が内在的に構造化されているとき、いくら客観的な研究を標榜してはいても、その結果として生み出された言説には問題があるという指摘はエドワード・サイード『オリエンタリズム』以来もはや周知のことだろう。同様の問題意識でアメリカの中国研究についてはポール・コーエン『知の帝国主義』も知られている。「見る」側の視点そのものが権力性を帯びている場合、「見られる」側の主体的な自己認識をないがしろにはできない。だが、それでは「見られる」側であるはずの中国史が自らを語る言説をそのまま鵜呑みにしてもいいのだろうか?というのが本書の問題提起となる。
 近代中国においては、とりわけ社会進化論やマルクス主義の大きな影響の中、国民国家の形成、生き残りという目的意識による一元的・直線的な発展史観が生まれ、都合の悪い要素は排除もしくは再構成される形で単一の「語り(narrative)」へと収斂されてきた。ナショナル・アイデンティティーの形成と内実は、想起される歴史的な「語り」と現代の国民国家システムとのせめぎ合いによって生み出されている。歴史のアポリアや抑圧を覆い隠すレトリカルな戦略をさらけ出すことで、フォーマルな「語り」から無視されてきた分岐する(bifurcated)歴史のあり方、複数のアイデンティティーが相克する姿をそのままに直視し、目的論的な抑圧から歴史の意義を取り戻そうと本書は試みる。国民国家論の解体を意図している点でポストコロニアル的な議論である。

(以下はメモ)
・傅斯年や顧結剛たちの歴史研究に表わされたナショナリズムを分析。対して魯迅は、ナショナリズムに反対したからというのではなく、ナショナリスト的な語り口に疑問を投げかけていた点で他の学者とは異なる。
・前近代・近代両方の社会においても複数の表象、語り、アイデンティティーが並存しながら持続しており、近代ナショナリズム以前のプロセスが、近代以降になっても拠り所となる→中国とインドを比較。
・新国家建設に向けて会党の協力を取り付けるため反満主義・伝統的な血族主義などを取り込んだ一方、そうした文化的イデオロギーは近代国家のものではない。孫文は辛亥革命後、会党の役割を否定。
・社会進化論は先進と後進の区別→ヒエラルキーの中での上昇志向を促した。1910年代以降、社会進化論はアピールしなくなり、反帝国主義・共産主義の影響が強まる。しかし、人種(race)的言説が消えたわけではない。

・封建主義という言説の検討
・中国には伝統的に市民社会に相当するものは成立しなかったとされているが、封建的伝統における自律的な知識人の系譜や宗教に基づく公共空間があった点を見直す必要。
・啓蒙思想の系譜を見るとき、例えば康有為のように、封建的思想が近代的言説を取り込んだのか、それとも近代的言説を成立たせるために封建的思想を用いたのか、どちらなのか判別は難しい。
・地方自治の失敗:袁世凱政権が徴税や警察など近代的な行政改革に着手→民間宗教の制度的基盤が解体され、これは民国期を通じて行われた。軍閥の時代に政府が権力を拡張し、地方のリソースを引き出そうと模索(例えば、閻錫山の山東モデル)→地域住民ばかりでなく地域のエリートも疎外。中国北部の地方レベルにおける全面的な国家建設が行われるのは日本支配下になってから。しかし、これによって地域の力を動員したり地域的エリートをリクルートできたのではなく、政府は地域の低位官僚層を監視できなかったので別種の暴君が現われた。⇒1930年代、こうした暴君による搾取は封建思想に由来するのではなく、清朝末期の新政やナショナリストの「自治政府」などの国家建設失敗の空隙に生じていたことを、すでに梁漱溟が指摘していた。
・弱い国家→強い権力が必要という言説。梁啓超は、啓蒙を軸とした進歩の歴史を描き出し、そこに国民国家を結びつけた。中国における新旧の公民社会的なものは封建主義の名の下で葬り去られていく。(本書で言う封建主義とは、伝統思想に基づく身分秩序+地域分権で、そこには中央集権に対する批判の可能性が含意されていたが、これが革命家たちの言説を通して近代にとっての異質物としてネガティヴな意味合いが背負わされていく。)

・中央集権と地方分権との葛藤
・地方分権を求める連邦主義者の代替案は封建主義とみなされ、中央集権志向の国民国家的イデオロギーによって中国近代史の早い段階で葬り去られた。しかし、国家主義と地方主義は共存し得たはずと指摘。歴史をみると、地方主義を成り立たせる伝統や人的ネットワークは確かに存在していた。
・1895年、下関条約で台湾割譲→束の間だが台湾民主国という独立の動き→これに触発され、内憂外患への対処や反満主義による地域自立の主張(Provincialism)が現われた→欧築甲(Ou Qujia)の『新広東』、楊守仁(毓麟、Yang Shouren)の『新湖南』など。
・社会進化論の受容の二つのパターン:上記の地域自立の運動は、郷土への愛→競争力のある独立した地域としての発展を目指す→こうして独立した地域の連邦が中国独立の基礎となるという考え方。対して、汪精衛たちは中国の生き残りのため中央集権的な国民国家を主張。
・地方主義は辛亥革命後、連邦主義という西欧的な政治理論で自治を承認させようと模索。しかし、中央集権が中国の伝統であるという言説から、これに反する動きは反中国的として批判を受ける。五四運動期のTang Dezhangは人民主権という理論で地域主義を主張→歴史に結びつける言説から切り離した。
・分権主義の主張には自治と民主的改革という二つの要素があったことは注目される→自治は軍閥が支持、民主的改革には知識人や急進派が関心を持った。
・広東軍政府で陳炯明の裏切り?→彼は国づくりの基盤としての自治を支持していた一方、孫文は建前としては連邦主義の方向を取ってはいても真剣ではなかった→方針の違いから陳は引退。ところが、軍人たちの孫文追放クーデターで呼び戻された。背景には、孫文が北伐を強硬に主張するのに対して、地盤固めが先決という異論があったため。孫文をけなすわけにはいかないので陳炯明は裏切り者とみなされた。

・「進歩」という観念に対する懐疑について中国とインドとの比較を通して論じる(著者のDuaraはインド出身)
・「近代」批判の二つのタイプ→①東西文化の対立(章炳麟、劉師培など)、②精神的な疑問(康有為、梁漱溟など)
・梁漱溟(Duara自身の読みではなく、Alittoの梁漱溟伝に基づくようだ)→儒教的な考えに基づき、郷村建設→指導者は先生、政府は学校。進化論的な見通しを持ってはいたが、それは価値的なヒエラルキーが取り払われていた。近代化と伝統との両方を重視、政治と文化は決して離れていはいないと考えた思想家としてインドのバンキム・チャンドラ(Bankim Chandra)と比較。ガンディーと同様の役割を果たし得ただろう人物として梁漱溟、Jimmy Yan(晏陽初)、陶行知などを挙げ、彼らが中国の歴史の語りにおいて周縁化されていることに言及。(※ただし、梁漱溟をガンディーと比較しようにも、影響力が格段に違ったと言うが、思想の内在的構造の比較はなされていないことに不満。)
・ネルーは近代を軸とした歴史観の範囲内で民族文化の独特さとして考えた→文化と政治を分離して把握→どちらかと言うと、中国のマルクス主義者に近い。
・中国でも反帝国主義の運動は盛り上がったが、大部分は植民地化されたわけではないので植民地的イデオロギーが刻み込まれなかった点がインドと異なる。

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【映画】「言えない秘密」

「言えない秘密」

 中華圏で圧倒的な人気を誇る周杰倫(ジェイ・チョウ)の主演・監督作品。共演の桂綸鎂(グイ・ルンメイ)がお目当てでDVDを借りてきて観た。伝統ある高校の音楽科に転校してきた青年が、過去からやって来た少女と出会うという話。ピアノを道具立てとしたタイムスリップもの。少女マンガ趣味のストーリーといい、メルヘンチックな学園ものという舞台設定といい、何だか一昔前の岩井俊二がつくりそうな雰囲気の映画だ(意外と嫌いじゃないけど)。

 レトロな建物のぬくもりと、戸外のシーンで背景に映る緑の鮮やかさが観ていて心地良い。しっとりと落ち着いた情感のある映像が良いなあ、と思いながらエンディング・クレジットを見ていたら、撮影監督は李屏賓。侯孝賢やトラン・アン・ユンをはじめ世界の名監督たちとよくタッグを組んできた職人的なカメラマン。この人が撮る映像は本当に好きだな。台湾を舞台にした映画で戸外のシーンを観ていると、木々の緑は鮮やかで、海辺の風景も美しく、本当に良いなあ、と思う。それが李屏賓の落ち着いた色彩感覚で撮影されるともう最高。あと、桂綸鎂もね。

(2007年/台湾/102分)

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2012年2月19日 (日)

ヴェラ・シュウォルツ『中国の啓蒙思想:知識人たちと1919年五四運動の遺産』

Vera Schwarcz, The Chinese Enlightenment: Intellectuals and the Legacy of the May Fourth Movement of 1919, University of California Press, 1986

 1919年の五四運動前後の時期、列強から侵食され、国内的には伝統思想の束縛された内憂外患の状況の中、新文化運動で主張された個人の内面的な自己解放と批判精神とを求める啓蒙主義。その行方がどのような方向に進んでいったのか?という関心を軸として、中国近代における思想史の動向について考察を進めるのが本書の趣旨。
 第一に啓蒙と救国という二つの志向性の間での緊張関係に注目、第二に世代間の相違に注目しながら、その相互作用をたどりなおし、局面に応じて五四の啓蒙主義的な動きが退潮しては再浮上していく様子を捉えようとしていること、第三に後代において政治的必要から五四運動にまつわる記憶の再構築が行われてきた経緯の分析、以上が本書の特徴と言える。批判精神による発言を事とした知識人たちの宿命を見ていくと、いまだに現代的課題なのかもしれない。

