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2011年2月20日 - 2011年2月26日

2011年2月26日 (土)

「ひきこもり」について何冊か

 「ひきこもり」といったとき、一般にどのようなイメージが抱かれるだろうか。オタク? インターネット依存? 犯罪予備軍? 親が甘やかしたのが悪い? 働かないで贅沢だ? 「ひきこもり」は、本人自身の内面や家族といった閉ざされた人間関係の中で問題化するため、それがどんなにつらいものであっても、当事者以外の人間からすると社会的問題としては認知しづらい、従って実態とは異なった誤解や偏見もまた増幅されやすい傾向がある。社会的な偏見がいったん出来上がってしまうと、当事者も生真面目であればあるほどそれを受け入れ、その解釈枠組みで自身の置かれた立場を捉えて自罰感を強め、自縄自縛の悪循環にも陥りかねない。「怠惰」という印象論は切り捨ての論理にも用いられやすい。

 「ひきこもり」問題を最初に本格的に取り上げたのは斎藤環『社会的ひきこもり──終わらない思春期』(PHP新書、1998年)、『ひきこもり文化論』(紀伊國屋書店、2003年)だろうか。斎藤は個人、家族、社会という3つのシステムを想定し、通常ならばそれらがうまくコミュニケートして有機的に接点を持つところを、「ひきこもり」の場合にはコミュニケーションがうまくいかず、3つのシステムが乖離した状態として捉える。「ひきこもり」の原因は人それぞれに多様で、一元的に説明できるような要因はよく分からないらしい。従って、原因探しよりも、精神科医として臨床の必要から、状態のあり方を把握するための描写となっている。精神障害、発達障害を伴うこともあるが、必ずしもそれだけが原因とは限らない。当人も怠けたくてひきこもっているわけではない。むしろ社会復帰への思いが強いからこそ、その焦りや不安が悪循環を昂進させ、時に暴力的に爆発してしまうこともある(「ひきこもり」=家庭内暴力というのではなく、精神的に行き詰った末の暴発)。社会への不適応からドロップアウトした点では、家の内に閉じこもったケースを「ひきこもり」、路上に放り出されたケースがホームレスとして把握される。当人や家族では支えきれる問題ではないし、社会的背景を有する問題でもあるのだから外部からの社会的支援が必要である。

 池上正樹『ドキュメントひきこもり 「長期化」と「高年齢化」の実態』(宝島社新書、2010年)はジャーナリストの視点から個々の具体的なケースを取材。就労経験のある社会人が仕事上のストレスからひきこもってしまったケースも取り上げられている。セーフティネットの枠外に置かれた人々としてどのように向き合っていくかという問題意識が示されている。

 井出草平『ひきこもりの社会学』(世界思想社、2007年)は当事者への聞き取り調査を踏まえて社会学の観点から考察する。分析上、高卒で一つの区切りをつけ、高校という規範的拘束の強い環境でドロップアウトしたケース、逆にその規範的拘束下では適応したからこそ大学進学後の開放的環境の中で自分を見失ってドロップアウトしたケースとが見出される。

 斎藤環『ひきこもりから見た未来』(毎日新聞社、2010年)は時評的な論集で「ひきこもり」問題ばかりが取り上げられているわけではないが、現状では親に扶養されることで表面化してこなかった「ひきこもり」が親の高齢化・死去によって放り出される「2030年問題」を指摘。この問題については井出草平「ひきこもりの2030年問題 「孤族の国」を考える(5)」SYNODOS JOURNALを参照)が解説をしている。

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2011年2月23日 (水)

『村山知義とクルト・シュヴィッタース』

マルク・ダシー、松浦寿夫、白川昌生、塚原史、田中純『村山知義とクルト・シュヴィッタース』(水声社、2005年)

 2005年に東京藝術大学陳列館で開催された「日本におけるダダ──マヴォ/メルツ/村山知義/クルト・シュヴィッタース」という展覧会のカタログとして作られた本らしい。1910年代後半から20年代にかけてヨーロッパと日本で同時並行的に展開したダダ的なものを、村山たちのマヴォ(MAVO)、シュヴィッタースたちのメルツ(MERZ)との対比によって見ていこうという趣旨。松浦「遅延の贈与:意識的構成主義とは何か」、白川「そして近代、さらに近代:横断する村山知義」、塚原「根源の両義性:〈ダダ〉から〈メルツ〉へ」、田中「喜ばしき機械:「メルツ」と資本主義の欲望」、ダシー「村山知義とクルト・シュヴィッタース:マヴォ/メルツ」、以上の論考で構成。

