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2011年9月4日 - 2011年9月10日

2011年9月 8日 (木)

早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ──民族/国家のアポリア』

早尾貴紀『ユダヤとイスラエルのあいだ──民族/国家のアポリア』(青土社、2008年)

・土地なき民が迫害されてきた歴史的経験の末にようやく作り上げた人工的国家イスラエル。ベン=グリオン、ジャボティンスキーなど左右の違いこそあれユダヤ人による単一民族国家の理念を追求してきた政治シオニズムによって、これまで迫害されてきた者(ユダヤ人)が一転してパレスチナ人を迫害する側に回ってしまったという逆説がもたらされてしまったことは周知の通りである。他方、ユダヤ人による純粋な民族国家の樹立が他者の排除を必然的にもたらすであろうまさにこの逆説を自覚して政治シオニズムを批判していたゲルショム・ショーレムやマルティン・ブーバーなどの文化シオニズムは、マジョリティ/マイノリティの対立を超えた政体としての一国家二民族共存(バイナショナリズム)の理念を掲げていた。本書は、ユダヤ人としての出自を持つブーバー、ハンナ・アーレント、ジュディス・バトラー、アイザイア・バーリンなど、そしてパレスチナ人としての出自を持つエドワード・サイードの発言を拾い上げながら、こうしたバイナショナリズムをめぐる言説を思想史的に分析していく。

・民族共存の主張はもちろんただちに否定されるべきものではない。ただし、それぞれの主観的・良心的な意図はともかくとして、額面通りに有効であったかどうかは難しいところである。例えば、当初においてはヨーロッパ中心主義的観点による反アラブ感情や植民地主義的偏見が否めなかったり、ユダヤ人側がパレスチナ人側を形式的に対等な相手とみなしても(あるユダヤ人はパレスチナ人をさして「われわれとまったく同じように苦しめられている」と発言)実際の非対称性をどのように考えるのか、といった問題がある。バーリンは政治シオニズム=攻撃的/文化シオニズム=非攻撃的という分類→後者を肯定するという考え方を示していたが、果たしてこうした二分法が単純に成立するのか、場合によっては後者が前者に転化する可能性が常にあるのではないかという疑問が出てくる(塩川伸明『民族とネイション』[岩波新書、2008年]が取り上げている「よいナショナリズム」/「悪いナショナリズム」をめぐる問題と同様)。

・左派・リベラル派としてバイナショナリズムの理念に共鳴しつつも、同時にイスラエル国家(パレスチナ問題を抱えているという現実をもひっくるめて)をなおかつ支持するというアンビバレンス。良い悪いというのではなく、そこに端的に表れる「国民国家」をめぐるアポリアがそれぞれの言説の布置連関からおのずと浮かび上がってくる難しさ、もどかしさそのものに関心を持ちながら読み進めた。

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2011年9月 7日 (水)

塩川伸明『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦──冷戦後の国際政治』『民族とネイション──ナショナリズムという難問』

塩川伸明『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦──冷戦後の国際政治』(有志舎、2011年)

