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2011年2月6日 - 2011年2月12日

2011年2月12日 (土)

星新一『人民は弱し 官吏は強し』

星新一『人民は弱し 官吏は強し』(新潮文庫、1978年)

 先日、劉明修(=伊藤潔)『台湾統治と阿片問題』(山川出版社、1983年)を読んでいたら、著者が阿片問題に関心を寄せたきっかけの一つとしてこの本を挙げていた。ショートショートの名手には珍しい評伝だが、主人公は星新一自身の父親、星製薬を興した星一である。台湾総督府の阿片払い下げ汚職疑惑で星製薬の名前が出てきた。と言うと、後ろ暗い人物であるかのように思われるかもしれないが、そうではない。最近の表現で言うならいわゆる「国策捜査」であった。

 星一はアメリカで苦学、アイデアマンだが努力は惜しまないタイプで、そうした勤倹力行のパーソナリティはアメリカ仕込みである。率直にアイデアをまくし立てる彼の才覚は後藤新平からかわいがられたという(なお、星新一は後藤の評伝も書いている。『後藤新平の「仕事」』[藤原書店、2007年]に収録されているのを読んだことがあった)。だが、彼の自信にあふれてあけすけに意見を言う態度はお役所からいたく嫌われ、とりわけ厚生行政を管轄する内務省との関係悪化は彼の仕事に様々な面倒を起こすばかりか、その後の運命をも左右してしまう。

 星一は薬を海外輸入に依存している状況を憂え、日本国内で製造すればもっと安く提供できるという発想から製薬会社を立ち上げた。モルヒネ生産を思い立った際には、原材料となる阿片を台湾から仕入れる計画を立て、実行に移す。ところが、民政党の加藤高明内閣の時代、民政党と政友会との権力闘争の余波で、台湾総督府内で政友会系・後藤新平系の勢力そぎ落としを狙って汚職疑惑がでっち上げられ、もともと根拠薄弱な疑惑だったので総督府の役人は結局起訴されなかったが、一度動き出した検察は面子から振り上げた拳を下げるわけにはいかず、そのとばっちりが星一に降りかかってしまった。しかも、関係の悪かった内務省も積極的で、官僚機構による意図的な星製薬つぶしという成り行きになる。

 法治体制がまだ確立されていない社会において個人の創意工夫が法の保護を受けられないまま国家権力の気まぐれでつぶされていく。そのようにジリジリと追いつめられていく星一の姿は、過去の日本における一挿話という以上に、世界を見渡せば現在でも普通に観察し得ることである。その点で、市場と国家との緊張関係が一人の人物に仮託して描かれていると読むことができるだろう。

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中尾友則『梁漱溟の中国再生構想──新たな仁愛共同体への模索』

中尾友則『梁漱溟の中国再生構想──新たな仁愛共同体への模索』(研文出版、2000年)

・梁漱溟の名前は以前から気になっていて、検索したら本書を見つけたので目を通した。
・従来の梁漱溟研究:欧米では、西洋科学主義導入による「意味喪失の危機」→克服のため儒教精神を協調という捉え方。在外中国人は、儒教資本主義の基礎としての精神の優越性を強調。中国では、改革開放路線の中で生ずる矛盾を調整・円滑化する精神として見直す、といった傾向→梁漱溟が西洋近代の長所の摂取を主張する一方で儒教的価値を強調したこの二面性をどのように統一的に捉えるか?という問題意識。
・中国社会の現実は西洋とは異なるというリアルな認識、その中で西欧的な自由社会を導入するとただの対立競争になってしまうのではないかという懸念→儒教精神の中に仁的世界、つまり調和的共同的な愛の秩序世界という中国再生のための独自の理念を見出す。
・郷村建設論を主張。共産党とは一面において共通するが、彼らは階級闘争の視点により地主制度打倒という目的に向けて農民を組織→農民の自覚化・組織化を促す点では評価しつつも、闘争は郷村を破壊してしまうと批判。梁漱溟の考えでは、社会構造の立て直し→新秩序の創出→中国の再生をめざすという構想の中で郷村建設論。国家目的に従属させる政治権力ではなく、農民の主体性によって共同組織化、相互扶助。政権とつながると郷村の内部は不安定化・分裂してしまう→在野の社会運動として政治権力とは一線を画したい。
・こうした組織化によって合理的生産的な経営主体を農民の中に創出、その上で工業も振興。そのための手段として生産請負制など「資本主義の補充」。一部の者が先に発展しても、それが共同社会内の他の者にも波及して各自が自律的な経営主体となれる。
・共産党のイニシアティブで中華人民共和国が成立した後も梁漱溟は亡命せず中国に残り、自己批判。
・「思想の革命性」「無産階級精神」などを強く押し出しつつも、個の伸張を重視する視点を内包した共同的関係という基本的な視座は一貫していると指摘される。
・梁漱溟の思想とコミュニタリアニズムとの親近性を指摘。

