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2012年1月

2012年1月26日 (木)

粕谷一希『内藤湖南への旅』

粕谷一希『内藤湖南への旅』(藤原書店、2011年)

 京都帝国大学の東洋史講座を創設した一人として日本における歴史学研究に大きな足跡を残した内藤湖南。ジャーナリスト出身で正規の学歴を持たない彼の登用は、官学的な東京帝国大学とは違った学風をつくり出していこうという狩野直喜の熱意による(なお、国史担当として招聘された幸田露伴は窮屈な大学生活に嫌気がさして一年でやめてしまった)。本書ではもう一点、湖南のアカデミズム入りが、夏目漱石が学者をやめて文士になったのとほぼ同時期であったことに注意を促す。ジャーナリズムとアカデミズムとの垣根が低かった明治の草創期、そうした時代だからこそ独特な個性を持った学究たちの織り成す群像劇があり得た。

 本書のテーマは内藤湖南ではある。しかし、彼その人よりも、むしろ彼にまつわる話題をきっかけに、彼と接点のあった広い意味での「京都学派」(狭義だと西田哲学の影響を受けて「近代の超克」論に関わった人々に限定されるが、本書では東洋史学も含め京大を中心とした人脈的広がりを指している)や後世の歴史学者たちにまで筆が及ぶのが特徴だ。研究内容の要約ではなく、当時のアカデミズムにおける自由闊達な雰囲気が見えてくる。脱線とは言いつつも、その脱線こそが実は面白いのだ。名前だけは知りながら図書館でほこりをかぶった学術書でしか見たことのないような大学者たちも、人となりが分かってくると見方、読み方もまた違ってくる。例えば、日本中世史の原勝郎は普段の生活では東北弁丸出しで、子供が京都弁をしゃべると殴ったそうだ。彼は『東山時代に於ける一縉紳の生活』を書いているだけに、この矛盾が可笑しい。そうしたところまでサラッと描いてしまうのは、アカデミズムの論客を次々と発掘してきた『中央公論』往年の名編集長ならではの眼力と見聞による。とりわけ小島祐馬、鈴木成高、宮崎市定などに思い入れがあるようだ。

 なお、湖南の議論を通して現代中国論にも言及しようとしているが、そこは表層的な印象論で特に見るべきものはない。

 湖南の中国史論で有名なのは、時代区分としての「近世」を宋代に求めたことだろう。最近では中国思想史の小島毅さんが再評価し、昨年話題となった輿那覇潤『中国化する日本』(文藝春秋)もこの観点に触発されているなど、ちょっと面白い状況ではある。

 中国の「近世」において中央レベルでは皇帝独裁政治が目につく一方、地方レベルにおいては「郷団」という形で自治的な共同体が形成されていたと湖南は指摘、これを「平民主義」の台頭として把握した。皇帝独裁と平民主義という二面性が「近世」中国の特徴だが、辛亥革命によって皇帝独裁は消えた。残る「平民主義」に中国のこれからの共和政治のカギがあると湖南は考えたが、実際には軍閥割拠の様相を呈して、その見通しには悲観的となる。中国人が自分たちで国づくりできないなら、日本が積極的に内政干渉すべし──現代の我々から見ると非常な暴論を彼は吐いてしまうが、彼の中国研究が当時の政治論と結びついたときの難しさについてはジョシュア・A・フォーゲル『内藤湖南 ポリティックスとシノロジー』(井上裕正訳、平凡社、1989年)で論じられている。

 弟子の歴史学者、三田村泰助は師匠の伝記『内藤湖南』(中公新書、1972年)を書いているが、アカデミズムに入る前のジャーナリストとしての部分が大半を占めるのは、やはりそちらの方が波瀾万丈で面白いからだろうか。

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2012年1月22日 (日)

【映画】「マイウェイ──12,000キロの真実」

「マイウェイ──12,000キロの真実」

 戦争に翻弄された二人の青年の数奇な運命を描いた映画。オダギリ・ジョー、チャン・ドンゴン、范冰冰の共演。なお、范冰冰はゲリラの女スナイパーという設定で、チャン・ドンゴンを助けたらすぐ死んでしまう。出番は少ないし、ずっと泥だらけで、あの美貌をちゃんと拝めなかったのが残念…。

 ノルマンディー上陸作戦で投降したドイツ軍捕虜の中に一人の韓国人兵士がいた。その事実を監督が知ったことからアイデアがふくらまされ、映画製作にまでこぎつけたという。だいぶ脚色されているし、粗探しをすれば時代考証の難点も色々見つかるかもしれないが、映画として観る分にはそれほど違和感はない。何よりも、物語のスケールが壮大だ。主人公二人がソウルでマラソン対決→ノモンハン戦争の戦場で因縁の再会→ソ連軍の捕虜となり、収容所で過酷な生活→独ソ戦の勃発でソ連軍に編入されて戦うが、ドイツ軍に投降→ノルマンディー上陸作戦…当時の街並や戦場の光景が一つ一つ再現されており、膨大な製作費をつぎこんだことがうかがえる。私のような現代史マニアにとってはとても面白い。

 日本の植民地支配下にあったソウル(京城)──日本人の長谷川辰雄(オダギリ・ジョー)と朝鮮人のキム・ジュンシク(チャン・ドンゴン)、二人のマラソンランナーの波乱含みの出会いから物語は始まる。孫基禎(映画中にも登場する)がベルリン・オリンピックで金メダルをとったことは朝鮮の人々にとって大きな誇りとなったが、それは日の丸を背負ったものであらねばならなかった屈辱と表裏一体となった複雑さをはらんでいた。この映画でマラソンというモチーフが選ばれているのはこうした事情を意識したのだろう。他方、民族差別によって二人の青年の間にわだかまった侮蔑と反感とがやがて友情へと変わっていくという筋立ては、日本での公開も見越しての配慮であろうか。

 ソ連の収容所でキムが長谷川から「お前はそれでも皇軍の兵士か!」となじられ、「自分はマラソンランナーのキム・ジュンシクだ!」と言い返すシーンがあった。いつも冷静で公平な彼は、ある意味、優等生的でカッコよすぎる。このような態度があの時代にあり得たのかどうか何とも言えないが、この際、問題ではない。民族や国家といった帰属ではなく、あくまでもマラソンランナーという自らに固有の属性にこだわることで確保された「個」としての視点、それが作中人物を通して映画の中に仮構されたことが積極的な効果を生み出している。

