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2011年7月24日 - 2011年7月30日

2011年7月28日 (木)

佐藤忠男・刈間文俊『上海キネマポート』、佐藤忠男『キネマと砲聲──日中映画前史』、清水晶『上海租界映画私史』、辻久一『中華電影史話──一兵卒の日中映画回想記1939~1945』、劉文兵『映画のなかの上海──表象としての都市・女性・プロパガンダ』、他

 佐藤忠男・刈間文俊『上海キネマポート』(凱風社、1985年)は、映画評論の佐藤忠男と中国文学の刈間文俊との対談を中心に、それまで日本ではよく知られていなかった中国映画の見直しを図る。中国映画概論的な内容ではあるが、タイトルに上海とあるのはやはり中国では映画の中心がもともと上海だったからであろう。主な作品の梗概が掲載されているので資料的にも参考になる。佐藤が、戦前上海映画のモダニティにエルンスト・ルビッチの影響があるのを知り、同時代の日本映画のモダニティと共通するという意味で近い関係にあると喜んでいるのが興味深い。後半は刈間による中国映画通史。中国に映画が持ち込まれたのは1896年で日本とほぼ同時期、1904年にスペイン人ラモスが上海・四馬路の青蓮閣で上映したのが興行映画の最初であった。当初はフランス映画が中心だったが、第一次世界大戦を転機にアメリカ映画が流入、ハリウッド映画が圧倒的な優勢を誇るようになる。中国の国産映画としては、1913年の亜細亜影劇公司が最初、ただしこの時期は会社としての体制が整っていなかったが、1918年から商務印書館の映画部門が製作を開始、1922年設立の明星影片公司が本格的な映画製作を始める。1930年代が黄金期で、羅明祐が上海で設立した聨華影業製片公司が有力となった。他方、左翼映画も活発となり、国民党政権から弾圧を受けたほか、新感覚派の劉吶鷗たちから映画としての芸術性がないと批判もされた。1930年代後半は日本軍が上海を占領、戦後は国民党が日産接収によって映画関連施設を手中にする。中華人民共和国成立後間もなくの1951年、毛沢東による「武訓伝」批判はその後の右派批判の烽火となった。上海の民間映画会社は徐々に国有化が進められ、1955年には完了した。

 清水晶『上海租界映画私史』(新潮社、1995年)は、清水自身が勤務していた折の見聞をもとに中華電影公司をめぐる経緯をまとめている。川喜多長政が日中の架け橋になろうとしたことには同情的で、他のエピソードも興味深い。辻久一(清水晶・校注)『中華電影史話──一兵卒の日中映画回想記1939~1945』(凱風社、1987年)も同様に中華電影に在籍した映画人の回想である。辻自身もともと映画評論を生業としていたが、1939年に召集されて中支那方面派遣軍の上海軍報道部に勤務、映画部門を担当し、1943年5月に除隊した後も引き続き嘱託として報道部に在籍しながら中華電影の社員となった。1941年12月8日、日本軍の上海共同租界進駐時には川喜多にお願いして一緒に中国人経営の撮影所の接収に回る。その描写には臨場感があるが、川喜多が流暢な中国語で腹を割って話し合い、説得する姿に感心するなど彼の信念への敬意もにじみ出ている。戦後の正統的な中国映画史からは抹消された作品群にもページが割かれる。

