« 2011年1月16日 - 2011年1月22日 | トップページ | 2011年1月30日 - 2011年2月5日 »

2011年1月23日 - 2011年1月29日

2011年1月29日 (土)

山県有朋について6冊

 山県有朋について今日一日で6冊にざっと目を通した。

 山県有朋は1838年、長州萩城下、足軽以下の軽輩の家に生まれた。上昇志向からであろうか、槍術に打ち込んで師範として身を立てようと考えたが、尊皇攘夷思想の影響も受けて松下村塾に入門、吉田松陰の薫陶を受け、また高杉晋作の奇兵隊に参加。明治維新後、自ら望んで欧州視察に出て中央集権体制の実現と国防のための軍備拡張が必要だと確信。帰国後兵部省に入り、1873年には初代陸軍卿となる。大村益次郎の構想を受け継ぎ、国民皆兵主義から徴兵令を制定、軍人勅諭、またプロイセン式軍事二元主義を範にとって参謀本部を設置、自ら初代本部長に就任する。参謀本部は天皇に直属、太政官・内閣から独立し、これが明治憲法において統帥権の独立として規定され、さらに軍部大臣現役武官制も含め、彼の手によって陸軍の制度が確立された。第一次伊藤博文内閣では内務大臣となって地方制度を制定、また自由民権運動など民衆運動の盛り上がりに危機感を抱いて弾圧(保安条例)。1889年、憲法発布後には内閣総理大臣となり、超然主義をとる。

 明治から大正にかけて権勢を振るい、ライバル伊藤博文なき後は文字通り元老の第一人者となった山県有朋。幕末維新の激動を生き抜いた人らしく政治的争いをも軍事的視座から考えて周到に布石を打ち、陸軍・官僚・貴族院・枢密院に張り巡らした派閥網によって隠然たる力を握った。どのような評価を下すかはともかく近代日本における国家制度確立への彼の寄与は大きかった一方で、それは後に軍部暴走を許す種となったこと、民衆基盤を無視する権威主義的態度、さらにはどこか陰険に見える人柄もあって、後世の歴史家の間で山県の評判は甚だ芳しくない。岡義武『山県有朋──明治日本の象徴』(岩波新書、1958年)は烈しい権力意志で一貫した政治的人間として彼の経歴をスケッチする。藤村道生『山県有朋』(吉川弘文館、1961年)は自尊心と劣等感との葛藤に彼の権力志向を見出す。半藤一利『山県有朋』(ちくま文庫、2009年)も山県の生涯をたどりながら、彼の明治国家発展に向けた貢献は認めつつも最後まで親近感は抱けなかった…と記す。それでもこれらの著作が敢えて山県という人物にこだわるのは、彼の政治経歴と軍政上の事績は近代日本の権力構造を考え直す上でどうしても無視できないからである。

 伊藤之雄『山県有朋──愚直な権力者の生涯』(文春新書、2009年)は、先行研究では参照されていなかった一次資料を丹念に渉猟しながら山県の性格にむしろ不器用な生真面目さを見出し、その愚直さはある種の責任感であったろうと考える。一般に権力志向とされる点については、例えば征韓論政変で木戸孝允・西郷隆盛の狭間にあって義理と人情とで身動きがとれなかったことなど様々な葛藤を経ながら見つけた老獪さ、言い換えれば人間的成熟とみる。昭和期陸軍の暴走につながる制度的欠陥をつくったという否定的評価に対しては、彼は陸軍に対する文官の介入=専門家に対する素人の口出しを嫌っており、当時の陸軍は陸相を中心に統制がとれた集団であったと指摘、彼の軍拡志向もあくまでも防衛的なもので、大陸政策ではむしろ消極的であったとする。