(以下はメモ)
・洋務運動、変法運動から辛亥革命を経て五四運動に至るプロセスの概観。陳独秀の『新青年』、蔡元培が人材を集めた北京大学。
・伝統思想に反逆しようとする五四世代、雑誌『新潮』の学生たち→新文化運動で示された科学哲学と形式論理に注目。
・張莘夫が陳独秀に出した手紙:マルクス主義はある種の宗教だ→陳も、信念がなければ事は成就できないとして同意。科学的に因果関係や影響を把握→運命主義に陥らないように思考の自由→五四啓蒙主義の精神革命。
・旧世代が掲げた「科学」と「民主」は儒教的伝統への代替物として主張されたのに対し、新世代にとって「科学」は世界を解釈する方法、「民主」は個人を科学的探究へと向かわせる自信の態度。
・西欧思想の様々な潮流を精神的反逆、精神の独立として把握→ロシア革命も社会的コンテクストにおいて自己解放の兆候として歓迎。西洋の視点で中国を見る→保守派を批判。
・ヴェルサイユ会議等で示された西欧の欺瞞。他方で「彼ら」と「我ら」という二分法は望まなかった。
・1930年代に入り、日本による満洲国成立(溥儀は儒教的皇帝として即位)、蒋介石が発動した新生活運動で孔子崇拝の復権の動き→外敵への対処と内面的な自己解放とを結びつける問題意識が再確認され、そうした動向の中で五四運動期の啓蒙主義が再浮上→五四期のヴェテラン知識人たちと共産党理論家たちの両方がリーダーとなった。この頃、羅家倫が学長となった清華大学の方が北京大学よりもリベラル。羅家倫が大学の活性化に成功したやり方は、かつて北京大学で蔡元培が取ったのと同様で、気鋭の学者たちを招聘→馮友蘭、楊振声、兪平伯、張莘夫、朱自清など。同時期、上海では魯迅たちの左翼作家同盟が成立、また胡適、蔡元培、宋慶齢などの参加した上海市民権連盟?(Shanghai League for Civil Rights)も政治犯として捕まった人々の調査などで役割を果たした。いずれにせよ、白色テロの犠牲が知識人たちを結びつけ、五四知識人の絆を再建。
・上の世代は伝統的価値を疑うが、非歴史的。次の世代は歴史の再解釈によって知識人としての確信を得ようとした。
・大衆教育の必要と、大衆そのものが否定できない価値を持っているという考え方との相違をどうするか?→五四の白話運動は非中国的という批判。五四世代は白話の発見が目標だったが、1930年代以降、大衆語の創造という問題意識。
・1936~37年、新啓蒙運動→張莘夫と陳伯達→五四のヴェテランと共産主義の若者との間では、合理的な啓蒙主義を大衆にどのように広げられるか、封建主義の愛国的な批判はどのようにするか?という点で共通。
・抗日戦争→愛国主義を大衆に広めるのが最優先→個人と国家の独立を結びつけた五四の啓蒙の理念はフェイドアウト。啓蒙→救国。
・新しい世代は、自身の必要や願望に応じて五四運動のイメージを作り上げてきた。現在を批判する鏡として過去からイメージを作り上げてきたプロセス→寓意としての五四運動。現在における政治的主張に活用するために行われてきた記憶の再構築。
・孫文は国家生き残りのための「国粋」という文化保守的な考え方の影響を受けており、イコノクラスティックな啓蒙主義には関心なし。ただ、学生たちの愛国主義を賞賛。蒋介石は中国的倫理に付会する形で五四運動を新生活運動に結びつけた。
・毛沢東は自ら五四運動の支持者であったと考えていた一方、知識人の言う啓蒙主義が救国の条件になるかどうかについては懐疑的。
・海峡両岸での五四運動の周年ごとの記念のあり方を比較。五四運動生き残りの人々も、記念行事は彼ら自身とは関係ないにしても、繰り返されているうちに自らの記憶を政治的な必要による集合的記憶に合わせていく傾向。しかし、五四運動の動機の部分で自らの自律的な思考を捨てたくない人々→1957年、台湾で『自由中国』を創刊した雷震たちも五四の生き残り。同じ頃、大陸では百家争鳴で批判精神も現われようとしたが、こちらもつぶされた。

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【映画】「ペルシャ猫を誰も知らない」

「ペルシャ猫を誰も知らない」

 イスラム体制下のイランでは西欧文化に対する規制が敷かれている。インディー・ロックのバンドを組む若者たち、コンサートを開こうにも検閲で許可が下りず、出国できる見込みも立たない。それでも自由に音楽をやりたいと情熱を燃やす彼らの奮闘。この映画そのものがイラン政府の許可を取らずゲリラ的に撮影されている。

 そういえば、テヘラン出身の女性インテリが精神的自由を求めて読書会を開くなどしたことをつづった回想録、アーザル・ナフィーシー(市川惠理訳)『テヘランでロリータを読む』(白水社、2006年)という本もあった。この映画の若者たちも人目を気にして、特に警察に密告されないように、隠れて練習している。警察に捕まっても何とか抜け出すコミカルなやり取りもあった。イスラム革命以前のテヘランには西欧文化がかなり流入していたし、現在でも非合法ではあろうが、様々なルートで西欧の映画や音楽ソフトを入手することもできるようだ。イランでも西欧文化が好きな人は意外と多い。

 表現の自由が抑圧されていることへのプロテストがテーマとなるが、必ずしも深刻さ一点張りというわけではない。テヘランの町並みや人々の表情が映し出されるのだが、音楽に乗せて時に軽やかに、時に悲哀をにじませて繰り出される映像がミュージッククリップのようで、これがなかなか面白い。イランという国も、政治体制がこんなにこんがらかっていなかったらもっと魅力的な国なのに…と残念な気もする。

【データ】
監督:バフマン・ゴバディ
2009年/イラン/106分
(DVDにて)

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2012年2月18日 (土)

島田虔次『中国革命の先駆者たち』

島田虔次『中国革命の先駆者たち』(筑摩叢書、1965年)

◆梁啓超「亡友夏穂卿(夏曾佑)先生」の訳。
◆梁啓超「支那の宗教改革について」(『清議報』19、20号、1899年)の訳。
・孔子の教えの間違った解釈によって愚民化という問題意識。康有為が公羊学による『春秋』の解釈。従来の教えは「小康」、自分たちが奉ずるのは「大同」。
・進化主義(拠乱世→升平生→太平世。ダーウィン、スペンサーの進化論にも言及)であって保守主義ではない。
・平等主義であって専制主義ではない。小康派は君権を尊重、大同派は民権を尊重。
・兼善主義であって独善主義ではない。仏教の菩薩行を引き合いに出して孔子も同様とする。
・強立主義であって文弱主義ではない。
・博包主義であって単狭主義ではない。仏教を引き合いに出しながら思想的多元性を指摘。
・重魂主義であって愛身主義ではない。

◆梁啓超「言論界における私の過去と未来」(『庸言報』創刊号、1912年12月)の訳
・これまで立憲を主張していたのだから共和制になったらお前には発言権はないはずだ、という非難への反論。

◆ある革命家の遺書→陳天華の「絶命書」「獅子吼」を紹介。

◆中国のルソー→黄宗羲『明夷待訪録』の「原君」「原臣」など。

◆章炳麟について──中国伝統学術と革命
・張王渠の清虚一大の哲学は「気」に第一性をみとめるところの「唯物論」、朱子の性即理の哲学は「理」に第一性をみとめるところの「客観唯心論」、陸王学の心即理は「心」に第一性をみとめるところの「主観唯心論」。これらに対して思弁を排した考証学。章太炎は考証学のうち最も成果のあった小学=国語学の分野を学統としてついでいる。
・仏学をもって国家を救おうとする太炎の説→華厳の菩薩行と唯識の哲学。唯識は考証学、科学に似ていると言うが、そればかりでなく明末の王夫之や黄宗羲も唯識に関心を持っていたことに注意を喚起。
・音韻学、諸子学の開拓などの業績。
・1903年、蘇報事件で投獄→獄中で『因明入正理論』『成唯識論』『瑜伽師地論』などを読破。
・太炎の主張した革命とは「光復」である。満州族のために汚され奴隷化された中国の文明と民生とに再び輝きを取り戻すことに他ならぬ。
・清朝末期において考証学への不信の念、康有為・梁啓超は明治維新における陽明学の役割を紹介、そうした中で考証学の学統を受け継いだ太炎はどのようにして革命と結び付けたのか?→民族の歴史を美醜善悪ともに正しく知ることによって生まれる民族への愛情、これこそ太炎において学問と革命とを媒介する当のものに他ならない。革命の原理たる民族主義。「民族の独立は、まず国粋(国学)を研究することが主であり、国粋は歴史が主である。その他の学術はみな、普通の技にすぎない。」孔子は民族に歴史を与えた点に功績。康有為たちが孔教を唱えて孔子を崇拝するのは見当違い。「わが民族性は、心をくばるのは政治・日用、はげむのは工商農耕であって、関心は生の領域を超えず、超経験のことは一切語らない。追求するは自我の尊厳であり、神を真の主宰者と仰いで死を賭してこれに仕えようなどとはしないのである。」
・六経に記載された「事」→性理学ではそこに「道」「義」が示されていると考え、その把握・実践を志す一方、客観的「方法」には無関心。考証学は「事」の事実的確定を目指す一方、単なる資料と見る心情の麻痺をももたらした。ウェスタン・インパクトによって「事」と「道」との分離→康有為・梁啓超たちが「道」の内容を「進化」「公理」「民権」によって把握しようとする。太炎にとっては単に「事」の記された「経」→「中華の民」の「礼俗」という「事」が記されていること自体が貴い所以→考証学であっても聖人の「道」を前提としていたが、こうした枠組みをも超えてしまった→もはや考証学でも儒学でもない、「国学」であるという転回。
・政府の絶滅、聚落の絶滅、人類の絶滅、生物の絶滅、世界の絶滅を説いた「五無論」については、そこから何か深遠なものを引き出そうとする論者を批判。太炎はよく「純粋に超人超国の説」と当面の急務との区別を説くが、前者が後者を規定いるとは考えられない。民国成立後まで視野に入れると感じられない。むしろ、この時期になぜこのように激昂した「仏声」をなしたことの意味に大きな問題がある、と指摘。

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【展覧会】「ルドンとその周辺──夢見る世紀末」

 三菱一号館美術館で開催中の「ルドンとその周辺──夢見る世紀末」を観に行った。巡回展だが、今回は三菱一号館所蔵「グラン・ブーケ」が展示されていることが特色とされている。

 オディロン・ルドンと言えば、あのギョロッとした「一つ目」の印象が昔から強烈だった。例えば、ギリシア神話のキュクロプスだったり、眼球そのものが気球のように浮揚していたり。気球というのも時代がうかがえる題材らしい。パリ・コミューンの崩壊に当ってガンベッタが気球を使って脱出したり、ヴィクトル・ユゴーの肖像をあしらった気球が飛ばされたり、といった話題が紹介されていた。ちなみに、ルドンが好んで描いた眼球のモチーフは、水木しげるが目玉おやじのモデルとしたことでも知られている。

 もちろん目玉ばかりではない。当初におけるモノトーンの画面は、この世ならざる幻視の世界を描き出すのに格好の舞台だ。1890年前後以降、「目をとじて」シリーズを境としてカラフルな彩りへと移り変わっていく。ここには、ある種の精神史的ドラマが伏流していそうで前から関心が引かれていた。なお、今回展示されている「オフィーリア」も「目をとじて」シリーズの一環になるのだろうか。ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」とはまた違ったおもむきがある。

 ルドンの師匠だったブレンダンや、同時代の画家たちの作品と並べ、彼が生きていた時代の雰囲気が分るような展示となっている。ルドンの作品は単に幻想的というのではなく、進化論や植物学、天文学、心理学など19世紀における先端科学の知見を取り込み、後期になると象徴主義や神秘主義の影響も受け、昇華させているのをキャプションで知った。

 「絶対の探究─哲学者」(1880年)という作品が目を引いた。キリスト教神学を示す三位一体の輝く三角形。その後に見える黒い太陽はメランコリーを表わすそうだ。メランコリーと言えば、エドガー・アラン・ポーに献げた石版画集もあり、ルドンのモノクロの世界はまさにメランコリーそのもの。黒い太陽は、眼球のモチーフとつながりを感じさせる。そして、これらを聳え立った山の高みから道化師の面をかぶった小人が見下ろしている。コンセプチュアルに整理されすぎという感じもするけど、ルドンが生きた19世紀の思潮が象徴的に表現されていると言ってもいいのだろうか。

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2012年2月15日 (水)

『章炳麟集──清末の民族革命思想』

章炳麟(西順蔵・近藤邦康編訳)『章炳麟集──清末の民族革命思想』(岩波文庫、1990年)

