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2011年6月12日 - 2011年6月18日

2011年6月18日 (土)

【映画】「マイ・バック・ページ」

「マイ・バック・ページ」

 1969年、東大安田講堂が陥落。学生運動が高揚している世相の中、新人記者の沢田(妻夫木聡)はドヤ街で体験取材をしていた。編集会議で、現地に入っても他人事の目線でしか見られない自身のもどかしさを吐露すると、何をセンチメンタルなこと言っているんだ!と怒鳴られてしまう。ジャーナリストと言っても所詮、高みの見物に過ぎないのではないか? 後ろめたさを引きずっていたある日、先輩記者・中平(古舘寛治)に連れられて梅山(松山ケンイチ)という過激派の青年に会った。取材後、中平は「あいつはニセモノだな」と言うが、沢田は宮沢賢治やCCRといった共通の関心から彼に親近感を抱き始める。一方、梅山ははったりを重ねて仲間を動かし、革命のための武器奪取という名目で自衛官殺害事件を引起した。沢田はスクープのつもりで単独取材を申し入れたが、社会部記者も同行したところから成り行きは暗転、社の方針として梅山を思想犯ではなく刑事犯とみなすことになり、警察に通報された。取材源秘匿というジャーナリスト倫理を守るべきか。しかし、梅山の“思想”なるものが怪しいことにも薄々気づいている。どうしたらいいのか──。

 ある種の目立ちたがり願望から“革命”騒ぎをやりたいだけの梅山、そんな彼に対して現実のうねりに自らコミットしたいという理想を投影しようとした新人記者・沢田──要するに、ヘタレ二人の物語、と言ったら少々酷だろうか。ただ、悪意をもってこんな言い方をしているつもりはない。自らの人間的に未成熟な部分から目を背けようとしたとき“大義”や“理想”といった大きな物語に寄りかかりたくなる、それは若者の時分には当然にあり得ることだ。そこに罠があり、挫折があった。しかしながら、世故を知らず未成熟だったからこそ潔癖な情熱を持ち得たことも確かなのである。この線引きの難しいモヤモヤした葛藤を、正当化するのではなく、かと言って簡単に否定しさってしまうのでもなく、できるだけありのままに見つめようとしたところに川本三郎の原作の魅力があると考えている(→以前にこちらで取り上げた)。

 この映画では、原作の良い意味でセンチメンタルなところをたくみにつなぎ合わせてストーリーが構成されている。ストーリー上で大きな話題となる、革命のための暴力の是非、取材源秘匿のジャーナリスト倫理、こういったテーマに私は実はそれほど関心がない。と言うよりも、問題設定として当たり前すぎて深みがあるとは思っていない。それよりも、沢田が事件で会社を退職後、たまたま入った飲み屋で以前にドヤ街での体験取材中に親しくなった仲間と再会し、わけもわからず涙を流してしまうラスト・シーンが私には印象的だった。彼の挫折感と、そこにしんみりと触れ合う人情的機微とが自然に表現されていて、原作にはないシーンだが、結末のつけ方としてとても良いと感じた。

【データ】
監督:山下敦弘
脚本:向井康介
原作:川本三郎
2011年/141分
(2011年6月18日、新宿ピカデリーにて)

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リチャード・フロリダ『クリエイティブ資本論──新たな経済階級(クリエイティブ・クラス)の台頭』『クリエイティブ都市論──創造性は居心地のよい場所を求める』『クリエイティブ都市経済論──地域活性化の条件』『グレート・リセット──新しい経済と社会は大不況から生まれる』

リチャード・フロリダ(井口典夫訳)『クリエイティブ資本論──新たな経済階級(クリエイティブ・クラス)の台頭』(ダイヤモンド社、2008年)