 川田稔『原敬と山県有朋──国家構想をめぐる外交と内政』(中公新書、1998年)は元老指導から議会指導への移行期における国家構想の相違という視点から原と山県の二人を取り上げる。藩閥官僚系だけでは国政運営が難しくなりつつあり、政党も交えた挙国一致が望ましいと山県も考えるようになっていたという。山県の外交方針は日露提携によって英米と拮抗しながら大陸への勢力拡大を図るところにあったが、ロシア革命で挫折、新たな外交政策上の方針が必要となった。そこに、政党嫌いの山県も対英米協調的な原敬に国政を委ねざるを得なくなった理由の一つがあると考える(他に、米騒動による大衆の勢い、人材不足などの要因)。原の対英米協調、中国への内政不干渉方針は、言い換えると海外市場への進出は経済競争によることになり、こうした外交政策の転換と連動して国民経済の国際競争力強化を目指した政策が打ち出されたと捉える。

 井上寿一『山県有朋と明治国家』(NHKブックス、2010年)は、リアリストとしての山県が認識した当時における二つの危機に注目しながら彼の抱いた政治構想の再検討を目指す。第一に、対外的な国家の独立をめぐる危機感であり、対列国協調外交、とりわけ対米協調を重視したと指摘。第二に、近代国家のモデルとするはずだった十九世紀欧州における大衆民主主義の台頭と君主制の危機であり、日本でも同様の危機がおこるのを防ぐため選出勢力と非選出勢力とのバランスを図ろうと権謀術数をめぐらしたのだという。陸軍建設者たる山県が目指したのは近代国民国家の基礎的条件としての国民軍の創出であり、そのためには民衆の動員が必要であった(国民皆兵主義→徴兵制)。他方で、民衆のイデオロギーが軍隊にまで波及するおそれがあり、このジレンマを解決する工夫として編み出されたのが軍人勅諭、参謀本部、統帥権の独立であった。言い換えると、軍部の政治的中立性の確保を山県は目指していたのだと指摘する。戦後歴史学が強調してきた、昭和期陸軍暴走の歴史的起源を山県に求める議論に対しては上掲伊藤書と同様に批判的で、山県有朋イメージの再検証によって日本近代史像の分裂状態を克服しようという問題意識が示される。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

岡崎郁子『黄霊芝物語──ある日文台湾作家の軌跡』

岡崎郁子『黄霊芝物語──ある日文台湾作家の軌跡』(研文出版、2004年)

 日本統治期に育った台湾人にとって唯一の書き言葉は日本語であったため、文筆を生業とする者は「国語」=日本語を使わざるを得なかった。1945年を境に「国語」が中国語となったとき、ある者は中国語を習得して作家稼業を続け、またある者は筆を折る、もしくは日本語でひそかに書き続けた。日本語、中国語のどちらを使うにしても、彼らの多くがテーマとしたのは植民地支配下の苦悩、もしくは二・二八事件以降は「祖国」への期待が裏切られた失望。こうした自らが体験せざるを得なかった葛藤を表現するのが戦後台湾文学の柱となった。しかし、それは時代的な証言ではあっても、純粋な文芸作品とは言えないのではないか、もっと持ち味の違う作家はいないのか、そうした問題意識を持った著者が再発見したのが黄霊芝である。

 黄霊芝は1928年、台南生まれ。父親は明治大学卒業、実業家として成功して公的役職にも就いた黄欣である。改姓名のとき黄霊芝は国江春菁と名乗る。戦後間もなく新制台湾大学外文系に入学、この頃からアトリエに通って彫刻にも打ち込む。講義にはほとんど出席しないまま肺結核で中退。その後は、病弱と貧窮の中、創作を続ける。1970年には第一回呉濁流文学賞を受賞、また台北俳句会の中心メンバーともなる。