 孫文、黄興と「革命三尊」と並び称され、国学大師と呼ばれるほどの学識を持ちつつ血気盛んに革命運動に飛び込んでいったところは魯迅からも尊敬されていた章炳麟、彼は1869年、浙江省余杭県倉前鎮の地主知識人の家に生まれた。日清戦争敗北の衝撃で強学会に入会、1897年には上海の『時務報』記者となって変法運動に参加。変法には賛成だが、孔教には反対して時務報館を去る。戊戌の政変で台湾に逃れ、翌1899年には日本に渡って梁啓超の紹介で孫文に会った後、上海に戻る。1901年、「正仇満論」で梁啓超を批判、さらに排満を主張したので逮捕されそうになり、1902年、日本へ。再び帰国後、『蘇報』の筆禍で逮捕された。1906年に出獄、日本に渡って中国同盟会に参加。1907年7~8月には張継、劉師培らと社会主義講習会を開催、幸徳秋水・堺利彦・大杉栄らに講演を依頼、同年夏には亜州和親会を結成。辛亥革命が勃発して1911年11月に帰国。第二革命後、袁世凱によって三年間幽閉された。1917年には広州に行き、孫文の護法軍政府に参加。1919年の五四運動では国粋を守って新文化運動に対抗、国共合作には反対、国民革命にも反対。1931年の満州事変以降は愛国運動を支持。1936年6月14日、蘇州で逝去。

 章炳麟の議論では排満興漢の種族革命という主張がよく引き合いに出される。しかし私自身としては、次の三点で章炳麟と梁漱溟に共通点が見られることに興味を持っている。すなわち、①この世の無常を喝破する認識論として仏教の唯識を採用。②社会進化論の体裁を借りて段階説的な考え方を取り、遠い未来に仏教的な寂滅の世界を想定。③ただし、そこまで至ることのない現段階においては中国独自のもの(章炳麟は民族主義による種族革命、梁漱溟は儒学思想による共同体形成)を目指すという論法。章炳麟は民族革命論、梁漱溟は現代新儒家として中国における国粋の振興に大きな役割を果したと評価されることが多いが、むしろ仏教思想を経由した一種の寂滅主義への志向、それは言い換えると民族や伝統といったものは究極的には超克されていくことが理念的に前提となっているわけだが、こうした思想傾向が社会変動期に現われていたこと、そしてそのことが他の人々にはさほど注目されていなかったことの意味は何か、という興味。

◆「播種」
◆「独を明らかにする」
・「大独は必ず群する。群は必ず独から成る。」→知識人は隠遁するのではなく、大衆の中に入って指導。

◆「「客帝」のあやまりを正す」
◆「康有為を反駁して革命を論ずる書簡」
◆「獄中で新聞報記者に答える」

◆1906年7月15日、神田・錦輝館での留学生による歓迎会での演説。『民報』6号に掲載
・革命に必要なのは「感情」。感情がなければ一つの心をもって団結することはできない→「この感情を形成するには二つの事がもっとも重要である。第一は、宗教を用いて信心を発起し、国民の道徳を増進する。第二は、国粋を用いて種族性を激動し、愛国の熱腸を増進する。」(p.83)
・孔教は神秘的、不可解な説が混じっていないのは良いが、平民革命の契機がない。キリスト教は迷妄→仏教こそ用いるべき。ただし、夾雑物がまじって本来の教えから離れているから、華厳・法相(唯識)を以て改良すべき。華厳宗は衆生の済度を説くので道徳上有益。法相宗は万法唯心、一切の有形の色相、無形の法塵はすべて幻見幻想であって決して実在真有ではないと説く→カントやショーペンハウアーとも通ずる。
・仏教は一切衆生の平等を説くのだから民族思想はいけないのでは?という批判→清朝の漢人に対する態度はバラモン教が四姓の階層に分けて虐待したようなものだから、逐満復漢は正しい、と主張。
・国粋→中国の長所を自覚。朱子学・陽明学は重要ではないが、諸子百家や戴震を評価。古事古跡はすべて人の愛国の心を動かすことができる。

◆「倶分進化論」(『民報』7号、1906年9月)
・ヘーゲル、ダーウィン、スペンサー、ハックスリー、ショーペンハウアーなどを挙げた上で、西洋の進化論も必ずしも間違ってはいないが、不十分→「進化の進化たるゆえんは一方の直進によるのでなく、必ず双方の並進による、ということがかれらには分っていないのだ。もっぱら一方だけをあげるのは、ただ知識が進化するというだけならばよい。もし道徳についていえば、善も進化し悪も進化する。もし生計についていえば、楽も進化し苦も進化する。双方が並進するのは、影が形につきしたがい、罔両〔影の影〕が影を追うのと同様であり、それ以外にない。知識が高くなればなるほど、一方〔善・悪〕を取り一方〔悪・苦〕を捨てようとしても、それは不可能だ。昔の善悪は小さかったが、今の善悪は大きい。昔の苦楽は小さかったが、今の苦楽は大きい。とすると、善を求め楽を求めることを目的とする者は、はたして進化をもっとも幸福とするのか、それとももっと不幸とするのか。進化が実際にあることは否定できないが、進化のわれわれに対する効用には取るべきものがない。自らわが論に「倶分進化論」と題する。」(pp.102-103)
・厭世観念の二派:「その一派は、決然として身を引き、ただこの世界を超出することを幸福とし、そのほかに衆生を気にかける思いがない。これは仏教でいう鈍性〔遅鈍な素質〕の声聞〔仏の教えを聞き自己のさとりに専念する人〕であり、菩提〔さとりを求め衆生を救う〕の種子のない者である。他の一派は、世界が迷いのうちに沈んでいるとし、一つの清浄殊勝〔さとり〕の領域を求めて、衆生をそこへ導いていこうとする。ここにその所を得れば〔自分がさとれば〕、身をもってこの世界に入り衆生を導く活動をすることを恐れない。これは志は厭世にあるが、活動は必ずしももっぱら厭世だけではない。そうであれば、厭世があってはならないということはない。」(p.118)

◆「革命の道徳」

◆「建立宗教論」(『民報』9号、1906年11月→法相宗の「唯識無境」の教説により、世界と自身を自心の変現と見て根源的自我を絶対化し、かつその根源的自我を一己に局限されぬ、衆生と一体平等なものだとして、自身を犠牲にして衆生を救済する菩薩行に理論的根拠)
・「いま宗教を建立するのに、ただ自識を宗旨とする。識とは何か。真如こそ唯識の実性であり、いわゆる円成実である。だが、この円成実は大にして虚であり形象が無いから、そこへただちに入りたいと思うならば、依他に頼らざるをえない。円成をさとった時には、依他も自ら除去される。それ故、いま帰依敬礼する対象は円成実自性であり、依他起自性ではない。もし何かにしたがって円成実に入ることができるとすれば、それはただ依他を方便とする。一切の衆生はこの真如を同じくし、この阿頼耶識を同じくする。それ故、阿頼耶識は自体に局限されず、衆生に普遍であり、唯一不二である。もし自体に執着していうならば、唯識の数は〔サーンキャ=数論のいう〕神我〔純粋精神で個我。根本原質を観照し世界を開展〕と異らなくなる。衆生がこの阿頼耶識を同じくするが故に、大誓願を立て、ことごとく一切の衆生を度脱〔済度・解脱〕しようと欲し、未来永劫に無限につとめる。」(p.182)
・「仏教は世を厭わないのではないが、そのいう厭世はこの器世間を厭うのであり、有情世間を厭うのではない。有情世間が器世間の中に落ちこんでいるので、これを済度して三界の外に出そうと欲するのである。」…「衆生を度脱しようとする一念は、すなわち我執の一事である。ただ一人の自己に執着して我とするのでなく、衆生を我とするのである。」(pp.183-184)

◆「『民報』創刊一周年大会の演説」

◆「『社会通詮』論議」(『民報』12号、1907年3月)
・厳復が訳著『社会通詮』(ジェンクス)で民族主義に反対したのに対し、章は排満革命を擁護して反駁。「…西洋の事を中国の事にあてはめて、歴史の事跡が、西洋の公式に合うものは必ず真実で、それと異なるものは必ず虚妄だとし、将来の方略が、西洋の公式に合うものは必ず成功し、それと異なるものは必ず失敗するという。それは、公式というものが西洋人の体験・見聞から帰納したにすぎないこと、次第に東アジアのことを観察すれば公式にも変更する点が出てくることが、分っていないのである。」(p.203)
・「…新疆の部族長たちが満州に対して恨み骨髄に徹し、漢人に怨みをはらそうとして、自ら分離して突厥・ウィグルのあとを回復したいと強く望むとしても、やはり心をおさえてかれらに任せるべきだ。漢族の満州に対する関係を見れば、回族の漢族に対する関係も分る。やむをえなければ、敦煌以西の土地を全部回族に与えて、ロシア人の右腕を切断したい。回族と神聖同盟を結んでもよい。」(p.228)

◆「インド シヴァジー王記念会の事を記す」

◆「鉄錚に答える」(『民報』14号、1907年6月)
・中国の道徳・宗教が根源で一つに帰するのは「自により他によらず」。浄土宗は否定。
・近代の学術はだんだん「実事求是」に進み、清朝考証学は明儒よりはるかに緻密になった→緻密さという点で法相の学は近代に適している。

◆「五無論」(『民報』16号、1907年9月)
・当面は民族主義を掲げるが、さらに将来の方向→①無政府、②無聚落、③無人類、④無衆生〔無生物〕、⑤無世界→人類、さらには存在そのものの消滅へ。ただし、遠い将来の話。
・わが友北輝次郎の言として『国体論及び純正社会主義』(1906年)からの引用あり。

◆「復仇は是か非か」(『民報』16号、1907年9月)
・「…高尚なことは、人類と衆生〔生物〕とをあわせてすべて絶滅することであり、思想の輪郭はここにある。しかし、実行できる身近なことをあげれば、やはり退いて民族主義を取らざるをえない。民族主義はあまねく人類のために説法するのでなく、ただもっぱら漢人のために説法する。」…「かりに無限定の名詞を取って旗印とすれば、中国の事は後になり、先ず攻めようとする対象が他のものになる。今はただ一領域のために説法するので、一切を包括する名詞を取らず、ただ目前にある直接知覚するものを取る。」(pp.318-319)

◆「国家論」(『民報』17号、1907年10月)
・「一、国家の自性〔固有・不変の本体〕は仮有〔因縁により現象としてかりに存在〕であって、実有〔真実に存在〕ではない。」「二、国家の作用は勢いやむをえず設けたのであって、道理の当然として設けたのではない。」「三、国家の事業はもっとも卑賤なものであって、もっとも神聖なものではない。」(p.324)

◆「亜州和親会規約」
◆「インド人の国粋論」
◆「夢庵に答える」(夢庵=武田範之への反論)
◆「四惑論」
◆「祐民に答える」
◆「代議制は是か非か」
・中国はもともと地域的な相違が大きいので、連邦制にしたらバラバラになってしまう。
・総統の選挙では平凡無知の者が番狂わせで当選することはあり得ない、功績・才略のある者のみに被選挙資格を与えるべき。議員の当選は功績によらない、買収もあるだろうから不可。法律はすべて政府が制定するのではなく、法律と歴史に通暁し民間の利害を周知した者に制定させる。※一種のエリート政治か?