・例えば、「民族浄化」「人道的介入」「リベラル・デモクラシー」など、一見自明でもっともらしく受け取られながらも、実際には様々な意味内容が複雑に絡まりあっているキーワード。こうした言葉は気をつけて使わないと、状況的コンテクスト次第で自己正当化や他者への非難のための政治的含意を無自覚のうちに担わせてしまう可能性が常にある。例えば、ボスニア紛争において「民族浄化」という表現はセルビア側に対する一方的なレッテル貼りに用いられた。こうした表現の背後に潜む問題点を指摘すると、それはあくまでも用語法の恣意性への批判であって、戦争犯罪そのものの否定ではなくても、表現への批判→戦争犯罪の重さを相対化→セルビア擁護と曲解されかねなかった。
・本書の第Ⅰ部では「民族浄化」に対する「人道的介入」の是非をめぐる言説の分析、第Ⅱ部ではユーラシア空間の地政学的動向において「リベラル・デモクラシー」のあり方について検討される。現在進行形の具体的な問題とつき合わせながら、ともすると抽象論に陥りがちなキー概念の問題点を突き詰めていく。
・「人道的介入」をめぐって日本で見られた言説状況を整理する際、おおむね「人道的介入は正当化できる」とする見解が意外に多いと指摘される。しかし、肯定/否定のグラデーションの中で注意深く様々な留保条件をつけている論者も含めて「相対的肯定」「否定の否定」派という形で強引に線引きして「肯定派」に一括りしてしまうのはどうなんだろう…? むしろこのようにグラデーションの真ん中あたりが多い、ためらいがちに留保条件を様々に列挙する議論が多い点の方を注目すべきと思うのだが。他方で、「人道的介入」の理念的是非の問題ばかりでなく、どんなに整合的で説得力ある理由付けが展開されても、現地における「事実」と報道等を通したあやふやな「認識」との間にギャップがあるとき、場合によってはとんでもない政策決定がなされかねないという危険性は確かに首肯できる。
・第Ⅲ部ではロールズ、ウォルツァー、アーレント、カーを取り上げながら国際政治をめぐる思想的考察について、それぞれ検討される。ある普遍的価値を基準にして何らかの「介入」が行われるにしても、その「価値基準」そのものに恣意性とまでは言わないまでも、例えば西欧近代を基準としたバイアスがかかっている可能性など、必ずしも「普遍性」を主張しきれないアポリアをどのように考えたらいいのか、そうした問題提起が読み取れる。

塩川伸明『民族とネイション──ナショナリズムという難問』(岩波新書、2008年)

・民族、エスニシティ、国民国家、ネイション、ナショナリズム…それぞれ意味内容として共通性がありつつも様々なズレがあり、これらの言葉の内容的相互関係に無自覚なまま議論が混乱してしまうケースはよく見られる。本書はこのように難しい民族/ネイション概念についての理論的考察を整理するだけでなく、「国民国家」登場以降の近代史や国際政治の現実の中で生じた個別の民族紛争も取り上げていく。理論では捉えきれない残余を具体的な事例を突きつけながら考えていく構成なので、民族/ネイション概念の複雑さがより明瞭になり、この問題を考えるたたき台として格好な本である。
・シヴィック・ナショナリズム=「西のナショナリズム」=「よいナショナリズム」/エスニック・ナショナリズム=「東のナショナリズム」=「悪いナショナリズム」という区別に対する疑問→後者の野蛮さが批判されるが、「国民国家」形成が相対的に早かったどうかという問題として捉えると、強引な「上からの国民化」は遠い過去のことだったので単に忘れ去られているだけなのかもしれない。また、普遍主義の落とし穴によって、前者も抱える危険性が覆い隠されてしまう問題。

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2011年9月 5日 (月)

兼原信克『戦略外交原論』

兼原信克『戦略外交原論』(日本経済新聞出版社、2011年)

 現役外交官による外交概論。大学での講義をもとにまとめられたらしい。全体的な論旨は至極まっとうで、特に違和感はない。文明論的に大きな視座を意識しながら外交の要諦を語りつくそうという意気込みに私は好意的ではあるのだが、ただし、話が大きすぎると、個々の歴史的話題などでディテールの粗さが目立ってしまうというもどかしさは否めない。

 戦略を組み立てるには、そもそも何を守るのかという問題が当然ながら出てくる。それは通常、「国益」と表現されるが、ここの議論で価値観に関わる問題にページの多くを割いているのが本書の特徴であろうか。生存本能に基づく倫理感情、普遍的な良心といったものに着目して古典も援用しながら説明しようとしているのだが、どうしても隔靴掻痒の感は免れない。哲学や思想の古典に典拠を求めているからといって、その議論全体の質が高まるわけではない。よほど表現を工夫しないと陳腐化せざるを得ないテーマだけに説得力としての深さは残念ながら感じられず、感覚的な抽象論を政治外交という具体論の中に置いたときの居心地の悪さばかりが際立ってしまった。