 彼は政治やイデオロギーとは距離をおき、ありのままの日常に垣間見られる人間の滑稽さや愚かさ、哀しみを浮かび上がらせるところに彼の筆致の特徴があるのだという。ところで、彼の作品の大半は日本語が用いられた。国民党政権下では日本語使用は厳しく禁じられ、日本語作品を発表するあてはない。それにもかかわらず彼が日本語を使い続けたのは、別に日本に愛着があるわけではない。1945年の時点で彼はすでに17歳、青年期になって学んだ中国語はある意味、外国語のようなもので、自分の表現が自然にできる書き言葉が日本語だったからである。発表する当てがなくてもとにかく自分の書きたいものを表現し続けた、その点で彼は明らかに純文学志向であった。

 エピソード的に二人の人物が現われるところに興味を持った。一人目は湯徳章。以前に行ったことのある台南の国立台湾文学館(日本統治期の台南州庁の建物を利用)の前がロータリーになっており、そこが湯徳章紀念公園となっていた。湯徳章のことはよく知らなかったのだが、二・二八事件で処刑された人だという。黄霊芝の作品「董さん」のモデルとなっているのだが、実は父親は日本人だったそうだ。彼は1908年に日本人巡査の父、台湾人の母の息子として生まれた。1915年の西庵来事件で父親は命を落とし、以後、母の手で育てられる。日本留学を経て高等文官試験に合格、台湾に戻って弁護士登録。日本敗戦後、台湾人意識を持っていた彼は台湾に残り、二・二八事件処理委員会のメンバーとして台南の治安維持に尽力したが、逮捕されて処刑された。この湯徳章を通して、国籍と内面的精神性とのズレを描こうとしたのではないかと著者は指摘する。

 もう一人が、黄霊芝の「紫陽花」という作品のモデルとなった陳惠貞こと陳真(→以前にこちらで取り上げた)。彼女は1946年に弱冠14歳で発表した小説「漂浪の子羊」が評判となった。彼女の父親・陳文彬は当時、台湾大学教授として台北にいた。黄霊芝が下宿していた姉婿・陳紹馨(社会学者として著名)も台湾大学教授であり、陳文彬の家とはお隣同士、評判となった美少女・陳惠貞も見かけていたそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月28日 (金)

澤田典子『アテネ民主政──命をかけた八人の政治家』

澤田典子『アテネ民主政──命をかけた八人の政治家』(講談社選書メチエ、2010年)

 アテネ民主政の特徴は、国家的危機に対してリーダーが必要であると同時に、特定の個人に権力が集中しすぎるのを出来るだけ避けようとする傾向も内包していた点にある。リーダーは常に何らかの手段によって市民を説得し続けなければならないという意味で直接民主政であったが、それは弾劾裁判によって時として死刑も含む失脚・落命のリスクと隣り合わせで、不断の緊張状態を強いるものであった。それにもかかわらず、第一人者としての名誉をかけてリーダーたらんとした政治家たち。本書は、時代状況の変遷に応じて彼らがどのように「説得」のあり方を変えてきたのかに着目しながら古代アテネ政治史における群像を描き出す。

 テミストクレスの陶片追放は、むかし世界史の教科書を読んだときには僭主登場の抑止が目的だったと説明されていた記憶がある。ところが近年の研究では、初期アテネ民主政では貴族グループ同士の激しい政治抗争が常態となっていたため、クーデターや集団亡命に伴う血みどろの報復の連鎖を断ち切ってこうした抗争を平和裏に解決するためだったと解するのが有力らしい。

 民主政初期では名門貴族出身の威信やストラテゴス(将軍)としての輝かしい戦功をもとに市民からの支持を得ていた。そうした中、ペリクレスは自身も名門出身ではあるが、民主政進展という社会状況を踏まえて弁論術による合理的・論理的な説得を通して不特定多数の市民に支持を訴える政治手法を導入、また富の市民への分配という手法も用いると同時に、財政上の公私の別を立てて公金の会計検査システムも確立したという。以降、伝統的威信を背景に持たなくとも弁論術でのし上がる政治家たちが現われ始め、彼らはデマゴーグと呼ばれた(この言葉に当時はマイナスの意味はなかったと指摘される)。