◆「中国の川喜多大尉袁樹勲」
・本論とは関係ないけど、ここで川喜多大尉は売国奴の例として引き合いに出されているのだが、川喜多長政のお父さんだ。当時は日本軍の機密を袁世凱政権に売り渡したとして処刑されたことになっているのだが、実際には軍事教官として勤務中に中国側にシンパシーを抱き、日本軍のやり方に疑問を抱いたため誅殺されたとも言われている。もちろん、同時代の章炳麟が知る由もないが。

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2012年2月14日 (火)

革命詩僧・蘇曼殊のこと

 革命、愛国主義といったもっともらしい「正義」を基準に人物を賞賛(もしくは断罪)する傾向はすでに過去のものと思うが、こうした安易なやり方で評価が固まってしまったケースもある。だが、そうした表層的な観点では見えてこない、その人をもっと深奥のレベルで衝き動かしていく核心としてのパッション、そうしたレベルまで分け入りながら捉えなおしてみると、人物像は再び活き活きとした表情を取り戻す。どんな主張をしたのか、そのロジカルな整合性を求めるのはアカデミックな手順としてはもちろん必要だが、それだけで完結してしまうと索漠として味気ない。むしろ、矛盾が見えてきてこそ、その人がこの世の現実と向き合った葛藤の迫力が現われてくる。思想史というのはそういうものだと思っている。

 清末民国初期、革命運動に飛び込んでいった人々の悲憤慷慨の調子に、例えば陳天華が絶望のあまり自殺してしまったように、極めて激しい情念がみなぎっていたことには目をみはる。人によって程度の差こそあれ、一様に見られるこうした激しさは一体何なのだろうか。社会変動期に解き放たれた「個」の強烈な自覚、他方で列強に侵食されつつある国際情勢や腐敗した国内政治の不甲斐なさに歯軋りするような焦燥感、個人と公、文学と政治、相反する傾向に分化しているように見えて、実は双方が一人の個人の内面において違和感なく結びついている何か──ロジックとして何を主張したかよりも、彼らの内面で“何か”を主張したいと促していったパッションの正体の方に私としては興味が引かれる。

 蘇曼殊という人の心情面では純粋でありつつ、行動面では屈折を見せた短い生涯は、そうした意味での不思議な魅力を感じる。

 蘇曼殊の作品は飯沼朗訳『断鴻零雁記──蘇曼殊・人と作品』(東洋文庫、平凡社、1972年)で読める。自伝的要素をにじませ、葛藤を抱えた主人公と理想化された女性との悲恋をテーマとしたロマンチックな作品が目立つ。胡適から鴛鴦蝴蝶調として批判されたり、他方で周作人からは個人の表出として高く買われるなど、評価は分かれていたらしい。彼の実の母は日本人らしく、彼自身は日中のハーフなのか、日本人なのかという出生の謎も彼の葛藤の大きな原因であったが、本書の解説ではそのあたりの考証もなされている。

 1884年、蘇曼殊は貿易商だった蘇傑生を父として横浜に生まれた。広東省中山県で育ったが、15歳のとき横浜の大同学校に入学、卒業後も東京に遊学して革命家たちと交わる。章炳麟、劉師培、陳独秀などから教えを受けながら文筆で認められ、英語もよくできたのでバイロンなどの翻訳・紹介でも注目された。

 1903年、革命運動に身を投ずべく中国に戻り、革命派と対立する保皇派の康有為暗殺の刺客になろうと決心したり色々あったが、恵州で出家して僧になった。他の修行僧の度牌(出家の証明書のようなもの)を盗んで出奔した、いわばニセ坊主であるが、これがそのまま通用してしまっているのも彼のパーソナリティーの面白さだろう。ところで、彼はなぜ仏門に入ったのだろうか? 日中の混血というアイデンティティーの混乱を超えていく思想的なものを求めたという解釈もあり得るし、章炳麟の「革命的菩薩」というイメージの影響も指摘されるが、実のところよく分からない。ここが蘇曼殊を考える上で一番のカギになると思う。この時代の中国は近代思想の摂取に熱心だった一方、章炳麟、梁啓超、梁漱溟など仏教思想の再評価の動きも同時に見られたことには興味を持っている。まだ勉強不足でどういう事情があったのか把握しきれていないが。

 蘇曼殊は、よく章炳麟と一緒にインドへ行こうと語らっていたらしい。彼は東京にいた頃からサンスクリットの学習に以前から励んでおり、中国に戻ってからも仏教をしっかり学ぼうとタイを目指し、東南アジア各地をめぐる旅に出た。

 中薗英助『櫻の橋──詩僧蘇曼殊と辛亥革命』(河出文庫、1984年)は蘇曼殊の詩的なパッションをランボーになぞらえているが、この南遊もランボーのアフリカ行きにたとえている(なお、章炳麟はヴェルレーヌ)。中薗の作品では彼自身がかつて「淪陥期」北京にあって文学面での親友を求めても支配/被支配の関係が壁にぶつかってしまった矛盾や困難の原体験がテーマとして一貫している。この作品でも蘇曼殊の文学的パッションを汲み取ろうとしているだけでなく、中薗自身の思いも行間からにじみ出てくるところが読ませる。

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2012年2月13日 (月)

余英時『中国近世の宗教倫理と商人精神』

余英時(森紀子訳)『中国近世の宗教倫理と商人精神』(平凡社、1991年)

 要するに、ウェーバーの言う「プロテスタンティズムの倫理」では、上帝と現世との緊張関係の中で、上帝の命令を内面化→現世において禁欲的な活動を促した(外在超越)。これに対して、理気二元論を軸とした新儒学では、現世たる「気」の中に「理」が一貫しており、「気」が濁らないよう「理」に従って一所懸命に物事に取り組む真面目な態度を促した(内在超越)。従来の儒学に欠如していた内面的契機に対して新禅宗における「世俗内的転回」が与えた心性論の影響、明清期に現われた「良い商人は立派な儒者に劣ることはない」という考え方などが相俟って近世中国の商人倫理が成立した、と論じられる。
 本書執筆の動機は、第一に、ウェーバーが中国には超越的宗教道徳の信仰がないと考えたことへの批判。第二に、中国とヨーロッパとでは歴史的経緯が異なるにもかかわらず、大陸の歴史学界ではマルクス主義的な発展段階論に基づいて「資本主義の萌芽」をめぐる論争が展開されてきたことへの懐疑。第三に、東アジアにおける近代的資本主義受容にあたって儒家倫理が受け皿となったという議論を意識。

(以下はメモ)
・「プロテスタンティズムの倫理」に匹敵するのは、新禅宗から新儒学への転回。新禅宗における「世俗内的転回」を新儒学が継承(韓愈→「人倫日用」の儒学)。
・新旧儒学の最大の相違は、心性論の有無にある。もともと儒学には「彼岸」はなかったが、新禅宗の新儒教に対する最大の影響は「此岸」にではなく「彼岸」にあった。人々に精神的な「安心立命」をもたらす心性論が儒学には欠けており、新禅宗の挑戦を受けてこの部分を発展させていったのが宋明理学。宋代の新儒教は「仏教を体となし、儒学を用となす」という考え方を破ろうとした→「釈氏は心に本づき聖人は天に本づく」との弁別→「天理」は超越的かつ実有の世界→儒家の「人倫という卑近なこと」のためにひとつの形而上の保証→新儒教の「彼岸」は「此岸」という一対の観念の対立で相補う。
・善は「理」より出で、悪は「気」より来る。しかし、「理は弱く」しかも「気は強い」→修養の工夫が必要。儒家の「此岸」に対する基本的態度は、もともと消極的な「適応」ではなく、積極的な「改変」であった。内在超越の文化形態のもとで、新儒教は彼らと「此岸」との間の緊張を最大限にまで高めた。
・新儒教倫理における「彼岸」と「此岸」の展開→仏教を参考にしながら「理の世界」と「事の世界」を確立→こうした改造は仏教における「空幻」を儒家の「実有」と化した。新儒教の「此岸」とは、理と気が離れながらも「理は弱く気は強い」という「存在」であって、仏教の「此岸」が「心」の負の側面(無明)から生ずるのとは異なる。新儒教では「彼岸」は「此岸」と向き合っており、隔絶はしていない。仏教で「彼岸」が「此岸」と背離しているのとは対照的。
・ウェーバーが強調したプロテスタンティズムの倫理では、世俗内的禁欲を上帝の絶対的命令とし、上帝の選民は此岸における成就によって彼岸の永世を保証するのでなければならない。対して新儒教は「天理」(あるいは「道」)の存在を信じている。しかし、「理」は「事」の上だけでなく「事」の中にもあるので、この世で各人が自己の持ち場において「事をなし」、理の分を完成しなければならない→「本分を尽す」
・新儒家とカルヴィン教徒は、自己に対する期待の高さでは完全に一致。ただし、前者では社会に対する責任感を発展させて宗教精神にまでしているのに対して、後者は宗教精神を転嫁して社会に対する責任感となしている。

・明代中期以降の階層的流動化→新四民論の出現
・「儒を捨てて賈に就く」
・明清の商人倫理が勤倹で家を起こしたのはどのような動機によるのか?→「良い商人は立派な儒者に劣ることはない」という心理。商人自身と士大夫がともに商業を見直し→商業の意義。王陽明は「四民は業を異にするも道を同じくす」と言ったが、いまや商人は確実に「賈道」を有する。

・ウェーバーの中国商人に対する誤解→中国人には内在的価値の内核が欠如、超越的宗教道徳の信仰がないと考えた。
・ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理の一大成果は、親族の束縛を破り、家と商業とを完全に分離したことにあったが、しかるに中国では親族の「個人」関係を重んじ、事業効率の観点がない→経済発展制約と考えた。しかし、明清の大商人と「伙計」の関係は事業効用に向かっての一歩だった。
・明清士大夫の作品には商人のイデオロギーがすでに浮き上がっており、商人自身の言葉がそこに引用されている。
・専制の官僚制度が網の目のように覆っている中では、商人であっても手も足も出なかった。

・中国とヨーロッパとでは歴史的経緯が全く異なるので、「ヨーロッパ近代式の資本主義がどうして中国史にはいつまでも出現できなかったのか?」「儒家倫理は今日、資本主義の東アジアにおける発展にとって助けになるのか、障害になるのか?」といった問題設定は無意味。こうした問いかけは、ヨーロッパ近代式の資本主義はどの社会も必ず通過する歴史的発展段階だという、いまだ検証されたことのない仮説に基づいているだけ。大陸の歴史学界ではマルクス主義に基づき「資本主義萌芽の問題」をめぐる議論が展開されてきたが、説得力ある成果はついに生み出されなかった。近代欧米に独特な形態をとった産業資本主義の分析のため、つまりヨーロッパ文化に内在的に成立していた要素としてウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理」に注目した。
・資本主義が今日東アジアで発展しているのは、明らかにヨーロッパから直接移植したものである。しかし、強烈な経済的動機さえあれば企業経営を行なうのであって、宗教的動機は特に重要ではない。従って、ウェーバーの理論を機械的にあてはめて儒家倫理と近年の東アジアにおける資本主義の勃興とを安易に結びつけるわけには行かない。

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2012年2月12日 (日)

丸山松幸『五四運動──中国革命の黎明』、野村浩一『近代中国の思想世界──『新青年』の群像』

丸山松幸『五四運動──中国革命の黎明』(紀伊国屋書店、1981年)

