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2011年10月9日 - 2011年10月15日

2011年10月14日 (金)

ガヤトリ・C・スピヴァク『ナショナリズムと想像力』

ガヤトリ・C・スピヴァク(鈴木英明訳)『ナショナリズムと想像力』(青土社、2011年)

・ガヤトリ・C・スピヴァクは1942年、コルカタ(カルカッタ)に生まれた。インド独立直後の混乱で、ヒンドゥーとムスリムとが対立して殺しあったのを目撃した記憶がナショナリズム批判につながっているところは、やはりベンガル生まれのアマルティア・センと同様である。センは『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)で個人ひとりひとりのアイデンティティの複数性を踏まえ、理性的な選択の大切さを強調している。スピヴァクもやはり想像力という理性によってナショナリズムの相対化を図り、そこに比較文学の意義を求めている。

・「母語を愛すること、自分の住む街の一角を愛することが、いついかなるネイションにかかわることになるのでしょうか。」(15ページ)
・「文学や芸術は、「われわれは皆こうやって苦しんだのだ、忘れるな、これが過去に起きたことだ、忘れるな」と唱えながら、記憶を再編成する大規模なプロジェクトに加わり、その結果、歴史は文化的記憶に変えられるのです。文学はこれをさらに進めて、栄光に輝く過去、偉大な民族解放闘争、異教に対する寛容の精神をわれわれは共有している、そうほのめかします。私が最後に示唆しようと思っているのは──最後に、というのは誤解されることがあるからなのですが──文学の想像力は脱‐超越論化するナショナリズムに影響を与えられる、ということです。」(22~23ページ)
・「歴史的基盤のない感情的な集団性において、ナショナリズムへの契機は、究極的には、ナショナリズムも反グローバリゼーションも生み出すことはなく、自立を装った服従を生み出すのです。」(30ページ)
・「ナショナリズムは、記憶を蘇らせることによって構成された集団的想像力の産物です。独占せよ、というナショナリズムの魔法を解くのは、比較文学者の想像力です。」(42~43ページ)
・「(複数の)言語を用いることによって鍛えられた想像力は民族の(ナショナル)アイデンティティがみずからを真理だとする主張を解体するかもしれず、したがって、国家(ステイト)の働きを覆い隠す文化ナショナリズムと──たとえば、アメリカという「ネイション」がテロ行為によって危機に瀕しているという名目で、市民の自由が奪われている事実を覆い隠す文化ナショナリズムと──私たちとの結びつきを解いてくれるかもしれないのです。」(53ページ)→「ナショナリズムを脱‐超越論化すること、特異な(シンギュラー)想像力を鍛えるという課題であり、こう言ってよければ、国民国家(ネイション・ステイト)から「ネイション」を引き離すことをつねに考える」(54ページ)。言い方を変えると、ナショナリズムの負の側面を剥ぎ取りつつ、再配分等の政治・経済的手段としての国家を維持するにはどうしたらいいか、という問題意識(85ページ)。

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2011年10月12日 (水)

スコット・A・シェーン『〈起業〉という幻想──アメリカン・ドリームの現実』

スコット・A・シェーン(谷口功一・中野剛志・柴山桂太訳)『〈起業〉という幻想──アメリカン・ドリームの現実』(白水社、2011年)

 起業家といったらどのようなイメージを思い浮かべるだろうか? 例えば、先日亡くなったアップルのスティーブ・ジョブス? 彼のビジネス上のエピソードは非常にドラマチックで興味は引かれる。しかし、それはあくまでも例外的な成功例であって、安易に起業家一般のイメージと結び付けてしまったら大間違い。

 起業家とはとりあえず、リスクを前提としつつ自ら新たなビジネスを始めた人々、としておこう。フロンティア・スピリッツあふれるアメリカ、そんなイメージも持たれがちではあるが、その割には他国と比べて起業精神あふれる国とは必ずしも言えないらしい。本書は、具体的な統計データをふまえてアメリカの一般的な起業家像を描き出す。典型的な起業家はどんな人々か? 生計を立てたいが、他人の下で働くのが嫌な中年の白人男性。失業したり、収入が下がったりといったときに起業するケースが多いが、雇用されているときよりも収入は下がり、長時間労働を強いられる。新たなジャンルでビジネスチャンスをねらって、というよりも、魅力がなくても熟知している前職の関連分野を選ぶ傾向がある。零細な自営業で、成長の見込みも意欲もない。こうしたスタートアップ企業は経済成長には寄与せず、新たな雇用も創出しない。