 そうした眼差しは何を見ていたのか。日本の軍隊で「一視同仁」を標榜するにもかかわらず民族差別を受けた矛盾。他方、ソ連の収容所で有力者となった朝鮮人の親友が権力をかさにきて日本人を殴り、そればかりか保身のため朝鮮人の仲間まで陥れた醜さ。「そういう悪い奴なんだ」と言って終わらせてしまっては話にならない。一人ひとりの主観的な悪意や差別感情というばかりでなく、軍隊にせよ、収容所にせよ、こうしたものを成立させた制度的枠組みが人間の行動パターンを左右してしまう側面が往々にしてある。個人的に付き合う分には善意の人間であっても、こうした制度的な網の目に絡め取られたとき──それこそ、ハンナ・アレント『イェルサレムのアイヒマン』の副題にある「悪の陳腐さ」という表現通りに──必ずしも自由にはなれない難しさ、それが複数の政治体制をくぐり抜けた彼らの軌跡を通して図らずも浮かび上がってきているところに興味を持った。キム・ジュンシクの本来ならあり得ない“人の良さ”は、こうした問題を捉え返す相対化の視点を映画の中に仕込む役割を果たしていると考えることができる。複数の国にまたがって現代史のナーバスなテーマを取り上げるとどうしても特定の悪役を仕立て上げて、見ようによってはギスギスした後味の悪さを残しかねない。そうしたあたりがクリアされている点で映画としてなかなかよく出来ていると思った。

【データ】
監督・脚本:カン・ジェギュ
2011年/韓国/145分

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2012年1月21日 (土)

閻学通『古代中国の思想と現代中国のパワー』

Yan Xuetong, ed. by Daniel A. Bell and Sun Zhe, tr. by Edmund Ryden, Ancient Chinese Thought, Modern Chinese Power, Princeton University Press, 2011

 以前、バイデン副大統領が訪中前に本書を読んだという記事を何かの雑誌で見かけた覚えがあった。そんな情報が敢えて表に出るということは、アメリカ政府は中国政府の外交方針について本書を通して理解している、という暗黙のメッセージなのかと思い、興味を持って手に取った次第。著者の閻学通は清華大学国際問題研究所所長で、中国政府のアドヴァイザーとして知られている。

 第一部は閻学通の論文3本、「先秦国際政治哲学の比較研究」(A Comparative Study of Pre-Qin Interstate  Political Philosophy)、「荀子の国際政治哲学とその今日への示唆」(Xunzi's Interstate Political Philosophy and Its Message for Today)、「『戦国策』における覇権」(Hegemony in The Stratagems of the Warring States、Huang Yuxing[黄宇興?]との共著)を取り上げ、第二部でそれぞれについて別の研究者によるコメント、第三部で閻学通の反論的な結論という構成。

 現代の国際関係理論はグロチウスの国際法思想から始まっているし、さらにさかのぼってトゥキュディデス『ペロポネソス戦争史』がしばしば引用もされるのだから、西欧思想に淵源を持つ側面が強い。この点を考えると、古代中国の思想家たちの議論を対比させることは国際政治理論一般への理解を深めるのに寄与するはずだと言う。もちろん時代的制約があるので、歴史的背景は捨象して国際政治理論として活用できる要因のみを抽出して議論を組み立てていく。

 現代の中国は鄧小平時代の経済成長優先から積極的な外交政策へと転換しているという認識が本書の前提となっている。中国は超大国(superpower)へと向けて軍事増強をするにも平和的環境の中で行わなければならなず、また安全保障システムや国際規範の形成に向けて積極的に関与していくという問題意識を示す。先秦期の思想家たち(韓非子を除く)が覇権(hegemony)的ポジションを得るには「徳」(humane authority)によって他の諸侯国からの認知を受けることが必要と論じていたことからヒントを導き出し、現代中国にとって指針になると指摘する。彼の議論における超大国志向は、彼自身が国益重視のナショナリストであるというだけでなく、理論的にはケネス・ウォルツやジョン・ミアシャイマーなどのネオ・リアリズムや攻撃的現実主義が踏まえられていることにも留意する必要があるだろう。

「先秦国際政治哲学の比較研究」についてメモ
・conceptual determinism(≒構築主義)、dualism、materialist determinism(≒リアリズム)/system、state、individualという二つの軸で、老子、墨子、管子、韓非子、孔子、孟子、荀子を配列しながら分析。
・先秦期の思想家たち(韓非子はmaterialist determinism/state→リアリズムなので除く)は政治アクター自身が国家間関係をどのように受け止めるかという点を重視→構築主義(constructivism)や国際政治心理学と同様。
・覇権的なポジションを得るのは、その国自身が決めるのではなく、「徳」(humane authority)に基づき他の諸侯国からの支持があってはじめて成功する。

「荀子の国際政治哲学とその今日への示唆」についてメモ
・支配者や大臣たちの考えに従って国は指導される→国内要因決定論:支配者の考え→大臣たちを採用→政策の方向性を決める→国家のタイプが決まる→国力の変化、外交関係のあり方、国際秩序に影響。人材登用が国力を高める→人材が必要(かつては統治者としての能力だったが、現代では経済運営の人材が必要)
・荀子の性悪説→人間は利己心があるが、規範に従う内在要因もある→ロバート・コヘインやジョゼフ・ナイたちのネオリベラリズムに近いと指摘(国際関係論におけるネオリベラリズムはアナーキーな世界の中でも規範や制度によって協調行動を取る点を強調している)。
・中国が「徳」に基づいて超大国となるには、他国がならいたくなるような魅力的なモデルを中国自身が築き上げる必要。ソフトパワーは文化的パワーと政治的パワーとを区別しないが、荀子が公正さの概念として用いる「徳」は指導者のイデオロギーである点で異なる。
・大国と小国とではそれぞれ国力に応じて権利や責任も異なる。指導国のリーダーシップのあり方に応じて、国際的規範の内面化の方向やスピードが違ってくる→ゆるやかなヒエラルキーによって紛争防止を図る。

「『戦国策』における覇権」についてメモ
・『戦国策』に登場する戦略家たち、具体的には蘇秦の合従(vertical union)や張儀の連衡(horizontal union)などを取り上げ、ヘゲモニーに対する規範の関係、規範遵守と武力行使との関係、新たな規範の創出と古い規範の保持との関係を分析。同盟の形成には信頼醸成が必要。
・ブッシュ政権のユニラテラリズムの失敗→規範の重要性。
・現代の国際政治理論はマテリアルな要因(領土、人口、経済、軍事)を重視するが、本書では先秦期の戦略家たちを通して、国家的政治力の核心としてリーダーシップを重視。国家的政治力はリーダーのモラルと彼がどのような政策をとるかによる→政策を立案する人材が国力の指標となる→人材を求めるシステムの構築が必要→中国も国境を開放して移動の自由を認めるべき、人材はより良い条件の整った国へと移動するはず。
・国際秩序における重心の移動は人為的活動の結果→リーダーシップによる変化が指標となる。
・時代が変わればかつて効果的だった戦略もすたれる。歴史から見出されたパターンを繰り返しても意味がない。そこで、ヘゲモニーを獲得する戦略はどのように生み出されたか? 効果的戦略を生み出す基本原則は何か?を考えるべき。