 西欧的啓蒙思想による中国社会変革への渇仰が、日本の21か条要求やヴェルサイユ会議での屈辱を経て民衆運動、社会主義への関心へと変化していく過程がたどられる。本書の初版が執筆された1969年の時点では同時代として熱かった学生運動や文化大革命と問題意識が重ねあわされている。伝統重視派やリベラル派との論争の経緯が知りたいというのが私自身の関心だが、当然ながら本書では悪役となっている。
・尊孔問題→人間解放を実現するか否かの集中的な対立点。
・二十一ヶ条反対の民衆運動→袁世凱政権の専制権力に許容された合法の枠内にとどめられることによって、そのエネルギーを権力側に吸収される結果となったが、政権側の意図にかかわらず、広範な国民の民族的自覚に火をつけた。
・帝政復活論:士大夫階層の没落→科挙の廃止によって唯一の存在理由たる儒学的教養が無意味、新しい支配体制にも順応できず、資本主義経済の浸透により中小地主としての生活基盤も崩されつつある→袁世凱の皇帝への道を清める点だけに許容されたにすぎない。
・陳独秀の「自覚」は、理想とする「西欧近代」の立場から、いわば外から、「暗黒の中国」を拒絶するものであったが、李大釗のそれは、自己の内部から「中国の暗黒」との戦いを要求するものであった。(p.99)
・『新青年』の論調:個人の独立、個性の解放、自我の確立。独立した個人は、みずからの理性の判断に従って中国を再造する。国家は、個人の自由と幸福を守るものにしなければならぬ。道徳は、個性を解放し、相互の人格を尊重するものでなければならぬ。思想は、迷信から解放され、科学的真理に従うものでなければならぬ。ひとくちに言えば、西欧近代をモデルとした新文明の創造が、個人の独立、個性の解放にかけられたのである。(104ページ)→儒教批判。家族制度の問題。婦人解放。
・1917年1月、北京大学総長に就任した蔡元培は『新青年』を一読して陳独秀を文科学長に招聘、『新青年』で改革を主張していた論客たちが北京大学に集まり、新文化運動の中心となる。
・胡適が白話運動を提唱、陳独秀の「文学革命論」→具体化されたのが魯迅「狂人日記」。
・第一次世界大戦、ロシア革命→李大釗は「民主」を実現する力はまさにプロレタリアートを中心とする民衆運動にあると考えた。しかし、彼の民衆至上主義にはアナーキズムの色彩が濃厚。
・1919年5月4日、五四運動のきっかけとなった曹汝霖宅への襲撃事件。
・五四運動を通じて、学生たちはまず民衆の一人であらねばならないと考えた→「工読互助運動」。全国各地で青年たちが結社、小雑誌を創刊、それらは社会主義思想が多くなった。ヴェルサイユ会議の欺瞞性は西欧的民主主義への幻滅→反帝国主義、民族解放の理論としての関心。ただし、様々な思潮が入り混じっていた。
・胡適と李大釗の間で「問題と主義」論争(1919年7、8月):胡適は主義の主張ではなく個々の具体的問題の解決から始めなければならないと主張。李大釗は民衆運動との結合を通した根本的変革を主張。社会問題の解決法の研究か、解決のための運動かという対立点。

野村浩一『近代中国の思想世界──『新青年』の群像』(岩波書店、1990年)

・陳独秀が、近代西洋文明の中に中国の進むべき範型を見出したこと、同時にまた、それに基づく恐るべく明快な二分法をもって、伝統的旧文明を批判、攻撃したこと→『新青年』の出発の固有の意味。単純な西洋賛美者ではあり得なかった(p.32)
・隠遁→「高潔の士の俗世離脱の行為」という「脱政治」的態度への批判。士大夫‐官人的な政治のあり方への批判。烈士の行動主義ではなく、持続的な愛国主義への要求。
・康有為が提唱した「孔子教」は古い伝統的規範の遵守というわけではなかった。むしろ彼独自の解釈を施した上で、彼の目に映った「風俗頽廃」の現象を防ぎ、国民の精神的紐帯を築き上げようという意図があったが、そうした換骨奪胎をするには、儒教にはあまりにも深い歴史的刻印が刻まれていた。その歴史的弱点を陳独秀は批判。
・リベラリズム→信教の自由という立場からの批判は、蔡元培。
・呉虞は専制主義批判の地点から儒教と対決、家族制度を批判。
・しかし、家族・宗族共同体の問題は、この国における一つの文明世界の解体と再生、再編の過程で重すぎる問題。
・李大釗「青春」→宇宙が「無始無終の自然的存在」という前提から「道徳は、宇宙現象の一つであり、したがってその発生と進化もまた、必ず自然進化の社会に対応する」。
・胡適→文明の方法的摂取。
・『新青年』を取り巻く二つの側面:中国民衆の日常世界、1910年代という国際環境→第一次世界大戦、ロシア革命の衝撃。
・李大釗:東西両洋の文明それぞれの長短。物質生活に過ぎた西洋文明が、東洋の精神生活を吸収する必要、他方で中国自身も「静」を主とする文明が瀕死の状態→「動の精神」「進歩の精神」を取り入れ、まさしく「復活」によって「世界文明に第二次の貢献」をなすべき。「現在の時点に立っていえば、東洋文明はすでに静止の中に衰頽し、西洋文明もまた物質の下に疲命している。世界の危機を救うためには、第三の新文明の崛起がなければ到底この危崖を渡ることはできない。」「ロシアの文明は、まことに東西を媒介するの任に当るに足り、また東西文明の真正の調和は、二種の文明の本身の覚醒のない限り、ついに功を奏することは不可能である。」(p.187)→東西文明論を背景にしてロシアへの期待。「歴史とは、普遍的な心理の表現の記録である。…」という発想(p.191)
・李大釗→革命、再生への熱情、沸き立つようなイメージ、「煉獄」を通じての「新しい世界」への期待。
・李大釗:「都市には罪悪がきわめて多く、郷村(むら)には幸福が甚だ多い。都市の生活には暗黒面が多く、郷村の生活には光明面が多い。都市での生活はほとんど幽霊の生活であり、郷村での生活はすべて人間の生活である。都市の空気は汚濁にみち、農村の空気は清潔である。」「青年たちよ!速やかに農村に行き給え!…」(p.197~198)、ナロードニキを参照。
・デューイ「アメリカにおける民治の発展」という講演が行われたのは五四運動が最高潮に達した6月8日。
・五四運動を通して『新青年』同人が直面した課題→大衆運動、教育‐啓蒙、強力ないし権力への抵抗→胡適と李大釗の間で「問題と主義」論争。胡適にとって、文明は漠然と創り上げられるものではなかった。それは、何よりも「批判的態度」を基礎に、「一歩一歩(一点一滴)」生み出されていくべきものであった。「進化は一夜のうちにぼんやりと進化する」ものではなかった。解放も改造も漠然としたものではなく、具体的なものからの解放であり、改造である(p.238)。胡適の場合、問題の設定─学理の輸入─国故の整理(旧来の学術の批判的検討)─文明の再造、というプロセス→アクチュアルな問題から一歩引いた立場。
・陳独秀はデューイ「アメリカにおける民治主義の基礎」に強く触発されながら、中国での民治実行の出発点を一村、一鎮における「自治」、また一地方、一業種の「同業聯合」に求めていた。極度の専制政府のもと、この大地に拡がる「放任」された民衆の間の無数の伝統的自治団体の存在によって裏づけ→アメリカにおける等価物の安易な模索かもしれないが、中国の伝統に対する、彼の初めての接近(p.252)。
・『新青年』7巻2号に陳独秀は「自殺論」→北京大学の一学生が厭世自殺をしたことを取り上げ、最近代思潮という時代思想把握。
・陳独秀:「中国は工業の急速な発達を求めてはいるが、しかし同時に、必ずや重要な工業は社会的であって私人的なものではないようにしなければならない。こうしてこそ、中国の改革は、西洋工業主義の長所を採り入れるとともに、彼らにおけるが如き資本主義によって造成された短所を免れることができるのである」(p.262)。
・陳独秀は1910年代「新文化運動」のを率いてきた一方、中国の現実に対する混沌たる模索の中で中国の伝統的自治団体に注目、さらに転身して1921年7月には共産党の初代書記。
・『新青年』で行われた社会調査。
・周作人が『新青年』誌上で武者小路実篤らの「新しき村」を紹介。家族、宗族の相互依存・相互依頼の泥沼から抜け出したい、「労働」「互助」を基軸とする「新生活」への期待→学生たちが、働きかつ学ぶ、という新しい生活形態を目指す→工讀互助団。
・陳独秀がマルクス・レーニン主義に転身した際、アナキズムへの批判→中国式の無政府主義なるものは老荘主義の復活と認定、虚無的個人主義、自然放任主義として批判(p.309~312)。
・李大釗は「解放」の大波としてボルシェヴィズムを受容したのに対して、陳独秀はマルクス・レーニン主義の理論の次元をめぐって旋回、そして「強権」という地点へ収斂。「開明専制」「労働専制」が必要という認識へ→陳独秀における1910年代の思想世界の構造的終焉。
・共産党機関誌として再出発した『新青年』→瞿秋白をはじめとした若手の共産党参加、これまでの議論とは異なって理論的に極めて洗練されている。しかし、それは新鮮ではあっても、思想的な葛藤を経た矛盾に満ちたエネルギーはない。

※例えば西欧文明全面摂取を批判、儒教の再評価を主張した梁漱溟は胡適や陳独秀、李大釗らを批判して議論が繰り広げられていたが(上掲2冊では取り上げられていない)、彼らの議論には部分的に重なる箇所もある(例えば、地方自治への関心や、そのために活用できる中国的なものとして農村の伝統的自治共同体に着目した発想は、梁漱溟の郷村建設理論と共通する)。私自身の関心としては、新文化運動・五四運動期における個々の議論の共通点に着目した上で、相違点をも照らし出していく、そのようにしてこの時期の思想的論争の多面性をトータルで把握できたら面白いと思っている。

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ヘンリー・キッシンジャー、ファリード・ザカリア、ニーアル・ファーガソン、デビッド・リー(李稲葵)『中国は21世紀の覇者となるか?──世界最高の4頭脳による大激論』

ヘンリー・キッシンジャー、ファリード・ザカリア、ニーアル・ファーガソン、デビッド・リー(李稲葵)『中国は21世紀の覇者となるか?──世界最高の4頭脳による大激論』(酒井泰介訳、早川書房、2011年)

 個々の論点はともかく、中国の台頭は同時に西洋の没落と表裏一体​の問題だ、という議論の枠組みが基本となっており、このような認​識が向こうで一般的に定着していること自体が興味深い。先日読ん​だばかりのZbigniew Brzezinski, Strategic Vision: America and the Crisis of Global Power(Basic Books, 2012)もこのような議論枠組みがすでに前提となっていること​への批判から説き起こされていた(ブレジンスキーは、中国が超大​国化してもアメリカに代わって一極集中になるわけではない、グロ​ーバルな秩序を安定化させる役割は依然としてアメリカしか果たせ​ないと主張)。

 アジア(かつては日本、現在は中国)の台頭が西洋の衰退を招くと​いう議論は、日露戦争後の「黄禍論」、第一次世界大戦後の「西洋の没落」(シュペングラー)​などが想起されるように既視感も覚える。これを、繰り返される陳​腐な印象論に過ぎないと見るのか、それとも100年、200年と​いう単位での大きな世界史的構造変動がいまだに進行中と捉えるべ​きなのか。討論者たちはここまで注意を払っていないが、私として​は気になるところ。

