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2011年6月26日 - 2011年7月2日

2011年6月28日 (火)

エリック・ミラン『資本主義の起源と「西洋の勃興」』

エリック・ミラン(山下範久訳)『資本主義の起源と「西洋の勃興」』(藤原書店、2011年)

・著者はウォーラーステインの弟子で、世界システム論の手法に則って議論が進められる。資本主義の起源をめぐって、マルクス主義や近代化論が産業革命重視・中世経済停滞史観を取り、また師匠のウォーラーステインの世界システム論も16世紀以降にこだわっているのに対して、本書は15世紀以前からすでに資本主義の特徴は見られると指摘、中世からの連続性の中で資本主義の起源や13世紀以降の「西洋の勃興」を捉え返す議論を展開。とりわけ都市国家という要因を重視。
・中国、南インド、北アフリカのイスラーム世界との比較を通してヨーロッパの特徴を捉える。前者の世界においては政治的領域と経済的領域との隔たりが大きく、商人階級が権力に接近するための制度的な居場所がなかった。商人の活動に対する国家による支援の不在。
・ヨーロッパの場合、その居場所が都市国家。ヨーロッパの貴族層は非ヨーロッパ世界の貴族と比べて相対的に貧困→政治的権力に限界→都市は納税等の見返りとして特権や自律性を獲得。富裕な商人や都市に基盤をおくブルジョワジーが政治的権力をもつことが資本主義システムの形成に不可欠な要件。
・都市国家は隣接する農村から安価な原材料、労働力、課税などを獲得→こうした都市/農村関係は後に中核/周辺という関係のプロトタイプとなる。
・富の蓄積自体はアジア、アフリカ、ヨーロッパを通してどの地域でも見られた。しかし、植民地化、搾取、中核による従属的周辺の支配という過程の推進から資本を蓄積するという体系的な政策は、ヨーロッパの商人によって着手された例外的なプロセス。ヨーロッパにおいて都市が隣接する農村を支配→このプロセスが非ヨーロッパ地域へ拡大して、商業的帝国主義に立脚した資本主義システムへの道が現れた。都市国家はこうした動態における「権力の器」として作用→1500年以降はこの役割を国民国家が果たすことになる。

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2011年6月27日 (月)

秋山孝『中国ポスター/Chinese Posters』、武田雅哉『よいこの文化大革命──紅小兵の世界』

 秋山孝『中国ポスター/Chinese Posters』(朝日新聞出版、2008年)は中華人民共和国成立から改革開放、そして四川大地震までに至るポスターの変遷を見ながら中国現代史をたどる。図版が豊富でなかなか見ごたえある。ほとんど例外なく人物画中心で、みんなキリッとした表情。こんなのばかり続くと、かえって不気味ではあるのだが…。人物なしのデザイン中心のポスターは本当につい最近になるまで現れないのだな。それから、どの時代も紅色がふんだんに使われ、とりわけ文革期、赤旗ブンブン振り回してた中、「毛主席安源へ」のさわやかな青色には独特な清涼感を感じてしまった(この絵は牧陽一『中国現代アート』[講談社選書メチエ、2007年]でも見覚えある)。華国鋒をメインにしたプロパガンダ・ポスターはどう見ても様にならず、毛沢東のキャラの立ち方はやはり尋常ではなかったのかと再確認。林彪はどれも帽子をかぶっているのはなぜか。禿頭は腐敗した悪人の決まりキャラなので、帽子で禿を隠さねばならなかったそうだ。失脚・死亡後、林彪批判のポスターでは帽子を取り上げられ、禿頭が強調されることになる。

 武田雅哉『よいこの文化大革命──紅小兵の世界』(廣済堂出版、2003年)が取り上げるのは文革期の少年向け雑誌『紅小兵』。紅衛兵の少年少女、いわばピオニールたちが読者層。ワイワイ、ドタバタ、いたずらしたいお年頃、そんな子どもたちにとってオトナいじめという面白い遊びの格好な口実となったのが文化大革命、と言ったら言い過ぎか? その時々の風向き次第ではあっても、プロパガンダを真に受けた生真面目な突き上げ、これがまた妙におかしみを感じさせてしまうのは、キッチュな時代のせいか、著者の軽妙な筆力のおかげか。ちなみに、本書でも林彪を例として禿頭の図像学に言及あり。

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2011年6月26日 (日)

平井京之介『村から工場へ──東南アジア女性の近代化経験』

平井京之介『村から工場へ──東南アジア女性の近代化経験』(NTT出版、2011年)

