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2011年9月11日 - 2011年9月17日

2011年9月17日 (土)

フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉』

フランク・ディケーター(中川友子訳)『毛沢東の大飢饉』(草思社、2011年)

 著者はオランダ出身の歴史学者でロンドン大学及び香港大学の教授。原書Frank Dikötter, Mao's Great Famine: The History of China's Most Devastating Catastrophe, 1958-62は今年度のサミュエル・ジョンソン賞を受賞した(受賞のニュース記事を見て興味を持ち、すぐアマゾンで注文して取寄せたのだが、読まないうちにこの邦訳が刊行されていた…)。

 1958年、毛沢東の指示で発動されたいわゆる「大躍進政策」の大失敗はよく知られている。これが単に経済政策面での失敗であったばかりでなく、この失敗によってもたらされた惨禍がいかにすさまじいものであったのか、本書は共産党の公文書(档案)館所蔵史料や実際に飢饉を生き延びた人々へのインタビューに基づいて詳細に描き出していく。

 本書では1962年までに拷問・処刑死や餓死者も含めて犠牲者は4,500万人にのぼるであろうと推計され、その大半は農村部の人々であった。共産党の公式見解では外圧や自然災害のせいにされているが、実際には人災としての側面が強い。

 人々の生活上の必要ではなく、国家としての対外的威信やイデオロギー的理由のための手段として経済は位置づけられていた。経済の担い手たる農民や労働者はそのために使い捨てされ、飢餓は一時的なものでやむを得ないとして放置された。一党独裁の中央集権体制を取る中、命令を出す中央は、命令を受ける地方の側の実情をほとんど把握していなかったにもかかわらず、ノルマとしての数字が地方へのプレッシャーとしてのしかかる。こうしたギャップの辻褄合わせをせざるを得なかったところに、地方幹部の恣意的・暴力的な専制がまかり通る素地が現れた。

 毛沢東の判断ミスが幾何級数的に増幅していく。しかも、この場当たり的な政策決定者は圧倒的なカリスマを持ち、政争の生き残りにたくみであった。この悪循環を阻止できなかった意味で単に毛沢東個人の問題というだけでなく、チェックの働かない全体主義的政治システムの機能不全がもたらした惨禍であったと言えよう。ハイエク『隷従への道』で指摘されたトップダウンによる統制経済モデルの矛盾点、それが具体的かつ悲惨な姿をとった醜悪なカリカチュアをまざまざと目の当たりにするようで、この無残な陰鬱さには何とも言葉が出て来ない。

 著者が調査を進める上でどうしても壁にぶつかってしまっていたように、史料公開面での制約は大きいようだ。档案館へのアクセスはいまだに限定的なので、さらに史料が発掘されたら本書の内容以上の驚きが見出されることになるのかもしれない。歴史的事実は事実であって、本書を読んで「これだから中国は…」みたいな話になってくると、それは正しくないと思う。むしろ、歴史的事実をいかにタブーなく教訓として捉え返していけるか、現代中国が考えるべき課題はそうした言論や研究の自由をいかに保証していけるかというところにあるのだろう。

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2011年9月13日 (火)

野嶋剛『ふたつの故宮博物院』

野嶋剛『ふたつの故宮博物院』(新潮選書、2011年)

 質・量ともに世界でも五本の指に入るとされる台北の故宮博物院。ところで、大英博物館やルーヴル美術館など他のメジャー博物館は世界中の文物を収蔵して文字通りの「博物館」であるのに対して(無論、その背景には帝国主義という後ろ暗い歴史があるわけだが…)、故宮博物院は「中華文化」の文物のみを集めた単一文化的性格を持っているところに際立った特徴がある。故宮博物院の収蔵品を手元に確保しておくことは、とりもなおさず中華文明の正統的後継者であるというシンボルを帯びる。だからこそ蒋介石は中華民国の正統性を主張するためわざわざ台湾まで持ち運んできたわけであり、そうした事情から台北と北京、「ふたつの故宮博物院」が存在する政治的意味合いは周知のことだろう。

