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2011年2月27日 - 2011年3月5日

2011年3月 5日 (土)

【映画】「サラエボ、希望の街角」

「サラエボ、希望の街角」

 かつて内戦で激しい憎悪の渦に巻き込まれ、引き裂かれたボスニア・ヘルツェゴビナ。首都サラエボの街並はそうした過去をかき消したかのように穏やかで美しいが、癒しがたいトラウマはその中にも根深く疼いている。

 同棲中のカップル、ルナとアマルはモスレム人、宗教上はイスラムであるが、クラブで酒を飲んで激しいビートに身をゆだねたり、愛をささやきあったり、消費生活を楽しむ姿はヨーロッパのどこでもよく見られるような普通の若者だ。ある日、アマルは勤務中に酒を飲んで職を失った。たまたま再会したかつての戦友に誘われてイスラム原理主義的な修養キャンプに参加、徐々に信仰に目覚め、リゴリスティックな戒律解釈を口にし始めた彼に対してルナは違和感と不安を感じ始める。

 ヤスミラ・ジュバニッチ監督の前作「サラエボの花」は、内戦中にレイプされて望まれずに生まれた息子と向き合う母親の姿を描いていたが、今作ではボスニアにおける宗教回帰現象に焦点を合わせているのが特色である。内戦中にサウジアラビアのワッハーブ派を中心に義勇軍が派遣されていたが、この映画に出てくる宗教教育キャンプも同様の流れの中で現れたものであろう。

 徐々に険しくなっていくアマルの表情、それを何か異様なものであるかのように不安げに見やるルナの視点は西欧的近代を基準とした偏見だと捉えることも、あるいはできるかもしれない。しかしながら、この映画はことさらにイスラムを否定しているわけではない。その土地なりの歴史に根ざした皮膚感覚に自然に馴染んだ宗教解釈というのもあり得るわけで、それを教義上の厳格性からことさらに批判するアマルの態度の不自然さがむしろ際立つ。この批判という行為そのものに、彼がこの世界に対して抱いているやり切れない絶望感が込められていると言えるだろうか。プログラムに監督インタビューがあり、ボスニアに昔からあった小さなモスクの詩的な暖かさと、近年サウジ資本の援助で建設された大きなモスクの冷たさとを対比する指摘が目を引いた。アマルが示すリゴリスティックな不自然さは、内戦で家族を失い、精神的不安定から職を失い、自身のおかれた不条理なみじめさに何とか意味づけをしたい、そうしたもがきがますます空回りしてしまうという意味でトラウマの呪縛からなかなか離れることのできない厳しい葛藤をうかがうことができる。

【データ】
原題:Na Putu/On the Path
監督・脚本:ヤスミラ・ジュバニッチ
ボスニア・ヘルツェゴビナ、オーストリア、ドイツ、クロアチア/2010年/104分
(2011年3月5日、神保町・岩波ホールにて)

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【映画】「英国王のスピーチ」

「英国王のスピーチ」

 ラジオの普及は王室のあり方をも変えてしまった。父王ジョージ5世は言う、「王が甲冑を身に着けて馬にまたがっておればいい時代はもう終わった、これからは国民の心をつかむよう直接語りかけねばならない」。ところが吃音症に悩む次男アルバートにとって、公衆の面前でスピーチするなんてもってのほか。わらをもすがる思いで訪ねた言語聴覚士のローグは診療の条件として対等な立場を要求。問題は心因性のものだと見抜いたローグはアルバートから本音を引き出すため次々と挑発、最初は反発していた彼も徐々に心を開き、やがて友情すら芽生えていく。

 王位は兄が継ぐものと安心していたら、離婚歴のあるアメリカ人女性シンプソン夫人との結婚を決意した兄王エドワード8世は退位を決意、アルバートはジョージ6世として即位せざるを得なくなってしまった。たまたま目にしたニュース映画で、国民を熱狂させている男を見て王はポツリとつぶやく、「何を言っているのか分からないけど、演説はうまいな…」。その男、アドルフ・ヒトラーが巻き起こした戦争に直面して、王は国民を奮い立たせるべく宣戦のスピーチをしなければならない──。