 よくよく考えてみれば意外でもなんでもない、ごく当たり前の結論。メディアで注目される神話的イメージを崩していくのが本書の目的で、ある意味、偶像破壊的な描き方とも言える。だが、現実と乖離した「神話」を基に政策立案をしたり、ましてや自身の将来展望を描くわけにはいかない。だから、起業はやめた方がいいというわけではない。華やかなイメージに振り回されずに着実な観点から「起業」の問題を考え直す点で興味深い。

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アマルティア・セン『アイデンティティと暴力──運命は幻想である』

アマルティア・セン(大門毅監訳、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力──運命は幻想である』(勁草書房、2011年)

・インド独立直前の時期、ヒンドゥーとムスリムとの暴力的な対立を目の当たりにしたセン自身の体験→アイデンティティ意識は隣人との連帯感を抱く上でプラスの役割を果すが、他方で他者への排除、時には同胞と敵とを峻別して後者への暴力を促す危険な力をも持つ。豊かさやぬくもりの源泉であると同時に、暴力や恐怖の源泉でもある両義性。一人一人の個人はそれぞれに多元的な側面を持っている。一元的な存在へと単純化してしまうのではなく、アイデンティティ意識の複数性を自覚した上で、その時々の状況における理性的選択の大切さを説くのが本書のメッセージ。

・コミュニタリアニズムではアイデンティティを「発見」されるものとする→しかし、一人一人の個人には複数のアイデンティティがあり得て、単一のアイデンティティに狭めてしまうことは出来ない。どのように優先順位をつけるのか、センは「選択」から出発することを指摘、その際における論理的・理性的思考を重視。

・「文明の衝突」論→歴史的・文化的多様なあり方を大雑把に同質的なものとして把握してしまう単一基準の問題。

・「文化を文明や宗教的アイデンティティごとに歴然と分割された枠内に制限して考えることは、文化の属性を狭くとらえすぎている。たとえば、国民、民族、人種などの集団についても、文化ごとにそれらを一般化すると、そこに含まれた人間の特性を驚くほど限定的かつ冷淡に理解するはめになるだろう。文化とはなにかはっきり理解しないまま、文化の支配的な力を運命だと受け止めているとき、われわれは実際には、幻想の影響力に囚われた空想上の奴隷になることを求められているのだ。」「ところが、文化による単純な一般化は、人びとの考えを固定化するうえできわめて効果を発揮する。そのような一般化が痛切や日常会話のなかに多々見られるという事実は、容易に見てとれる。暗黙のゆがんだ思い込みは、人種差別的な冗談や民族批判の種として頻繁に見られるだけでなく、壮大な理論として登場する場合もある。文化的偏見に関連する事例が、社会のなかで(たとえ些細なことでも)偶然に見られれば、そこから理論が生まれ、偶然の相関が跡形もなく消えたあとでも、その理論は葬り去られずに残るかもしれない。」(148~149ページ)

・市場経済の有効性は否定できない以上、国際的な経済的・社会的格差についてグローバル化/反グローバル化という二項対立は的外れではないか→①そもそも発展途上国の人々にとってグローバルな経済への参入が難しいという現実。②グローバル化した経済に参入して多少は豊かになったとしても、それによる分け前が必ずしも公正とは言えない現実。他に取り得るあらゆる選択肢と比べて公正と言えるかどうかを検討する必要。「反グローバル化」の批判には、不遇で悲惨な立場にある人々にとっての公正さへの主張がある。

・多文化主義→その人のアイデンティティは共同体や宗教によって単一のものに絞り込むことを前提とした上での並存を意味するなら、一人の人間にもその他の帰属意識もあり得ることを無視している点で問題がある。

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2011年10月10日 (月)

張玉萍『戴季陶と近代日本』

張玉萍『戴季陶と近代日本』(法政大学出版局、2011年)