 清末・民国の混乱期における文物流出は中国の人々にとって屈辱の歴史であり、近年、経済的実力をつけてきた自信からオークション等で買い戻そうとする姿には屈辱回復としてのナショナリズムが垣間見える。日中戦争に翻弄される形で大陸各地を転々とし、その果てに海を渡っていった流浪の旅。ようやく一息ついた台湾では海峡両岸対峙という趨勢の中、国民党政権によって政治的シンボルとして位置付けられた。他方、民進党など台湾土着派によるアジア文化博物館として位置付けなおそうという主張には故宮博物院の「非中華化」→台湾の非中国化というまた別のコンテクストにおけるアイデンティティ・ポリティクスが作用していたことが見て取れる。

 故宮博物院という鏡は「中国」における政治的アイデンティティの葛藤をまざまざと浮き彫りにする。本書はそうした歴史的経緯をたどり返して整理してくれるばかりでなく、関係者へのインタビューによって様々な裏面的エピソードも掘り起こしており、故宮博物院というファクターを通したヴィヴィッドな中台関係論となっている。いまだ実現していない日本での「故宮」展をめぐる動向も興味深い。

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2011年9月12日 (月)

ロバート・B・ライシュ『余震(アフターショック)──そして中間層がいなくなる』

ロバート・B・ライシュ(雨宮寛・今井章子訳)『余震(アフターショック)──そして中間層がいなくなる』(東洋経済新報社、2011年)

・現代アメリカにおいて資本主義経済のシステムが健全に作用してないというのが本書の趣旨で、サブタイトルにある「そして中間層がいなくなる」というフレーズに問題意識が端的に表れている。
・一握りの富裕層のみが経済成長の恩恵を受ける一方、大半のアメリカ人が取り残されてしまう。問題は仕事がないということではなく、失業後に新しく仕事を得たとしても賃金が前の職よりも低くなる傾向がある。他方、アメリカは自国内での消費者の購買力をはるかに上回る生産能力があり、格差の拡大によって消費が追いつかない。生産と消費とが適切にリンクされるという意味での経済の基本取引が破綻してしまっている。中間層の購買力がなければ生産に見合う消費は起こらないし、格差への不満は社会的不安や排外的感情を引起しかねない、こうした問題意識を明らかにした上で、第Ⅱ部では近い将来にあり得る政治的シミュレーションを行い、第Ⅲ部では具体的な提案を示す。
・第Ⅲ部での提案:負の所得税(給付つき税額控除)→消費活動を誘発。再雇用制度の工夫→適切な所得を配分しながら職業教育。世帯収入に応じた教育振興券や高等教育の学生ローン改革→教育を受ける機会の拡大。メディケア(公的医療保険)。公共財の拡充。政策上の意思決定をゆがめている政治とカネの癒着からの訣別。
・一読してそれほど目新しい議論がされているとは思わない。むしろ本書で示される問題意識が、日本における格差社会をめぐる議論でもよく見かける論点とほぼ重なっているところに関心を持った。
・市場経済に対しての世代間の記憶の相違という論点に興味を持った。1930年代に成人した人々にとって大恐慌の記憶は生々しく、その教訓は1940~50年代に引き継がれた。彼らの孫の世代は大繁栄時代に生まれ、信用の置けない市場を政府が補完するという祖父母世代の経験を継承しなかった。むしろこの孫世代は政府の失敗と市場の成功を目の当たりしており、自由市場主義者の刺激的な主張に感化されやすくなっていた、という(70ページ)。

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2011年9月11日 (日)

アントニー・D・スミス『ナショナリズムの生命力』

アントニー・D・スミス(高柳先男訳)『ナショナリズムの生命力』(晶文社、1998年)