巻末には閻学通が自分の生い立ちや考え方を語ったインタビューを収録
・ロジカルで、曖昧なものは嫌いという性格。ナショナリスト、リアリストであることは自他共に認められている。
・もともと内気な性格だったが、文革時の下放で苦労して鍛えられた。その代わり中等教育を受けられなかったので数学などが身につけられずいまだに苦手。また、五四運動や文革によって中国の伝統文化は破壊されてしまったので、古典を読むのに困難を感じる。
・台湾問題についても研究。経済を通して政治問題の解決へと促していくという従来の方針に対して1994年から反論を行い、台湾独立運動を抑圧せよと主張、これは2004年5月17日に共産党によって採択されたと言う。

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2012年1月16日 (月)

藤原帰一・永野善子編著『アメリカの影のもとで──日本とフィリピン』

藤原帰一・永野善子編著『アメリカの影のもとで──日本とフィリピン』(法政大学出版局、2011年)

 歴史的背景も社会的条件も異なる日本とフィリピン、現代史における両者の歩みを比較するとなると一体どんな話題が出てくるのか、本書を読む前には全く見当がつかなかった。ところが、アメリカという第三者の存在を議論の軸にすえたとき、これほど興味深い論点が出てくるとは、正直、驚いた。本書は内外の研究者による共同研究の成果で、以下にメモを箇条書き。私がとりわけ関心を持った論点は、①アメリカがフィリピンで実施した恩恵的同化政策はその後の日本におけるGHQの統治の先行モデルと考えられること、②アメリカによる占領/日本による占領、こうした二つの体験をめぐって、その時の支配体制に都合が良いように記憶の忘却、イメージ操作などによって歴史の語り口が変えられたという指摘(例えば、ホセ・リサールの神格化と象徴天皇制との類似点と相違点の分析)。

・植民地主義のレイトカマーとしての日本とアメリカ→制度化が徐々に強められていったイギリス・フランス・オランダの伝統的な植民地支配とは異なり、日米は植民地支配の当初から多額の費用を投下する国家的プロジェクトとして始まった点、地政学的要因が大きかった点で共通する。他方で、アメリカが領土的支配への依存度が小さい非公式の帝国を推進したのに対して、日本は汎ナショナリズムへの希求から領土的拡大→これは後発植民地主義の二つのモデルと把握できる。第二次世界大戦後における世界秩序の原型としてアメリカの非公式の帝国が現われたとき、日本の帝国は自滅→日本はアメリカに従属→アメリカのGHQによる恩恵的支配は、フィリピンで先行したアメリカの植民地支配と著しい類似性が認められる。(藤原帰一「二つの帝国の物語:後発植民地主義としての日本とアメリカ」)

・アメリカのリベラル例外主義をどのように捉えるか?→アメリカの価値や国民性に求められるのではなく、むしろ支配を受けたフィリピン人側の自由・民主主義・自治政府といった要求→アメリカは支配の永続化のためフィリピン人側の願望を植民地国家の構造に埋め込んだ。(ジュリアン・ゴウ「フィリピンと合衆国の帝国意識」)

・フィリピンでは戦争によって解き放たれた新しい社会経済的勢力はなぜ伝統的なエリート支配に対抗できなかったのか?という問題意識から、政治エリート層の継続性について日本とフィリピンを比較。マッカーサーの指令→日本では戦時期の支配エリートの破壊、フィリピンでは旧来秩序の復活(対日協力問題は行き詰る)→日本では構造改革が実施されたが、フィリピンではそうした改革が欠如。(テマリオ・C・リベラ「戦後日本とフィリピンのエリートの継続性:アメリカの影響」)

・1898年の米西戦争でアメリカはスペインに勝利、フィリピンの領有権を得たが、フィリピン人自身の独立運動は終息せず、1899年1月にマロロス内閣(第一共和国)が成立、アメリカ軍とフィリピン革命軍とが衝突し、フィリピン・アメリカ戦争が始まる。1902年7月にはアメリカ軍によって全土が平定されるが、その後も抵抗は続いた。日米開戦によって日本軍はフィリピンへ上陸、1943年にはラウレルたちを中心に独立宣言(第二共和国→フィリピン・アメリカ戦争においてアメリカが独立運動家を弾圧した記憶が掘り起こされた)。日本敗戦後の1946年、アメリカのかねてからの約束により、改めて独立宣言(第三共和国→侵略者としての日本イメージ)。アメリカによる占領、日本による占領、二つの記憶をめぐる歴史の語り方、忘却とイメージ操作が大きな論点となる。例えば、日本とフィリピンそれぞれにおける「社会のアメリカ化現象」、アメリカによる恩恵的同化の中での植民地近代性を考察。地元エリートの協力の下、フィリピンではホセ・リサールの神格化(フィリピン革命における抵抗のシンボル→穏健な改革主義者としてイメージの作り変え)、日本では象徴天皇制の成立という共通性。他方、前者ではフィリピン革命のエネルギー遮断が目的だが、後者では戦後日本統治の必要性。(レイナルド・C・イレート「日本との戦争、アメリカとの戦争:友と敵をめぐるフィリピン史の政争」、永野善子「象徴天皇制とホセ・リサールの神格化との比較考察」など)

・フィリピン知識人による文学作品等に表れた〈日本〉イメージと〈アメリカ〉イメージとの相剋。反日/親米と親日/反米という二つの認識がどのような対抗関係にあるのか、三世代にわたって検討。(アウグスト・エスピリトゥ「対抗する陰影 〈日本〉と〈アメリカ〉:フィリピン系アメリカ人の想像のなかで」)

・フィリピン人女性と日本人男性との結婚という事例を取り上げ、お互いの関係上のポジショナリティやアイデンティティに「アメリカ」という第三者の存在が及ぼす影響を検討。日本、フィリピンともアメリカの圧倒的な影響を受けている点で異種混淆的な性格を帯びている→属性の選び方によって「アメリカ人」「西洋人」ともなり得るが、現実にはそうではないという二面性→アイデンティティの翻訳過程において、相互関係のポジショニングが場面によってどのような権力関係を持ちうるか。(鈴木伸枝「権力の三重奏:フィリピン人、日本人、植民地権力の場所」)