 大衆社会化状況において揺らぐ王室の役割、最高権威者として心を開ける友人のいない王の孤独、こうしたテーマを背景としたヒューマン・ドラマ。会話にはウィットが富んでいるし、テンポもいい。なかなかよく出来ていて面白い映画だ。

【データ】
原題:The King’s Speech
監督:トム・フーパー
出演:コリン・ファース、ジェフリー・ラッシュ、ヘレナ・ボナム=カーター、ほか
イギリス・オーストラリア/2010年/118分
(2011年3月4日レイトショー、新宿・武蔵野館にて)

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2011年3月 4日 (金)

ミカエル・ロストフツェフ『隊商都市』、グランヴィル・ダウニー『地中海都市の興亡──アンティオキア千年の歴史』

 メソポタミア、エジプト、ギリシア、地中海、文明揺籃の地に囲まれて通商交易で繁栄した都市国家であるぺトラ、ジェラシュ、パルミュラ、ドゥラ。ミカエル・ロストフツェフ(青柳正規訳)『隊商都市』(新潮選書、1978年)はこれら古代オリエント都市の遺跡に立って当時の光景に思いを馳せる。著者のロストフツェフはロシア出身、ロシア革命で亡命した後、イェール大学教授となったギリシア・ローマ史の大家である。本書は1920年代後半にこれらの遺跡を回った紀行文である、と言っても学術的な考察がしっかりしているからむしろリーダブルな歴史書という感じだ。イギリス委任統治下でトランスヨルダン王国が成立したばかりの時期、政府の要所にイギリス人が配されているのを見てローマ帝国を彷彿とさせるという趣旨のコメントもあった。原書刊行は1932年、それからすでに80年近く経過しているわけで、もちろん個々の細部に関しての研究ははるかに進展しているのだろう。しかしながら、考古資料に基づいて往時の光景を再現させる筆致はいま読んでも興味がそそられる。

 グランヴィル・ダウニー(小川英雄訳)『地中海都市の興亡──アンティオキア千年の歴史』(新潮選書、1986年)は地中海東岸諸都市の中でもアンティオキアに焦点をしぼった通史である。アンティオキアはヘレニズム文明をイスラム文明へと継受させた要であり、また古代キリスト教五大主教座の一つとして古代オリエント史では非常に目立つ存在感があった。ところが邦題で「地中海都市」となっているのは、(新約聖書の読者をのぞくと)日本では馴染みがないからであろうか。セレウコス朝の首都として造営され、ローマ帝国時代、とりわけキリスト教の普及と宗教対立、ペルシアとの抗争、帝国内部の動揺、東ローマ帝国を経てイスラム勢力に呑み込まれるまでにこの都市を舞台として繰り広げられた数々のドラマを描き出してくれる。上掲『隊商都市』が考古資料に基づいて往時の古代都市の光景を再現させるのに対して、こちらの『地中海都市の興亡』では遠大なタイムスパンの中で様々な文明が交錯している姿が見えてくるのが面白い。

 こういう古代史ものはもともと好きだったから読んでいて楽しい。素直にこっち方面の研究者になっていればよかった、などと思っても後悔先に立たず、と言うか、現実逃避心理の表われに過ぎないな。

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2011年3月 2日 (水)

アリー・シャリーアティー『イスラーム再構築の思想──新たな社会へのまなざし』

アリー・シャリーアティー(櫻井秀子訳)『イスラーム再構築の思想──新たな社会へのまなざし』(大村書店、1997年)

・イラン・イスラーム革命で「赤いシーア派」(Red Shia)とか「イスラーム的マルクス主義」(Islamic Marxism)と言われる勢力が大きな役割を果たし、とりわけその理論的指導者となったアリー・シャリーアティー(Ali Shariati)による著作である。最近、Vali Nasr, The Shia Revival: How Conflicts within Islam Will Shape the Future(Norton, 2007→こちら)という本を読んだときにこの人物に関心を持ったのだが、日本語の関連文献などないだろうと半ばあきらめていたところ、先日、近所の図書館でこの日本語訳を偶然見つけたので早速目を通した。以下、メモ書き。