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【映画】「再会の食卓」

「再会の食卓」

 1949年に国民党軍兵士として台湾へと退却した夫から上海の元妻のもとへ届いた一通の手紙。台湾政府の方針転換により大陸訪問が可能となり、帰郷訪問団の一員として上海へ行くので是非会いたいという。困惑した表情の家族。やって来た元夫は妻を台湾へつれて帰りたいと言い出す。歴史の傷痕がいまだに残る家族に巻き起こった一波瀾をユーモラスな味わいで描き出す。

 二人とも別れ別れとなった後、台湾、上海それぞれで新しい家族を築いていた。元妻の現在の夫である陸は善意の人間で、彼女の幸せのためならばと同意するのだが、文化大革命の苦難を一緒に生き抜いたことはやはり忘れがたい。長年苦難を共にした現在の夫よりも、一年ちょっとの青春期だけしか思い出のない元夫についていきたいという彼女の心境は少々不可解な感じもする。だが、これまでのつらい日々をリセットして、別の人生もあり得たかもしれないという夢のようなものにすがりたい気持ちをずっと抱えていたということなのだろう。老人たちの一風変わった三角関係も、結論としては落ち着くところに落ち着く。やはり積み重ねられた時間の重みを崩すことはできない。

 映画の随所で上海の街並が大きく変貌しつつあることが描き出される。その中で家族のあり方も変わりつつあることがほのめかされていることの方に描写の重きが置かれているような印象を受けた。中台関係に関わる設定のストーリーなので観る前は少々身構えていたのだが、むしろ家族・夫婦にとっての時間の重みがテーマである。ユーモアとときにペーソスの交えられた描き方なので引き込まれる。とくに食事のもてなしで三人三様に気遣い合う姿はなかなか感慨深い。

【データ】
原題:團圓
監督:王全安(ワン・チュエンアン)
2010年/中国/96分
(2011年2月11日、渋谷文化村ル・シネマにて)

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【映画】「心中天使」

「心中天使」

 秘密だから言えないというのではなく、自分でも表現しがたいモヤモヤとした鬱屈や苛立ち。分かってもらえないだろうという孤独感はいっそう態度を頑なにし、家族や恋人など周りの人々は心配そうに気遣いながらもどうしたらいいのか分からず戸惑うしかない。この映画で焦点が当てられる三人、ピアノが弾けなくなったピアニスト、なぜか恋人につらくあたるバツイチ男性、新しい恋人を連れてきた母親を冷静に見つめる女子高生、彼ら彼女らもそうした感じであろう。

 青一色の写真を澄み渡った青空に重ね合わせるシーンがあった。一人ひとりそれぞれ何かを抱えている。日常もひっくるめた意味でのこの広い世界へと、自分が抱えているこの漠然とした何かも溶け込ませていけばいいということか。ラスト、役割が微妙に変わる。代替可能な人間関係かもしれないが、その中でも日常を引き受けて生きていける。

 面白いかどうかと言えばちょっと微妙な感じもする。ただ、普段の街並や人の息遣いのある空間をさり気なく切り取った映像が私は好きで、その中で俳優さんたちの表情がどのようにかみ合っているのかを見るのが楽しみ。そうした点で私としては必ずしも嫌いではない。尾野真千子の父親役は國村隼で、尾野のデビュー作「萌の朱雀」と同じ組み合わせだな。