 タイ北部の日系工場に潜り込んで行なったフィールドワークに基づくエスノグラフィ。タイ人インフォーマントの家に下宿、工場労働の様子ばかりでなく、稲刈りの手伝いで伝統的な仕事観も実地に観察して比較対照され、さらに女性労働者たちの余暇の過ごし方や家庭生活についての聞き取りも合わせ、工場労働によってもたらされた近代性がタイ農村社会の中でどのように受容されたのかを分析する。人間関係的なプロセスの中でどのような相互作用が起こっているのか、具体的に描き出されているところが興味深い。

 読む前には外国資本による搾取や文化的摩擦といった問題を先入見として持っていたが、実際にはそれほど緊張したものではないようだ。工場システムの中に入っても、農村で働くのと同様な伝統的な行動パターンで現場は動いている。調査対象が農村の中にある工業団地にあるため、労働者たちに自宅通勤が多いこと、また慢性的な労働不足で離職にためらいはなく、こうしたことがマネジメントに対する抵抗力となっているという。また、タイ人労働者は、民族的優位性/劣位性や職位的上下関係よりも業績評価的な眼差しで日本人マネージャーを見ているというのも興味深い。いざとなった時に日本人マネージャーが見せる専門的知識やスキルへの敬意から彼らの権威を承認しているのであって、タイ語がうまくても専門知識の乏しい日本人の指示には従わないらしい。

 日本人とタイ人労働者との媒介者たる通訳や事務員たちの行動様式が目を引く。実際に日本人マネージャーと最も親しい関係を持っているのは他ならぬ彼ら媒介者自身なのだが、タイ人労働者に向かって「日本人はタイ文化を無視して命令ばかりする」と言いふらし、我々/彼らという区別を際立たせることでタイ人労働者の連帯を呼びかけ、抜け駆けを牽制しようとする。日本人マネージャーとタイ人労働者との距離感を広げる一方、自分たちの影響力を強めようという意図があるらしい。

 女性が工場労働に出ることで、一人暮らしを始めたり、自宅から通っていても伝統的な生活様式に従って収入の低い夫への評価が下がったりといった意識上の変化が現れているが、とりわけ「タン・サマイ」という表現で特徴付けられるライフスタイルが興味深い。「最新の、モダンな」といった意味で、都市的なライフスタイルに影響された個人的消費活動を指すが、農村社会における伝統的な規範システムからの逸脱を正当化する機能を持つ。「自分は都会的な女」と誇示することで同僚の間での威信を高める作用も持つが、女性グループの間でこの感覚が広まることにより、文化的伝統の自明性を意識的・反省的に考え直すきっかけともなる。それは「自由になった」という実感をもたらした。同時に、商品経済による組織化の網に巻き込まれ、現実の都市文化に対して周縁的な地位に組み込まれるプロセスであるとも言える。

 調査に協力してくれた日系企業は取引先から製品価格の引き下げを要求されてタイへ進出した中小企業らしい。海外進出を考える企業の担当者が何か参考書を手に取るとしたら、法務・会計・税務といった分野が一般的になるのだろうが、人間や文化といった生ものを相手にせざるを得ない以上、本書のようなエスノグラフィを読んで具体的に起こり得る問題を考えるのも必要だろう。

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アブラハム・H・マズロー『人間性の心理学』『完全なる経営』

アブラハム・H・マズロー(小口忠彦訳)『人間性の心理学』(改訂新版、産業能率大学出版部、1987年)

・人間の向上心→成長、自己実現、健康を得る努力、自己同一性と自律性の探求、卓越への憧れ。
・要素還元的な捉え方で具体的なリストを並べても無意味、有機的全体性の中で中傷的モデルを示す。
・一つの欲求が充足されても更に高度な不満が現れる、その繰り返しで至高体験は持続するものではない。全生涯を通じて何かを欲し続ける存在としての人間。動機付けの複合的な多様性。目標達成による満足は全体的に複雑な動機付けから人為的に取り出した一例に過ぎない。様々な欲求の間には一種の優先序列の階層がある。
・生理的欲求→安全の欲求→所属と愛の欲求(社会的欲求)→承認の欲求(尊敬への欲求)→自己実現の欲求(自身の本性に忠実であること、なり得るものにならなければならない→一人ひとりにとってかけがえのない存在であることで、一般論に還元はできない)。前四者が欠乏動機(D欲求)であるのに対して、自己実現の欲求は存在動機(B欲求)。
・欲求不満をそれ自体として考えても無意味、基本的でない欲求の剥奪と、パーソナリティーへの脅威(自己実現の禁止)とを区別。
・本能か否かという二分法は無意味。生物的遺伝的決定因は存在するにしても、多くの場合、学習された文化によって抑えられる。本能の残り物としての弱い本能的傾向→有害というわけではなく、この潜在可能性を壊さないよう努力することは文化の一つの機能。
・対処行動:手段─目的の道具的な行動。表出行動:無意識の、動機付けられていない行動。
・自己実現的人間の調査:自己中心的というよりも課題中心的な人間。不安定な人々に見られる内観性とは対照的。欠乏動機よりも成長動機で動く→満足や良き生活を規定するのは社会的環境ではなく、内なる個人の自律性。利己的/利他的という二分法は解消された状態。