・シャリーアティーは1933年、イスラーム学者の家庭に生まれ、1958年にマシュハド大学文学部を卒業、その後フランスへ渡り、1964年にソルボンヌ大学で博士号を取得、専攻は宗教社会学。父親の影響でモサデク支持サークルのメンバーとなったほか、アルジェリア問題の支援活動を通してフランツ・ファノンと知り合い、彼の『知に呪われたる者』のペルシア語訳をしている。また、サルトルをはじめとした知識人とも交流があった。1964年に帰国後、反体制運動に関わった容疑で投獄されたが、1967年からマシュハド大学でイスラーム史の講義を担当する。1971年に大学を追われて再び投獄されたが、知己であったアルジェリア外相の働きかけで釈放。1977年に国外脱出したが、イギリスに到着して間もなく謎の死を遂げる。秘密警察SAVAKが関与したと言われている。彼の死から2年後、1979年のイラン・イスラーム革命においてシャリーアティーの思想は大きな影響力があった。なお、黒田壽郎による序論では現代イスラーム世界で特筆すべき思想家としてシャリーアティーとイラクのバーキルッ・サドルの二人を挙げ、サドルがイスラームの伝統的価値を肯定的に再評価したのに対し、シャリーアティーは現代的な再解釈をしたところに特色があると指摘している。

・宗教学者層の出現によって宗教的な思想や行為を統一させたプラス面がある一方、他方で、硬直化・停滞化、新しいものを拒む障壁となってしまった。人間と神との直接的な関係を説くのがイスラームであり、公式には聖職者などいない。
・階層、人種などの差別は多神教的な世界観であり、タウヒードはこうした矛盾を受け容れない。
・クルアーンは現世と来世、精神世界と物質世界、自然世界と抽象世界といった区別は立てない。すべてが調和的に一体となった世界なのである。
・不可視なもの→知性、霊感、啓示、哲学、感受性などの向上によって認知可能、明示的となる。不可視な本源的存在→アーヤ(徴)を通してうかがい知る。個々の存在者は一義的な存在の顕現。モッラー・サドラーの〈存在の本源的実在性〉の思想に立脚(※モッラー・サドラー『存在認識の道』を井筒俊彦が翻訳しているが私は未読)。

・タウヒード、統合的な世界観:「存在を認識するということは、一つの生きたメカニズム、つまり創造世界を理解と自覚を備えた一つの存在として感得することである。それは、〈目的と意図〉という理性的秩序をともなって回転する、正確なメカニズムのようである。この世界を認識するとは、それを究極的な目的を備える体系に従って思考、観察、実感することである。この存在世界のすべての物事は、そのような正確、かつ論理的な計算に基づいており、無為、無駄、偶然とは無縁である。人間とは、このように意味深長で、正確に計算し尽した存在の一部であり、進歩を目指し、それに照準を合わせるような意志、理解力、自覚をともなっており、決して自らを見失うことはない。そして美醜、善悪に対して正確で、論理的な対応を行うのである。人間は、そのような調和のとれたメカニズムによって自らの生活、思考、感情、行為を組立て、このような観点から自らを厳格に統制し、おのおのの叡智が獲得した、確定的な法と確実な諸規律を踏みはずさぬよう努めるのである。」(180ページ)

・西欧のユートピア思想を引き合いに出しながら空理空論ではダメと指摘。社会、経済、慣習、時代状況など、これらの現実にも神の意志としての法則が一貫しているのだから、そこを踏まえながら現実を観察する必要。保守主義と理想主義の中間にイスラームがある。