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2012年1月14日 (土)

柴田直治『バンコク燃ゆ──タックシンと「タイ式」民主主義』

柴田直治『バンコク燃ゆ──タックシンと「タイ式」民主主義』(めこん、2010年)

 本書はタイにおける議会制民主主義と王制との難しい関係について現場で取材しながら探ろうとした記者によるレポートである。著者自身はタックシン派・反タックシン派のいずれに対しても肩入れしないような叙述を心がけているが、議会制民主主義の原則を非合法的な形で無効にしようとする反タックシン派に対してはどうしても辛くなる。

 かつて岡崎久彦・藤井昭彦・横田順子『クーデターの政治学──政治の天才の国タイ』(中公新書、1993年)は、政党政治が腐敗で行き詰ると軍部がクーデターをおこし、軍部が権威主義体質で行き詰ると今度は議会政治家が中心となった街頭デモがおこり、いずれもギリギリのタイミングで調停者として登場する国王の裁定で議会と軍部とが政権交代を行う、こうしたタイ独自の政治モデルを指摘していたが、このような捉え方が本当に妥当するのかどうかはよく分からない(なお、岡崎久彦はタイ大使を経験している)。

 2006年、議会で圧倒的な多数を占めて政権基盤は安定していたはずのタックシン政権が軍のクーデターで崩壊、タックシンは国外に追放された。その後の選挙でもタックシン派が勝利して合法的に政権をとったにもかかわらず、国王に直結する枢密院・軍部・司法(とりわけ国王の信任が厚いプレーム枢密院議長が背後にいるとささやかれている)は圧力をかけ続け、タックシンの代わりに首相に就任したサマックは些細な微罪(テレビの料理番組への出演が首相の兼職を禁ずる憲法の規定に違反したと認定された)で辞任、次のソムチャイ政権も2008年に反タックシン派の「民主主義市民連合」(PAD)の街頭行動、さらに選挙違反を理由とした与党に対する裁判所の解党命令で崩壊した。反タックシン派が集まって成立したアピシット政権に対して今度はタックシン派の「反独裁民主同盟」が街頭行動で攻勢をかけ、こうしたタイ政局の混迷はタックシン派が復権した現在でも尾を引いている。

 タックシン派の支持層は北部・東北部の貧困層を中心とするが、反タックシン派の知識人が「選挙といったって、庶民は所詮金で買収されただけだ」と語るのを著者は書き留め、都市の中間層には貧困層に対する侮蔑感を隠さない人が多いことを指摘している。他方で、スラムの救済活動をしてきたことで著名なプラティープ・ウンソンタム・秦はタックシンの問題点も指摘すると同時に、安価な医療制度や村落基金(マイクロファイナンスのことか)、農民らの債務削減など貧困層向けの政策を実施、麻薬の蔓延(背後には軍・警察幹部の利権構造があったらしい)と戦ったなどの実績は認めるべきだと言う。こうした態度の違いを見ると、タックシン派と反タックシン派との対立は、地方の貧困層と都市の富裕層・中間層(すなわち既得権益層)との対立と読み替えていくことができる。数の多い前者の意向が選挙結果に大きく反映されるため、危機感を抱く後者は「道徳」「王制護持」といった建前論から議会制民主主義のマイナス面を強調(議員の7割を任命制にしようとする提案にPADは「民主主義」を掲げているにもかかわらず反対しない)、「腐敗」や「不敬」を口実にタックシン批判が繰り広げられた。

 「腐敗」「不敬」と言っても如何ようにも解釈できるレッテル貼りに過ぎない。タックシンに色々と疑惑がある一方で反タックシン派といえども既得権益と癒着した腐敗は根深いものであり、またタックシンも国王への忠誠を繰り返し強調している。2006年のクーデター後、不敬罪を濫発して政治攻撃する傾向が顕著になったという(タイではマスメディアが裏も取らずにニュースを流す傾向があること、マスメディアへの政府の規制が厳しいこと、司法が体制側に有利な判決を簡単に出してしまうことなども、恣意的な政治的排除を可能とする土壌になっている)。タックシンという強力なリーダーシップを持つ政治家の登場を受けて、それを後押ししかねない選挙によって、国王を軸とする形で比較的安定を保ってきたタイの政治構造が崩されるかもしれないという不安感があるようだ。タイの王権は他ならぬプミポン国王の個人的人格と主体的な努力によって築かれてきたものであって、必ずしも伝統的文化に根ざしたものではない(この点については、以前、Paul M. Handley, The King Never Smiles: A Biography of Thailand's Bhumibol Adulyadej[Yale University Press, 2006]を取り上げた→こちら。本書はタイでは発禁処分となっている)。すでに80歳を越えた高齢で健康状態も良くない国王がこの世を去ったとき、王権を軸にした現在の制度が今後も続く保証はなく、そうした不安感がタックシンという厄介者に対して神経質になっている事情がうかがえる。

 なお、著者がタックシーンとのインタビューで「プリーディーやピブーンの運命を自分に重ねてみることはあるか?」と問いかけたところ、彼は「よくある」と答え、「不敬のレッテルを貼られて追放された点では共通するが、私は彼らと違って民主主義によって選ばれた首相だ」と強調している。二人とも1932年の立憲革命で立役者となり、その後のタイ現代史を動かしてきた大物政治家で、彼らが交互に国政の采配を振るっていた時期、王室の影は非常に薄かった。第二次世界大戦中、若きプミポン国王は海外留学中で、帰国後、兄の前王が変死したのを受けて1946年に即位、王室の権威を築き上げていく過程については上掲The King Never Smilesで描かれている。大タイ主義に基づき領土拡大の思惑から日本側に立って参戦を決めたピブーン首相、対して「自由タイ」を結集して連合国側に立とうとしたプリーディー摂政との葛藤については、市川健二郎『日本占領下タイの抗日運動──自由タイの指導者たち』(勁草書房、1987年)でも触れられている。プリーディーは戦後直後のタイ政治を切り盛りしたが、ピブーンの画策で中国に亡命、復権したピブーンもまた1957年のクーデターで失脚して日本に亡命している。

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保阪正康『農村青年社事件──昭和アナキストの見た幻』

保阪正康『農村青年社事件──昭和アナキストの見た幻』(筑摩選書、2011年)