 アテネが同盟市戦争で敗北後、国際的地位の低下によって軍事指導者が国政指導の重きに当たる必要性もなくなり(著者はここに直接民主政の真髄としての政治的アマチュアリズムの成熟を指摘する)、かつて頻繁に行なわれていた弾劾裁判も見られなくなったという。さらにマケドニアの圧迫下、今度は対マケドニア政策をどうするかが政治的争点となった際、デモステネスは反マケドニアの愛国主義に向けて弁論術を用いたことで知られる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月27日 (木)

与那原恵『わたぶんぶん──わたしの「料理沖縄物語」』

与那原恵『わたぶんぶん──わたしの「料理沖縄物語」』(西田書店、2010年)

 「わたぶんぶん」とは、沖縄の言葉で、お腹いっぱい、という意味。新宿にあった沖縄料理店「壷屋」の肝っ玉おばあさん、著者の前著『美麗島まで』(文藝春秋、2002年/ちくま文庫、2010年)や『サウス・トゥ・サウス』(晶文社、2004年)にも出てきて非常に印象的な人だったが、本書もやはり彼女から沖縄料理の手ほどきを受けるところから始まる。沖縄料理ではラードが決め手となるという。手料理にまつわる言葉「てぃあんだぁ」とは、つまりお母さんの手のあぶらが料理をおいしくするということらしい。

 基本的には沖縄料理エッセイではあるが、話題はそこにとどまらない。ブラジル移民が形成した沖縄系コミュニティーへの訪問記、戦後も石垣島に残った台湾人コミュニティーなどの話題も取り上げられている。台湾総督府によるサトウキビ栽培推進政策によって土地を失った台湾人が石垣島へ入植してパイナップル栽培を始めたという背景は初めて知った。

 著者は東京生まれだが、まだ少女だった頃に沖縄出身の両親をなくしており、沖縄を身近には感じつつもよくは知らなかった。沖縄への旅はいつしか両親の面影を求める旅となり、さらに足跡をたどって台湾まで旅路は広がり、そうした経緯については『美麗島まで』に記されている。

 母方の祖父にあたる南風原朝保、その弟で画家の南風原朝光、また縁戚にあたる古波蔵保好(本書のサブタイトルにある「料理沖縄物語」は、古波蔵の著作のタイトルからとられている)、旅行や取材で出会って世話になった人々、気の合った友人たち。様々な懐かしい思い出が、これから紹介しようとする沖縄料理の一品一品に触発されたかのように次々と流れ出てくる。両親の面影は、彼と彼女を生んだ沖縄文化へと重なり、さらに「壷屋」のおばあさんをはじめ著者を暖かく迎え入れてくれた人々すべてと、あたかも両親のように、家族のように心情的につながっている手応えを感じていく。本書で描かれているのは単に味覚としてのおいしさではなくて、こうした温もりある人間関係の中だからこそかみしめられた味わいなのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

堅田剛『明治文化研究会と明治憲法──宮武外骨・尾佐竹猛・吉野作造』

堅田剛『明治文化研究会と明治憲法──宮武外骨・尾佐竹猛・吉野作造』(御茶の水書房、2008年)

 明治文化研究会に参集した吉野作造、尾佐竹猛、宮武外骨、石井研堂、斉藤昌三、木村毅、柳田泉、他の関係者も探れば色々と出てくるだろうが、それぞれに個性が強く、思想史的群像ドラマとして考えると面白そうに思って、何か取っ掛かりはないかと検索していたら見つけた本。著者の基本的な関心は法制史の方にあるらしく私の関心を必ずしも満足させてくれるわけではないが、これはこれで興味深い。