・人間の自由意志=責任:「クルアーンにおける人間は、矛盾から成り立っている。二つの対立する力が、人間を二つの相反する世界へと招き寄せるのである。その一つは悪臭を放つ腐土でいっぱいの巷に向かい、他方は天使が絶えず人間に平伏している頂上を目指している。ここで重要なのは、絶えず対立するこの二つの力に身をさらしながら、この二股の分かれ道に立たされている人間が、いずれか一方を選択することである。責任の起源は、まさにこのような状況下にある。」「これが〈人間の二元性〉であり、イスラームのいう二元性の意味である。イスラームが人間世界、すなわち人間の霊魂と創造にのみ限定的に認める二元性は、そこにのみ存在と現実をもつ二元性である。」(217ページ)
・「タウヒード的世界観は、人間がいかなる社会的権力にも依存せず、彼があらゆる次元で〈存在を支配する意識と意志〉に専ら依拠することを要請する。」「タウヒードは、人間に自立と尊厳を授け、あらゆる存在の法規範である神のみへの〈服従〉が、偽りの権力、恐怖や貪欲という卑しい桎梏に対して人間を〈反抗〉させるのである。」(225~226ページ)
・「人間は二つの対立を内に含む弁証法的存在、神のもたらした二元的奇跡であり、神は人間の本質と運命における、唯一、〈無限の方向〉である。」「二元的で、矛盾した組成のゆえに弁証法的現象であるといえる人間は、つねに変動の中に身をおかねばならない。彼自身がまさしく、対立と闘争の場であり、そこでは二つの力が完成へ向かう不断の運動を惹起させる。」(230~231ページ)

・「イスラームとは〈宗教的、社会的な闘争、知的、精神的な努力〉そのものであり、〈盲従、党派精神、従属〉を甘受するものではない。われわれは〈クルアーン〉のイスラームに遵い、〈天国への鍵〉といったイスラームは斥けるべきである。」(258ページ)

・民衆自身が〈神の代理人〉であるはずだが、現実には一部の特権集団と民衆との対立関係が生じている。カインによるアベル殺害→収奪、独占、抑圧、殺害といったカイン的な悪の極/分配、公平、相互扶助といったアベル的な極→両者の弁証法的運動として歴史を把握する。前者から後者へと向かう運動の担い手としてナース(民衆)を捉え、こうした人々が連帯した動的側面を表現したのがウンマ(共同体)であるとされる。

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山形孝夫『聖母マリア崇拝の謎──「見えない宗教」の人類学』『聖書の起源』

 プロテスタントはもちろんのこと、カトリック教会において聖母マリア崇拝・信仰というのは厳密には存在しないのだという。一神教的な教義体系からすればたとえ「神の母」ではあっても崇拝対象とは認めがたいからだ。しかしながら、民衆レベルでは聖母マリアは篤い崇敬対象となっており、エチオピア正教会などはむしろ聖母マリア信仰の方が中心となっているとも言われる。山形孝夫『聖母マリア崇拝の謎──「見えない宗教」の人類学』(河出書房新社、2010年)は、はるか古代の大地母神からルルドの奇跡などマリア出現現象まで、キリスト教の表の顔とは異なる「見えない宗教」というレベルにおける精神史的流れを検討し、一神教的な父性原理と対比されるアニミスティックでスピリチュアルな母なるものへの崇拝の反復的な表われと指摘、さらには父なる神の男性優位という不動の社会秩序を維持するため張り巡らされた数々の文化装置としてカトリック教会のあり方をうかがう視点が示される。

 山形孝夫『聖書の起源』(ちくま学芸文庫、2010年)はすでに定評のある聖書論であろう。伝承文学としての性格を持つ聖書の背景に古代神話の系譜を見出し、新約の福音書については共同体における信仰告白の結晶として把握される。イエスはどのような人物であったのかを解明するのは極めて困難であり、かつての聖書学は聖書説話に見られる非合理的要素をすべて排除することで「客観的」な史的事実を確定しようと試みたが、そうした努力はことごとく失敗したと言っていい。本書はむしろ聖書伝説を形成してきた人々の動機の方に着目、いったん解体された聖書伝説にもう一度息を吹き込んで聖書の成立過程をヴィヴィッドに提示してくれる。