【データ】
監督・脚本:一尾直樹
出演:尾野真千子、郭智博、菊里ひかり、國村隼、萬田久子、麻生祐実、内山理名、ほか
2010年/92分
(2011年2月11日、渋谷・ユーロスペースにて)

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2011年2月10日 (木)

山室新一『法制官僚の時代──国家の設計と知の歴程』

山室新一『法制官僚の時代──国家の設計と知の歴程』(木鐸社、1984年)

・言い訳めくが、頭が疲れてぼんやりした状態で読んだのでまともなメモをとっていないが、とりあえず。やはり読んどかなくちゃいけない思ってた本なので無理して読んだ。
・明治初期において新たに国民国家を形成するにあたり、国民を啓発し、国家を隆盛へと導くには舶来の「知」を導入しなくてはならないという問題意識→では、どこから? 模範国と準拠理論はどこに求めるのか?→法政思想をめぐる議論におけるフランス学、イギリス学、ドイツ学のせめぎ合いを詳細に描写。
・自由民権思想のシンボルたる中江兆民が、明治憲法体制の起草者にして民権運動に対しては弾圧者の役割を果たした井上毅の死に愛惜の気持ちを示したことをどのように考えるか?という問題提起に興味を持った。
・本来ならばみんな同じ土俵の上で国家構想を論ずるべきで、明治初年にはそうした熱気があった。ところが、自らが模範国とみなした国家を日本で実現させようと様々に構想を練り、運動する→模範国が同一ではない以上、その理念をもとに一つの勢力として集まると他勢力との争いが生ずる(もちろん、イギリス学、フランス学、ドイツ学とも共通する要素もあるし、立憲制の実現という勘所は同じと言ってもいいくらいではあるのだが)→政治への領域へと踏み込み、「旨義の争い」が「嫉妬的争い」に変質。
・世界の中の日本、その日本の中での自分たちの立場という二つの基準→自分たちの理念をもとにいかなる国家構想を目指して理論化・正当化するかという発想→「知」の推進が同時に政治勢力拡大の論理と結び付いた。

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2011年2月 9日 (水)

リチャード・オヴリ『1939年:戦争へのカウントダウン』

Richard Overy, 1939: Countdown to War, Penguin Books, 2010

 第二次世界大戦を描こうとすると膨大なものにならざるを得ないが、本書はその勃発直前の時期、すなわち、独ソ不可侵条約が結ばれた翌日の1939年8月24日から9月1日にドイツ軍がポーランド侵攻、3日に英仏両国が対独宣戦布告するまでの約十日間に焦点を絞り、主に英独間の交渉を検討しながら開戦の直接的原因を探る。

 ヒトラーはポーランド領内のドイツ系住民多数派地域であるダンツィヒを要求、英仏がそれを何とか宥めようとしていた構図はズデーテン問題と同じである。結論から言うと、ヒトラーは強硬姿勢を示せばイギリスは折れると考え、ポーランドに対してはあくまでも局地戦のつもりで、英仏との戦争までは望んでいなかった。そこに交渉の余地もあったのではないかという可能性もほのめかされる。

 ドイツ側にはポーランド問題でこじれるとヨーロッパ規模の戦争に突入することを危惧する勢力もあった。反ヒトラー派には交渉の成り行きによってはヒトラーの失脚につながることを期待する向きもあり、彼らは独自のチャネルを通して強硬姿勢を崩さないようにイギリス側と連絡を取った。さらにゲーリングを通じて妥協の打診もあり、このようにドイツ側でも意見が一致していない状況はイギリス側に楽観の雰囲気を生じさせる。ところが、ヒトラーは自らの意見で押し切り、複数のチャネルを通したドイツ側の別の見解はむしろイギリス側を混乱させるのに利するだけの結果となってしまった。また、途中でイタリアのムッソリーニが仲介役を買って出る場面もあり、これもさらに英仏側の混乱に拍車をかける。交渉の行方を見守っていたポーランド軍は防備体制を固めるのに遅れ、他方、ドイツ軍は極秘に攻撃準備を進めていた。