 昭和10年、長野県を中心とした武装蜂起計画の容疑で一斉摘発された「農村青年社事件」。疲弊しきった農村の惨憺たる状況に心を痛め、農村でコミューンを作ろうと考えた青年たちは理想と情熱ばかりが先行する一方、資金も手立てもない中で窃盗事件をおこし、刑事犯として捕まって運動は挫折。さらには功名心にはやった思想検事によって「大逆事件以来」という鳴り物いりで事件がフレームアップされた。アナキズム運動史の中でもあまり取り上げられることのないこの事件の経過と青年たちの人間模様を本書は描き取っていく。

 著者が取材をしていた1970年代、事件の当事者たちはまだ存命で、彼らにじかに話を聞いてまわったときの取材メモが本書のもとになっている。当時、著者は農本主義にも関心を持って『五・一五事件──橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』(草思社、1974年/中公文庫、2009年)を著している。農村における自治主義という点で農村青年社と橘孝三郎の愛郷塾との思想的近さを見立てたようで、実際に農村青年社には橘のもとへ話をしに訪れた者もいた。しかし、愛郷塾に右翼や海軍軍人などが出入りしていることに胡散臭さを感じ、橘の方としても農作業の実体験もない彼らアナキストに農民の気持ちが分かるのかと不信感を隠さなかったという。(蛇足になるが、1970年代、右翼・左翼を問わず対抗思想としてコミューンに関心を持つ傾向があったような印象を受けるが、当時の流行か? 例えば、松本健一などは左翼土着主義という感じだ)

 ロシア革命期、ウクライナの農村地帯でアナキズム運動の指導者として活躍、やがてボルシェヴィキによって弾圧されたネストル・マフノになぞらえ「マフノの末裔」として書くつもりだったが、その時はあきらめたらしい。窃盗事件をおこしていたこと、自分たちの名前を歴史に残すんだという功名心が思想検事の「大逆事件以来」という思惑と奇妙な共犯関係にあること、1970年代の世相で暴れまわっていた過激派とオーバーラップされてしまいかねないことなどに違和感があって、その時は書く意欲が失われてしまったと説明している。

 裁判の経過を検討して、事件を強引にフレームアップしていった当時の思想検事のあり方を問うのが本書のテーマであるが、それ以上に特徴的なのは、事件に関った青年たちがどのような思いを抱いていたのか、そこに視点を置いてるところだ。著者はアナキズムを政治運動としてではなくあくまでも個人的な信条の問題として捉えており、その点では距離を置いて考えようとしている(当時は出版社をやめて物書きとして立とうとしていた時期で、組織から離れた自立的な生き方とはどのようなものかという点でアナキストに関心を持っていたらしい)。だが、彼らは彼らなりの善意でひたむきに生きようとしていた。そのことを思い、30年以上前の取材メモを改めて読み返しながら胸に迫ってくるものを色々と感じたであろうことは行間からうかがえる。著者自身の、遅まきながらも青春の書であろうか。

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2012年1月13日 (金)

橘孝三郎について何冊か

 農本主義という思想の位置づけは大まかに言って、第一にファシズム論の観点から体制支配を農村の末端にまで浸透させたイデオロギーと捉えるもの、第二に資本主義の進展によって解体されつつある農村社会の立て直しを通して共同体における自治を実現させようとした試みと捉えるもの、こうした二通りがある。丸山真男以来の戦後政治学は前者で批判的なスタンスを取るのが一般的だが、後者の観点からは右翼ばかりでなく農民運動やアナキスト系の人たちからの支持もある。いずれにせよ、権藤成卿と橘孝三郎の二人が代表的とされる。

 こちらにも書いたことがあるが、五・一五事件という血なまぐさいクーデター未遂と平和志向の理想主義者・橘孝三郎という取り合わせには奇妙なミスマッチがあって、私は以前から関心を持っていた。保阪正康『五・一五事件──橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』(草思社、1974年/中公文庫、2009年)はまさにそこに注目して、橘と事件との関わり方を中心に当時の時代相を浮き彫りにしていく。政治史的な分析としては松沢哲成『橘孝三郎──日本ファシズム原始回帰論派』(三一書房、1972年)があり、橘を革命派と捉えている。斎藤之男『日本農本主義研究──橘孝三郎の思想』(農山漁村文化協会、1976年)は農政学の立場から橘が農作業の具体的な現場を知った上で農業経営構想をしっかり立てていることに驚きながら、彼の思想を通して農本主義のアウトラインを描き出そうとしている。新しい著作としては長山靖生『テロとユートピア──五・一五事件と橘孝三郎』(新潮選書、2009年)があり、基本的に保阪書の枠組みをなぞっているだけという印象もあるが、取っ掛かりとして読みやすいだろう。

 橘孝三郎は天皇中心の国家主義を掲げていた点では右翼思想に分類される。しかし、彼の本意は、土にまみれて農作業を行う一人ひとりが互いの個性に敬意を払って認め合いながら有機的な共同体=コミューンを作り上げていこうという点にあり、愛郷塾の前身である兄弟村は同時代における武者小路実篤の「新しき村」と並び称されていた。橘は西洋近代へのアンチとして東洋の精神性を謳いあげてはいたが、他方でミレーの絵画に感銘を受け、トルストイに共鳴し、思想的にはロバート・オーウェンの協同体論やウィリアム・ジェイムズの哲学、とりわけアンリ・ベルグソンのエラン・ヴィタールの観念から強く影響を受けており、漢学的教養を基に社稷の思想を組み上げた権藤成卿と比べるとかなりバタくさいという印象もある。晩年の橘に会ったことのある松沢哲成、保阪正康、立花隆(『天皇と東大』[文藝春秋]によると縁戚にあたるらしい)は異口同音に、過激派右翼という先入観とはまったく違って穏やかな人柄であったことを証言している。

 現代の社会において、いや、橘たちが生きていた昭和初期という時代にあってすらも、農本主義が成立する余地はもはやなかっただろう。社会的条件を欠いたまま田園生活への憧憬を語っても所詮はノスタルジックな幻想に過ぎない。とは言え、人間関係が切り離され、アトム化した疎外感に苛まれているという自覚があるとき、何がしかのユートピアを見出したいという願望が芽生えるのも無理からぬところで、それが絶望的な焦燥と結びつくと、「テロとユートピア」という長山書のタイトルが示唆するように、ある種の暴発につながりかねない。時代が過ぎても形態が変わっても、いつでもあり得るそうした心情を考え直す上でも、橘という人物は不思議な関心をそそられる。

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2012年1月 8日 (日)

下斗米伸夫『アジア冷戦史』『日本冷戦史──帝国の崩壊から55年体制へ』

下斗米伸夫『アジア冷戦史』(中公新書、2004年)

