柴田直治『バンコク燃ゆ──タックシンと「タイ式」民主主義』
柴田直治『バンコク燃ゆ──タックシンと「タイ式」民主主義』(めこん、2010年)
本書はタイにおける議会制民主主義と王制との難しい関係について現場で取材しながら探ろうとした記者によるレポートである。著者自身はタックシン派・反タックシン派のいずれに対しても肩入れしないような叙述を心がけているが、議会制民主主義の原則を非合法的な形で無効にしようとする反タックシン派に対してはどうしても辛くなる。
かつて岡崎久彦・藤井昭彦・横田順子『クーデターの政治学──政治の天才の国タイ』(中公新書、1993年)は、政党政治が腐敗で行き詰ると軍部がクーデターをおこし、軍部が権威主義体質で行き詰ると今度は議会政治家が中心となった街頭デモがおこり、いずれもギリギリのタイミングで調停者として登場する国王の裁定で議会と軍部とが政権交代を行う、こうしたタイ独自の政治モデルを指摘していたが、このような捉え方が本当に妥当するのかどうかはよく分からない(なお、岡崎久彦はタイ大使を経験している)。
2006年、議会で圧倒的な多数を占めて政権基盤は安定していたはずのタックシン政権が軍のクーデターで崩壊、タックシンは国外に追放された。その後の選挙でもタックシン派が勝利して合法的に政権をとったにもかかわらず、国王に直結する枢密院・軍部・司法(とりわけ国王の信任が厚いプレーム枢密院議長が背後にいるとささやかれている)は圧力をかけ続け、タックシンの代わりに首相に就任したサマックは些細な微罪(テレビの料理番組への出演が首相の兼職を禁ずる憲法の規定に違反したと認定された)で辞任、次のソムチャイ政権も2008年に反タックシン派の「民主主義市民連合」(PAD)の街頭行動、さらに選挙違反を理由とした与党に対する裁判所の解党命令で崩壊した。反タックシン派が集まって成立したアピシット政権に対して今度はタックシン派の「反独裁民主同盟」が街頭行動で攻勢をかけ、こうしたタイ政局の混迷はタックシン派が復権した現在でも尾を引いている。
タックシン派の支持層は北部・東北部の貧困層を中心とするが、反タックシン派の知識人が「選挙といったって、庶民は所詮金で買収されただけだ」と語るのを著者は書き留め、都市の中間層には貧困層に対する侮蔑感を隠さない人が多いことを指摘している。他方で、スラムの救済活動をしてきたことで著名なプラティープ・ウンソンタム・秦はタックシンの問題点も指摘すると同時に、安価な医療制度や村落基金(マイクロファイナンスのことか)、農民らの債務削減など貧困層向けの政策を実施、麻薬の蔓延(背後には軍・警察幹部の利権構造があったらしい)と戦ったなどの実績は認めるべきだと言う。こうした態度の違いを見ると、タックシン派と反タックシン派との対立は、地方の貧困層と都市の富裕層・中間層(すなわち既得権益層)との対立と読み替えていくことができる。数の多い前者の意向が選挙結果に大きく反映されるため、危機感を抱く後者は「道徳」「王制護持」といった建前論から議会制民主主義のマイナス面を強調(議員の7割を任命制にしようとする提案にPADは「民主主義」を掲げているにもかかわらず反対しない)、「腐敗」や「不敬」を口実にタックシン批判が繰り広げられた。
「腐敗」「不敬」と言っても如何ようにも解釈できるレッテル貼りに過ぎない。タックシンに色々と疑惑がある一方で反タックシン派といえども既得権益と癒着した腐敗は根深いものであり、またタックシンも国王への忠誠を繰り返し強調している。2006年のクーデター後、不敬罪を濫発して政治攻撃する傾向が顕著になったという(タイではマスメディアが裏も取らずにニュースを流す傾向があること、マスメディアへの政府の規制が厳しいこと、司法が体制側に有利な判決を簡単に出してしまうことなども、恣意的な政治的排除を可能とする土壌になっている)。タックシンという強力なリーダーシップを持つ政治家の登場を受けて、それを後押ししかねない選挙によって、国王を軸とする形で比較的安定を保ってきたタイの政治構造が崩されるかもしれないという不安感があるようだ。タイの王権は他ならぬプミポン国王の個人的人格と主体的な努力によって築かれてきたものであって、必ずしも伝統的文化に根ざしたものではない(この点については、以前、Paul M. Handley, The King Never Smiles: A Biography of Thailand's Bhumibol Adulyadej[Yale University Press, 2006]を取り上げた→こちら。本書はタイでは発禁処分となっている)。すでに80歳を越えた高齢で健康状態も良くない国王がこの世を去ったとき、王権を軸にした現在の制度が今後も続く保証はなく、そうした不安感がタックシンという厄介者に対して神経質になっている事情がうかがえる。
なお、著者がタックシーンとのインタビューで「プリーディーやピブーンの運命を自分に重ねてみることはあるか?」と問いかけたところ、彼は「よくある」と答え、「不敬のレッテルを貼られて追放された点では共通するが、私は彼らと違って民主主義によって選ばれた首相だ」と強調している。二人とも1932年の立憲革命で立役者となり、その後のタイ現代史を動かしてきた大物政治家で、彼らが交互に国政の采配を振るっていた時期、王室の影は非常に薄かった。第二次世界大戦中、若きプミポン国王は海外留学中で、帰国後、兄の前王が変死したのを受けて1946年に即位、王室の権威を築き上げていく過程については上掲The King Never Smilesで描かれている。大タイ主義に基づき領土拡大の思惑から日本側に立って参戦を決めたピブーン首相、対して「自由タイ」を結集して連合国側に立とうとしたプリーディー摂政との葛藤については、市川健二郎『日本占領下タイの抗日運動──自由タイの指導者たち』(勁草書房、1987年)でも触れられている。プリーディーは戦後直後のタイ政治を切り盛りしたが、ピブーンの画策で中国に亡命、復権したピブーンもまた1957年のクーデターで失脚して日本に亡命している。
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