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2011年3月 1日 (火)

最近の井筒俊彦論

 岩波書店の学術誌『思想』第718号(1984年4月)の特集は「構造主義を超えて」、巻頭論文は井筒俊彦「「書く」──デリダのエクリチュール論に因んで」、その次に並ぶのはジャック・デリダが井筒宛に出した書簡を丸山圭三郎が翻訳した「〈解体構築〉DÉCONSTRUCTIONとは何か」である。前年の1983年、二人はパリで会って話し合い、そのときに語りつくせなかったテーマについてデリダは書いている。日本ではどうしてもイスラム研究の先駆者としての印象が強い井筒俊彦だが、言語以前の何かへと向けた根源的な探究という点で実はデリダと響きあうものを持っていたことは、井筒という碩学を知る上で一本の補助線となるかもしれない。

 井筒によるイスラム思想史の叙述を検討した池内恵「井筒俊彦の日本的イスラーム論」(『アステイオン』70号、2009年)は、井筒自身の関心事たる神秘主義的方向が強調される一方、法学における合理主義的方向は軽視されているバイアスを指摘する。井筒はイスラム哲学(とりわけイランのスーフィズム)を軸としながら古代ギリシアやキリスト教の神秘思想、ユダヤのカバラ思想、インドのヴェーダーンタ哲学、大乗仏教、老壮思想、さらには日本的禅まで広く「東洋哲学」を見渡せるメタ・ランゲージを作りたいという夢を語っていた(例えば、司馬遼太郎との対談)。神秘主義的直観の内奥に見出された「一如」の感覚、例えば安藤礼二「大東亜共栄圏の哲学──大川周明と井筒俊彦」(『アソシエ』17号、2006年→後出の『近代論』に所収)はその点で井筒と大川周明との類似を指摘し、それは存在論的に奥深いレベルでは非常に魅力的であるが、他方、政治レベルではこうした「一如」の観念がかつて大アジア主義などのイデオロギーに用いられた経緯はやはり無視することはできない(もちろん、井筒自身にそのような政治的意図はなかったにせよ)。いずれにせよこうした「一如」のモチーフによって安易にイスラムと日本とを結び付けるイスラム理解が繰り返し現われてきた問題を池内論文は指摘している。

 井筒の学問的蓄積を、学史的に位置付けるのか、それとも彼自身の思想的迫力そのものに関心を向けるのか、いずれのアプローチをとるかに応じて評価も変わってくるのだろう。池内論文を裏読みするなら、むしろ井筒をイスラム研究者という枠組みから解き放ったところで彼自身のテクストを読み込んでいく契機となり得る。彼はイスラムを客体として叙述したかったのではなく、むしろイスラム研究というプリズムを通して自らの哲学的直覚を語っていた。同様に、ユダヤ思想を通して、ギリシア神秘思想を通して、ロシア文学を通して、仏教哲学を通して、とにかく文明の枠を超えた様々な語法を通して彼自身が直観した存在の深みへと探究を敢行していった。そうしたスケールの大きさに私はただただ圧倒される思いがしている。

