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2011年7月3日 - 2011年7月9日

2011年7月 9日 (土)

上海について適当に12冊

 中国の中でもいち早く国際的に開かれて経済的・文化的に顕著な発展を示した一方、それは租界を通じたものであったがゆえに半植民地化という中国史のマイナス面をも体現、光と影の両面を抱え込んだ都市・上海。榎本泰子『上海──多国籍都市の百年』(中公新書、2009年)は1843年にイギリスが租界を設置して以降、約百年にわたる上海の近現代史に足跡を残した人々の姿を国籍別に捉えていく。自由都市としての基盤を築き上げたイギリス人。消費文化的ファッションを持ち込んだアメリカ人。革命を逃れてやって来て音楽・演劇・舞踊などクラシカルな文化をもたらしたロシア人。商人ばかりでなくナチスの迫害を逃れてこの自由都市へ難民として流入したユダヤ人。繁栄期には上海最多の外国人となり、中国との間に愛憎こもごもの関係を持った日本人。そして、政治的・経済的な実力を着実に蓄えながら最終的にこの都市を取り戻す中国人自身。外国から来た人々がそれぞれ何を残していったのか、国際都市上海の多面的な様相が浮かび上がってきてとても読みやすい良書。

 村松伸『上海・都市と建築1842─1949』(PARCO出版、1991年)は豊富な図版や写真を用いながら上海という都市空間の生成過程を分析した本格的な建築史論。最初にやって来たイギリス人はインド経由なのでヴェランダ付のコロニアル様式で邸宅を建てたが、やがて土地柄に合わないことに気づく。アン女王復古様式、ネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式を経て、サッスーン財閥の土地経営戦略はアール・デコ調の高層建築を現出、その摩天楼は古き上海のイメージを形成した。当時の建築の多くを請け負っていたのがパーマー&ターナー設計事務所(横浜正金銀行もここが手がけた)。やがて留学帰りの中国人建築家も育ち、1920年代から中国国内で租界回収の主張が高またのを受ける形で租界に対抗するため孫伝芳、さらには蒋介石が「大上海計画」を提案、しかし上海事変によって計画は頓挫。これを受け継いだのが皮肉なことに日本軍だった。都市計画を委嘱された前川国男がモダニストとして国際様式への意気込みから(日本化を進めた満州国でのやり方には批判的)、日本国内では実現できないプランを持ち込もうとしたらしい。建築にまつわる人物群像も含めて非常に興味深い本だが、少し難しいと感じる人には村松伸(文)・増田彰久(写真)『図説 上海──モダン都市の150年』(河出書房新社、1998年)がおすすめ。増田彰久は建築探偵・藤森照信の本の写真でもおなじみの人だ。建築・都市論としては藤原恵洋『上海──疾走する近代都市』(講談社現代新書、1988年)もある。刊行年は少々古いが、その頃の様子も垣間見えるところが興味深い。なお、本書の著者も路上観察学会の人のようだ。

 劉建輝『増補 魔都上海──日本知識人の「近代」体験』(ちくま学芸文庫、2010年)は幕末以降、日本の知識人が上海体験を通して何を受け止めてきたのか、その精神史的系譜をたどる。当初は上海が租界を通して受容していた「近代性」への憧れ、他方で外国支配への警戒心をかき立てられ、これらは明治維新へと進む駆動力の一つとなった。いったん国民国家形成に成功すると、今度は体制確立による息苦しさから上海の混沌とした「反近代性」(すなわち「魔都」イメージ)にロマンを感じるようになる。上海のモダニズム(摩登)は帰属の曖昧な内外文化の混沌たる状態に由来するわけだが、その混沌を画一性へと収斂させてモダニズムを消滅させたのが、第一に日本軍の上海租界占領、第二に新中国成立による社会主義化、両者の合作によるという指摘が興味深い。

 上海を舞台とした日中の知識人群像については丸山昇『上海物語──国際都市上海と日中文化人』(講談社学術文庫、2004年)が詳しい。尾崎秀樹『上海1930年』(岩波新書、1989年)は尾崎秀実、魯迅、スメドレー、ゾルゲなど、著者のライフワークたるゾルゲ事件関連の人物群像を中心に描き出している。

 海野弘編『上海摩登』(冬樹社、1985年)は1934~35年にかけて上海で出版されたナンセンス系風刺漫画雑誌を採録・再編集。中国語の「摩登」とはモダンの意味。1920~30年代にかけてヨーロッパや日本で花開いたモダニズム文化と共振していた雰囲気がうかがわれて面白い。ただし、ダダ的雰囲気を出そうとしたのだろうけど組版が凝りすぎて少々読みづらい。原本は竹内好の所蔵品らしい。