 陸軍等の対中国文化工作の一環として1939年、上海に設立された中華電影公司(董事長は汪兆銘政権外交部長の褚民誼が兼任。株式の50%は汪兆銘政権、25%は満映、25%は日本の民間映画会社による投資組合)、その運営責任者としては映画事業の実績ばかりでなく堪能な中国語力が評価された川喜多長政に白羽の矢が立った。彼自身は軍部の方針に対して異論があったが、別の人間が行くと中国に対してもっと無神経なことをやりかねない。やむをえず腹を括って川喜多は上海に渡る。彼は中華電影は配給専門として、自前の映画を製作する意図はなかったという。中国人監督や俳優はもし日本側に協力したら漢奸とみなされてテロの対象になる恐れがあったし、そもそも自前で作っても元々盛んだった上海映画の代用品にはならないと考えたからである。当時、上海の共同租界には日本軍といえども踏み入ることはできず、いわば「孤島」となっており、その中で息を潜めていた抗日的意識を持つ知識人や映画人たちとの関係をつなぎとめておきたいという意図が川喜多にはむしろあった。中国人プロデューサーの張善琨(中国聨合影業公司)と協力関係を築き、彼が製作した「木蘭従軍」は中国の古典を踏まえつつ抗日意識が秘められているのではと日本側当局からにらまれたときにも積極的に擁護、これが中華電影による配給第一作となった。汪兆銘政権による対英米宣戦布告、汪政権への租界返還など日本の政策変化に応じて、1943年5月、中聨など分立していた映画関連会社を合併して中華聯合電影公司が成立、華南・華中の映画製作・配給を一手に担うことになる(華北には華北電影公司があり、こちらは満映の影響下にあった)。引き続き副董事長として実質的な経営にあたっていた川喜多は、逮捕された中国人映画関係者の釈放に掛け合うなど軍部からの圧力への防波堤的役割を果す。華影にいた中国人映画関係者は日本のプロパガンダに協力しないで済み、そのため漢奸容疑を受ける者は出なかったという。国策映画が中心となった満映と中国人の主体性をできるだけ重んじようとした華影、両者の違いはもちろんその置かれた政治力学的コンテクストによるところが大きいだろうが、それぞれの指揮を取っていた甘粕正彦と川喜多長政という二人のパーソナリティーの相違が与えた影響も興味あるところだ。

 こうした戦時下における日中映画人の葛藤については佐藤忠男『キネマと砲聲──日中映画前史』(岩波現代文庫、2004年)が上海の映画界と満洲映画協会をめぐる人物群像にスポットライトを当てながら描き出している。戦後もしばらく残った日本人映画関係者などのエピソードも興味深い。日本による中国侵略というナーバスな事実に配慮して日本映画人の良心を過度に持ち上げる態度は抑えつつも、それでも彼らの努力はできるだけ汲み上げようとしている。中聨や華影で中国人が製作した映画は、上海が日本軍に占領されているという事情から政治性を避けざるを得ず、従って逃避的で低調なものとなってしまったものが多いし、その後の中国における正統的映画史でも批判もしくは黙殺されがちであった。そうした「暗黒時代」の中でも馬徐維邦監督「夜半歌声続集」(1941年)や「秋海裳」(1943年)、「萬世流芳」(1943年)などの作品には映画的にすぐれたものを、時には見過ごされている秘められた抗日意識までも読み取っている。

 劉文兵『映画のなかの上海──表象としての都市・女性・プロパガンダ』〔慶應義塾大学出版会、2004年〕は、ハリウッド映画や戦時中の日本映画に表れた上海イメージから社会主義中国のプロパガンダ映画まで、主に都市や女性の描き方やオリエンタリズムといったテーマに焦点を合わせ、上海という都市がはらんだ映画表象の多元的重層性がステレオタイプの反復によって形成されてきた力学を読み解こうとする。いわゆるレトロモダンな上海イメージは日本、台湾、香港の映画で生み出されつつ、中国第5世代の監督たちがハリウッドの上海イメージに回帰したという指摘は、確かにその通りだなと思った。

 なお、映画という視点から日本と中国の戦後交流史を描いた劉文兵『中国10億人の日本映画熱愛史──高倉健、山口百恵からキムタク、アニメまで』(集英社新書、2006年)、同『証言日中映画人交流』(集英社新書、2011年)も興味深い。例えば、佐藤純彌監督、高倉健主演の「君よ憤怒の河を渉れ」という映画を記憶している日本人は少ないと思うが(私自身観たことがない)、中国では圧倒的に人気があったというギャップ、これはどうしたわけなのかを考えることはそのまま当時の中国社会事情を分析することにつながる。

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2011年7月24日 (日)

【映画】「遥かなるふるさと──旅順・大連」

「遥かなるふるさと──旅順・大連」

 記録映画の女性監督として先駆的に幅広いジャンルの作品を発表し続けてきた羽田澄子さんは1926年の生まれだからすでに80代半ば。心筋梗塞で倒れたこともあり身体的に移動には困難を伴うが、それでも今回選んだテーマは旅順・大連──羽田さん自身の生まれ故郷である。旅順生まれの日本人の運営で日中交流のため現地の小学校への支援を続けている団体が企画したツアー旅行に参加、思い出の地を一つ一つ訪ね歩いていく。