 言語以前の観照によってのみ感得される不可視な何か、詩人ならばヴィジョナリーなイメージとして捉えるであろう感覚、それが言語として顕現していくときの驚異、個人というレベルを超え、さらには文明の枠をも超えた深層意識へと向けられた井筒俊彦の根源的な探究そのものを追体験してみたいという誘惑は、非常に困難なことを承知の上で、それでもやみがたい。若松英輔による最近の一連の論考(「小林秀雄と井筒俊彦──神秘的人間とその系譜」[『三田文学』第三期2008年秋季号]。「井筒俊彦──東洋への道程」[『三田文学』第三期2009年冬季号]。「井筒俊彦──存在とコトバの神秘哲学(全6回)」『三田文学』第三期2009年春季号~2010年秋季号。「井筒俊彦と白川静 コトバ、あるいは文字」『月刊百科』574号、2010年8月)はそうした井筒の無限の思索そのものを対象とした評伝となっている。著者は文芸批評の人らしく、井筒の生い立ちや読書体験、交友関係、同時代における比較など主に日本における文学史・思想史的シーンの中で彼の思索へと目が凝らされている。それは視野が狭いということではない。むしろ、日本が舞台であってもある種の普遍を目指したこれほど豊饒な思想的ドラマが展開されていたことに改めて気付かされて驚く。井筒が師匠として仰いだ西脇順三郎と折口信夫、キリスト教哲学の吉満義彦、ヘブライ学者の小辻節三、イスラム研究では亡命タタール人のアブデュルレシト・イブラヒムとムーサ・ジャールッラー、そして大川周明、友人だった池田弥三郎、様々な人物が登場する。小林秀雄や白川静、天理教学の諸井慶徳などとの比較も興味深い。近々単行本として刊行される予定らしく、井筒を論じた一冊の論著というのはまだないので楽しみだ。なお、慶應義塾大学出版会のホームページでは著者による井筒俊彦特集サイトが開設されている(→こちら)。

 安藤礼二もまたこうした深層意識への探究者として井筒俊彦に注目している。「井筒俊彦の起源──西脇順三郎と折口信夫」(『三田文学』第三期、2009年冬季号)では、神的・超越的な言葉が直接的にふりかかってきてコンベンショナルな言葉の世界を打ち破っていく、そうしたイマージュの持ち主としてシュルレアリスム詩人の西脇順三郎、古代文学の折口信夫、井筒が学生時代に師事したこの二人との出会いについて論じてられており興味深い。『近代論──危機の時代のアルシーヴ』(NTT出版)の第5章「戦争──井筒俊彦論」は、イラン・イスラム革命に際してテヘランに降り立ったミッシェル・フーコーが目の当たりにしたもの、これに井筒はどのように反応したのかという問いから説き起こされる。ムハンマドに体現された預言者性、シーア派的スーフィズムを基盤とした内的精神性、東洋哲学全体をメタレベルで統合していく翻訳可能性。イラン・イスラム革命と「大東亜戦争」という2つの危機を交錯させながら、ヨーロッパ的な主体性を脱してアジア的な主体性をポジティブに確立、同時に「日本」なる固定概念を解体させる、その根底における「無」の地点から内在と超越とを媒介させていく精神性として、西田幾多郎、大川周明、折口信夫などを絡めながら井筒の思想的展開を捉えようとしている。

 他には、新田義弘「知の自証性と世界の開現性──西田幾多郎と井筒俊彦」(『思惟の道としての現象学』以文社、2009年、所収)は西洋哲学と東洋哲学とをどのように結び付けるかという問題意識の中で西田と井筒とを論じている。『三田文学』第三期2009年冬季号では井筒俊彦特集が組まれている。『史學』第79巻第4号(三田史学会、2010年12月)にはイスラム研究の先駆者として井筒俊彦と前嶋信次の二人をテーマに開催されたシンポジウムの記録がある。

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2011年2月28日 (月)

川又一英『エチオピアのキリスト教 思索の旅』、蔀勇造『シェバの女王──伝説の変容と歴史との交錯』

 三千年以上にわたる悠久の歴史を持つエチオピア。1974年の革命で皇帝ハイレ・セラシエが廃位されるまで連綿たる伝統を誇った王家は、伝説によるとシバの女王とソロモン王の息子メネリク1世まで遡る。父に会いに行ったメネリクは故郷エチオピアへ戻る際、モーセの十戒を収めたといわれる聖櫃をひそかに持ち帰ったといわれ、これがエチオピア王家の由緒を示す証拠とされた。いわゆる「失われた聖櫃」伝説は伝奇ファンタジーの格好の題材で、例えば映画「インディ・ジョーンズ」が有名だろう。なお、エチオピアのアクスム王国は4世紀にキリスト教を受容、アレクサンドリア総主教の下にいたため単性説をとり、451年のカルケドン公会議で異端とされた。