 明治文化研究会の設立意図の中心として吉野の明治憲法制定史への関心をたどり、合わせて宮武外骨・尾佐竹猛にも言及される。本書の軸となるのは『西哲夢物語』である。原本は、漏洩した明治憲法関係文書、特にグナイストの講義録や憲法草案などを、明治憲法制定に批判的な民権派が暴露の意図を持って秘密出版したものらしい。これをある日、吉野作造が古書店で見つけて鳥肌が立ったのが話の発端となる。明治憲法制定史の洗い直しを意図していた吉野だが、以前、伊藤博文と共に憲法制定に深く関わった伊東巳代治に談話を求めたところ拒絶されたという経緯があった。『西哲夢物語』と題された文書は、実は伊東から盗まれて流出したものだったらしく、それが拒絶の理由でもあったろうか。民本主義の旗手としての吉野への反感もあったらしいが、いずれにせよ、憲法制定史の空白を埋める文書として吉野は注目し、明治文化全集憲政編に収録された(校訂は吉野の弟子であった今中次麿)。

 宮武外骨は明治憲法発布に際して、「大日本頓智研法発布式」というパロディを書いて投獄されたが、後に井上毅文書を調べていた尾佐竹猛がその中に宮武を告訴する必要などなかったという井上の意見書があるのを発見、これを受けて宮武は筆禍雪冤祝賀会なるものを1934年に日比谷松本楼で開いたらしい。出席者を挙げると、尾佐竹、石井、斎藤昌三、柳田泉、穂積重遠、伊藤痴遊、小林一三、博報堂の瀬木博尚、江見水蔭、白柳秀湖、篠田鉱造、今村力三郎、国分東厓など。人脈の幅広さが面白い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月25日 (火)

藤原保信『大山郁夫と大正デモクラシー』

藤原保信『大山郁夫と大正デモクラシー』(みすず書房、1989年)

・大正デモクラシーにおいて吉野作造と共に民本主義の旗手として注目を浴び、その後はマルクス主義へと接近した大山郁夫。本書は、彼に思想上の転換を促した論理構造への理解を通して大正デモクラシー期における時代思潮の一側面をうかがおうとする。著者の先輩だからだろうか、早稲田精神なるものも強調されている。

・大山郁夫は1880年、兵庫県赤穂の開業医・福本家に生まれたが、大山家の養子となる。神戸商業学校を経て東京専門学校(在学中に早稲田大学となる)に入学。植村正久の教会で洗礼を受ける。1910~1914年までシカゴ大学(社会学のアルビオン・スモール、公法学のフロイント、政治学のメリアムに師事)、ミュンヘン大学へ留学。帰国後、早稲田大学教授。1919年、長谷川如是閑らと共に雑誌『我等』創刊。1926年、早大教授を辞して労働農民党委員長。以降は本書の対象範囲から外れるが、1930年に代議士当選、労農党解散後は1932年にアメリカへ亡命、ノースウェスタン大学教授。1947年に帰国、早大教授に復職。1950年、社共統一推薦で参議院議員当選。1951年、スターリン平和賞。1955年に他界。

・当初は政治的機会均等主義を主張:民衆の台頭という社会状況を踏まえ、選挙権の拡大と、普通選挙を通して多数を獲得した政党による内閣の組織が必要。民衆を政治の客体から主体へと転換させる。社会的分業としての職業政治家の存在→彼らをチェックする国民の政治意識を高める必要→客観的な啓蒙に学者の役割。政治における精神的・道徳的意義を強調する人格的理想主義→その論拠は「生の欲求」「生の創造」に求められた。

・理想主義の一方で、国民的統合として民本主義を捉える視点も持っていた。また、国際社会では力の論理が厳然として作用していることを認め、マキャベリズム・現実的対応の必要も指摘。デモクラティックな国内体制を取る諸国を単位とした国際協調主義→リベラルな国際協調主義と民族主義は両立する。極端な国家主義、極端な自由主義の両方に反対→自由主義、民主主義を介した国家主義という考え方。