 なお、シュヴィッタースは1887年生まれで1918年にダダと接触、ベルリンで抽象絵画を展示してデビュー。ただし、ヒュルゼンベックたちベルリン・ダダから排除された後、MERZという独自の表現活動を展開。DADAとはつまり、何ものをも意味しないことの記号として無作為に選ばれた言葉だが、MERZも同様に新聞広告から切り抜いて出てきた記号ということになる。

 塚原論文はダダからメルツが登場してくる経緯を簡潔に解説。それから、ページの半分以上を占めて本書の本論とも言うべきダシー論文は日欧比較による本格的な村山知義論となっている。「村山とツァラの並行関係を、仏教を介して設定することは魅惑的なことではある」という一文があり興味を持ったが、それ以上詳しくは展開されていないのが残念。トリスタン・ツァラがたまに仏教へ言及しているのは確かで、それは私自身大いに関心がそそられているポイントではあるのだが、村山はどうだろうか。そういうにおいは村山からはあまり感じられないな。仏教を媒介にダダと結び付けるならむしろ辻潤だろうというのが私自身の感触だ。一応断っておくが、私はオリエンタルなもの、東洋思想的なものへと強引につなげたいということではないのであしからず。ダダというのは要するに「何も意味しない」何かのかりそめの表現。ところで、西洋思想の中には「何も意味しない」ことを表現する適切な語法がない。だからこそDADAとかMERZとか鬼面人を驚かす体のパフォーマンスへと彼らは突っ走っていったわけだが。代わりに何かないかなあ、と探してみたら、仏教ならいけそうだ、そんな感じと言ったらいいだろうか。

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2011年2月22日 (火)

藤森照信『天下無双の建築学入門』『建築史的モンダイ』『人類と建築の歴史』

 藤森照信『天下無双の建築学入門』(ちくま新書、2001年)、『建築史的モンダイ』(ちくま新書、2008年)は雑誌連載の建築史エッセイをまとめて入門書的に仕立て上げられている。軽妙な語り口が読みやすいというだけでない。建築の起源から日本の建築の特徴、和洋の相違、住宅建築の特徴など建築史にまつわる様々なテーマについて該博な知見を噛み砕いてさり気なく散りばめていき、内容的にもかなり高度なレベルを持っている。時に奔放に空想をふくらませていくところは脳裡に情景をありありと浮かべさせ、面白くて立て続けに読み進めてしまった。藤森さんはやっぱりすごいなあ。

 エピソードを紹介し始めたらきりがないが、私が興味を持った論点を一つあげると、明治初期、和洋併置のお屋敷が建てられたのはなぜか? 西洋風と自国風とを共存させた建築というのは実は世界的にも珍しいらしい。西洋の建築史ではゴシック様式、ロマネスク様式といった感じに時代区分と建築様式とを結び付けてスタイルの変遷を叙述することができるが、日本では一度成立したスタイルがそのままずっと生き残ったため時代区分による叙述が難しいのだという。例えば、神社建築や茶室など、時代よりもむしろ用途に応じてスタイルが使い分けられていた。従って、明治になって和洋併置の邸宅が建てられたのも、プライベートでは使い慣れた和風、来客等パブリックな場面では洋風という形で使い分けを意識していたからではないかと指摘される。

 『人類と建築の歴史』(ちくまプリマー新書、2005年)は初学者向けに建築の起源から説き起こした建築史概説で考古学的話題が大半を占める。上掲の二冊で紹介されたエピソードを通史的にまとめ直した感じで、合わせて読めば頭の整理にうってつけだ。

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2011年2月21日 (月)