 川又一英『エチオピアのキリスト教 思索の旅』(山川出版社、2005年)は、この独自なキリスト教文化を持つエチオピアを歩いた歴史紀行。きっかけはエルサレムの聖墳墓教会、荘厳な雰囲気の中に突如聞こえてきた御詠歌のような単調な聖歌、それがエチオピア正教に関心をそそられたきっかけだった。シバの女王、失われた聖櫃などの伝承に好奇心をかき立てられ、この見知らぬ国へと一人旅立つ。不思議な音楽を耳にしたのを皮切りに、現地では地酒を飲み、疲労困憊した旅路を記録、そして聖櫃を求めて潜り込んだエチオピア北部の古都アクスム、そこの「シオンの聖マリア教会」で目の当たりにした祝祭。体感的な情景描写の中から歴史を具体的にイメージさせる筆致が面白い。

 エチオピア正教の典礼には旧約聖書に由来するユダヤ教的要素が色濃く見られ、かなり早い段階でキリスト教化したことは確からしい。黒いユダヤ人といわれるファラシャ族(ベータ・イスラエル)の村を訪れるシーンもあったが、ほとんどもぬけの殻。イスラエル政府の支援でほとんどが移住したということは別のイスラエル史の本でも読んだ覚えがある。エチオピアにはパスタを食べる習慣が広く見られるというのは初めて知った。20世紀初頭、ムッソリーニのイタリアによって短期間侵略された時の置き土産らしい。

 蔀勇造『シェバの女王──伝説の変容と歴史との交錯』(山川出版社、2006年)はシェバ(シバ)の女王伝説がユダヤ教世界、キリスト教世界、イスラム教世界、そしてエチオピアなど世界各地でどのように受容されたのかをたどる。エチオピア関連で関心を持ったのは第一に、北方のビザンツ帝国やイスラム勢力に対抗する形で王家の正統性を示すため聖櫃伝説が用いられたのではないかという指摘。第二に、ジャマイカで展開したラスタファリ運動。ラスタファリというのはハイレ・セラシエの即位前の名前である。奴隷とされた黒人の子孫にとって、アフリカで独立を維持し、かつ聖書にも記述のある古い王朝としてのエチオピアは特別な意味を持ち、それがユダヤ人にとってのシオンと同様にやがて自分たちが帰るべきアフリカとして理想化されたのだという。

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2011年2月27日 (日)

コプト教のこと

 ある一つのイメージを思い浮かべている。砂漠と荒々しい岩山、茶色っぽい色彩が地平線まで延々と広がり、過酷な熱暑がユラユラとかげろうを立ち上らせる中、黒いローブに身を包んだ隠修士がただ一人ゆったりとしたペースで歩を進めている。一切絶無の中、無限と直接対峙した厳しい求道の思索。キリスト教絵画のモチーフとしてよく取り上げられる聖アントニウスの誘惑、その幻視もまたこうした中での朦朧とした意識から現出したものであろうか。

 三宅理一・平剛『異界の小都市2 エジプト・砂の楽園──コプトの僧院』(TOTO出版、1996年)はコプト僧院建築の写真集に解説を付した構成。建築史の観点からコプト教史が概説されており、写真からは色々とイマジネーションもかき立てられてとても面白い本だ。建築遺址からは当時の生活形態の一環としての宗教思想もうかがえるため、文献史料の裏付け、さらには欠如を補うという形で古代宗教史研究にとって重要な手掛かりとなる。