・1919年以降、第一次世界大戦後の社会状況の変化に伴って彼も思想的展開を示し、マルクス主義へと接近し始める。当初は人格的理想主義に基づき「人心の改造」を政治の前提に置いていたが、やがて「制度の改造」が先決だと考え始める。理論と実践との統一として現実政治に乗り出し、労働農民党委員長に就任、総選挙に出馬。科学としての政治学を提唱→社会法則の探究、多元的な集団闘争として政治現象を把握。これらも学問論であると同時に、改造という政治的実践に向けての前提であったとも考えられる。マルクス主義へと接近する一方で、政治を価値的に正当化する人格的理想主義は一貫して持続していたとも指摘される。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月24日 (月)

【映画】「ヤコブへの手紙」

「ヤコブへの手紙」

 終身刑で服役していたレイラは恩赦を受け、老牧師ヤコブのもとに身を寄せることになった。毎日届けられる人生相談の手紙を生きがいとするヤコブ、目の見えない彼に変わって手紙を読み上げ、返信を口述筆記するのが彼女の役目だ。しかし、自暴自棄になっているレイラは心を閉ざしたまま。

 ヤコブへ手紙の届かない日が続いた。自分は必要とされていていないんだと落ち込むヤコブ、そんな彼に対して「人生相談だって、結局、あなた自身のためでしょ」とレイラは容赦なく厳しい言葉を浴びせる。彼女は出て行こうとしたが、行き場がない。そんな彼女を見かけたヤコブは「残ってくれたのかい、ありがとう」と変わらずにやさしい。ある日、レイラは郵便配達を呼び、ヤコブの前で手紙を読むふりをするのだが、彼にはお見通し。やがて彼女は、自分自身の「手紙」を語り始める。

 世間から冷たい視線を浴びる元受刑者と、すたれた教会近くに住む盲目の老人。孤独な二人の心情的交流が丁寧に描かれる。ヤコブの純粋な善意、ただしそれも聖人のように美化されるわけではなく、だからこそ二人の交流にある種のリアルさが感じられる。見捨てられたと思い込む彼の不安は、一面において達観しきれないかすかなエゴイズムとも言えるし(レイラは最初そう考えた)、承認欲求が満たされない老境の葛藤が表現されているとも言える。ヤコブのもとに届く手紙には、例えば家庭内暴力に苦しむなど、身近に人間はいても心を許せる人のいない、そうした孤独な人たちからの切実な声がしたためられていた。現代社会に特徴的な孤独、その各人各様のあり方がこの映画の題材になっている。

 取り立てて起伏のあるストーリーではない。だが、教会と牧師館を囲む木立や野原、風景が実に美しく、その中で二人の心情的変化を自ずと浮かび上がらせていく描写は、観ているこちらの心を静かに揺さぶってくる。

【データ】
原題:POSTIA PAPPI JAAKOBILLE
監督:クラウス・ハロ
原案・脚本:ヤーナ・マッコネン
2009年/フィンランド/75分
(2011年1月21日、銀座テアトルシネマにて)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

尤哈尼•伊斯卡卡夫特(Yohani Isqaqavut)《原住民族覺醒與復振》

尤哈尼•伊斯卡卡夫特(Yohani Isqaqavut)《原住民族覺醒與復振》(台北:前衛出版社、2002年)

 先日、台北の順益台湾原住民族博物館へ行ったときにミュージアムショップで購入した本。経歴を見ると、著者はブヌン(布農)族出身の牧師で、台湾原住民の研究や権利向上を求める社会運動に従事、国連先住民会議にも出席、民進党の陳水扁政権では行政院原住民族委員会主任委員(閣僚)や総統府国策顧問なども歴任している。