・冷戦の起源を第二次世界大戦後のヨーロッパにおける米ソの対立に求める一般的認識とは違う観点から、東アジアにおける冷戦構造の動態を捉えなおしていく。当初は米国と中ソという二極構造から始まったものの、スターリン批判等を契機に共産圏内部で多極化。東欧では、例えばハンガリーの“小スターリン”ラーコシを排除できたのとは異なってアジアに対しては打つ手がなく、中国、北朝鮮、ベトナムの動向はソ連にとっても想定外だった。
・北朝鮮は当初、ソ連をモデルとして国家形成、つまり事実上の傀儡国家として出発(ソ連から来たホガイの役割については、アンドレイ・ランコフ(下斗米伸夫・石井知章訳)『スターリンから金日成へ──北朝鮮国家の形成 1945~1960年』[法政大学出版局、2011年]を参照のこと→こちら)。スターリン批判後、中ソは北朝鮮内部の情勢を把握できていなかったため、思惑を超えて金日成はソ連派や中国派を粛清、独裁体制を樹立。なお、人民義勇軍司令官として朝鮮戦争に参戦した彭徳懐が対北朝鮮関係を担当していたが、彼の金日成評価は低かったらしい。
・日中国交回復にあたり、中国は反覇権(=反ソ)条項にこだわった。これに対して、ソ連側も反覇権条項の中立化するため日本との関係を仕切りなおそうと模索したが、アフガン侵攻でつぶれた。
・西側との対抗上、ソ連は核兵器という最新テクノロジーの開発を急ぎ、貧しい経済を軍事化したため、国民に多くの人的犠牲を強いることになった。同様のことが中国、北朝鮮でも続いており、核開発連鎖のプロセスを示唆。

下斗米伸夫『日本冷戦史──帝国の崩壊から55年体制へ』(岩波書店、2011年)

・上掲書の観点を踏まえて、日本を軸として冷戦構造のプロセスを検証。日本は敗戦によって帝国から国民国家へと縮小、1945年8月からの帝国解体に伴う空間的処理をめぐる過程にアジア冷戦の起源を求めるのが基本的認識。英米ソの関与が対立へとつながり、これが日本の内政へも還流していったという構図。
・冷戦構造を形成した要因としての核の地政学:広島・長崎への原爆投下の衝撃→ソ連は核兵器製造の意図を持つ→当時はまだソ連領内においてウランが見つかっておらず、いかにウランを確保するかが外交課題として浮上→東欧、とりわけブルガリアに埋蔵されたウランに着目(ブルガリアのトップにはコミンテルン執行書記だったディミトロフを据えた)→東欧におけるソ連の覇権を認めさせる代償として、日本占領における米国主導を容認。
・東アジアにおける共産主義運動の中心は北京とされ、ミコヤンと劉少奇を中心として構想された中ソ同盟による共産主義運動の連帯→中ソ対立の激化→これが日本共産党内部の分裂にも波及していった→1950年代、日本共産党の内部抗争の様子も後半で取り上げられる。

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酒井亨『台湾人には、ご用心!』

 酒井亨『台湾人には、ご用心!』(三五館、2011年)読了。カバーの「萌え」系イラストは人によっては引いてしまうかもしれないが、著者は以前にも、日本のアニメやポップカルチャー好きな台湾の若者をテーマとした『哈日族』(光文社新書、2004年)を書いているし、また前著『「親日」台湾の幻想』(扶桑社新書、2010年→こちら)では「親日」ならぬ「萌日」というキーワードを出してきたから、この辺に反応する読者層を狙ったものか。

 ちなみに、この『「親日」台湾の幻想』という本、台湾が日本好きなのは確かだが(著者は「萌日」と言う)、他方で「台湾は親日なのだから、日本の植民地支配は正しかった」みたいな保守派にありがちな議論に釘をさす内容であった。それを敢えて扶桑社=サンケイ・グループから出すという心にくい“配慮”には思わずニヤリとしたものだ。

 「台湾人は○○だ」という決め付け口調はこうした文化論ではありがちな書き方ではあるが、台湾にどっぷり浸ってきた著者ならではの実感なのだろう。『「親日」台湾の幻想』と重なる箇所が多いようだが、ポイントをいくつか挙げていくと、
・良くも悪くも「いい加減」で気分屋さんの台湾人気質、その具体例を色々と紹介していくのが全体的な趣旨。論理的にことを進める中国人気質とは異なり、台湾人はむしろ南方系のマレー人やフィリピン人に近い。「国民国家」にも興味ないから、統一/独立といった政治論には曖昧な態度を取るのが多数派。なお、台湾人はマレー系という指摘については遺伝学者・林媽利の議論を援用している。林媽利《我們流著不同的血液:以血型、基因的科學證據揭開台灣各族群身世之謎》(前衛出版、2010年)は私も以前に台湾を訪れたときに購入して読んだ(→こちら)。
・多言語社会である台湾では、多くの人にとって北京語はあくまでも習った言語であって必ずしも母語ではない。従って北京語のネイティヴチェックをしてもらうときには要注意。蒋介石時代の政治体制の問題もあって“サバイバル”のため言語の使い分け→本音は北京語ではなく、母語の台湾語を使うときに出てくる
・日本のサブカルチャーが台湾ではせっせと翻訳されている→これが台湾を経由して中国語圏に広がっている。
・台湾人が好きなのは現在の日本であって、戦前の日本ではない、という指摘は『「親日」台湾の幻想』を参照のこと。

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2012年1月 6日 (金)

松戸清裕『ソ連史』、下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917─1991』

 ソ連の歴史を記述するに際しては、出発点としてのロシア革命、抑圧的な体制が形成されたスターリンの大粛清、もしくは連邦崩壊に至るペレストロイカといった時期が大きく注目される印象がある。松戸清裕『ソ連史』(ちくま新書、2011年)はその合間の時期の記述が厚く、内政面の事情を中心に描かれており、全体としてバランスのとれたソ連の通史。以下の3点が基本的な視点となっている。
・冷戦の敗者というイメージ→ソ連側の人々も必ずしも戦争を望んでいたわけではない。
・共産主義建設という実験の失敗により国民に犠牲を強いたのは事実だが、多くの人々が主観的には共産主義建設が国民のためになると信じていた。
・共産主義の抑圧的な体制→一党支配体制において有権者の支持を求めて他党と競う必要がないにもかかわらず、ソヴェト政権には「説明し、理解させ、協力を得る」という基本的な態度があった→プロパガンダによる国民の動員というだけでなく、政策目標に向けて人々の理解と協力が必要という認識があった。祝祭としての選挙。しかし、実際には社会の隅々まで統制が行き届く状況にはならなかった。