・戴季陶は孫文の秘書、蒋介石の親友(戴季陶が日本人女性との間にもうけた子供は蒋介石の養子となり、これが後の蒋緯国)、『日本論』を著した第一級の知日家として国民党の対日政策にも影響を及ぼした。共産党と国民党との対立が歴史理解にも大きな影響を及ぼしてきた研究状況下、複雑な思想的変遷を経た人物を取り上げる場合、政治的立場に都合よく一部分だけをピックアップして賞賛もしくは非難するという形に陥ってしまう傾向があり、それは日本と密接な関係を持っていた彼にはなおさらのこと当てはまる。本書は、彼の日本理解の原点を青年期の日本体験に求めつつ、その後の時局的変動に伴って彼の日本認識がどのような振幅を示し、そこにはどのような苦悩があったのかを彼自身の生涯に即して捉えようとしている。
・戴季陶は1891年、四川省漢州に生まれ、伝統的教育を受けた。1902年、東游予備学校で日本語を学び、日本人教員の通訳も務めるほど上達。1905年、憧れていた日本へ留学し、1902年には日本大学専門部法律科に入学。庶民生活に馴染むことで日本事情を感性的レベルで体験。また、大学の授業を受けた筧克彦に強い印象を受けたらしい。1909年、経済的事情からやむを得ず退学。この頃、朝鮮王族の女性と恋愛、婚約したが、政治的背景の中で無理やり解消させられショックを受ける。こうした体験から日本の帝国主義への反感、併合された朝鮮への同情心。
・上海に渡り、1910年には「中外日報」記者。1911年には辛亥革命に参加して、孫文と接点を持つ。
・辛亥革命期には、日本の海外拡張の要因を検討し、本来なら南進すべきところを実際には北進政策をとり、やがて中国へ侵略すると指摘→「日本敵視論」。当初は憧れていた日本を「第二の故郷」とまで言っていたが、中国が直面する「第一の敵」へと日本像の変化。
・1913年2月、孫文の日本語通訳兼秘書として来日、日本の人々と交流。第二革命失敗後は日本へ亡命、中華革命党員となる。この頃、蒋緯国が生まれた。種族論的な考えから日本も中国も共に西欧から圧迫を受けていると指摘→「日中提携論」。この頃には、中国の視点で日本批判に終始するのではなく、日本の視点に立ち、その長所・短所を客観的に把握しようという姿勢が見られる。
・広東軍政府の頃、日本から援助をしてもらおうと交渉していたが、日本の対中外交に翻弄されて失敗。
・中国が自ら実力を養成する必要→日中両国が対等な関係になった上でアジアの振興。辛亥革命期には「敵」、討袁期には「友」という認識→こうした二分法ではなく、日本を中国のモデルかつライバルと認識するようになる。日本の侵略性を批判すると同時に、日本人の中にも積極的に中国の革命運動を支援してくれる人々がいることを評価。批判的提携という発想。
・五・四運動期には、日本の神権思想に由来する侵略性を批判、日中提携論は後退。他方で、日本経由の社会主義理解、大逆事件への批判。日本人自身の社会革命を期待し、日中平民連合を唱える。「対決・連合論」。
・国民革命期には、信仰心→尚武の精神、尚美→平和・互助、こうした二側面が調和しているところに日本が近代化に成功した要因を見いだし、日本の統一性・独自性を評価。これが翻って、中国自身の日本依存、ソ連依存を批判。日中提携の発想がより狭まり、日中対決の不可避性を自覚。「幻滅的日本論」と「中国自強論」。
・日中戦争期には、日本人との直接的接触は意識的に断ち切った(ただし、日本の友人たちの安否は気遣っていた)。日中の文化的親近性→日本は完全に独立した文化を持っていないので敵というには値しない、むしろ問題は中国自身の混乱にある。日本の敗北は必然で、中国は必ず勝つが、次にはソ連という「敵」がいる。日本は「敵」ではなく「仇」であり、戦争が終わったら「仇」は消えて「友」になる→「日本非敵論」。
・戴季陶の日本との特殊な関係が中国革命に貢献した。「しかし同時に、戴季陶は批判・対決・提携・連合などさまざまな日本観を持ち、より良い対日関係を模索しながらも、結局はすべてが徒労に終わり、日本に対して幻滅感を抱かざるをえなかった。それ以後、日中関係が悪化する一方で、彼の対日政策は国民に理解されず、最大のジレンマに陥った戴は、対日外交と中国政治の第一線から理性的に身を引いた。」中国随一の知日家であり国民政府の要人でありながら、日本の中国侵略を防げなかったために抱いた無力感と失望感。「総じていえば、日本という存在は戴季陶の「立身出世」を促したが、他方で、日本の中国侵略は彼の政治生命を滅ぼしたのである。」(248~249ページ)