 台湾の原住民族の人口はすべて合わせて全体の2%程度に過ぎず、その他の漢族系から歴史的に圧倒され、また差別を受け、日本統治期及び国民党政権期それぞれの「国語」政策等によって同化の対象としてアイデンティティの危機にさらされてきた。その後、民主化運動の進展と歩調を合わせるように1980年代から原住民族の社会的権利やアイデンティティの回復を求める動きが活発化、1996年には行政院に原住民族委員会が設置され、原住民族の権利保護は公的に進められることになった。

 台湾の原住民が抱えるアイデンティティの危機、漢族系に比べて低い経済・教育・社会福祉・生活環境など様々な問題点について網羅的に記されている。個々の論点について見開き2ページにまとめたエッセイ的項目を並べる形式なので全体像を見通しやすく、現在の台湾原住民を取り巻く社会問題を概観する取っ掛かりとして参考になる。

 本書に様々な問題が並べられていることからうかがえるように、台湾原住民出身者の社会的・経済的地位はまだまだ十分ではない。同時に関心を引くのは、原住民をはじめ複数のアイデンティティを認める多文化主義の考え方が公的にも漢族系を含めた一般世論としても台湾社会では定着しつつあるらしいことだ。この点では台湾は世界的に見て先進的なのではないかという印象を持っている。最終章では、様々な国際交流の中、中国側から「我々は同じ中国人だ、中国の少数民族政策は台湾より優れているぞ」と言われることを引き合いに出し疑問符をつける。その上で、「台湾是台湾、中国是中国」という一文で結ぶあたり、ナショナル・アイデンティティとしての台湾、エスニック・アイデンティティとしての各原住民という意識構造がうかがえる。著者は民進党支持者であるし、巻末に王育徳全集の広告があるから刊行元も台湾独立派のようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月23日 (日)

大正デモクラシーについて何冊か

 大正デモクラシー研究でまず思い浮かぶのは松尾尊兌である。大正デモクラシーという言葉で総括される時代思潮について、松尾の議論では、日露戦争講和反対という形で大衆的な盛り上がりを見せた1905年から始まり、政治・社会・文化の各分野で表れた民主主義的・自由主義的傾向を指し、政治的には普通選挙による政党政治を求める運動となって(吉野作造の民本主義や美濃部達吉の天皇機関説などが理論的根拠)、1918年の原敬内閣の成立から元号では昭和に入るが1932年に五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されて政党政治が終わるまでの期間に及ぶ。それは内に立憲主義であると同時に、始まりが講和反対運動として始まったことに顕著に見られるように外には帝国主義という二面性を持つものとして特徴付けられる。帝国主義的契機を克服できずファシズムに屈服した限界を指摘する一方で、民主主義・自由主義・平和主義といった戦後民主主義の要素はこの時期からすでに胚胎していたとしてそれらを掘り起こそうとする情熱もうかがえる。

 松尾尊兌『大正デモクラシー』(岩波現代文庫、2001年、最初の刊行は岩波書店、1974年)は概説的な叙述の中で、急進的自由主義としての『東洋経済新報』(植松孝昭、三浦銕太郎、片山潜、石橋湛山)、地方の市民政社の動向、茅原華山の雑誌『第三帝国』、「冬の時代」の社会主義、部落解放運動、普通選挙運動、民本主義の朝鮮論など大正デモクラシー期の多面的な動向を取り上げている。様々な人物群像を通して時代の大きな流れを示そうとするのが著者の筆致の特徴でもあり、『大正デモクラシーの群像』(岩波書店・同時代ライブラリー、1990年)ではルソー生誕二百周年式典に集まった面々を皮切りに、夏目漱石の持つ社会批判の一面、三浦銕太郎と石橋湛山の自由主義、憲法論からデモクラシーを根拠付けた美濃部達吉、吉野作造の中国革命論や朝鮮論、佐々木惣一、山本宣治などを、『大正時代の先覚者たち』(岩波書店・同時代ライブラリー、1993年)では内村鑑三と堺利彦、友愛会の鈴木文治、原敬の小伝、行動的アナキストの高尾平兵衛、京大の河上肇と佐々木惣一、瀧川事件に際しての岩波茂雄などが取り上げられる。