 ディオクレティアヌス帝による迫害で多数の殉教者(シュハーダ)を出した西暦284年を以てコプト暦は始まる。313年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によって公の活動が認められ、4~5世紀にかけてそれまで個別に孤独な修行に勤しんでいた隠修士たちが一定のレベルまで組織化され、修道院が成立。有名な聖アントニウスはこの頃の人物であり、他にもパコミオス、シェヌーダといった名前も見られる。コプト典礼や音楽、建築にはファラオ時代のエジプト文化、ユダヤ教、ヘレニズムなど様々な要素の影響が見られるらしい。コプトの僧院建築は過酷な自然環境やベドウィンの襲撃から身を守るため高い防壁がめぐらされており、あたかも城郭都市のような外観も持つ。また、岩壁にうがたれた新王国時代の墓廟や古代神殿を利用したケースも見られる。アレクサンドリア総主教をトップとするコプト教会は単性説をとり(キリストの本性は神性にあると主張→451年のカルケドン公会議でコプト正教会、シリア正教会、アルメニア教会は分離)、ビザンティン帝国の政治的支配は受けつつも距離をおいていた。639年にアラブ軍が侵攻、エジプトを支配したが、当時のアレクサンドリア総主教バニヤミン1世はアラブ側とたくみに交渉してむしろビザンティン帝国支配時には抑圧されていたコプト教会の権利を回復、その後も微妙な政治的バランスを図りながら生き残った。中世コプト教会は10世紀後半から12世紀後半にかけてファーティマ朝の時代に繁栄する。なお、エルサレムの聖墳墓教会にもコプト教区域があってスルタン修道院と呼ばれている。また、6世紀にはユスティニアヌス帝時代ビザンティン帝国のテオドラ皇后の支援でヌビア(スーダン)まで布教が行われたが、その痕跡についてはまだ調査中でよく分かっていないらしい。

 山形孝夫『砂漠の修道院』(平凡社ライブラリー、1998年)はコプト教の修道院を訪れたフィールドワークの記録を収めている。一人ひとり動機は違うかもしれないが、無一物となってナイル川を渡り、かなたの異界、無縁のクニ、砂漠の僧院へと引き寄せられていった人々。ひたすら祈りに日々を過ごす彼らの心象風景から、はるか初期キリスト教世界へと想いを馳せる。カイロで暮らすコプト教徒のインテリ青年の話からは、俗世のしがらみのせいで異界へのあこがれを断念せざるを得なかった憂鬱を見出す。時代を超えたはるかな想いを描き出しているところが魅力的である。

 イスラム世界の中で少数派となったキリスト教の歴史をまとめた章もあったのでその関連でメモしておくと、レバノンのマロン派:単性説とネストリウス派との中間的立場として「単意説」(monothelitism)をとる。キリストには神性と人性の二つの本性があるが、神のただ一つの意志の体現者として捉える。680年のコンスタンティノープル公会議で異端とされたが、その後、十字軍を支援したので12世紀に西方教会との関係を改善、ローマ法王に帰順した。シリア語典礼を継承している。

 村山盛忠『コプト社会に暮らす』(岩波新書、1974年)は1964年から68年まで宣教師としてエジプトの地方都市に派遣された日本人牧師の滞在記。ちょうどナセル大統領の時代、1967年の第三次中東戦争の緊張感も体験している。一つ興味深いのは、アジア・アフリカ連帯という進歩的意識を持っていた一方、エジプト社会とはどこか距離を感じ、むしろ西洋人と出会うと懐かしさを感じたと正直に記しているところ。「日本人」の中に根深く巣食った「西洋意識」を改めて自覚し、同時にエジプト社会における宗教性の厳しさも実感している。イスラム教が主流のエジプト社会におけるマイノリティーとしてのコプト教徒はファラオ時代からエジプト人であるという自覚、イスラム化以前からキリスト教徒であったという自覚を持ち、そうした伝統とプライドの重み。コプト教徒として生まれたらそのアイデンティティを持って一生を過ごさねばならず、例えば日本のように一つのコミュニティに属しつつ別の宗教を信仰することは感覚的にあり得ないという宗教生活の歴史的形成過程の相違を指摘。なお、1968年に開催された聖マルコ殉教1900年記念祭でコプト正教会のキュリロス6世、ナセル、サダト、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエが並ぶ面白い写真が収録されていた。この時ナセルは「アフリカ人」意識を強調した演説をしたらしい。

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