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堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動──動員される民衆』

堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動──動員される民衆』(創土社、2011年)

・日本側の工作に応じて重慶の蒋介石から分離した汪兆銘グループが、北京の中華民国臨時政府(首班は王克敏)及び上海の中華民国維新政府(首班は梁鴻志)と合流する形で1940年3月末、南京に成立したいわゆる汪兆銘政権については、共産党・国民党の双方から「傀儡政権」と規定されているため研究蓄積が少ない。この政権が日本の大陸侵略に利用されたのはもちろん確かであるが、他方で汪兆銘たち自身の少なくとも主観的意図としては日本側と交渉しながら限定的条件の中でも中国側の利益を図ろうとした側面も看過できない。「傀儡」とレッテル貼りして一定の枠組みの中に歴史理解を狭めてしまうとこうした両義性が見落とされかねないという問題意識から、本書では「対日協力」政権という呼称が用いられる。
・日本のバックアップで組織されていた維新政府の組織を継承→その傀儡的性格などマイナスの桎梏。
・できるだけ広いグループを集め、本格政権としての威容を示すためポストを濫発→行政の肥大化。
・日本軍の撤兵、税権・租界の回収、軍管理工場の接収、日本人顧問の制限などを要求して国家としての主体性を追求→しかし、政治的実態は弱く、日本側もこの政権への期待が薄くなった→日本と汪兆銘政権との間の不信感は1942年の段階ですでに表れていた。
・1943年以降、汪兆銘政権の政治力をいかに強化するかという問題意識→そもそも「親日」政権ということで一般の評判が悪く、民心掌握ができていない→対民衆工作が課題となった。
・民衆動員組織の重層的・多元的な混乱:維新政府の頃からあった大民会、興亜建国運動、1941年2月に東亜聯盟中国総会、1942年7月に新国民運動促進委員会(新民会)など、他にも行政組織として清郷委員会、保甲委員会→組織や運動の乱立→動員体制が整備できないまま空回り。
・汪兆銘系の国民党組織→日本側は国民党が組織的基盤を強めることを望まず。人材は党から行政機構へと流出。
・石原莞爾らが起こした東亜聯盟にはもともと東亜各国の政治的独立と日本との対等な関係という発想があった→辻政信が汪兆銘に談判して東亜聯盟中国総会が成立→汪兆銘は、日本の「東亜新秩序」と孫文の「大亜州主義」とを結びつけて解釈、「和平」運動の理念を新政権樹立後の東亜聯盟論によって継承させようとした→しかし、日本側の方針転換によって東亜聯盟はつぶれていく→これに変わる民衆動員運動として新国民運動。
・汪兆銘側としては、英米権益の回収を要求するため政権の対米英参戦を望んだが、日本側は消極的。「中華復興」と並んで「東亜解放」を掲げた新国民運動は対日協力を正当化するデモンストレーションとなったが、東亜聯盟にあった政治的独立の契機は後退してしまい、対日協力ばかりが強調されていくことになる。
・新国民運動は、積極的な理念を展開するものではなく、三民主義を継承。また、蒋介石の新生活運動を踏襲。華北にも進出したが、新民会との整合性がとれず頓挫。
・近代国民国家にふさわしい「礼儀正しく文明的」な国民性を形成しようという志向性を持っていた点で、蒋介石政権の新生活運動と汪兆銘政権の新国民運動には共通点があったという指摘は、近代中国史における国民国家形成という長期的課題を念頭に置いて考えると興味深い。
・汪兆銘の死後(1944年11月)、新国民運動は消滅。

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2011年10月 9日 (日)

野口雅弘『官僚制批判の論理と心理──デモクラシーの友と敵』

野口雅弘『官僚制批判の論理と心理──デモクラシーの友と敵』(中公新書、2011年)