 鹿野政直『大正デモクラシーの底流──“土俗”的精神への回帰』(NHKブックス、1973年)は、一般大衆レベルに底流した精神史として大正デモクラシーを捉え返そうとしている。明治の文明開化以来進められてきた「近代化」政策、そうした明治的近代への反措定として登場した大正デモクラシーの近代的理念、いずれに対しても生活実感とのギャップを感じてくすぶっていた“土俗”的精神を汲み取り表現したものとして創唱宗教の大本教、地方における青年団運動、大衆文学として中里介山『大菩薩峠』を取り上げる。

 三谷太一郎『大正デモクラシー論──吉野作造の時代とその後』(東京大学出版会、1974年)は、大正デモクラシーを国家的価値に対する非国家的価値の自立化の傾向が現れたことで国家の再定義が必要となり、国家経営への国民参加の拡大が求められた時代精神として捉える。三谷もやはり日露戦争講和条約反対によって引き起こされた街頭騒擾を起点とし、1926年に至る政治的民主化過程において、政友会と藩閥勢力との政権交代の時代(桂園時代)から護憲三派内閣の登場によって政党間の政権交代の時代への転換、同時に無産政党の形成過程、両者の交錯点は1925年の普通選挙法制定に求められる。こうした背景として指導体制の多元化、国民の政治参加の範囲が徐々に拡大、相対的に言論の自由が拡大といった点を指摘。大正デモクラシーから胚胎した反政党的な「革新勢力」によって侵蝕・解体されつつも、政治的遺産として戦後民主主義につながるという視点はやはり上掲松尾の議論と同様である。こうした見通しを踏まえて、直接行動論によって「政治」=憲政や政党を否定した大正社会主義の捉えた「政治」観の変容、ウィルソン主義の影響に着目して大正デモクラシーとアメリカとの関係、思想家としての吉野作造(人間的現実を歴史の相の下に捉える歴史主義、相対主義。民本主義を踏まえて、対外的に応用した中国革命論や朝鮮論、日本史の中で位置付けようとした明治文化研究)などの論点が取り上げられる。他に、国際環境変動に対する日本の知識人の認識、『木戸幸一日記』についての論考も収録されている。

 伊藤之雄『大正デモクラシーと政党政治』(山川出版社、1987年)は、原敬内閣成立から犬養毅内閣で政党政治が終焉するまでの期間における政治過程について史料を踏まえながら実証的に分析する。当時における政策課題としての社会運動対策、経済問題、対中関係を主とした外交政策に注目しながら、政党と官僚系勢力もしくは政党同士の権力抗争の描写が中心となるが、同時に第二部では政党の基盤となっている地方政治の変動も考察し、個々の記述は微細にわたる一方で、中央・地方合わせて大正デモクラシー期に展開した政党政治の動態を大きく描き出そうとしている。

 酒井哲哉『大正デモクラシー体制の崩壊──内政と外交』(東京大学出版会、1992年)は、大正デモクラシー体制を国内的には政党内閣制、対外的にはワシントン体制とした上で1920~30年代を一体的に把握、満州事変、五・一五事件の衝撃はこの体制の終わりだったのではなく、崩壊過程の始まりであったと位置付ける。大正デモクラシー体制は当時の世界の中では相対的に安定した体制であり、従って内発的要因では崩壊しにくかった。むしろ外部の危機がもたらされたことで内政システムのバランスが変化、なし崩し的に崩壊が始まったと考える。すなわち、満州事変の衝撃が国内政治体制の深層へと構造化していくプロセス、及びそれを阻止しようとする試みとのせめぎ合いとして軍部・政府それぞれの内部における多元的力学やソ連要因に注目しながら分析が進められる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年1月16日 - 2011年1月22日 | トップページ | 2011年1月30日 - 2011年2月5日 »