隈研吾『反オブジェクト』『自然な建築』

 建築家として二十世紀はどんな時代だったかと問われたら、著者の隈研吾はコンクリートの時代と答えることにしているという。場所を選ばず可塑性があってデザインの自由がきき、お化粧すればコンクリートの塊でもどんな姿にも化けられる。すなわち、存在と表象との分裂が特徴だったと言える。近代の特徴を、物質と意識、世界と主観、それぞれ後者が前者の統制を図ろうとする発想を持った時代であると捉えるならば、この二項対立的な両者を架橋するオブジェクト=建築にとって最も適合的であったのがコンクリートなのである。そして、地表から浮いたように見える立体として設計された、言い換えるなら世界から切り離された自由なるオブジェクトという形でこうした時代を体現していたのがル・コルビュジエであった。

 しかしながら、コルビュジエの造型したオブジェクトはあまりにも自己主張が強すぎる。この自己中心的な威圧感から逃れたい、人間と自然とをもっとゆるやかにつないでいくことはできないか、これが著者の設計を進めていく際の思いである。建築とは人間の意識とその周囲を取り巻く物質との関係の取り方の表現であり、建築について考えるとはすなわち自分たちの置かれた環境との接続の仕方を再定義することに他ならない。こうした感覚について自身がこれまで仕事をしてきたケースを踏まえながら、『反オブジェクト──建築を溶かし、砕く』(ちくま学芸文庫、2009年)では現代建築論・思想論として展開、『自然な建築』(岩波新書、2008年)では様々な制約がある中で空間、地形、素材などを選んでいく試行錯誤のプロセスを通して考えていく。

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2011年2月20日 (日)

「NHKスペシャル」取材班『アフリカ──資本主義最後のフロンティア』

「NHKスペシャル」取材班『アフリカ──資本主義最後のフロンティア』(新潮新書、2011年)

 アフリカ経済をめぐる書籍が日本の書店でもよく見かけるようになったのはここ四、五年くらいのことであろうか。経済開発の非対称性をどのように考えるかという問題意識からジェフリー・サックス、ウィリアム・イースタリー、ポール・コリアーなどの訳書がまず目につき、中国のアフリカ進出を新たな資源搾取と捉えるものもセンセーショナルなタイトルで見かけた。日本から最も縁遠い地域であるがゆえに情報量が限られており、隔靴掻痒の感もあったが、そうした中で昨年NHKスペシャルで放映された「アフリカン・ドリーム」シリーズは興味を持って欠かさず見ていた。

 民族対立、資源流出、貧富の格差の拡大、様々な問題がある。本書でも触れられるが、凄絶な民族虐殺の瓦礫の山から再起しつつあるルワンダでは、帰国したディアスポラが海外で身に付けた能力を生かして経済復興が進められる一方(ポール・カガメ大統領は「CEO大統領」「ルワンダのリー・クアンユー」と呼ばれているらしい)、首都キガリ中心の発展から取り残された人々には不満が鬱積、情勢不安はいまだに消えてはいない。いびつな独裁体制で財政破綻したジンバブエから隣国南アフリカへと逃れた人々は安い労働力として南アフリカの経済成長に使われているという複雑さも難しい問題である。

 しかしながら、本書が焦点を合わせようとするのは、そうした様々な困難の中でも経済復興、国家再建に向けた主体的な取り組みである。ルワンダではコーヒー農園・工場の設立によってツチ族・フツ族の対立も和解させようとする試みが紹介される。携帯電話を駆使するマサイ族のエピソードはIT技術による様々な可能性をうかがわせる。エチオピアの通信ネットワーク網やザンビアの資源開発などで進出する中国企業も、中国によるアフリカ搾取というコンテクストで語られがちだが、これによってインフラ整備が進められているというプラス面にも目を向けるべきなのだろう。ダイヤモンドの大企業デビアスと粘り強く交渉して財政基盤を整え、政情も安定したボツワナについてはもっと詳しく知りたいところだ。

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【展覧会】国立新美術館「シュルレアリスム展」

国立新美術館「シュルレアリスム展」

 パリのポンピドゥー・センター所蔵のシュルレアリスム関連作品を展示。のっけから否定的な言い方になってしまうが、シュルレアリスムというのは、当時の芸術家たちが思索したり活動したり作品をつくったりする試行錯誤のプロセス、その時の精神状態そのものにあるのであって、後世の美術館に残っている作品はそうした活動から排泄されたカスに過ぎない。カスをわざわざ美術館の中に整然と並べてかしこまって拝観するという光景そのものが実にシュールなことであるのだが、そんなことを言い始めたらキリがないから、各自が見たいように素直に見ればそれでいいのだと思う。

