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2011年12月18日 - 2011年12月24日

2011年12月23日 (金)

【映画】「無言歌」

「無言歌」

 青く澄み渡った無窮の空、ゴツゴツと広がるゴビ沙漠の荒涼たる茶褐色、この二つの色合いに画然と分かたれた空間には冷たい緊張感が張りつめ、その近寄りがたいほどの峻厳さは畏怖と同時に不思議な美しさすら観る者の胸奥に引き起こす。一人、また一人とちっぽけな人間たちを呑み込んでいっても、この冷たくも美しい大地は身じろぎもしないかのようだ。

 1960年、中国・甘粛省の夾辺溝。いわゆる「反右派闘争」で「右派」として指弾された人々が思想再教育という名目で労働改造所に集められてきたが、農場労働とは言っても辺りには荒野が延々と広がっているのみ。

 「百花斉放・百家争鳴」で束の間に味わった言論の自由。しかし、政策批判の声があまりにも大きすぎることに驚いた毛沢東は態度を一変させ、むしろこの「言論の自由」によってあぶりだされた不満分子に対する圧迫を強め、「反右派闘争」へとつながっていく。労働改造所へ送られた人々を待ち受けていた運命は実に過酷であった。ほぼ同じ頃、毛沢東の指令で発動された「大躍進政策」は無惨な失敗に終わり、この時の混乱によって生じた飢饉は数多くの人命を奪った(この問題については、フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉』がアクセス可能な記録を渉猟して実証的に研究しており、最近邦訳された)。その極限状態は労働改造所においても悲惨な形で現出していた。

 荒野の中、黙々と働き続ける人々の姿。しかし、彼らの動きは緩慢だ。食糧不足から極度の栄養失調に陥っているからだ。最初は、ソルジェニーツィン『イワン・デニソヴィッチの一日』のような感じだろうかと思いながら観始めたが、飢饉という要因が加わると様相がまた違ってくる。例えば、病で倒れた人が出たとき、そばにいた仲間はまず彼の吐瀉物から食べられるものをより分け、口の中に入れてから、ようやく介抱するというシーンがあったが、これなど序の口である。仲間の衰弱死が日常光景の中にすっかり溶け込んでおり、その様子が何の感動もないかのように淡々と描写される。毎朝の点呼では何人の死者が出たのか確認され、飢えをしのぐため人肉食も横行。亡くなった者の妻が来訪したとき、仲間が彼女を墓へ連れて行くのを拒んだのは、食べるために死体の一部が削ぎ取られた無惨な姿を見せたくなかったからだ。

 この映画は中国政府の許可を得ずに撮影されたため、中国本土で上映されることはない。労働改造所での出来事を記録した楊顕恵『告别夹边沟』が原作となっているが、王兵監督はさらに当時の生き残りの人々を探し出して会いに行き、その生々しい話を基に再構成しているという。複数の人々の証言を踏まえてクロスチェックされており、リアルに再現された光景はドキュメンタリーに近い。特定の政治傾向を帯びたメッセージをここから読み取るというよりは、むしろこのような悲劇があったという厳粛な事実への端的な驚きをそのままに受け止めていくしかない。

【データ】
原題:夹边沟/The Ditch
監督・脚本:王兵
2010年/香港・フランス・ベルギー/109分
(2011年12月23日、ヒューマントラストシネマ有楽町にて)

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【映画】「サラの鍵」

「サラの鍵」

 パリに古くから暮らす一家へ嫁いできたアメリカ人女性のジュリアは雑誌記者をしている。戦争中、ヴェルディヴ(冬季競輪場)で起こった出来事について記事に書くつもりで取材していたところ、そういえば夫の一家が現在のアパルトマンに移ってきたのはまさにここで「事件」が起こっていた時期だったことに思い当たる。当時、子供だった義父は何か事情を知っている様子だが、口が堅い。ジュリアの取材は家族の過去を振り返ることと結びついていく。

 ヴェルディヴではいったい何が起こったのか。1942年7月、ドイツ軍占領下のパリで1万3千人のユダヤ系住民が一斉検挙された。衛生状態の悪いヴェルディヴに収容され、4千人の子供たちは親から引き離されて、別々になったみんながアウシュヴィッツへと送られた。ナチスの圧力があったからとはいえ、この検挙・移送を実際に立案・実行したのはフランス政府と警察であり、パリ市民の多くは無関心を装ったことはフランス現代史の大きなタブーとなってきた。ジュリアの夫の実家は、この時に連行されたユダヤ人一家が残した空き室に引っ越してきたのであった。

 この映画はジュリアと少女時代のサラ、二人の視点を交錯させて現在と過去とを対比させながら進行するが、サラが後半生をどのような思いで生きたのかは明示されない。ヴェルディヴで起こった出来事が第一のテーマとするなら、戦後も複雑な思いを抱えて生きねばならなかったサラの後半生はどのようなものだったのか、そこへの関心が第二のテーマとなる。