・エリート官僚の不祥事、「脱官僚」政治=政治主導のスローガン…「官僚」への世評は芳しくない。しかし、現代社会の複雑な統治機構において「官僚」が不可欠なのも事実である。官僚制に対する反感は、直感的には分からないでもないにせよ、それはあくまでも心情レベルのものにとどまっている限り、実際の政治課題遂行に支障を来たす困難に直面する。こうした官僚制をめぐる議論はどのようにして仕切り直しが可能であろうか。
・本書はウェーバーをはじめミヘルス、トクヴィル、カフカ、シュミット、アレント、ハーバーマスなどの論者が「官僚制」についてどのように議論を展開してきたのかを確認する構成を取っているため、一見、迂遠に感じられるかもしれない。しかし、現在の政治的論点を相対化しながら捉え返す視座を提示するためにこそ政治思想史の知見を活用している点で良書だと思う。
・近代社会では既存の身分秩序を否定し、個人の平等を前提とした社会へと秩序原理が変容してきた。こうしたデモクラシーの進展において人間の平等の取り扱い、言い換えると標準化が求められ、新たな人間集団を運営するためにはどうしても官僚制的なメカニズムが必須となってくる。恣意的なもの、非合理的なものを排除する秩序原理が浸透する一方(脱「魔術」化)、その内部においては個人のイニシアティブ、イマジナリーなものが失われていく。もちろん、ロマン主義的な異議申し立ては早くからあり、その点では「官僚制」論はネガティブに評価される形で展開してきたと言える。
・つまり、「官僚制」批判は珍しいことではない以上、日本社会ではなぜ近年になって官僚制への信頼が失われたか、ではなく、なぜこれまで官僚制に対する否定的情念が炎上せずにすんできたのか、という点が本書の問題提起となる。
・テクノクラート支配は専門知の合理性と結び付いて高いパフォーマンスを示したからこそ正当性が維持されてきた。逆に言うと、バブル崩壊、「失われた十年」以降の日本社会の状況の中で官僚主導体制のパフォーマンスの悪さが見えてきたため、これまで顕在化していなかった官僚制の「正当性の危機」がようやく露呈した。
・官僚制には行政の複雑なルーティンを縮減する機能があったが、「脱官僚」=政治主導は政治的決定で負うべき説明責任の幅が格段に広がる→実際には、その負荷に耐えるだけの準備がない。こうした中、「脱官僚」のスローガンに適合的なのが新自由主義だったと本書は指摘する。つまり、「小さな政府」志向は政治的決定の負荷を減らしながら同時に「脱官僚」というイメージ的な筋を通しやすくなる。「脱官僚」のスローガンを掲げながら別の政策ビジョンを示そうとした場合、財政や具体的な問題への介入の仕方についていちいち説明責任を負わねばならず、収拾がつかなくなる。
・官僚制の画一主義にはもちろん問題があるが、他方でこうした画一主義への批判がそのまま一部の特権や格差拡大を擁護する論拠に使われてしまってもまずい。実質合理性と形式合理性(=普遍性志向)、この両義性に耐えつつ粘り強く当面の課題について考え続けるしかない。
・ウェーバーの比較類型論はこうしたジレンマを浮かび上がらせるところに特徴がある。現実の政治課題がどうしても抱えざるを得ない矛盾を直視するよう促しているところにウェーバーを改めて読み直す意義があると示唆。

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田中克彦『ノモンハン戦争──モンゴルと満洲国』、楊海英『続 墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』

 世界地図上で国境線として引かれた枠組みと、実際の民族分布とは必ずしも一致するわけではない。モンゴル人の国家としてはモンゴル国(かつてのモンゴル人民共和国)が目に入るが、モンゴル人の居住地域は中華人民共和国の内蒙古自治区やロシア連邦のブリヤート共和国にもまたがっている。現行の世界地図を見慣れた目には自明なものと映ってしまう。しかし、このようにモンゴル人が分断されている背景には、自前の一つの国家を持ちたいという悲願を抱きつつも大国の思惑に翻弄されてきた現代史の哀しい経緯があり、そこにはかつての「満洲国」を通して日本もまた関わりを持っていた。

 1939年、「満洲国」とモンゴル人民共和国との国境線をめぐって日本軍とソ連軍が直接戦火を交えた。田中克彦『ノモンハン戦争──モンゴルと満洲国』(岩波新書、2009年)はこのいわゆるノモンハン戦争(事件)をモンゴル人側の観点から描き直している。モンゴル学の泰斗による本書は、ノモンハン戦争をとっかかりとしつつも単なる戦史検証というレベルを超えて、その前後の脈絡を一貫して叙述したモンゴル現代史として興味深い。

