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2012年1月 2日 (月)

『民俗台湾』について何となく

P1020543 年末年始にかけてずっと部屋の片づけをしていたら、気になる本が色々出てくる。例えば、写真右側の陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)。台湾で刊行された本だが、日本語で書かれている。たしか、台湾大学近くの台湾史専門書店、南天書局で買った覚えがある。なお、写真左側は『思想』(聯経出版)という台湾の学術雑誌の第16号(2010年10月)で、台湾史研究の歴史を回顧する特集が組まれていたので買っておいた。

 南天書局は書店としてばかりでなく、台湾史関連の史料を復刻出版している版元としても有名で、そのラインナップには『民俗台湾』をはじめ戦前に日本語で書かれた文献も含まれている。戦後の国民党政権の時代、国史=(大陸の)中国史というイデオロギー的な締め付けがあったため、台湾史研究はおろそかにされていた。1980年代以降、台湾史研究の気運が高まるにつれて、戦前の日本人研究者が行った民俗(族)学・人類学・言語学などの調査記録が研究のたたき台として見直されたという事情がこうした復刻出版の背景としてある。

 陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』は、第一に『民俗台湾』に寄稿された内容的テーマの分析、第二に編集・運営に携わった日本人の役割を紹介することに主眼が置かれている。台湾史に関して私が興味を持っているテーマはいくつかあるが、その一つがこの『民俗台湾』をめぐる人物群像なので、何となくもう一度ページをパラパラめくり始めた(こんなことやっているから整理作業が先に進まない…)。

 『民俗台湾』は1941年7月、太平洋戦争が始まる直前の時期に創刊。当時の台湾では台湾人の日本人化を意図した「皇民化運動」が推進されており、それによって台湾古来の習俗が消え去っていくのを憂えた人々によって担われた。例えば、朝鮮半島における柳宗悦や浅川伯教・巧兄弟などのような存在にたとえられるだろうか(『民俗台湾』では巻頭言に柳宗悦の寄稿を依頼した号もある)。キーパーソンとしては、人類学者の金関丈夫(→こちらを参照のこと)、考古学者の国分直一(→こちら)、画家の立石鉄臣(→こちら)、写真家の松山虔三、とりわけ編集実務を取り仕切った池田敏雄が特筆される。池田は、後に結婚することになる教え子・黄氏鳳姿の実家を通して台北・艋舺の下町文化に溶け込んでいたほどの台湾びいき。戦後、日本に引き揚げてからは平凡社に入ったらしい。なお、黄氏鳳姿は女学校在学中に書いた作文が出版されて、綴方運動の豊田正子と比べられた人。彼女の文才を発掘したのは教師だった池田。

 『民俗台湾』の特徴としては、第一に、立石のイラストや松山の写真によってヴィジュアル的に民俗資料の記録に努めたこと。第二に、各地の台湾人からの寄稿を積極的に募ったこと。『民俗台湾』同人からは、黄得時、楊雲萍(二人とも戦後は台湾大学教授)をはじめ後に学者として名を成した人々が現われている。日本人=調査者/台湾人=被調査者という対峙的構図に陥らないように、台湾人自らによる民俗文化の記録を促していたと言える。こうしたことはその後、「台湾人」アイデンティティーの確立に寄与したという評価につながっていく。

 『『民俗台湾』と日本人』巻末に附された『民俗台湾』総目録を眺めていると、台湾史というコンテクストで興味深い人物が結構寄稿していたことが分かる。上掲の黄得時、楊雲萍、黄氏鳳姿の他、例えば作家の楊逵(→こちら)、張文環(→こちら)、呂嚇若、龍瑛宗、周金波、巫永福、呉新栄、画家の顔水龍、歴史家の曹永和、戴炎輝、社会学者の陳紹馨(新明正道に師事したらしい)、労働運動家の連温卿(→こちら)、弁護士の陳逸松、医学者の杜聡明など。一人ひとり解説していくと面倒だから省略するが、曹永和『台湾早期歴史研究』、戴炎輝『清代台湾的郷治』、陳紹馨『台湾的社会変遷與人口変遷』の3冊は台湾史研究の古典とされている。なお、当時の台湾文壇に関してはこちらで触れたことがある。

 「日本の植民地支配は良いこともした」と言ってふんぞり返るのは論外であるが、かつての植民地支配や対外的侵略といった負い目を持っている日本人の立場から現代史を考えようとする場合、「語り口」のナーバスな難しさに困惑することがしばしばある。とりわけアカデミズムにおいてポスト・コロニアルのアプローチが盛んになると、支配者/被支配者、中央/周縁といった枠組みを前提とした学知的構造そのものがはらむ知的暴力性が問題とされ、当時においては一見「良心的」な振る舞いに見えたとしても、こうした学知的構造に彼らも取り込まれていた以上、その責任は逃れがたいという見解が主流となってきた。例えば、川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)が、『民俗台湾』は柳田國男が構想した(と川村が言う)「植民地民俗学」の一環に過ぎないと断罪したのはその代表例である。

 ところで、川村をはじめとした論者は『民俗台湾』の植民地性を物語るエピソードとして、楊雲萍が金関の台湾文化への態度が「冷たい」と非難した問題を取り上げる。『民俗台湾』創刊趣意書の書き方を問題にしたのだが、「皇民化運動」という当時の時勢の中、総督府から睨まれないよう筆を曲げなければならない事情があった。その後、楊雲萍は金関と和解したようで『民俗台湾』に何度も寄稿している。彼は戦後になっても「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」(『えとのす』第21号、1983年7月)と記しているのだが、こうしたことを川村が取り上げないのは議論構成の恣意性が疑われる。また、黄得時は「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、ぜったいにそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」と語っていた(『台湾近現代史研究』第四号[1982年10月]所収の池田敏雄の回想から)。

 客観性を標榜する学問的営為そのものの中に無意識のうちに紛れ込んでいる偏見を暴き出し、その自覚を促した点でポスト・コロニアルの議論が貢献した成果は大きい。他方で、それが一つの理論として確立され、事情を問わずに一律に適用され始めると、今度は断罪という結論が初めにありきで、当時を生きた人々の生身の葛藤が看過されかねない。そうしたスタンスの研究には欠席裁判の傲慢さ、冷たさすら感じられる。当時において成立していた学知的構造の矛盾に気づいていたとしても、少数の人間だけで動かしていくのは極めて困難だ。それでも良心的に振舞おうと思った人間の主観的な情熱は、「偏見」を崩せなかったという理由において、無自覚的な構造的加害者として一律に断罪されなければならないのだろうか?

 こうした問題意識において、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」という三尾裕子の問いかけには私も共感できる。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」と指摘されている(三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」、貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号[2006年3月]を参照)。

 ややこしいことを書いてきたけど、以上の問題については、前にもこちらこちらに書き込んだことがあった。こうした観点をしっかり踏まえた上で、『民俗台湾』に集った人物群像を軸として台湾と日本との関わりがリーダブルにまとめられた本があったら読んでみたい、と思っている。たまたま見つけた本からそんな思いが改めて触発された次第。

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