・ナショナル・アイデンティティの基本的特徴:①歴史上の領域、もしくは故国、②共通の神話と歴史的記憶、③共通の大衆的・公的な文化、④全構成員にとっての共通の法的権利と義務、⑤構成員にとっての領域的な移動可能性のある共通の経済
・ナショナル・アイデンティティ形成にあたって近代以前のエスニック・アイデンティティや伝統が果たす役割をどのように考えるか?→固定的なものとして捉える原初主義・本質主義でも、可変的操作性を強調する構築主義・道具主義でもなく、その中間としての歴史的・象徴的・文化的属性を強調するアプローチを本書はとる。
・ネイション形成の二つの経路→①水平的エスニーと官僚的編入(国家が後援)、②垂直的エスニーと土地に根ざした動員
・「ナショナリズムとはネイションとその成員が、純粋な共同体の「内面の声」にのみ耳を貸し、真の集団的「自我」に目覚めることを意味するのである。それゆえ、自治だけがネイションとその成員に自己実現を達成させる真の方法であり、真の体験と真の共同体が完全な自治の前提条件となる。自治はすべてのナショナリストの目標なのである。」(141~142ページ)
・「ネイションという新しい概念は、前近代の大衆が地域や家族への愛着にたいして抱く熱望や感情を利用して、混沌に秩序をあたえ、宇宙を意味あるものにするために、時間と空間の枠組みとして役立つように考案された。」(144ページ)
・「ナショナリズムの特定の教義や象徴の重要性は、ナショナリズムがより深い意味──イデオロギー、言語、意識──をもっていることをしめしている。複数のネイションからなる世界では、それぞれのネイションが独特であり、それぞれが「選ばれ」ているのである。ナショナリズムとは、選民という前近代的な聖なる神話の世俗的な近代版だといえる。」(152ページ)
・「ナショナルな熱望は、ナショナルでない他の経済的、社会的、あるいは政治的争点と結びつきやすい」(245ページ)
・「ソ連の経験からわかったことは、革命的な「創られた伝統」でさえ、民衆に深く根づかせようとするのなら、ナショナルな文化的・政治的アイデンティティを利用するか、さもなければつくりだす(しばしばその両方とも)必要があるということである。」(252ページ)
・ナショナル・アイデンティティを超える難しさ→「現状では、エスニック、あるいはナショナルな言説とそのテクストは、国家権力ならびに文化的コミュニケーションの現実と結びついて、人間の想像的構築に限界を課している。というのは、「長期の持続する」エスノ・ヒストリーが特定の言語と文化をもたらし、そうした言語と文化のなかで、集団として、また個人としての自我と言説が形成されてきたのであり、現在でも人間を結びつけたり、分裂させたりする力となっているからである。グローバルな共同体を想像するだけでは不十分なのである。」(270ページ)
・「おそらくナショナル・アイデンティティの機能としてもっとも重要なのは、個人的な忘却という問題にたいして、満足いく回答をあたえてくれることである。この世では「ネイション」にアイデンティティを抱くことが、死という結末を乗り越え、個人の不死への手段を確保するのにもっとも確実な方法なのである。…ネイションの場合は、遠い過去をもつ。たとえその大部分が、再構築され、ときにはでっちあげなくてはならないとしても、である。より重要なことは、ネイションは自らの英雄的過去に類似した、栄光ある未来を提供できる。この過程でネイションは、のちの世代によって実現されるはずの共通の運命にしたがうように、人々を駆りたてることができるのである。実際にはこれらは「私たちの」子供の世代である。ところが、彼らは精神的にも遺伝的にも、「私たちのもの」なのである。…したがって、ナショナル・アイデンティティの第一の機能は、人々を個人的忘却から救いだし、集団としての信仰を取り戻すべく、強力な「歴史と運命の共同体」を提供することにある。」…「ネイションは、不死の約束が前提とする遠い過去をもつ必要があるだけではない。ネイションは同時に、栄光ある過去、すなわち聖者と英雄の黄金時代をひもといて、復活と尊厳という自らの約束に意味をあたえることができなければならない。したがって、エスノ・ヒストリーが、満ちあふれ、豊かであればあるほど、その主張が説得力をもつようになり、ネイションの構成員の心の琴線の深くまで触れることができるのである。」(271~273ページ)
・ナショナル・アイデンティティの第三の機能は同胞愛。「私たちは、美的考慮の重要性を過小評価してはならない。これは、形、大きさ、音、リズムの巧みな配列によって目覚めさせられる、美、多様性、尊厳、悲哀といった感情を指しているが、芸術はこれを利用して、そのネイションに特有の「精神」を喚起できるのである。…ナショナリズムの象徴的、儀式的側面が今日でも個人のアイデンティティの感覚にかくも直接的な影響をおよぼしている理由は、なんといってもエスニックな絆とエスニック・アイデンティフィケーションが再生したこと、とりわけ共同体のそれぞれの世代が「祖先」と戦没者を記念することにある。この点でナショナリズムは、たとえば神道のように、死者との交わり、先祖崇拝を重視する宗教的信仰に似ている。」(274~275ページ)
・ネイションは超えられるのか?→できるとしたら、ネイション形成の原理そのものを通じてだけ、つまりより大きな次元における「汎ナショナリズム」という形による。

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