 ドイツ軍のポーランド侵攻後、英仏側も最終的には対独宣戦布告を出し、これはヒトラーにとって意外なことであったが、英仏側には宥和政策的なためらいもあってタイムラグができる。ポーランド国民は狂喜して助けを期待したが、英仏はただちに軍事援助ができるわけでもなく、あくまでも自国の権益維持が最優先であって、ポーランドはチェコスロヴァキアと同様の犠牲となる。

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2011年2月 7日 (月)

劉明修『台湾統治と阿片問題』

劉明修『台湾統治と阿片問題』(山川出版社、1983年)

 図書館でたまたま見かけたので借り出した。著者の名前に見覚えがないと思って検索したら、伊藤潔が日本に帰化する前の本名のようだ。

 アヘン問題を切り口として台湾における日本の植民地支配を考察した研究である。日本は後進帝国主義としての体面にかけて台湾のアヘン問題に取り組まざるを得なかった。日本本国にはアヘン問題はないのだから道義的観点から厳禁すべきという議論もあったが、それでは実質的な効果は上がらないという考え方から民政長官となった後藤新平は漸禁主義をとる。つまり、アヘン吸引者に特別許可を与えて総督府が製造・販売したアヘンを売る専売制度を実施、収入は衛生制度の拡充に充てながら少しずつ中毒者を減らしていくという方針である。その結果、台湾財政の本国からの独立(当初はアヘン収入が地租上回った)、アヘン販売業者が御用紳士として総督府に協力する形となった。その後は専売制度の財政上の利点が優先されて本来の漸禁という考え方は脇に置かれ、さらに台湾製造の余剰アヘンの大陸に対する密貿易が行われ、日本は国際世論の批判にさらされることになる。

 一方、台湾民族運動はアヘン吸引禁止の主張も掲げていた。とりわけ台湾人初の医学博士である杜聡明がアヘン中毒問題に取り組み、成果を挙げていく。戦時期になって杜聡明によるアヘン断禁の意見書は総督府に受け入れられたが、その背景としては、皇民化政策によって台湾も内地化されつつあったこと、台湾経済の工業化、戦時下にあってアヘンが不足していたことなどが挙げられる。

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2011年2月 6日 (日)

池内紀『ことばの哲学──関口存男のこと』

池内紀『ことばの哲学──関口存男のこと』(青土社、2010年)

 学生のとき独習でドイツ語もやろうとしたことがあった。そのとき人からすすめられて使ったのが関口存男(つぎお)の『初等ドイツ語講座』(三修社)全三巻。緑色のカバーだった。中巻までは仕上げたような気もするが、結局ものにはならなかったのだからどうにもならない。文体がなかなか軽妙で、いわゆる語学書とは雰囲気がだいぶ違うなあ、という印象だけは残っている。
 
 ドイツ文学者にしてエッセイの名手によるドイツ語学者についての評伝である。関口存男は陸軍士官学校出の、キャリアも人柄もちょっと変わった人だということは知っていた。ただし、エピソード的に過激なことは意外と少ない。文法の不可思議、とりわけ冠詞の使い分けの分からなさに困惑して文例蒐集に没頭し、自分なりの文法書を書くにはあまりにも時間が足りない、そういう努力の学究であった。

 さり気なく使っている「言葉」、しかしその「言葉」の構造を、言葉によって説明することの困難。「言葉」は「意味」を指しているようにも見えるが、逆に「意味」が「言葉」によって規定されることもあり、見つめれば見つめるほど「言葉」の機能の叙述は混迷を極める。たしかに「言葉」はある、しかし概念の枠におさめて把握できない困難を、著者はヴィトゲンシュタインの言語哲学と比べる。関口存男もこの語りえぬ何かへ文法という切り口からしぶとく取り組んだ。だから、タイトルは『ことばの哲学』である。