 収容施設から逃げ出した少女サラは、匿ってくれた農家の夫婦の助けもあって自分の家だったアパルトマンへと急ぐ。警察に連行されたとき、とっさの判断で納戸に隠した弟が気がかりだったからだが、彼の死を目の当たりにし、両親をも失った彼女のその後の人生は決して幸せなものとはならなかった。自分だけ生き残ったことへのわだかまりが強すぎたのか、欝症状を悪化させていた。サラはユダヤ人としての自らの来歴を隠したため、息子も彼女の本当の人生を知らなかった。

 ジュリアの夫の実家にせよ、サラの息子にせよ、歴史的なタブーから目を背けることでその後の家族生活の安定が図られていた。しかし、タブーを敢えて直視することで、家族関係がギクシャクしそうにもなったが、やがて新たな関係を結び直していくことにつながる。これは単に家族の問題というばかりでなく、社会的レベルにおいて公的に語られてきた歴史を脱構築していくプロセスが重ね描きされていると言える。身近に手助けしてくれる人がいても、自らの心の中に一人抱え込んだものがあまりにも大きすぎて手助けを受け止めることすらできずに死んでいったサラ、そういった心情にはどのようにして想いをこらすことができるのか。このように大文字の歴史として語られる中ではかき消されてしまう一人ひとりへの慮りへとつながっていかねばならないのだろう。

【データ】
監督・脚本:ジル・パケ=ブレネール
原作:タチアナ・ド・ロネ(高見浩訳)『サラの鍵』新潮社、2010年
2010年/フランス/111分
(2011年12月22日、銀座テアトルシネマにて)
 
 

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2011年12月21日 (水)

西澤泰彦『植民地建築紀行──満洲・朝鮮・台湾を歩く』『東アジアの日本人建築家──世紀末から日中戦争』

 近代日本の対外的膨張による支配地の拡大、それは人的移動を促しただけでなく、人が住んだり公共的拠点とするための建築の広がりともつながっており、西洋から近代建築を学んだばかりの日本人建築家たちが東アジア各地へと渡っていった。西澤泰彦『植民地建築紀行──満洲・朝鮮・台湾を歩く』(吉川弘文館、2011年)と同『東アジアの日本人建築家──世紀末から日中戦争』(柏書房、2011年)は、こうした建築をめぐる活動の広がりを個別地域別ではなく東アジアというレベルで横断的に解説してくれるのが特徴だ。メインテーマは「海を渡った建築家たち」ということになる。

 建築は単に物理的に存在するというだけでなく、歴史的ドラマが繰り広げられた舞台でもある。必ずしも楽しいものばかりではなく、むしろ日本の対外的侵略という不幸な出来事の記憶の方が強く想起されることになろう。朝鮮総督府をめぐって生じた論争が端的に表しているように、現地の人々にとっては植民地支配という忌まわしい記憶のモニュメントとなる。他方で、当時における日本人建築家たちの技量の到達点を示した建築史的な意義も認められる。こうした二面性はなかなか解きがたい矛盾をはらんでいるが、近年は長い時間的経過をたどってきた中で歴史的価値にも配慮され、現地でも文化財指定を受けている場合も多くなってきた。

 著者は建築史家であるから建築としての構造や技法の話題がメインとなるのはもちろんだが、そればかりでなく、そもそもその建築がこの地に造営されたのはどのような歴史的背景によるのか、造営に携わった建築家たちはどんな人たちだったのか、こうした事情も合わせてトータルに考察が進められていくところが興味深い。

 『植民地建築紀行』は「広場と官衙」「駅舎とホテル」「学校・病院・図書館」「銀行」「支配者の住宅」などテーマ別に特徴ある建物を一つ一つ見ていく。東アジアを縦横に歩き回っているような気分でなかなか楽しい。本筋から外れるが興味を持ったところをメモしておくと、
・戦前、京城帝国大学本部を設計したのは当時の総督府営繕課に勤務していた朝鮮人建築家の朴吉龍で、彼は和信百貨店新館も設計。
・外国の支配地域近くにある中国人主体の市街地に目立つ中華バロック→西洋建築を見た中国人商人たちが同じような建物を建てたいと考えて中国人の職人に建てさせるが、彼らは外観を見ただけで誤解も多かったため奇妙な形になった。明治期日本の擬洋風建築と同様。