 荘魯迅『上海 時空往来』(平凡社、2010年)は著者自身の故郷への愛着がこもった眼差しが特徴。古今のエピソードで彩りながら上海の歴史をつづる。こちらまで食欲をそそられる思い出の料理の味わい、そして文化大革命で苦難を味わった家族や自身の記憶、こういった時折交えられる私的エピソードは叙述に体感的な奥行きを感じさせる。

 竹内実『中国という世界──人・風土・近代』(岩波新書、2009年)は中国の文化的特質を総論的に示そうとしているが、近代については上海に代表させて論じている。

 田島英一『上海──大陸精神と海洋精神の融合炉』(PHP新書、2004年)は大陸の中華世界と海洋文化との接点として上海が興隆した背景を捉える。著者自身の留学体験やナショナリズム論なども交えられている。

 渡辺浩平『上海路上探検』(講談社現代新書、1997年)の著者は1980年代初めに上海へ留学、その後90年代に今度は企業の駐在員として上海に滞在。この間の変化を踏まえながら上海の日常生活を紹介してくれる。

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2011年7月 3日 (日)

【映画】「愛の勝利を──ムッソリーニを愛した女」

「愛の勝利を──ムッソリーニを愛した女」

 第一次世界大戦勃発直前の時期、後年の独裁者ベニート・ムッソリーニがまだイタリア社会党機関紙「アヴァンティ(前進)」の編集長だった頃、政府の弾圧にもめげない彼の闘争的な野心に惚れ込んだ女性イーダ。戦争支持を打ち出したムッソリーニは党の方針に反したと批判されて孤立無援、そんな彼が新たな新聞を発行するにあたってイーダは自らの全財産を渡すなど献身的につくす。しかし彼にはすでに家族があり、他の女性にも目移りしてばかり。権力の階段を駆け上がる彼にとってイーダは目障りとなった。彼女は精神病院に押し込められ、歴史の闇へと葬り去られる──。

 男に裏切られて無理やり“狂気”を押し付けられた女性の悲劇──表面的にはそうしたストーリーのように見える。しかし、彼女がそもそも惹かれたのはムッソリーニの狂的なまでのすごみであって、そのデモーニッシュな力への熱狂的な献身は彼女自身のプライドと密接につながっていたのではないか。自分はドゥーチェと特別な関係にある、他の人間とは違うんだという強烈な自意識。それは人的動員にあたって情緒面で作用する重要な要因だ。弊履の如く捨て去られてもなおかつすがり続けるのは、愛なんて美しいものではなく、実はムッソリーニに投影された他ならぬ彼女自身の強烈な自意識過剰であろう。その意味で、彼女を通してファシズムという政治社会現象の心理的一側面を描き出していると言えるだろうか。少なくとも私はそのように観た。

 モノクロの実写映像や過去の映像作品(例えば、ロシア革命のシーンはソ連映画「11月」ではないか)を独特な様式美で随所にコラージュする構成は、時代背景の緊張感を出すと共に象徴的な意味合いをも際立たせる。暗がりの中で人物の表情をとらえるショットが印象的だ。イーダの憂いを帯びた表情、それから彼女と愛し合っている時でさえもギラギラと光るムッソリーニの野心満々の目つき。ベロッキオ監督の映画では以前、過激派によるモロ元首相誘拐・殺害事件を題材とした「夜よ、こんにちは」を観たことがあるが、この映画でも暗がりの中でとらえられた人物それぞれの表情が印象的だった覚えがある。

【データ】
監督:マルコ・ベロッキオ
2009年/イタリア/128分
(2011年7月3日、シネマート新宿にて)

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青木正児『江南春』、中砂明徳『江南──中国文雅の源流』、司馬遼太郎『街道をゆく19 中国・江南のみち』

 江南という言葉でまず思い出すのは、青木正児(「まさる」と読む)が中国文学・文化について薀蓄を傾けたエッセー集『江南春』(平凡社・東洋文庫、1972年)。タイトルとなっている一編は、大正11年の3月から5月まで2ヶ月ばかり、蘇州・杭州・揚州・南京など江南の地に滞在した折の記録。物売りとのやりとりとか、中国人のおのぼりさんから「あの山は何か?」と尋ねられて適当な返事をしてしまったり(方言的な差異が大きいから起こり得たハプニングだろう)、気取らない筆致。他方、現地に行ってみれば夢に見たのとは相違して殺風景だったりすることもあるが、そういうところでも豊かな中国古典の知識からイマジネーションをふくらませて強引にでも何がしかの感興を引き出そうとしているところがなかなか読ませる。