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田原牧『中東民衆革命の真実──エジプト現地レポート』、臼杵陽『アラブ革命の衝撃──世界でいま何が起きているのか』、酒井啓子編『〈アラブ大変動〉を読む──民衆革命のゆくえ』

 チュニジア、エジプト、そしてリビアでも事実上政権が崩壊し、さらにシリア、イエメン、バハレーンなど周辺国にも波及した中東民衆革命の動向をどのように捉えたらよいのか、関心はあっても日頃馴染みがない地域だけに判断が難しい。ひと頃は民主化ドミノ、フェイスブック革命といった点が注目されたが、そういった表面的な見方がどこまで通用するのか心もとないと感じながら、現地を熟知している専門家による本を何冊か手に取った。

 田原牧『中東民衆革命の真実──エジプト現地レポート』(集英社新書、2011年)はエジプト民衆革命の結集点となったカイロのタハリール広場に潜り込んだジャーナリストの見聞の記録。旧世代の冷ややかな反応の一方、若者を中心に様々な人々が集まって一つにまとまった秩序が現れているのを見て「タハリール共和国」と呼び、新しい何かへの希望を見いだそうとする眼差しは、新左翼シンパ的なメンタリティーの著者に独特なものだろうか。

 臼杵陽『アラブ革命の衝撃──世界でいま何が起きているのか』(青土社、2011年)のタイトルは時事解説的なものを予想させるが、実際の内容は中東の歴史的背景の概説である。「中東」概念の再検討、ヨーロッパによる植民地化体験の影響、アラブ・ナショナリズムの重層性、アラブ・イスラエル紛争が中東全体の情勢に与えた影響、イスラームにおいて「民主主義」はどのように把握されるか、民族・宗教紛争などのテーマを軸としている。人によっては羊頭狗肉の印象を受けるかもしれないが、現在進行中の出来事に底流する大きな流れを見据えるにはやはり歴史的背景をしっかりおさえておかねばならず、そうした面での理解を得るのに適切なレベルの入門書になっている。

 酒井啓子編『〈アラブ大変動〉を読む──民衆革命のゆくえ』(東京外国語大学出版会、2011年)は中東における民衆革命の進展を踏まえて急遽開催された公開ワークショップの成果を基にした論集であり、冷静で着実な視点による論考が並んでいて勉強になる。関心を持った指摘をメモしておくと、
・現実問題として政治は権力関係の再編によって動くものであり、一般市民の抗議だけで動くわけではない。エジプトの場合、市民の抗議活動ではなく国軍がムバーラクを見限ったから政変が起こった。ただし、一般市民の「自分たちがムバーラクを退陣に追い込んだのだ」という思いそのものは彼ら自身の主体性確立、すなわちエンパワーメントという面で重要(松永泰行「エジプト政変をどう考えるか──比較政治の視座から)。
・従来は、逆らったら酷い目に遭わされるという恐怖感によって独裁政権は存続していたが、チュニジアのジャスミン革命以降、こうした恐怖心を克服できたことが政治的大変動を生んだ最大の原因ではないか。それから、民主化できないなどの問題点すべてをイスラームという要因に帰してしまう視点の誤謬(飯塚正人「イスラームと民主主義を考える」)。
・チュニジアやエジプトでデモの人々は治安警察には敵対したが、国軍には逆に信頼感→国軍を「自分たちのもの」と考える意識→この「自分たち」意識に着目してネイション(国民)形成のあり方の違いによって国ごとの事情を捉え返す視点(黒木英充「アラブ革命の歴史的背景とレバノン・シリア」)。
・エジプト革命の成功は、政権をひっくり返しすぎなかったから。つまり、大統領だけ退陣させて、国軍などそれ以外の部分は残して事態を収拾させたのは反体制運動側のうまさ(酒井啓子「エジプトの「成功」とリビアの「ジレンマ」──自力の政権交代パターンはアラブ社会に定着するか」)。
・ヨルダンのハーシム王家は首相に責任を擦り付けて交替させることで国民の不満が噴出しないよううまくガス抜き調整をしている(錦田愛子「ヨルダン・ハーシム王国におけるアラブ大変動の影響」)。