 『東アジアの日本人建築家』は、ともすれば存在の忘れられがちな建築家たち22人の人物群像を通して東アジア近代史の一側面がうかがえる。設計した建築の様式、用途、活動拠点、所属組織などを考えながらおおまかに6つのグループに分けて考察される。
①台湾、朝鮮の総督府の建設に関った野村一郎、国枝博。鉄筋コンクリート造の採用。
②満鉄所属の建築家:小野木孝治、太田毅、横井謙介、青木菊治郎、安井武雄、岡大路、太田宗太郎。満鉄の多様な事業に合わせて大連港、撫順炭坑、鞍山製鉄所など鉄道附属地の経営に関る建物。防寒性・耐火性の観点から煉瓦造建築→洋風建築。
③植民地銀行(朝鮮銀行、台湾銀行、横浜正金銀行、満洲中央銀行):中村與資平(植民地で建築したときの経験→日本へ還流)、西村好時(日本国内での経験→植民地銀行の本店を手がける)、宗像主一。
④在外公館:片山東熊、三橋四郎、真水英夫、平野勇造、福井房一。
⑤満洲国政府の建築組織:相賀兼介、石井達郎。
⑥ゼネコンを設立した岡田時太郎、高岡又一郎。
・建築を学んでも日本本国では仕事がなかったから海を渡ったと考えられていたが、実際にはむしろ転職対象として魅力があった。
・日本の敗戦で引き揚げた建築家たちは、帰国してからは活動基盤が一切ない状態で再起→支配地での建築活動で蓄積してきた経験が戦後の日本へ還流された。

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2011年12月19日 (月)

金正日死去の一報を受けて何冊か

 今年は日本も世界も色々なことがあったなあ、と感慨に浸っていた年の瀬、今度は金正日死去の一報。「強盛大国の大門を開く」はずの2012年を目前にして雲隠れ、「公約」延期の口実になるんだろうなあ、と思いつつ、東アジア情勢が不安定な状況に陥りそうな可能性にも思い当たってやや不安な気分にもかられたり。取りあえず、最近読んだ北朝鮮関連本について再掲。

・平井久志『なぜ北朝鮮は孤立するのか──金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書、2010年)、アンドレイ・ランコフ(鳥居英晴訳)『民衆の北朝鮮──知られざる日常生活』(花伝社、2009年)、綾野(富坂聡編訳)『中国が予測する“北朝鮮崩壊の日”』(文春新書、2008年)→こちら
・アンドレイ・ランコフ(下斗米伸夫・石井知章訳)『スターリンから金日成へ──北朝鮮国家の形成 1945~1960年』(法政大学出版局、2011年)→こちら

 金正日という人は単なる世襲のお坊ちゃんではなかった。彼自身が若い頃から身内との権力闘争を勝ち抜いて自らの手で権力を勝ち取り、党や軍をじかに掌握してきたところに独裁体制を維持してきた威信があった。従って、息子に権力を譲り渡したからと言ってスムーズにいく保証は全くなく、次の権力闘争が必ず起こるだろうし、その余波として強硬論者が不測の事態を引き起こす可能性すらある。

 北朝鮮のソフトランディングを進めるにはやはり経済改革が必要であるが、一貫して標榜している先軍体制は民生部門を圧迫している。他方で、この先軍体制によって住民の不満を力ずくで押さえ込んでようやく現在の体制が維持されている以上、制度改革に着手したら押さえ込まれてきた不満が爆発し、そのままなし崩し的に体制崩壊へとつながってしまう可能性に上層部は気付いている。それでもなおかつ体制内部での抵抗を抑えながら変革へとつなげることができるのは、圧倒的な独裁的権限を持つ金正日ただ一人である、と平井氏は指摘していたが、その可能性すら消えてしまったことになる。

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渡邉義浩『関羽──神になった「三国志」の英雄』、冨谷至『中国義人伝──節義に殉ず』

 三国志の中でも関羽がとりわけ「義人」として人気が高いのはなぜか? そうした問いに答えようとするのが、渡邉義浩『関羽──神になった「三国志」の英雄』(筑摩叢書、2011年)である。もちろん関羽は当初からそれなりにポピュラーではあっても、あくまでも三国志の英雄たちの中の一人という扱いに過ぎなかった。ところが、関羽の出身地は塩の産地であり、そこは塩の交易をもとに活躍した山西商人ゆかりの土地でもあったため、彼らがまず郷里の英雄として関羽を崇め始める。後代の宋や清の時代、商人への課税は軍事費を賄う上で重要な収入源であったため、商人たちの崇める者をおろそかには出来なかった。それ以上に、商人のネットワークが広がっていく中、遠隔地において商売を進める上で信頼感=義を確証することが必要になってくるが、その義を誓う場所として神格化された郷里の英雄を祀った関帝廟が位置づけられることになる。単に関羽の描き方の変遷をたどるだけでなく、関羽イメージに表された「義」の感覚が一定の社会的機能を果たしていたのが見えてきて興味深い。

 冨谷至『中国義人伝──節義に殉ず』(中公新書、2011年)が取り上げるのは、漢代の蘇武、唐代の顔真卿、宋代の文天祥。各々の時代相において逆境の中でも不屈の意志を貫き通した人物像を描く。中国的な感覚や論理におけるノブレス・オブリージュの具体例といったところか。文天祥について、科挙をトップでパスしたエリート(状元)であるが、他方で宋が敗れたという現実の中でも立て板に水の如く正論を吐き続ける彼の言葉には、元に投降した人々のやむを得ない事情を一切認めない硬さが表れており、こうした原理原則主義は受験秀才にありがちな生硬さという指摘に興味を持った。いずれにせよ、三者三様の形で、時代的価値観の中で人物的に具現化した「義」の感覚を本書は示してくれる。

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