・従来型のワーキング・クラスやサービス・クラスが決められた計画に沿って実行する人々であるのに対し、金銭的報酬よりも内発的動機により、意義のある新しい形態や付加価値を作り出していくクリエイティブ階級がこれからの経済の牽引役として重要になっていく。彼らの仕事への意識やライフスタイルを調査を踏まえ、クリエイティブな能力を集める場所=都市が決め手となるというのが本書の趣旨。
・流動的な労働市場の中で、人と仕事とを結びつける場所。寛容性が高く、多様性に富み、クリエイティビティに開かれた地域で経済発展が進む、こうした場所=都市の条件を考える。著者は都市コミュニティのあり方としてジェイン・ジェイコブスに共感。
・クリエイティブ階級とは言ってもエリート主義ではなく、すべての人々は本来クリエイティブであるはずという前提。ワーキング・クラスでもクリエイティブであり得る例として日本の製造現場を例示、日本では現場の労働者自らが工夫をこらしており、そうした現場の力がアメリカの製造業を追い越したと指摘。
・「地域の経済成長は、多様性があり寛容で新しいアイデアに開放的な場所を好むクリエイティブな人々が原動力となる。多様性があればその場所は、さまざまなスキルやアイデアを持つクリエイティブな人々を惹きつける可能性が高くなる。クリエイティブな人々が混じり合う場所では、新しい組み合わせを生みやすい。そのうえ、多様性と集中が重なることで知識の流れが速くなる。より大きな、多様性に富むクリエイティブ資本の集積が、イノベーションの可能性を高め、ハイテク企業の設立、そして雇用の創出や経済成長に結びついていく。」(313~314ページ)

・要するに、世界がフラット化して「場所」が無意義になったのではなく、人々の創発的出会いが経済を成長させる、その出会いの場所として魅力的な都市の存在感がますます大きくなっているという議論。同時に、これは都市の間の格差を広げていくことにもなる。
・クリエイティビティという概念が分かりそうで分からないのだが、私の解釈としては、差異性によって生み出された新奇性・優位性を経済的価値と結びつけることで、これを仕事とする人々が量的に拡大傾向にあるということか。言い換えると、万人が絶え間なく差異を生み出し続けなければならないわけで、ジグムント・バウマン言うところのリキッド・モダニティ、つまりすべてを個人単位に帰責する流動的な社会の加速化を別の視点から実証した議論だと言えるだろうか。
・差異を生み出す人々の創発的出会いの場所を重視している点では、岩井克人『会社はこれからどうなるのか』で指摘された会社の重要性の議論とも比較できるのではないかとも思った。

同(井口典夫訳)『クリエイティブ都市論──創造性は居心地のよい場所を求める』(ダイヤモンド社、2009年)
・現代産業の重要生産要素たるクリエイティビティはどのような都市に集まってくるのか、その条件は何か? 自己実現、個性磨きに役立つ開放性や活気、こうした心理的ニーズから考察。
・クリエイティブな能力は開放的で魅力のある都市に集まる→特定地域に偏りが生じ、都市間の格差がこれから取り組むべき課題であると問題提起。なお、メガ地域については大泉啓一郎『消費するアジア』(中公新書、2011年)でも主要論点となっている。

同(小長谷一之訳)『クリエイティブ都市経済論──地域活性化の条件』(日本評論社、2010年)
・上掲の議論を踏まえて都市の質を考えるため様々な指標を組み合わせながら経済地理学的に因子分析。
・都市の質としての多様性を考察するため「ゲイ指数」「ボヘミアン指数」といった分析指標を導入しているのが面白い。

同(仙名紀訳)『グレート・リセット──新しい経済と社会は大不況から生まれる』(早川書房、2011年)
・1870年代、1930年代に続いて三度目の大不況としての現代。しかし、これまでも不況のたびにイノベーティブな工夫によって乗り切ってきたのだから、今回も新しいテクノロジーと経済システムを作りだしていける。そうした趣旨から上掲のクリエイティブ階級と都市との結びつきについて論じている。

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今週読んだ中国関連本12冊

 ブログ更新を怠っていたからと言って、読書してなかったわけではないんだけど、ここのところ、あまり気合が入っていないのも事実だな、などと思う今日この頃。とりあえず、今週読んだ中国関連本12冊。別に論評しているわけではなくて、単に読んだよ、というメモに過ぎないので、念のため。