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2011年9月 4日 (日)

上丸洋一『『諸君!』『正論』の研究──保守言論はどう変容してきたか』

上丸洋一『『諸君!』『正論』の研究──保守言論はどう変容してきたか』(岩波書店、2011年)

 著者は朝日新聞編集委員で、かつて『論座』編集長も務めた。保守系論檀紙とされる『諸君!』(文藝春秋)と『正論』(産経新聞社)の創刊事情から、核武装論、靖国問題、東京裁判、天皇の戦争責任、朝日新聞批判、北朝鮮問題などのテーマをめぐってこの二誌に登場した論客たちがどのような議論を展開してきたのかを跡付ける。

 『諸君!』『正論』などに執筆する保守派・右派の論客たちの多くに共通する特徴として、イデオロギー的な二項対立に基づき進歩派・左派とみなした論敵に対して排他的に攻撃を加える傾向が指摘される。しかしながら、本書にしても冒頭で紀元節復活論から説き起こしていることからうかがえるように、分析対象とする上記二誌に対して予め色づけをした上で批判を加える図式になってしまっているのは、立場は違えどもやはり同様の落とし穴にはまっているのではないか、という疑念を感じてしまう。稲垣武『「悪魔祓い」の戦後史』(文藝春秋)と合わせて複眼的に読んでみると面白いだろう。

 上記二誌にはもちろんファナティックな右派も登場するが、他方で、かつて進歩派的傾向が論壇の主流であった時代、そこからはみ出した様々な言論人が発言の場としてこの二誌に寄稿したケースも多く、その中には左右を問わずファナティックな言論に対して批判的なバランスのとれたリベラリストも確固として存在した。本書の二誌に対する色づけは論旨を明確にするための戦略的な書き方であろうことは理解する。しかし、公平を期するためとして例えば林健太郎、福田恒存、猪木正道などの議論も紹介しているにしても、保守派の良質な部分まで一括りにした誤解を読者に与えかねないところはいただけない。ただし、こうしたかつてきちんと筋を通していた論客の議論と比べて、最近のセンセーショナリズムに走った保守論壇の議論の質が劣化しているという見立てには私も賛成である。

 あとがきで、この二誌に登場しても一、二年で消えてしまう執筆者の例として具体的にある人の名前を挙げている。すぐ消えてしまうライターの書くことなど信頼できないと言わんばかりだ。その人物を国会図書館の雑誌記事検索で調べてもその後は出てこないと書いているが、実はこれはある研究者のペンネームである。そのペンネームを雑誌記事検索ではなく書誌一般検索に入力すると、本名で書いた著書もヒットして表示される。だから、しっかり調べていれば現在も活躍中の人物であることが分かったはずだ。調査の詰めが粗いにもかかわらず憶測で余計なコメントを付け加えている箇所がところどころ気にかかった。

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【映画】「シャンハイ」

「シャンハイ」

 1941年10月、アメリカ系新聞社の上海支社にドイツから転任してきたポール(ジョン・キューザック)。彼は実はアメリカ海軍の諜報部員である。親友であった同僚が上海での任務中に何者かによって殺害された事件の真相に迫ろうとするうち、日本海軍の不審な動向に気づく。日本軍と取引をしている上海裏社会の実力者(チョウ・ユンファ)、密かに抗日レジスタンスに従事しているその妻(コン・リー)、そして敏腕の日本軍将校タナカ大佐(渡辺謙)、彼らの愛憎劇も絡みながら運命の12月8日を迎える──。