 李稲葵が、中国はむかし唐の時代に得ていたような尊敬や自信を取​り戻したいと思ってはいるが、アメリカの覇権に挑戦する気はない​と念押しする一方、ファーガソンがやたらと中国台頭を高評価して​いるのが印象的。ザカリアは、かつて日本が世界を席巻すると言わ​れたが現状はどうだ? 中国だって経済成長が直線的に持続するわ​けではない、と反論。

 中国の台頭を前提とした上で、大国化した中国と西欧はいかにうま​く付き合っていくかを考えるべき、というキッシンジャーの意見が​穏当だろう。リベラル派の国際政治学者ジョン・アイケンベリーは​、既存の世界秩序の転覆による勢力拡大をかつて目論んだソ連やナ​チス・ドイツとは異なり、現代における中国の台頭は既存の秩序の​枠内に収まっており、脅威視する必要はないと指摘していた(確か​『フォーリン・アフェアーズ』誌だったと思う)。タカ派とされる​キッシンジャーの議論も同様の方向に収斂していると言える。

 そう言えば、キッシンジャーの最新刊On China(Penguin Press)が昨年刊行されたが、どっかの出版社が邦訳刊行を準​備中なんだろうな。

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2012年2月11日 (土)

野嶋剛『謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実』

 東京国立博物館で現在開催中の「北京故宮博物院200選」も会​期がそろそろ終わりに近づいているが(2月19日まで)、行列待​ち4~5時間と聞き、おそれをなして多分行かずじまいになりそう​だ。展示の目玉は「清明上河図」。ただし、HPで確認したところ​本物の展示は1月24日までで、以降はレプリカらしい。

 野嶋剛『謎の名画・清明上河図──北京故宮の至宝、その真実』​(勉誠出版、2012年)を読んだ。「清明上河図」は北宋の張擇​瑞が描いたとされる。模本も世界中に散らばっており、張擇瑞のオ​リジナルに触発されて後代に描かれた作品も含め、この絵画の様式​的ジャンルを「清明上河図」と総称していると捉えても必ずしも間​違いとは言えない。名画の誉れが高いのはもちろんだが、題名の由​来も諸説あるらしいし、色々と分からないことも多いようだ。たか​が一幅の絵画とはいえ、そこにまつわる謎の数々はスリリングで興​味が尽きない。宮廷から盗まれては戻ってきて…と何度も繰り返された流転の来歴、絵画中に​写実された宋代の生活風景──本書はこの作品が背景に持つストー​リーを存分に語り出してくれる。著者による『ふたつの故宮博物院​』(新潮選書、2011年)と合わせて読むといっそう興味も深ま​るだろう。

 「清明上河図」は張擇瑞が北宋の徽宗(画家として有名だった皇​帝、靖康の変で金に捕まった)に献上されて宮廷の収蔵品となった​が、金によって北方に持ち去られる。王朝が代わって元代にいった​ん盗み出されたが、持ち主を転々とした末、明代に宮廷に戻ってき​た。しかし再び盗まれ、清代に三たび戻る。辛亥革命後、紫禁城に​蟄居していた溥儀の命令で弟の溥傑が持ち出し、天津の張園にしば​らく留まった後、満洲国の成立と共に新京(長春)に移転。戦後の​混乱でしばらく行方知れずとなったが、1950年、今度は瀋陽で​楊仁愷の目利きによって見つけ出される。遼寧省博物館に所蔵され​たが、1953年に北京の故宮博物院に貸し出され、そのまま故宮​博物院への所属が決められた。故宮博物院の収蔵品の大半は蒋介石​によって台湾に持ち出され、ほとんどスカスカに近い状態となって​おり、しかも中国美術の粋たる書画の一級品がとりわけ少なかった​からという事情があるらしい。

 「清明上河図」で描かれているのは当時の開封の街並みである。​文人好みの花鳥風月ではないため、中国の文化的伝統の中で言うと​決してハイクラスに位置づけられるわけではない。それでもこの作​品が長らく注目を浴びてきたのは、そこにヴィヴィッドに描き出さ​れた庶民の生活光景が見る者の眼を引き付けてきたからであろう。​本書の後半、作品中のモチーフを手がかかりに当時の料理や日常生​活も再現されているところが面白い。開封にあるテーマパークや、​CGで再現された「動く清明上河図」などに現代の中国人が興味津​々たる表情を示しているのもむべなるかな。

 本書を読んでいるうちに実物を見たくなってきた。北京に行く機​会があったら是非参観しに寄ってみよう。

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2012年2月10日 (金)

ズビグニュー・ブレジンスキー『ストラテジック・ヴィジョン:アメリカとグローバル・パワーの危機』

Zbigniew Brzezinski, Strategic Vision: America and the Crisis of Global Power, Basic Books, 2012

 新興国が勃興する一方、アメリカも含めた西洋世界が凋落しつつある徴候が見える現在、その先に見えるのは新たな超大国としての中国の台頭ではなくカオスである。パワーが分散化した今後の世界において紛争を防止できるのはやはりアメリカ以外にはない、という前提から、2025年以降まで中長期的な視野に立って戦略的な構想を示そうというのが本書の目的となる。

 第一に、アメリカ主導で「西洋」を立て直し、「新しい西洋」の中にはロシアとトルコも取り込んで安定化を図る。ところで、「新しい西洋」はある程度まで共通した価値観でまとまっている一方、「東洋」は中国、インド、日本など様々な大国がひしめいており安定は難しい。そこで第二に、常に紛争の可能性を秘めている「東洋」に対してアメリカは調停者として間接的な関与をしていく(一方に肩入れして軍事介入など直接的関与をすると連鎖的に紛争が拡大してしまうので慎む)。日米同盟と米中の友好関係を維持しながらアメリカの仲介で日中の和解を進め、日米中のトライアングル関係を構築すれば東アジアは安定する。つまり、アメリカは「西洋」に対しては統合のプロモーター、「東洋」に対しては諸大国間のバランサーの役割を果たすことでユーラシア大陸の地政学的安定に寄与できる、というのが全体的な趣旨。

 パワー・バランスの調整で今後のアメリカの外交戦略を描きなおそうという意図があるにしても、個々の紛争可能性をパズルのピースに見立て、好き勝手に空想をふくらませながら遊んでいるだけという印象も残るな。

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2012年2月 9日 (木)

佐藤百合『経済大国インドネシア』

佐藤百合『経済大国インドネシア』(中公新書、2011年)

 インドネシアが経済的に台頭しつつあることは報道等でもちろん知ってはいたが、本書の体系的立てた説明を読んでみると、日本が資源目当てに「南進」をもくろんだり、スカルノやスハルトが権威主義的支配を行っていた時代は、本当に過去になったのだな…と改めて実感する。今後は投資ばかりでなく内需の取り込みが日本企業の課題となってくるわけだが、インドネシア自身が安定的・持続的に発展をしていく上でカギとなるのが、人口ボーナス(詳細は大泉啓一郎『老いてゆくアジア』[中公新書]を参照のこと)。人口ボーナスによる効果を十分に活かすには、どのような政策対応をするかが重要となる。細かな話になるが、インドネシアを皮切りにイスラム世界を市場として考える場合、ハラル(イスラム法で許される食物や日用消費財)認証制度が国際化していく可能性は興味深いだろう。

(以下、メモ書き)
・インドネシアは人口規模が大きいだけでなく、今後20年間は人口ボーナス(出生率が低下し始め、生産年齢人口が総人口に占める比率が高まる→経済成長を促進)が期待できる。ただし、そうした条件が備わっていても効果的な政策がなければ活用できない→①出生率低下を持続させる、②生産年齢人口に就業機会を与える、といった政策を打ち出す必要。
・スハルト時代の権威主義体制と比較しながら、現在の民主主義体制における経済運営のあり方を考察。スハルト辞任で、後継のハビビは政権の正当性を確保するためスハルト的なものを全否定→その後の政治混乱で「スハルト的ならざるもの」もまた否定された→こうした振り子が揺れ動く中で、現在は自由と人権の保障、三権分立、直接選挙、地方自治など安定的な民主主義体制の要素が徐々に備わってきた。
・インドネシア国内の大資本はパーム油や石炭等の資源輸出の担い手となったが、中国から流入する廉価の工業製品との競合を避けて重工業から足を抜きつつある→資源輸出と工業製品輸入という中国との非対称的貿易の拡大、「オランダ病」現象。他方、外国資本は国内資本が投資を回避しがちな重工業で重要な役割→外資は工業化と域内水平貿易の担い手。
・農工間雇用転換を伴わない経済成長→農業にも成長エンジン。スハルト時代は、国家の意志としてフルセット主義(自国内で様々な産業分野の育成を図る)から工業化政策を推進→工業部門が成長のエンジンとなっていた(アーサー・ルイスの「二重経済論」があてはまる)。対して、現在の民主主義体制では、成長のエンジンが複数の産業に分散→こうした既存の傾向を政府は追認したと把握→フルセット主義Ver.2.0(ユドヨノ政権のマスタープラン)
・労働力、投資(国内の貯蓄率が高い)などの面では問題ないにしても、生産性に難あり。
・スハルト時代から重きをなしてきた海外留学経験者の経済テクノクラート(バークレー・マフィア)。
・国防・治安だけでなく政治・社会統治機能も国軍が担っていたかつての「国軍の二重機能」(対オランダ独立闘争で農村社会と一体になったゲリラ戦を戦い抜く中で国軍が生れたという経緯がある。また、出自や生育環境に左右されないほぼ唯一の能力主義組織が国軍だったという事情もある)→現在は政治エリートになるルートが多様化、政党政治家になるほか、企業家から政治家へ転身するというルートも目立つ。
・インドネシアにとって貿易、投資、援助のどの点でも日本は最重要国。しかし、すでにインドネシアは高位中所得国入りを目前にひかえており、日本はインドネシアを単に資源の供給源とみなすのではなく、今後は内需と技術蓄積への貢献を考える必要がある。日本ブランドを活かした消費財・サービスの提供はチャンスになる。イスラム世界を市場と考えるなら、ハラル認証制度は活用できる。

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2012年2月 8日 (水)

山下重一『スペンサーと日本近代』

山下重一『スペンサーと日本近代』(御茶の水書房、1983年)