津上俊哉『岐路に立つ中国──超大国を待つ7つの壁』(日本経済新聞出版社、2011年)
・中国が直面しつつある課題を「7つの壁」と表現、難易度の低い順番から①人民元問題、②都市と農村との差別的な二元構造、③「官の官による官のための経済」(官製資本主義、国進民退)の行き詰まり、④政治改革は進むのか? ⑤歴史トラウマと漢奸タブー、⑥急激な高齢化「未富先老」問題をどうするか? ⑦世界に受け容れられる理念を中国は語れるのか?といった問題点を指摘。課題ごとに政治・経済・社会的背景を整理・解説してくれるので、現代中国について大きな視点から考えるとっかかりとして勉強になる。
・漢奸タブーという論点に関心を持った。つまり、対日関係について中国内部でも柔軟に考えようとする論者が存在するが、そうした新思考を日本側で「日本はもう謝罪しなくていい、と言っている中国人がいるぞ!」と鬼の首をとったように喧伝→彼らの中国内部での立場を悪化させてしまい、日中関係にとってかえってマイナスになってしまった問題。彼らは漢奸として糾弾されることになってしま、日中提携を考える中国人に「日本はハシゴを外す」というトラウマを残してしまった。汪兆銘を例示。

呉軍華『中国 静かなる革命──官製資本主義の終焉と民主化へのグランドビジョン』(日本経済新聞出版社、2008年)
・天安門事件後、共産党はイデオロギー的革命政党ではなく、政権維持を至上命題とする開発独裁型政党に変身、これに伴って経済界の利益を優先する政策を展開→官製資本主義。いわゆる「三つの代表論」も全民的というよりは経済界との利益的同盟関係を正当化するものだったと指摘。
・一般的に中産階層は民主化支援に向かうと考えられるが、中国の場合、中産階層そのものが共産党によって育成されて恩恵を蒙ってきたため、彼らは共産党支持。共産党はさらに知識階層の取り込みも積極的。共産党はこうした各階層との同盟関係や権威主義的傾向によって弱者階層を押さえ込み。
・他方、体制内部で政治改革への助走はすでに始まっており、2012年以降に本格化するだろうと予測。

丸川知雄『「中国なし」で生活できるか──貿易から読み解く日中関係の真実』(PHP研究所、2009年)は毒ギョーザ事件の騒ぎを受けて刊行された本。中国から輸入されている品目を一つ一つ具体的に取り上げながら、「中国製品は危ない」という誤解を解きほぐしていくのが趣旨。むしろ経済的相互依存関係の進展を強調する。

丸川知雄『現代中国の産業──勃興する中国企業の強さと脆さ』(中公新書、2007年)は、中国における家電、IT機器、自動車といった電機産業を分析。モジュール化等で進展する「垂直分裂」がキーワード。日本が「閉じた垂直分裂」であるのに対して、中国は「開かれた垂直分裂」であると指摘。中国のメーカーは基幹部品を日系メーカー等に依存、ただし見方を変えれば、外国メーカーの力を利用しながらも自立的な企業を生み出した工業化戦略と捉えられる。

大橋英夫・丸川知雄『叢書★中国的問題群6 中国企業のルネサンス』(岩波書店、2009年)
・中国の国有企業、民間企業、外資系企業それぞれの背景や特徴を解説。ルーツをたどれば清朝末期や民国期までさかのぼる企業はあるにしても、1950年代にすべて国有化されたので、民間企業そのものは現代中国では新しい。
・本来なら企業は株主総会や取締役会で意思決定をする。ところが、中国では社内でも共産党の序列の高い者に実権があり、企業は党という企業外の指令で動かされる側面がある。
・税法の体系が未整備であり、通達等で済ませているケースが多い→行政の末端まで税務知識が行渡っていないことが多く、現場の裁量で決着→税負担について予測不可能な要素が大きく、企業経営の方針決定にマイナス。
・モジュラー型製品によって技術的な参入障壁が引き下げられ、労働集約型産業として外国企業の中国進出。工程間分業として東アジア全体で重層的な生産・輸出ネットワークの形成。いったん産業集積が現れると新たな投資を呼び寄せる。→こうした直接投資=貿易連鎖による対中投資急増は、東アジアの雁行形態論による従来の説明とは異なる展開であることを指摘。

郭四志『中国エネルギー事情』(岩波新書、2011年)
・経済成長を支えるためエネルギー資源確保に向けて国家戦略を展開すると同時に、環境汚染や地球温暖化対策も考えなければならない中国のエネルギー事情、その全体像を解説。再生エネルギーに力を入れようとしていると共に、原発も拡大傾向にあるのは気になるところだ。