 合わせて読んだ下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家 1917─1991』(講談社選書メチエ、2002年)は、スターリン時代のナンバー2であり、ゴルバチョフ時代まで生き残ったモロトフに焦点を合わせてソ連の歴史を考察。まさに体制内にいた人物の視座から、抑圧的な体制の形成過程及びそれが内政・外交に影響を与えていく様子が描き出されていく。

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2012年1月 3日 (火)

安田敏朗『かれらの日本語──台湾「残留」日本語論』

安田敏朗『かれらの日本語──台湾「残留」日本語論』(人文書院、2011年)

 私が初めて台湾へ行ったとき、台北の二二八紀念館でガイドをしてくれた日本語世代のおじいさんと話をする機会があった。その後、同行した友人が「台湾で由緒正しい日本人に出会った!」とやたら興奮していたので、「彼は日本への親しみだけではなく、差別を受けてイヤな思いもした、とも語っていたじゃないか」と言ったところ、「お前は自虐史観だ!」と非難された。本書を読みながら、このときの違和感を思い出していた。

 日本が植民地支配を行った台湾において「国語教育」を担った教員たちはどのような考えを持っていたのか。また、敗戦によって日本が台湾を放棄した後、観光目的の台湾渡航が自由化された1964年以降、訪れた日本人たちは台湾における日本語をどのように「再発見」していったのか。そうした台湾の日本語をめぐる言説の系譜をたどっていくのが本書の趣旨である。

 植民地統治下における日本語教育は、単に言語としての日本語を文法的に教えようとしたのではなく、生活習慣や感性といったレベルまですべてをひっくるめて「日本人らしい自然な日本人」になること、すなわち日本人への同化が期待されていた。その点で「国語教育」は「外国語(としての日本語)教育」とは異なる。他方で、日本語を教える日本人教員は出身地によって方言的なアクセントがまちまちで(台湾では九州出身者が多かった)、教師自身が教科書に書かれているような「正しい国語」を話していたわけではない。もちろん生徒の母語である台湾語の影響もあるし、学校外での様々なコミュニケーション場面に応じてピジン言語的な日本語の使用状況も現われていた。そうした多様な言語接触状況は、「正しい国語」普及という目的のためではあるが、当時から観察されていたようである。

 また、戦後になっても原住民社会では言語の異なる他部族とのコミュニケーション手段として日本語が用いられたケースがある。本書では真田信治・簡月真「台湾の日本語クレオール」で紹介された、宜蘭県大同郷寒渓村の「宜蘭クレオール」が取り上げられている。語順は日本語だが、語彙はアタヤル語という言語である。「話者の言語権」の問題に注意を喚起する一方、これを正式に言語認定するかどうかは学問的課題というよりも政治的問題になってしまう困難を著者は指摘、日本の植民地支配によって生じた現象であるという意味で歴史認識の問題と関わってくる点を強調している(ただし、この件で批判された側にも言い分はありそうだな、という気もする)。

 「言語」なのか「方言」なのか、こうした区別の立て方そのものに何がしかの政治的意図が絡まってくる問題は社会言語学のイロハであるが、かつて日本が植民地支配を行った地域における言語状況を考える上で、こうした問題はより注意深さを必要とする。眼差しの投げかけ方によっては、そこにバイアスのかかったフィルターを通して、見る者の側が望む恣意的な姿を浮かび上がらせるだけということにもなりかねない。

 本書のタイトル「かれらの日本語」とは、台湾における日本語話者の言葉を指している。「残留日本語」などの表現を用いた際に感じられる「残っているものを発見する高揚感」は歴史的経緯が軽視されているのではないかという問題意識が本書の出発点であり、それに代わってこの表現が選ばれている。台湾の日本語世代老人にノスタルジーを見出して消費する風潮に対する批判は当然にしても、他の研究者(主に言語学)に対する批判までかなり手厳しいという印象も受ける。ただ、眼差しの向け方が時としてはらむ問題を自覚したとき、注意してし過ぎるということはない。むしろ「かれら」自身の必要に応じて日本語を使わざるを得なかった、そのあるがままの生活的体験を、「こちら」の思惑によって切り刻むようなことはしたくないという著者の模索のもどかしさに目を向けるべきだろう。

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木村汎・袴田茂樹・山内聡彦『現代ロシアを見る眼──「プーチンの十年」の衝撃』

木村汎・袴田茂樹・山内聡彦『現代ロシアを見る眼──「プーチンの十年」の衝撃』(NHKブックス、2010年)

・1999年にプーチンが首相に任命され、同年、エリツィン大統領の辞任を受けて大統領代行に就任して以降、2期8年を経て現在のメドヴェージェフとのタンデム政権に至るまで10年間にわたるロシアの政治経済について検証。
・この間の経済成長は主に原油・ガスなど資源輸出収入によるものであって、プーチン政権の経済政策が効果的だったわけではない。逆に、原油価格上昇によるレント収入はインフラ整備などに投資活用されなかった。
・ゴルバチョフ、エリツィン政権期の「改革」の一部は放棄された。政治体制としては家父長的専制、官僚的権威主義、自由民主主義、経済体制としては国家資本主義、市場経済、賄賂やコネがまかり通る地下経済、外交的には欧米に対する協調と反発など、本来ならば両立するはずのない諸要素が同時に存在→まるで19世紀の帝政、20世紀のソビエト、21世紀の現代が共存しているような奇妙な混合体→こうしたグレーゾーンの中を揺れ動いているため、「プーチンの十年」を一言で要約するのは困難。
・プーチン政権に敵対しない限りはある程度の経済的自由。しかし、政権にすり寄った人々の念頭にあるのは国益よりも私益優先→レント・シーキング・システム。
・常に「敵」や「スケープゴート」を創出する政治手法により国民の目を外へそらす→チェチェン問題、オリガルヒ(グシンスキー、ベレゾフスキー、ホドルコフスキーなど)潰し、グルジア・ウクライナなどへの介入、NATO拡大への敵視。

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2012年1月 2日 (月)

『民俗台湾』について何となく

P1020543 年末年始にかけてずっと部屋の片づけをしていたら、気になる本が色々出てくる。例えば、写真右側の陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』(致良出版社、2006年)。台湾で刊行された本だが、日本語で書かれている。たしか、台湾大学近くの台湾史専門書店、南天書局で買った覚えがある。なお、写真左側は『思想』(聯経出版)という台湾の学術雑誌の第16号(2010年10月)で、台湾史研究の歴史を回顧する特集が組まれていたので買っておいた。