・ちょっと古い本だが、スペンサー社会進化論の思想史的位置づけについて何か手頃な本はないかと探していて、本書を見つけたので通読。
・スペンサーの社会進化論は明治日本の思想にも大きな影響を与えたが、個人の自由を主張した点で自由民権運動に、社会を有機体的に捉える側面は明治政府の国権主義に、それぞれの形で受容された二面性をどのように考えるのかが従来から議論されてきた。スペンサーには進歩的・保守的の「二つの魂」(清水幾太郎)があったと捉えるのか、スペンサーの前期と後期の思想的相違に原因を求めるのか。本書では統一的な把握が試みられる。
・ハーバート・スペンサー(1820~1903)の最初の著作『社会静学』(1850年):人間の「平等自由の原則」を前提。「すべての人間は、他のすべての人々の平等の権利を侵害しない限り、自分の欲するすべてのことをする自由を持つ」→こうした考え方を社会進化という歴史的必然性で論証することを意図した。進化の極致としての完成社会は、個々人の自由な個性の発揮と自発的な協力関係による秩序の維持とが完全に調和する社会→自由放任の前提。こうしたアイデアを普遍的進化の法則として体系化に向けて努力していく中でその後の執筆活動。なお、ダーウィン『種の起源』が刊行されたのは1859年で、この時点ではスペンサーの綜合哲学はすでに出来上がっており、ダーウィン進化論からの影響で成立したわけではない。むしろ、ラマルクの影響。
・日本では1877(明治10)年前後から翻訳され始めた。
・馬場辰猪の翻訳:軍事型社会(強制的協同)→産業型社会(自発的協同)、この転換を示しているところに自由民権論者は関心を寄せた。また、徳富蘇峰『将来之日本』:「腕力社会」と「武備社会」についてのペシミズム→日本の将来としての「平民社会」化のオプティミズム、こうしたあたりにはスペンサーの社会進化論を「宇内の大勢」として全面的に受容することによる調和。
・東京大学ではフェノロサ、外山正一、彼らの弟子の有賀長雄がスペンサーの社会進化論によって講義。有賀の社会進化論理解には英米志向からドイツ国家学を学んだことによる国家有機体説への志向という転換が見られる。なお、加藤弘之はかつて天賦人権説に基づいて発表した『真政大意』『国体新論』をスペンサーの社会進化論を知ったことにより自己批判して絶版にしたと言われているが、残されている当時の彼の読書記録を見ると必ずしもスペンサーの影響とは言いがたい。
・直接面会した森有礼や金子堅太郎に対して、スペンサーは今後の日本の制度について保守的なアドバイスをしたことをどのように考えるか。スペンサーは晩年になって保守化したと言われるが、それは政府による干渉政策への批判が保守的とみなされたのであって、自由放任主義は一貫して堅持している。つまり、彼が変わったのではなく、彼を取り巻く社会の方が変わったことによる。むしろ、社会制度は社会進化の段階にふさわしい形が望ましいという、社会進化論に内在する漸進主義によるものと考えられる。
(※かつては社会進化論に基づいて進歩的な言論を展開した一方、この思想に内在する漸進主義の立場から急激な制度変革に慎重な態度を取ったため「保守化した」とみなされた点では、『天演論』で社会進化論を紹介した厳復も同様と言える。)

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余英時《中國近代思想史上的胡適》

余英時《中國近代思想史上的胡適》(台北:聯経出版、1984年)

 1917年、陳独秀の依頼で『新青年』に発表した「文学改良芻義」が評判となり、蔡元培の招聘で同年9月から北京大学で教鞭を執り始め、五四運動直前の中国言論界に大きな影響を与えて「新文化運動」の重要な立役者の一人となった胡適。アメリカ留学から帰国したばかりの彼がなぜこれほどまでに名声を轟かせたのか、中国近代思想史のコンテクストの中で考察される。

 著者の余英時はハーヴァード大学教授も務めた思想史家で、現代新儒家の一人に数えられることもある。少々古い本ではあるが、胡適の思想史的な位置づけについて参考になる格好な邦語文献が見当たらなかったので、仕方なく本書を取り寄せて読んでみた次第。

 五四運動の直前期における思想的空白状態、当時の気分にぴったりする表現がなかなか見当たらない中、彼がデューイのプラグマティズムをもとに展開した議論や白話運動の提唱は従来の「中体西用」論という古い議論枠組みを突破、トーマス・クーンの表現を借りるならばパラダイム転換を成し遂げた。しかし、そうした役割は胡適だからこそ果たせたというわけではなく、当時の中国思想界に広がっていた趨勢に的確な表現を与えたのがたまたま彼だったと本書では捉えられる。

 胡適が提示した科学的方法は「大胆的仮設、小心的求証」(大胆に仮設を立て、注意深く実証を進める)という言葉に要約される。しかし、懐疑論にせよ、実証的方法論にせよ、彼自身がデューイを知る前から、清代考証学などからヒントはすでに受けていた。むしろ、こうした発想がもともと彼にあったからこそデューイに関心を向けた、つまり中国において考証学以来、内発的に展開してきた実証的方法論にデューイのプラグマティズムが接合されたものと解される。実証的方法論を用いた点では厳復、章炳麟、梁啓超、王国維といった先学たちからも胡適はヒントを受けており、彼らこそ先にパラダイム転換を果たしても良さそうなものだが、胡適が『中国哲学史大綱』で示した包括的・体系的な分析の鮮やかさの方に史学革命とも言える大きなインパクトがあった。

 中国の伝統思想の代表たる儒学には、傍観者的に「世界を解釈する」だけでなく、積極的に「世界を変える」という「経世」の目的意識が強い。例えば、康有為の『孔子改制考』には経世の意欲が漲っており、厳復が『天演論』を訳したときには「世界を変える」ための科学的根拠を求めるという意図があった。胡適が紹介したデューイのプラグマティズムもこうした「世界を変える」思想として当時の中国で受け入れられやすかったという。同様にマルクス主義も「世界を解釈する」のではなく「世界を変える」ことを求めた点で受容されたと指摘される。

 しかし、胡適が提示した議論は当時の中国思想界に新時代を画すほど大きなインパクトを与えたにもかかわらず、結局マルクス主義の興隆を前にして凋落してしまったのはなぜなのか? 胡適の啓蒙思想は旧世界の思想秩序を崩すのに大きな力があった。では、その後には何が来るのか?と疑問が寄せられても、具体的な対案を胡適は提示することができなかった。マルクス主義の革命論が流行を見せ始めた当時、階級闘争理論に反対していた梁漱溟は「敬以請教胡適之先生」で、現在の中国社会を考察してあなたはどのように考えるのかと問いただしたが、胡適は批評的態度から踏み越えることはなかった。農村に基盤を置く毛沢東は「半封建、半植民地的」と主張、陳独秀は中国はすでに資本主義段階に入ったとして都市に活動の場を求め、中国社会に階級はないと考えた梁漱溟は郷村建設に取り組むなど、現実の中国社会に関するそれぞれの分析をもとに実践活動に入ったのと対照的な胡適の姿が浮かび上がる。

 デューイもまた具体論を語らなかったので同様に左派へ走った弟子たちがいたこと、著者自身が1970年代にクワインと話をしたとき当時の学生たちに人気のあったマルクーゼを軽視する口調が見られたことなども挙げ、分析哲学が価値観の問題を排除する傾向に他の学派から批判があった点を指摘。この問題は中国伝統思想における理性主義的な程・朱の流派(朱子学)と直観主義的な陸・王の流派(陽明学)との対立とも比較され、考証学から出発した胡適には陸・王を批判する傾向があったという。従って、胡適が科学的慎重さを期するあまり、それが傍観者的態度と受け止められてしまったところに彼の思想が当時の中国で広がらなかった内在的限界があったと指摘される。(本書では指摘されていないが、胡適を批判した梁漱溟がベルグソンに傾倒していたことも比較の論点となり得るだろうか。)

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2012年2月 6日 (月)

横山宏章『陳独秀の時代──「個性の解放」をめざして』、周程『福澤諭吉と陳独秀──東アジア近代科学啓蒙思想の黎明』

横山宏章『陳独秀の時代──「個性の解放」をめざして』(慶應義塾大学出版会、2009年)
・五四運動期の新文化運動で指導的な役割を果たし、マルクス主義を受容した後は中国共産党初代総書記となったが、その後、コミンテルンの方針に異議を唱え、トロツキストとして除名された陳独秀。こうした経歴を持つ彼については中国共産党・国民党の双方から評価が厳しかったが、イデオロギー的なタブーが相対的に低くなった近年、見直しも進んでいるらしい。本書は本格的な伝記的研究で、以前に刊行された『陳独秀』(朝日選書、1983年)の増補がほぼ半分ほどの分量を占めている。
・陳独秀は1879年、安徽省懐寧県の生まれ。科挙を受験はしたが合格することもないまま、1902年以降、何度か日本に留学。他の留学生や革命家と交流したが(ただし、中国同盟会には加入せず、孫文と会ったのも日本ではなくだいぶ後のことらしい)、日本人とは親しく付き合っていなかった点が指摘されている。
・1915年、上海で『青年雑誌』(第2号から『新青年』と改称)を刊行、「民主」と「科学」をキーワードに伝統思想を排撃する論陣を張って注目される。彼の議論を目に留めた蔡元培が北京大学に招聘、ナンバーツーの文科学長に就任。五四運動期の言論で指導的な役割を果たす。
・社会的変革の出発点は個人の自己改革にある。伝統の停滞性を否定していく武器として「民主」と「科学」、こうした西欧思想は変革のための手段であって、目的ではない。為政者を糾弾しておしまい、というのではなく、民衆自身の意識改革を求めた→政治の相対化。革命そのものよりも、革命の必要性を民衆に認識させることが必要と考えていた点で本質的に啓蒙者であったと指摘。ポイントを強調しながら論難するため西欧思想を意図的に単純化、理想化→対比的に攻撃対象としての中国の伝統思想も単純化された。
・ロシア革命の衝撃でマルクス主義を受容。「強い力による公理の擁護」→大衆を組織化する理論が必要→マルクス主義が適合的。ただし、これ以降の彼の言動は権力闘争に偏重し、これ以前における個人の精神的変革というモチーフが薄くなってしまったと指摘される。
・1921年7月、中国共産党の成立。国共合作を受け入れ→二段階革命論。
・蒋介石の北伐が成功、上海クーデター、汪精衛ら国民党左派と組もうとしたが決裂→国共合作を指示したのはコミンテルンだったが、失敗の責任は陳独秀に負わされ、総書記から外される。
・1928年、張学良と蒋介石はソ連が権益を持っていた中東鉄路の電信施設回収を宣言、ロシア人を逮捕→民族意識を高揚させ、国民政府の威信確立が狙い(中東鉄路事件)→共産党は「ソ連を擁護しよう」と呼びかけ→しかし、陳独秀は「中国を擁護しよう」という国民党のスローガンが持つ現実的な力は無視できない、「ソ連を擁護しよう」では中国人大衆はついてこないと考えた→コミンテルンに盲従する李立三コースへの疑問→トロツキーと連絡を取りながら反対派に立ち、1929年に共産党から除名された。
・共産党が農村に立脚するのに対して、トロツキストは都市で活動→国民党の特務や日本軍の過酷な弾圧。また、トロツキストのグループも4つに分裂→中国トロツキズムはつぶされていき、陳独秀も1932年に逮捕された。国民党内の旧友たちが助命要請して処刑は免れたが、投獄→1937年に出獄。共産党への復党も取りざたされたが、王明の強硬な反対。
・1942年、四川省で死去。
・彼は生涯で3人の女性と結婚もしくは同棲。家中心の家族制度への反感。また、彼の二人の子供も初期共産党の中央委員となったが、彼らは陳が恋人と駆け落ちしたときに置いていった子供であり、必ずしも仲は良好ではなかった。彼ら二人は独立して世に出た→二人とも国民党に処刑された。
・叛徒、漢奸(濡れ衣)、トロツキスト、右派機会主義、右派投降主義など、戦後の陳独秀評価における政治的レッテル貼りの問題。