 ストーリーの脈絡が意味不明でサスペンスとしてだらけているし、時代考証も全然話にならず、結論としてはダメ映画。揚げ足取りを始めたらキリがないけど、上海にドイツ租界なんてないし。日本海軍の東シナ艦隊なんて聞いたことないし。一緒に観に行った友人は軍服が変だと指摘していたし。1941年12月8日の時点では上海で市街戦なんてやってないし(1932年および1937年の上海事変と混同しているのか)。上海近辺は汪兆銘政権の勢力範囲とされていたから事実上すでに日本軍が掌握しており、共同租界工部局は開戦後も政治的配慮からしばらく存続され、フランス租界はヴィシー政権の管理下にあった。抗日テロが頻発していたのは確かだが、12月8日の時点で戦闘らしきものと言えば黄埔江に碇泊していたイギリスの駆逐艦が撃沈されたくらいだ(なお、このときアメリカの駆逐艦もいたが、素直に降伏したのでアメリカ海軍の戦史では汚点とされている)。

【データ】
監督:ミカエル・ハフストローム
2010年/アメリカ・中国/104分
(2011年9月3日、丸の内ピカデリーにて)

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【映画】「選挙」

「選挙」

 2005年、小泉旋風で自民党が圧勝した郵政選挙の直後、川崎市議会議員選挙の補欠選挙に自民党の公募に応じて出馬することになったある人物の選挙活動を追ったドキュメンタリー映画。世界中の様々な映画祭で評判になったことは知っており気になっていた作品だが、DVDでようやく観た。地域の人々から支援を得るため、街中を歩き、駅頭に立ち、幼稚園の運動会やお祭りなどにも積極的に顔を出す。地元密着型タイプの選挙のやり方を見ていると、ジェラルド・カーティス『代議士の誕生』を髣髴とさせる映像的エスノグラフィーとも言えるが、選挙という切り口から日本の郊外型住宅地の風景が映し出されているので、外国人になったつもりで観るとまた新鮮で面白いとも思った。慣れない新人候補は、地元の既成政治家や選挙対策のプロに頭が上がらない。某与党の一年生代議士たちは選挙で世話になった大物実力者にたてつけないらしいが、それはこの作品の登場人物と似たような事情なのかもしれない。

【データ】
監督:想田和弘
2007年/120分

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【映画】「友よ その罪を葬れ」

「友よ その罪を葬れ」

 劇場未公開らしく、DVDで観た。主人公は大学法学部の教授ポストを切望している気鋭の法学者。彼を推薦してくれている学部ナンバーツーとは家族ぐるみで付き合っている年上の親友という関係だが、ある日、その親友が若き妻を殺害する瞬間を目撃してしまった。彼をかばって黙っているべきなのか? しかし、事件がばれそうになった親友が再び殺人を犯したとき、彼も共犯となってしまう。生真面目な法学者としてのセルフ・イメージ、親友への思い、教授ポスト選考をめぐる打算、家族との関係、そして良心、様々な要因から葛藤に揺れる表情が克明に描かれており、サスペンス・ドラマとしてよく出来ていると思う。

【データ】
監督:フアン・マルティネス・モレノ
2009年/スペイン/97分

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【映画】「リンダ リンダ リンダ」

「リンダ リンダ リンダ」

 ペ・ドゥナも山下監督作品も好きなのだが、この映画は意外と観ていなかったことに気付いてDVDでようやく観た。舞台は地方都市の高校の文化祭。ステージにあがる予定だった少女バンドのメンバーが怪我をして、仲間同士のケンカもあって空中分解しそうだったところ、ひょんなきっかけで韓国人留学生をヴォーカルに引き込んで新メンバーでやり直そう、という話。ブルーハーツの「リンダ リンダ リンダ」という曲を私は知らないけど、嫌味のない青春ものとしてなかなか良いと思う。地方都市の高校という舞台設定から淡いノスタルジックな「青春」イメージがかき立てられるところに意外と魅力があるのかな。

【データ】
監督:山下敦弘
2005年/114分

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