 関口文法を言語哲学の観点から捉え直す必要があるというのが本書を通じた問題提起だが、文学と語学とでは畑がだいぶ違うとのことで、筆致に少々遠慮も見られる。せめて専門家に注意を促す呼び水にしたいということらしい。ただ、言語哲学として正面から取り組むと、だいぶややこしいことになるだろう。池内さんの軽やかな筆先の中でさり気なく問題の核心をほのめかすというやり方も印象深くて良いと思った。

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藤森照信『明治の東京計画』、御厨貴『首都計画の政治──形成期明治国家の実像』、越澤明『東京都市計画物語』

 藤森照信『明治の東京計画』(岩波現代文庫、2004年)は、近代国家草創期における首都・東京の都市計画をめぐって交わされた論争を描き出す。明治5年の大火で消失したのを機に文明開化の象徴となる表玄関に仕立て上げようと井上馨、イギリス人建築家ウォートルスらによって着手された銀座煉瓦街計画から近代日本における都市計画の歴史は始まる。ただし、当時の人々の使い勝手にはなじまず評判は悪かったらしい。明治10年代からは江戸以来悩まされてきた火事に対処するため防火計画が進められた。そして本格化する市区改正計画。都市の開放性という問題意識から、田口卯吉・渋沢栄一・松田道之(府知事)は築港論を提唱。次の府知事・芳川顕正は全国規模の交通ネットワークの収束点として東京を位置付ける考え方から道路面積の拡幅を目指す。帝都志向の内務省と商都志向の新興企業家(渋沢、益田孝)。結果としてどれが実現するでもなく、アイデアをまんべんなく取り入れる形で市区改正計画は策定された。他方、一度失脚していた井上馨が三島通庸と共に官庁集中計画を立て、外国人建築家を招聘。内務省主導の市区改正計画と外務省主導の官庁集中計画との対立、結局前者が勝ったが、こうした議論からは江戸以来の歴史を踏まえた変革か、それとも欧化主義かという近代日本の葛藤も浮彫りにされてくる。

 御厨貴『首都計画の政治──形成期明治国家の実像』(山川出版社、1984年)は、1880年代の首都計画をめぐる政治過程を分析。政府に対する批判勢力たる改進党を取り込むことで改進党‐東京市会と内務省‐東京府とが一致して首都計画を推進する体制が成立、これは後に帝国議会が開設されてから地方議会を媒介としながら政府と野党・自由党とが提携していく政治モデルの先取りであったと言える。こうして「行政の論理」が成立していくのに対してかみついたのが、発言力を失いつつあった元老院のうるさ型であり、旧明六社系、国粋保守派(欧化主義を批判)、旧官僚系(地方官僚として中央集権化を批判)それぞれ論点は異なるにしても「行政の論理」の押し付けに対して一致して批判の論陣を張った。つまり、首都計画を焦点として政治運営の論理と政治批判の論理とが正面衝突した場面が表れたところに政治史的意義が見出されるが、政府は計画を断行する。このような政治の外在的議論とはまた異なり、森鴎外が自然科学的観点から首都計画に対する内在的批判を行なったことも最後に指摘される。

 越澤明『東京都市計画物語』(ちくま学芸文庫、2001年)は、現在の東京で見られる街並や景観を作り上げた大正期以降の都市計画にまつわる経緯を紹介してくれる。水辺のプロムナード、街並木、住宅地のアーバンデザインや区画整理の背景、緑地、戦時下の防空体制、幻の環状三号線、東京オリンピックなどなど。東京を歩いていてふと気になる景観の変化や違和感を覚える謎のスポットなども、実は都市計画がうまくいかず取り残された場所だったという経緯があり、そうした背景を逐一解説してくれているのが面白い。関東大震災後に後藤新平が主導した帝都復興計画や日本敗戦後の戦災復興計画、予算上の問題からいずれも中途半端に終わってしまったことは周知の通り。本書の随所で著者は悔しさをにじませる。私も半ば同感だが、他方でそういう失敗も含めて意図せざる形で織り成されてきたのも都市の歴史なのだろう、中途半端が醸し出すキッチュもまた面白いかなと、私自身としては思っている。