周程『福澤諭吉と陳独秀──東アジア近代科学啓蒙思想の黎明』(東京大学出版会、2010年)
・日中比較思想史的な枠組みの中で、国家の独立とそれを支える個人の精神的独立とを目指した啓蒙思想の展開を検討、具体的には福澤諭吉と陳独秀に焦点を合わせて論じられている。
・福澤諭吉が提示した「一身独立して、一国独立す」というテーゼに注目。彼は、明治初期においては「窮理学」を中核とする「実学」の提唱によって儒学をはじめとした伝統的な学問を批判、人々の精神構造を根本的に変革しようとしたが、その後、関心の対象が啓蒙主義的理想主義から逸脱、強兵のための「科学帝国主義」へと転換した。そうした「啓蒙主義の凋落」傾向は福澤個人の問題というよりも、国際社会における近代日本の地位の影響があったと総括する。
・19世紀から20世紀にかけての中国における厳復、梁啓超など啓蒙思想の動向をたどりながら、新文化運動における陳独秀に注目。彼が唱えた「立国」と「立人」という問題意識は福澤の上記のテーゼに相当すると指摘、宗教や迷信を批判する武器として「サイエンス」を唱えた。19世紀後半以降、「科学」が物質的な有用性という皮相なレベルでしか捉えられていなかったのに対して、陳独秀は伝統社会を攻撃、精神面での有用性を唱えたことの意義を本書では強調。福澤が国権論に傾いたのに対して、陳独秀はマルクス主義を縦横して死ぬまで転向せずに「科学」と「民主」を重視、反帝国主義の旗幟をを貫徹した点が異なるとされる。

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2012年2月 5日 (日)

【映画】「ヒミズ」

「ヒミズ」

 思春期の少年の虚無的な心象風景を描き出した映画。撮影中に震災が起こり、テーマとして取り込まれたらしい。空々しく響きかねない「希望」とか「夢」とかいった陳腐な言葉、これをいったん突き放しても、そのまま不条理に終わらせるのではなく、主人公の絶望を通して再び意味を回復させていく構成。説得力を感じるかどうかは人それぞれだろうが、彼が逃げ場のない息苦しさへと追い込まれていく描写は、園子温監督作品らしく相変わらず殺伐として激しく、濃い。

 主役の染谷将太の虚無的な表情も印象的だが、何よりも二階堂ふみの熱演がものすごい。「愛のむきだし」での満島ひかりもそうだったけど、園監督は少女から熱演を引き出すのがうまいのか。いや、少女だけでなく、「冷たい熱帯魚」では、でんでんから恐ろしいまでの熱演を引き出していたな(笑)

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永田圭介『厳復──富国強兵に挑んだ清末思想家』、ベンジャミン・I・シュウォルツ『中国の近代化と知識人──厳復と西洋』、區建英『自由と国民──厳復の模索』

 清朝末期、西欧の学術文献について独自の解釈を施しながら翻訳・紹介に努めた啓蒙思想家・厳復。19~20世紀という時代状況の中ではキーパーソンの一人だと思うが、彼のことは中国近代史や比較思想史の論文で取り上げられることはしばしばあっても、一般的知名度はそれほど高くない。永田圭介『厳復──富国強兵に挑んだ清末思想家』(東方書店、2011年)は時系列に沿って彼の生涯を描き出した評伝。とりあえずどんな人物なのか知りたいという向きには本書が最適だろう。

 厳復は1854年、福州に生まれた。早くに父が死んだため一家は困窮。ところが、ちょうど左宗棠や沈葆楨によって船政学堂が設立され、ここは給金も支払われるため受験して入学する。1876年、24歳のときにアメリカのポーツマス海軍学校、イギリスの王立グリニッジ海軍大学へ留学、語学や自然科学だけでなく西欧の社会思想にも目を向けることになった。79年に帰国してからは母校の船政学堂の教官となり、80年には李鴻章が天津に設立した北洋水師学堂総教習(教頭)として招かれた。北洋水師学堂に勤務しながら98年には『天演論』(ハックスリー『進化と倫理』が原本)を刊行、また『国聞報』の創刊にも関わる。戊戌の変法では光緒帝に拝謁、建策もしようとしたが果たせないまま政変が起こり、彼は目立った政治的関与もなく、また専門知識が評価されたのであろうか、職には留まったものの、『国聞報』は弾圧を受ける。1900年、天津も義和団の乱に巻き込まれたため脱出、上海へ移り、翻訳・執筆に打ち込む。教育関係の役職に招かれて北京へ行き、1910年には資政院議員に任命されたが、間もなく辛亥革命で消滅。1912年には京師大学堂総監督となり、これが北京大学校と改称されて初代校長となるが、軋轢に悩んで間もなく辞職。その後は袁世凱の大総統府顧問。この頃、革命は起こっても民度が低い→共和制は無理→専制政治もやむを得ないとして立憲君主制を支持するようにはなっていた。必ずしも袁世凱が良いと思っていたわけではないのだが、楊度の画策によって帝政推進の籌安会に無理やり入れられてしまった。第一次世界大戦を目の当たりにして西欧を模範とした「富強」の路線に疑問を感じ、晩年は荘子を読みふけったらしい。翻訳は、 スペンサー『群学肄言』(社会学原理)、アダム・スミス『原富』(諸国民の富)、J・S・ミル『群己権界論』(自由論)、『穆勒名学』(論理学)、ジェヴォンズ『名学浅説』(論理学入門)、モンテスキュー『法意』(法の精神)、ジェんクス『社会通詮』など。

 ベンジャミン・I・シュウォルツ(平野健一郎訳)『中国の近代化と知識人──厳復と西洋』(東京大学出版会、1978年)は、中国が西洋と出会ったときの文化接触を厳復という一人の知識人を通して考察した古典的な著作。西欧の文献を翻訳した際に彼自身がどのような考えを持って読み込んでいったのかが検討される。
・西洋や新興国日本を力を目の当たりにして中国も富国強兵を目指すにしても、単に軍事的・経済的力に目を奪われるのではなく、その背景をなす思想や価値観のレベルまで見通す洞察が必要という問題意識を彼は抱いた。特に注目したのがスペンサーの社会進化論。ただし、スペンサー自身は私心なき神々のように超然たる立場から人間世界を観察し、社会進化の非人格的過程に局外から介入すべきではないと考えていたのに対し、厳復はここにイギリスがすでに達成した富強という目標へ向けての科学的原理、世界変革のためのプログラムがあると考え、中国自身が世界の生存競争を生き残っていく処方箋を求めた。
・社会有機体としての国民国家。その中の構成要素たる個人のうちにひそむエネルギー(進取の気象)が自己利益の追求をしていく環境を整備→そうした環境としての自由、平等、民主主義。人間の自由を、個人の「能力(ファカルティー)のエネルギー」の解放と捉える自由概念→このエネルギーを組織化、一体化→社会有機体の富強に奉仕→社会有機体同士の生存闘争を勝ち残る、と厳復は捉えた。ただし、これはスペンサーが個人の自由を重視したのとは全く異なるイメージ。彼自身は国民国家は過去の遺物と考えていた。→しかし、それはあくまでもスペンサー自身の無政府主義的な個人主義にひきつけた結論であって、厳復の歪曲に過ぎないと単純に言い切れるだろうか? スペンサーの社会進化論的モデルから導かれる結論として妥当かどうかはまた別問題で、厳復は中国の生き残りという自身の問題意識にひきつけた結論を出したと理解することも可能と指摘される。
・ミルの『自由論』を『群己権界論』というタイトルで翻訳→個人の自由に対する制限と社会の権利を強調。
・厳復は立憲君主制を支持したことを思想的後退と捉えてよいか?→社会進化論をモデルとした発展段階からみて、中国の現状は遅れているという認識、未開の段階なら専制政治も妥当という考え方。人類の進化には段階を飛び越す奇跡はないと彼は考えており、あくまでも発展段階を基にした議論であって、思想的後退、伝統への回帰というわけではない。現在の状況の中で進歩の条件を創出することから始めなければならない。ロンドンで孫文と会ったときにも、革命を急ぐ孫文に対して、厳復は革命に批判的。
・スペンサーの宇宙観は、形而上学的なレベルで中国伝統のそれと一致していると彼は考えた。「無」の深奥から「万物」が生成するという自然観。スペンサーの綜合哲学の厳格な帰納的論理→一元論的・汎神論的に理解。その究極にあるもの、万物の根源は不可知。中国的な「道」=西欧哲学における第一原因と考える。雑多な世界の相対性、森羅万象はすべて相対的という理解。スペンサーの「不可知」、老子の「道」、仏教の「涅槃」、ヴェーダンタの「不二一元」、朱子学の「太極」をみな同様に捉えた。
・中国自身の「富強」のため西洋文明を範とした模索をしてきたが、他方で第一次世界大戦で明らかとなった西洋文明の問題点→西洋文明のファウスト的、プロメテウス的性格に厳復は直面したと本書は考える。

 區建英『自由と国民──厳復の模索』(東京大学出版会、2009年)は、国民国家形成における中国にとって未完の課題としての自由と国民というテーマに照準を合わせて厳復の思想を論じていく。伝統と近代、中国と西欧といった二元対立ではなく、また晩年における彼の立場の転換を後退と捉えるのでもなく、歴史的現実の葛藤における思想構造の動態的把握が意図されている。
・ロンドンで孫文は厳復に会見を求めた。孫文は集団全体に立脚→排満革命と共和国建設を優先→自らを実行家と称する。対して、厳復は民の個体に着目→民の智、徳、力の向上が先決で段階を踏む必要がある→保守的、反「革命」的とみなされた。
・『天演論』→なぜハックスリーを翻訳に選んだのか、スペンサーを引き立てるためではないのか?というシュウォルツや日本の学者は解する→厳復は一元的宇宙論の中で「天行」と「人治」を捉え、ハックスリーが説いた「人治」の倫理的契機を重視した。
・「合群」をどのように考えるか→近代国家形成の方向性。孫文をはじめ革命派は戦術的な思惑もあって排満革命の「種族」論、民族主義による団結を意図した。対して、厳復は種族ではなく個人の自主性に立脚した統合国家を意図して種族的傾向を批判→国民主義。
・「仁政」の再定義。民本思想と民権思想との区別に注意を払った。覇道政治は暴虐だが、民が専制権力と戦うという発想から民権思想につながる。対して、王道的パターナリズムは尊卑の区別が固定化されてしまう。
・ミルの『自由論』をなぜ『群己権界論』として訳したのか。自由という表現を避けたのは思想的後退?→厳復は政治的自由と倫理的自由とを区別。大衆社会における多数の専制というミルの問題意識をきちんと理解しており、一人ひとりの個性の発揮を重視するからこそ、個人に対する社会の専制という点に注意を払っていた。
・老荘思想の解釈→認識論というレベルで科学的思考と接合させようとした。「道」の多次元性と双方向性、「不可知」と「可知」との相関性→二元的認識論。つまり、究極への知を徹底するのは不可能→帰納法を基礎とする現象界への主体的な実証研究は可能となる。
・西洋思想と中国思想との「互注」→双方を相対化。
・厳復は因習からの解放に努め、異文化接触における自由な精神による「会通」を試みた。東西の異なる「俗」を通して共通する「事理」を見抜こうとした。新来の文化要素として「自由」を導入→従来の倫理体系が崩れる一方、新しい倫理体系は確立せず、「いもづる式現象」で様々な問題や不適合があらわとなる。→西洋文化、伝統文化の相互破壊の危険性、さらにこの現象を通して西洋文化それ自体にはらまれている問題をも透視できる。「西学」受容と同時に、補完するものとしての中国伝統における受け皿の整備が必要→老荘「評点」という仕事

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