 北方が遊牧民族系王朝に支配され、中華文明の正統は江南に移ったと一般に言われる。中砂明徳『江南──中国文雅の源流』(講談社選書メチエ、2002年)は、南宋の成立以降、北方から移植されて花開いた江南文化が、南北関係の中でなぜ優位になっていったのか、その過程を考察する。都市経済の発展によって社会的流動化が進み、広域的な人の動きが現れる。江南の地における美術市場の形成、出版の普及などの要因はさらに全国規模に押し広げられていく。蘇州の雅、福建の俗という対比が興味深い。

 司馬遼太郎『街道をゆく19 中国・江南のみち』(朝日文庫・新装版、2008年)は蘇州・杭州・紹興・寧波を歩いた記録。『街道をゆく』シリーズはその都度関心のあるテーマの巻を拾い読みしているが、旅の情景描写とそれぞれの土地にまつわる歴史的背景とをバランスよくたくみに織り上げていく司馬遼太郎の筆致には毎回うならされる。古代史に思いをはせ、『空海の風景』を書き上げたときに勉強した仏教史の知識も動員して、海を挟んだ日中交渉史の一端をもさり気なく描き出してしまう。一見さり気ないが、小説を書くときには、たとえば空海や最澄はどんな船に乗ったのか、それはどんな技術水準だったのか、そういったディテールにまでこだわらないとシーンが成立しない。従って事前調査も相当なもので、奥行きのある学識に裏打ちされたイマジネーションが司馬の魅力だと再確認。

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喜多由浩『北朝鮮に消えた歌声──永田絃次郎の生涯』

喜多由浩『北朝鮮に消えた歌声──永田絃次郎の生涯』(新潮社、2011年)

 かつてプッチーニ「蝶々夫人」で三浦環の相手役をつとめ、藤原歌劇団では主宰者・藤原義江と交代で主役をはるほどの実力を持っていたテノール歌手、永田絃次郎。本名は金永吉。植民地時代の朝鮮半島に生まれたが日本で活躍、その後、北朝鮮への帰還事業で帰国したものの行方不明となった永田の生涯を描き出したノンフィクションである。

 1909年、平壌近くの農村で生まれた少年は音楽を志し、東京の陸軍戸山学校軍楽隊に入学、見事に首席で卒業して銀時計をもらった。その後、除隊して通った下八川声楽研究所では東海林太郎と共に頭角を現す。ただし、コンクールには何度挑戦しても二位どまり。植民地出身者への差別待遇があったと言うべきだろう(なお、台湾出身の江文也も同様であった)。それでも彼の実力は広く認められ、一躍スターダムへと駆け上がっていく。

 1960年に永田は家族を連れて北朝鮮へ帰国した。人気に翳りが出てきたため仕切り直しを図りたいという気持ちもあったようだ。帰国当初は、同郷の金日成から可愛がられていたこともあって華々しく活躍できたが、北朝鮮の一筋縄ではいかない国情にやがて直面することになる。外国の歌を歌えなかったり、海外公演へ行かせてもらえない不満がつのる。日本から連れ帰った日本人妻がもらした里帰りの希望は当局者からマークされた。金日成お気に入りという立場は、他の者からの嫉妬をかうことにもなり、永田がかつて日本にいた頃、“軍国主義賛美”の歌を歌っていたことは「親日派」として糾弾の材料となってしまう。やがて彼は表舞台から遠ざかり、1985年に病死。そういった事実が公になったのはようやく2010年になってのことだという。

 芸術家としての永田はただひたすら純粋に歌いたかった。植民地支配下で朝鮮半島出身者が差別待遇を受けていたことに当然反感はあったろうが、そうした時代状況の中でも彼は歌うために「日本人」になりきろうとしたし、逆に北朝鮮に戻ってからは自ら舞台に立つために「日本の悪口」を言うことにもなった。敵か見方か、画然たる態度表明を強いられる政治的アイデンティティーの中で、純粋に“芸術家”であり続ける余地のなかった葛藤、それが永田の生涯から浮かび上がってくる。台湾出身、日本で活躍、その後中国大陸へ渡って文化大革命で迫害された音楽家・江文也と比較しながら考えてみると興味深い。

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