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ヴァーリ・ナスル『富の力:新しいムスリム・ミドルクラスの台頭は我々の世界にとってどのような意味を持つのか』

Vali Nasr, Forces of Fortune: The Rise of the New Muslim Middle Class and What It Will Mean for Our World, Free Press, 2009

 イスラム主義の台頭というと、イラン・イスラム共和国体制やアルカイダのテロリズムとすぐ結び付けられ、一般に評判が悪い。しかしながら、イスラム主義をイスラムの価値観を大切にする生活態度と考えればその立場は多様であり、一括りにはできない。

 本書の要点は、経済活動の活発化によってミドルクラスが成立・安定化すれば、イスラム世界においても民主主義や資本主義は適合的なシステムになるという主張にある。ただし、それは欧米の近代化論者が考えがちな宗教色を薄めたモデルではない。むしろ、資本主義の進展と共に、イスラム圏の人びとは心の拠り所を伝統的価値に求めるようになり、それは矛盾するどころか両立する。つまり、イスラムにおける民主主義や資本主義にとって世俗主義は絶対の要件とは言えないと指摘される。経済的に安定したミドルクラスは過激主義に走ることはないし、進歩的な思想も受け入れる。考えようによっては、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で理念型として示されたカルヴィニズムと同様の作用も持ち得るともほのめかされる。

 ドバイでは物質的な繁栄、西洋的消費スタイルを楽しみながらも、同時にイスラムの信仰に忠実な人びとの姿が観察される。イラン王制下で成立したミドルクラスはシャーの圧制に反発、彼らはイラン革命の重要な担い手となった(ただし、イスラム勢力をコントロールできないままホメイニ体制が成立)。

 反イスラム・西洋的近代化志向の世俗主義者(本書ではKemalistと表現されるが、トルコだけでなくエジプト、パキスタンなどの指導者も含まれる)は権威主義体制によるトップダウンの行き過ぎにより国内におけるミドルクラス形成に失敗、貧富の格差が拡大し、社会的不安定をもたらしてしまった。ケマリストの失敗に対する不満の受け皿となったのがイスラム主義勢力である。社会的不公正や貧困が原因なのだから、良好な統治さえ実現できればこうしたイスラム主義も急進化することはない。

 アメリカはパキスタンにおけるケマリストたるムシャラフ(彼は実際にトルコの世俗主義にシンパシーを抱いていたらしい)をバックアップした。ところが、パキスタン軍部は戦略的見地からタリバンを支援していたこと、権威主義体制の抑圧で国内が不安定していた情勢をアメリカは見誤っていたと指摘される。これと対照的なモデルとして注目するのがトルコのAKP(公正発展党)政権である。AKPはイスラム政党に出自を持つが、経済政策をうまくハンドリングし、政治的多元化も推進している。

 チュニジアやエジプトは中東諸国の中でも比較的安定した国だったとも言われる。今回の一連の情勢でも野党勢力支持者には経済的に成長しつつあるからこそ政治的意識に目覚めたミドルクラスも見出されるだろう。また、報道によると野党勢力内のムスリム同胞団などイスラム主義を欧米が懸念していると伝え聞くが、イスラム主義志向の人びとを排除するとかえって民主化にマイナスとなり得る点を考えておく必要があるのだろう。

 この著者によるThe Shia Revival: How Conflicts within Islam Will Shape the Future(Norton, 2007)という本を以前に読んで興味を持ち(→こちら)、その時に掲題書を取り寄せたまま積読状態になっていた。たまたま本棚から発掘し、現在進行形のエジプト政変について考える上でも参考になるかと思って読み始めた次第。なお、著者のプロフィールをみると、イラン生まれ、タフツ大学フレッチャー・スクール教授、外交問題評議会シニア・フェロー、ハーヴァード大学ケネディ行政学院ドバイ・イニシアティヴ・シニア・フェローといった肩書きが並んでいる。

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