 南天書局は書店としてばかりでなく、台湾史関連の史料を復刻出版している版元としても有名で、そのラインナップには『民俗台湾』をはじめ戦前に日本語で書かれた文献も含まれている。戦後の国民党政権の時代、国史=(大陸の)中国史というイデオロギー的な締め付けがあったため、台湾史研究はおろそかにされていた。1980年代以降、台湾史研究の気運が高まるにつれて、戦前の日本人研究者が行った民俗(族)学・人類学・言語学などの調査記録が研究のたたき台として見直されたという事情がこうした復刻出版の背景としてある。

 陳艶紅『『民俗台湾』と日本人』は、第一に『民俗台湾』に寄稿された内容的テーマの分析、第二に編集・運営に携わった日本人の役割を紹介することに主眼が置かれている。台湾史に関して私が興味を持っているテーマはいくつかあるが、その一つがこの『民俗台湾』をめぐる人物群像なので、何となくもう一度ページをパラパラめくり始めた(こんなことやっているから整理作業が先に進まない…)。

 『民俗台湾』は1941年7月、太平洋戦争が始まる直前の時期に創刊。当時の台湾では台湾人の日本人化を意図した「皇民化運動」が推進されており、それによって台湾古来の習俗が消え去っていくのを憂えた人々によって担われた。例えば、朝鮮半島における柳宗悦や浅川伯教・巧兄弟などのような存在にたとえられるだろうか(『民俗台湾』では巻頭言に柳宗悦の寄稿を依頼した号もある)。キーパーソンとしては、人類学者の金関丈夫(→こちらを参照のこと)、考古学者の国分直一(→こちら)、画家の立石鉄臣(→こちら)、写真家の松山虔三、とりわけ編集実務を取り仕切った池田敏雄が特筆される。池田は、後に結婚することになる教え子・黄氏鳳姿の実家を通して台北・艋舺の下町文化に溶け込んでいたほどの台湾びいき。戦後、日本に引き揚げてからは平凡社に入ったらしい。なお、黄氏鳳姿は女学校在学中に書いた作文が出版されて、綴方運動の豊田正子と比べられた人。彼女の文才を発掘したのは教師だった池田。

 『民俗台湾』の特徴としては、第一に、立石のイラストや松山の写真によってヴィジュアル的に民俗資料の記録に努めたこと。第二に、各地の台湾人からの寄稿を積極的に募ったこと。『民俗台湾』同人からは、黄得時、楊雲萍(二人とも戦後は台湾大学教授)をはじめ後に学者として名を成した人々が現われている。日本人=調査者/台湾人=被調査者という対峙的構図に陥らないように、台湾人自らによる民俗文化の記録を促していたと言える。こうしたことはその後、「台湾人」アイデンティティーの確立に寄与したという評価につながっていく。

 『『民俗台湾』と日本人』巻末に附された『民俗台湾』総目録を眺めていると、台湾史というコンテクストで興味深い人物が結構寄稿していたことが分かる。上掲の黄得時、楊雲萍、黄氏鳳姿の他、例えば作家の楊逵(→こちら)、張文環(→こちら)、呂嚇若、龍瑛宗、周金波、巫永福、呉新栄、画家の顔水龍、歴史家の曹永和、戴炎輝、社会学者の陳紹馨(新明正道に師事したらしい)、労働運動家の連温卿(→こちら)、弁護士の陳逸松、医学者の杜聡明など。一人ひとり解説していくと面倒だから省略するが、曹永和『台湾早期歴史研究』、戴炎輝『清代台湾的郷治』、陳紹馨『台湾的社会変遷與人口変遷』の3冊は台湾史研究の古典とされている。なお、当時の台湾文壇に関してはこちらで触れたことがある。

 「日本の植民地支配は良いこともした」と言ってふんぞり返るのは論外であるが、かつての植民地支配や対外的侵略といった負い目を持っている日本人の立場から現代史を考えようとする場合、「語り口」のナーバスな難しさに困惑することがしばしばある。とりわけアカデミズムにおいてポスト・コロニアルのアプローチが盛んになると、支配者/被支配者、中央/周縁といった枠組みを前提とした学知的構造そのものがはらむ知的暴力性が問題とされ、当時においては一見「良心的」な振る舞いに見えたとしても、こうした学知的構造に彼らも取り込まれていた以上、その責任は逃れがたいという見解が主流となってきた。例えば、川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、1996年)が、『民俗台湾』は柳田國男が構想した(と川村が言う)「植民地民俗学」の一環に過ぎないと断罪したのはその代表例である。

 ところで、川村をはじめとした論者は『民俗台湾』の植民地性を物語るエピソードとして、楊雲萍が金関の台湾文化への態度が「冷たい」と非難した問題を取り上げる。『民俗台湾』創刊趣意書の書き方を問題にしたのだが、「皇民化運動」という当時の時勢の中、総督府から睨まれないよう筆を曲げなければならない事情があった。その後、楊雲萍は金関と和解したようで『民俗台湾』に何度も寄稿している。彼は戦後になっても「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」(『えとのす』第21号、1983年7月)と記しているのだが、こうしたことを川村が取り上げないのは議論構成の恣意性が疑われる。また、黄得時は「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、ぜったいにそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」と語っていた(『台湾近現代史研究』第四号[1982年10月]所収の池田敏雄の回想から)。

 客観性を標榜する学問的営為そのものの中に無意識のうちに紛れ込んでいる偏見を暴き出し、その自覚を促した点でポスト・コロニアルの議論が貢献した成果は大きい。他方で、それが一つの理論として確立され、事情を問わずに一律に適用され始めると、今度は断罪という結論が初めにありきで、当時を生きた人々の生身の葛藤が看過されかねない。そうしたスタンスの研究には欠席裁判の傲慢さ、冷たさすら感じられる。当時において成立していた学知的構造の矛盾に気づいていたとしても、少数の人間だけで動かしていくのは極めて困難だ。それでも良心的に振舞おうと思った人間の主観的な情熱は、「偏見」を崩せなかったという理由において、無自覚的な構造的加害者として一律に断罪されなければならないのだろうか?

 こうした問題意識において、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」という三尾裕子の問いかけには私も共感できる。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」と指摘されている(三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」、貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、2005年]所収、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号[2006年3月]を参照)。

 ややこしいことを書いてきたけど、以上の問題については、前にもこちらこちらに書き込んだことがあった。こうした観点をしっかり踏まえた上で、『民俗台湾』に集った人物群像を軸として台湾と日本との関わりがリーダブルにまとめられた本があったら読んでみたい、と思っている。たまたま見つけた本からそんな思いが改めて触発された次第。

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