 遊牧民たるモンゴル人にとって、牧地を農耕地へと変えていく漢人の侵蝕は脅威であった。そこで独立にあたって北のロシア人を頼ることになったが、1924年に成立したモンゴル人民共和国はソ連の事実上の衛星国とされてしまい、社会主義政権によるソヴィエト化は遊牧民の生活には馴染まなかった。やがて隣に日本の傀儡政権として「満洲国」が成立した。かかげていた「五族協和」のスローガンは建前に過ぎないとはいえ、「蒙古特殊行政地域」を指定したその民族政策には遊牧民保護の視点が含まれており、これにはオーエン・ラティモアも期待を寄せていたという。当然ながら他地域のモンゴル人たちも関心を示し、そこから触発された希望はさらに国境線によって隔てられていたモンゴル人たちが手を組んで自前の国家を作り上げようという理想へとつながっていった。このような傾向に対してソ連は警戒して国境線を厳しく閉ざそうとしたし、また「満洲国」側でも通敵の疑いをかけられた興安北省省長・凌陞らが処刑されるという事件が起こった(当時、関東軍憲兵隊司令官だった東条英機の指示によるらしい)。こうした経緯を踏まえて本書では「ノモンハン戦争に発展する一連の国境衝突は、満洲国とモンゴル人民共和国との間に分断されたモンゴル諸族が、統一を回復するための接触の試みから発展したものであろうと推定している」(112ページ)という視点が打ち出されている。

 日本の敗戦により「満洲国」は崩壊した。日本軍の占領下にあった内モンゴルのモンゴル人たちはこれを契機にモンゴル人民共和国と一緒になって一つの国家を作ろうという運動を始めたが、ヤルタ協定によってそうした想いはつぶされてしまった。やむを得ず、事前の策として中国共産党と接触、中華人民共和国内部における民族自決を目指す。ところが、こうした動向もやがて共産党によるたくみなモンゴル人分断工作によって乗っ取られてしまった。草原の開墾、定住化、さらには民族同化といった大漢族主義的政策によってモンゴル人の生活基盤は失われ、文化的アイデンティティーも危機にさらされた。また、モンゴル統一運動を志したモンゴル人知識層・指導層には「満洲国」で日本人から近代的教育を受けた人材が多く、彼らには民族分裂主義者とレッテルが貼られて弾圧されていく。こうしたモンゴル人に対する弾圧は、文化大革命期に至って階級闘争のロジックにすり替えられた漢人によるモンゴル人に対する殺戮としてより苛烈さを増した。このときに殺害された人数はいまだに把握されていないという。楊海英『墓標なき草原──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(上下、岩波書店、2009年→こちらで取り上げた)及びその続編『続 墓標なき草原』(岩波書店、2011年)は、当時を生き残った人々からの聞き書きを基にモンゴル人がたどらざるを得なかった苦難の歴史を再構成しようとしている。なお、著者は「文明は太陽の国(ナラン・ウルス)=日本から、殺戮は漢人の国=中国から」という近現代史観に基づいていると記しており(続、287ページ)、中国に対しては極めて厳しい態度を取る一方、日本が人材育成面でモンゴル近代化に果たした役割に対して好意的である。

 オーラルヒストリーという研究手法の性格上、インフォーマントの肉声をできる限りそのまま伝えようとしているため、当事者の感情的な高ぶりは生々しい。とりわけ漢人に対する激しい憎悪を吐露するあたりには驚きも感じてしまう。それをどのように受け止めるかは読者それぞれの判断に委ねるしかないだろう。日本の読者がこれを安易に一般化して中国バッシングに結びつけるのは慎まねばならない。しかし、彼らが痛切な訴えかけをせねばならないことにはそれだけの理由がある。感情的に高ぶった彼らの発言から何を汲み取るべきなのか。「民族の記憶」が抹消されてしまうことへの抗い。政治的弱者の蒙った苦痛が、政治的強者に都合よく歪められた歴史によって無視されてしまう悔しさ。著者が「第二のジェノサイド」と呼ぶこうした問題はしっかりと受け止めなければならない。

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