アブラハム・H・マズロー(金井壽宏監訳、大川修二訳)『完全なる経営』(日本経済新聞社、2001年)

・ユーサイキア(Eupsychia):マズローの造語。現実的可能性や向上の余地、心理学的な健康を目指す動き、健康志向。
・個人の成長→企業は自律的な欲求充足に加えて、共同的な欲求充足をもたらすことが可能。
・自己救済→自分に運命付けられた「天職」をやりとげること。例えば、黒澤明監督の映画「生きる」。こうした志向性はおのずと自己超越、自己を追求すると同時に、無我でもある。自己/利他、内的/外的、主観/客観といった二項対立は解消(仕事の大義名分も自己の一部に取り込まれているのだから)。
・研究課題→「人間の尊厳を奪ったり、損なったりしない組織を作るにはどうすればよいのか。組み立てラインのような非人間的な環境は、産業界では避けることができないが、こうした環境を浄化し、労働者の尊厳と自尊心をできる限り保つためには、どうすればよいのか──」(96~97ページ)。
・マグレガーのX理論(人間は一般に怠惰→管理は命令。低次の欲求に対応)とY理論(人間は本当は働きたい→自発的な創造性を生かす。高次の欲求に対応)はマズローの動機付け、自己実現の理論を応用。晩年のマズローはさらに、経済的欲求の次なる段階として価値ある人生や創造的な職業生活を求めるものとしてZ理論を構想。
・産業的権威主義に対して、自律的な人間モデルによる民主主義的なものとしての「進歩的な経営管理」→ただし、客観的要件がそろっていることが必要。生存的に厳しい社会では権威主義的上司の方が適合的かもしれない。状況に応じて最高の、機能する管理方法を選ぶこと。
・リーダーシップ:その状況における客観的要件を誰よりも鋭く見抜き、そうであるが故に全く利他的な人間が問題解決や職務遂行に最適→安全の欲求、所属の欲求、愛の欲求、尊敬の欲求、自尊の欲求のすべてが満たされた、自己実現に近づいた人間がリーダーとして理想的。そうでない人間は、自身の欲求充足のレベルで右往左往してしまう。
・ルーキー・ルー・タイプ(打ち込むことのない人間)と参加者タイプ。

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ダグラス・マグレガー『企業の人間的側面』

ダグラス・マグレガー(高橋達男訳)『企業の人間的側面』(新版、産業能率短期大学出版部、1970年)

・有名なY理論はマズローの自己実現に至る段階モデルを応用。マズローは本書を読んで自身の心理学的議論が経営論に応用できることを知り、自ら経営論に関心を寄せ始めるきっかけになったらしい。
・統制とは、相手の人間性を自分の望みに合わせることではなく、自分のほうが相手の人間性に合わせたやりかたをすることだと認識してはじめて、統制力が向上する。経営者と従業員との相互依存関係の理解が組織理論では重要。
・X理論:権限による命令統制→従業員のやる気はおきない。温情主義も表面的。一般に人間は怠け者であり、強制・統制・命令がなければ動かない、大衆は凡庸だという人間観。
・Y理論:従業員個々人の目標と企業目標との統合。人間は本来的に仕事をしたい、強制ではなく自ら進んで委ねた目標には責任を持って努力するという人間観。現代企業において従業員の知的能力は一部しか活用されていない→その人間の持つ能力を引き出すのが経営者の手腕。
・参加→部下の潜在能力を信頼し、従業員が決定に影響力を持てる機会と条件をつくる。社内関係の特質、つまり会社の目標を納得させ、自ら進んで工夫を凝らす、自己統制の機会を与えるような環境の整備。
・リーダーシップ:リーダー、部下、会社、社会環境の関係の組み合わせとして捉える。

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