 父親が大連にある学校で教師をしていたため羽田さんはこの地で生まれた。父親の転勤に従って日本に行った後は旅順に定着、戦時中に東京の自由学園に通っていた次期を除くと、1948年の引揚まで旅順に住んでいた。家族がそろって幸せに暮らしていたのは旅順にいた頃だったとしみじみと思い返す。しかし、まさに大陸で戦火が拡大しつつある時期であり、しかも植民者たる立場にあったことを考え合わせると、そのノスタルジーは実に複雑だ。中国の地に暮らし続けていたにもかかわらず、中国の人々の存在がほとんど眼中になかったことへの自覚は、ノスタルジックな感傷の中にもある種の贖罪意識を同時に伏流させることにもつながったのだろう。

 旅順は軍港として外国人の立入りが制限されていたが、近年開放されたこともこの映画を成り立たせるきっかけになっている。往年の建物や遺跡はよく保存されているようだ。水師営の乃木・ステッセル会見の建物が復元されていたり、乃木の息子が戦死した場所の碑文も残されていたりするのは、日本人観光客を当て込んでのことだろうか。ロシア人が残した西洋式の街並や、朝鮮戦争に極秘に参加して戦死したソ連軍パイロットの墓所の存在にも触れるなど、ロシア(ソ連)・日本・中国と三層構造をなす歴史的地層が垣間見えてくるところも興味深い。羽田さん一家がかつて住んでいた家屋は現在アパートのように分割されて3家族が住んでいる。わざわざ日本から訪ねてきたと聞くと、どのお宅も快く中へ招じ入れてくれるのは心温まるところだ。

 大連の旧ヤマトホテル、旧満鉄本社ビルなどは写真やテレビの映像で見たことはある。しかし、かつてこの地に暮らした人の「私語り」を通すと、単に政治史や建築史のコンテクストで見るのとは違って、思わずもらすつぶやきやため息から体感的な空気が浮かび上がる。例えば、かつてのたたずまいを残す壮麗な建築も今では林立する高層建築の前で威厳はかすんでしまっているが、そうしたことへの驚きも素直に伝わってくる。他方で、博物館へ行けば、かつて日露戦争のとき中国人が多数殺されたことを昔ここに暮らしていた時には知らなかったことを今さらのように思い知らされる。「私語り」だからこそ歴史の奥行きが立体的に見えてくる、そうしたドキュメンタリーとして観ながら興味が尽きなかった。

【データ】
監督:羽田澄子
2010年/110分
(2011年7月24日、岩波ホールにて)

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武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す──秋瑾女士伝』、山崎厚子『秋瑾 火焔の女』

 秋瑾というと、日本式の小刀を構え、日本髪を結った和服姿の凛々しい写真が思い浮かぶ。日本留学時に撮影されたものだが、このアンバランスな装いに漂う悲壮感は誰の目にも印象的なようで、日本で彼女を取り上げた本は必ずこの写真を採録している。中国の愛国烈士が日本式の装いをしている写真は考えようによっては奇異でもあるが、秋瑾が留学していたのはちょうど日露戦争の最中で、日本の大陸侵略は本格化しておらず、従って中国では近代化への志がまだ日本への憧れと結び付いていた頃であった。

 秋瑾は1875年に紹興で生まれた。魯迅たち兄弟と同郷である。挙人を代々輩出した名家であり、彼女自身も文武に秀でた才能を幼い頃から示していたが、まだ女性の社会進出が認められていない時代、やはり名門の家に嫁いで行った。宮仕えをする夫に従って北京へ行き、ここで出会った人々から大きな影響を受ける。とりわけ、京師大学堂教授として北京に来ていた服部宇之吉の夫人が世話役をしていた夫人たちの社交会に出入りしたことは秋瑾の気持ちにさらなる火をつける。保守的な夫の反対を押し切って1904年、29歳のとき日本へ渡り、下田歌子の実践女学校に入学。東京では革命家たちと交流、男の彼らよりも秋瑾はさらに過激な主張を展開して驚かせる。気持ちの焦る彼女は、実践女学校で留学生の待遇への不満から衝突したこともあって、翌1905年に帰国。故郷の紹興で教師をしていたが、同志である徐錫麟の武装蜂起に連座して、1907年に処刑された。享年33歳。

 秋瑾をテーマとした本で、武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す──秋瑾女士伝』(筑摩叢書、1976年)と山崎厚子『秋瑾 火焔の女』(河出書房新社、2007年)の二冊に目を通した。前者が自らの身を殺しても仁をなすというタイプの直情型革命家として描いた評伝であるのに対して、後者は小説形式であり、熱血タイプとして捉える点は同じだが、古い因習にとらわれた女性の地位を解放しようという意気込みに叙述の力点が置かれる。

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