 文学史的・思想史的に彼ら芸術家たちの活動に関心があるなら、当時の雰囲気をうかがい知る資料として興味深いだろう。そうでない人はシュルレアリスムという脈絡はいったん忘れて、奇抜なイメージを面白がったり、時に美を感じたりすることがあれば、そうした自分自身の中に芽生えた感覚を素直に出していけばいい。難しく考えちゃダメだ。作者たちの内的意味など無視しても、とにかく自分なりの見方をすれば実は結構面白いのだ。たまさかの出会いをきっかけに自身の心中に偶然に沸き起こった感興、それを大切にするのがシュルレアリスムである。

 私はマグリット、デルヴォーなどベルギー・シュルレアリスムやキリコ、ダリなどの絵画的イメージそのものがファンタジックで好きだ。ミロも抽象画などと考えず、一つのデザインとして見れば面白い。いくつか映像作品も上映されていて、ブニュエルとダリがつくった「アンダルシアの犬」、断片的に写真で見たことはあったが映像で通して観たのは初めてだった。眼球を切り裂くグロテスクなシーン、モンタージュ、脈絡を無視した場面転換など今では技法的に当たり前となっているが、当時としては革命的にショッキングだったのだろう。
(2011年5月9日まで)

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酒井健『シュルレアリスム──終わりなき革命』

酒井健『シュルレアリスム──終わりなき革命』(中公新書、2011年)

 第一次世界大戦が引き起こしたカタストロフィは、それが高度な産業化・機械化によって増幅された惨禍であったがゆえに近代文明に対する懐疑をもたらし、この精神史的動揺の中から様々な思想潮流が生まれる。シュルレアリスムもそうした中にあった。精神科医としてキャリアを始めたアンドレ・ブルトンも野戦病院へ駆り出され、そこで兵士たちが苛まされる狂気を目のあたりにし、フロイトの研究からの示唆もあってとりわけ自動記述という現象に関心を持つ。つまり、人間の無意識の領野を抑圧してきた「理性」に基づく書き言葉中心の世界=近代に対して亀裂を入れ、「超現実」における極限的な「未知なるもの」を、矛盾していてもその矛盾のあるがままに表現のレベルへと引き出していこうとした。そうした点でシュルレアリスムは脱近代を志向した芸術運動であった。

 本書では、シュルレアリスムと関わりを持ちながらもややスタンスを異にした人々、例えばエルンスト・ユンガー、トリスタン・ツァラ、ジョルジュ・バタイユ、ヴァルター・ベンヤミンなどとの対比によってシュルレアリスム本流(という言い方を著者はしないが)のブルトンやアラゴンたちが逆照射される。巌谷國士『シュルレアリスムとは何か』(ちくま学芸文庫、2002年)もイメージを前面に押し出す形で面白い本だが、本書はもっと良い意味で思想史的に堅実な書き方で説得力を持つ。

 実は私はブルトンという人があまり好きではない。シュルレアリスムをスローガンとして掲げながらも、実際生活では党派を組んで組織化を図り、自分についてこない人々への非難攻撃を行なったところに偽善的な嫌味を感じるからだが、さらに大きな問題がある。せっかく非理性的な何かを意識下から引きずり出しても、言語表現というレベルではそれをフランス語ならフランス語らしくきちんとした文章に修正しようとする契機が出てきてしまう。未開社会で見られるような矛盾を矛盾のあるがままに放っておくということは理念として語ることはできても実際には難しい。つまり、イメージそのものは荒唐無稽でも構文的には整合的にしてしまう。矛盾したものを整合的なものへと仕立て直さねば気がすまない習性、この点で脱近代を志向したブルトンも近代の傾向から逃れられなかった。そうした葛藤からブルトンを否定してしまうのではなく、むしろ「近代」なるものの強烈な呪縛を見出すという本書の着眼点に興味を持った。

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