遠藤誉『拝金社会主義 中国』(ちくま新書、2010年)は、改革開放で国民みんなが一挙に金儲けに向かった中国の、とりわけ結婚、大学と就職、社会的格差の問題を取り上げる。

遠藤誉『ネット大国中国──言論をめぐる攻防』(岩波新書、2011年)は、いわゆる「八〇后」のメンタリティーに目配りしながら、ネット世代の中国を考察、とりわけネットを部舞台として官民攻防戦が興味深い。

麻生晴一郎『反日、暴動、バブル──新聞・テレビが報じない中国』(光文社新書、2009年)は、反日か否かという論点はあくまでも話題の取っ掛かりで、読んでみるとタイトルが醸し出すイメージとはちょっと違う。辺縁の芸術家たち、人権問題や社会活動に地道に取り組む人たちなど、政治的次元ではなかなか見えづらい人々の息吹を汲み取ろうとしたルポルタージュ。

吉岡桂子『愛国経済──中国の全球化』(朝日新聞出版、2008年)は経済や社会問題についてのルポルタージュ。

柴田聡『チャイナ・インパクト』(中央公論新社、2010年)は中国における経済運営の内在的なメカニズムを考察する。

明木茂夫『オタク的中国学入門』(楽工社、2007年)は、と学会レポートと銘打っているだけあって題材はキワモノ的だが、それをとっかかりに中国の言語・歴史・社会について傾ける薀蓄は奥深くて、実はなかなか勉強になる本なのだ。

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2011年6月12日 (日)

イアン・ブレマー『自由市場の終焉──国家資本主義とどう闘うか』

イアン・ブレマー(有賀裕子訳)『自由市場の終焉──国家資本主義とどう闘うか』(日本経済新聞出版社、2011年)

・かつては欧米の多国籍企業が国家という枠組みを超えて国際政治を左右してしまうと言われたことがあったが、近年は傾向が変わってきた。すなわち、新興国の政府保有もしくは緊密な関係にある企業が世界経済の中で台頭しつつあり、これらの政府系企業にとっては市場動向など経済的要件ばかりでなく政治的要素が大きい。こうした政府主導の資本主義経済を国家資本主義と呼び(具体的には中国、ロシア、湾岸首長国など権威主義的傾向のある国家)、従来の日米欧を中心とした自由市場主義を脅かしているという認識を本書は示す。
・自由市場主義と国家資本主義との線引きは明確ではなく、指令経済↔自由市場経済というスペクトルにおいて国ごとに様々なヴァリエーションがある。ただし、①一時的な経済再建・景気刺激策としてではなく長期的・戦略的な政治判断として経済介入を行なう、②個人に市場的チャンスを与えるのではなく、国益や支配者層の目的にかなうように市場を利用する、以上の点で国家資本主義は自由市場主義とは根本的に相違する。
・かつての共産主義とは異なって国家資本主義にイデオロギー的普遍性はなく、あくまでも自国の排他的国益追求のための政策手段に過ぎないので、これらの国々が同盟を組むことはない。
・例えば、中国経済は台頭しつつあるとは言っても、アメリカなど他国の市場への輸出によって成り立っており、内需拡大によってアメリカ依存の関係から脱却することは当面は難しい。このような「経済の相互確証破壊」を意識しつつ、自由市場経済の普及へと働きかけていく方向性を提案。

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角幡唯介『空白の五マイル──チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』

角幡唯介『空白の五マイル──チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社、2010年)

 19世紀以来、内陸アジアには様々な探検家が入り込み、地理的空白はほとんど埋められてきた。しかし、すべてではない。1924年、チベットの奥地、ツアンポー峡谷を探検したキングトン=ウォードが踏破しきれなかった「空白の五マイル」。中国共産党のチベット占領によりこの辺りは外国人の立入が禁止されたが、1990年代から再び門戸が開かれるにつれて、この「空白の五マイル」は改めて脚光を浴び、現代の探検家たちも新たなロマンをかき立てられた。著者もまたそうした魅惑に引き寄せられた一人である。

 19世紀に探検家たちがやって来た背景にはいわゆるグレートゲームの帝国主義政策があり、戦後中国が門戸を閉ざしたのも安全保障上の恐怖心を抱いていたからだとも言われる。そのような政治的背景以外でも、探検家たち個人レベルで考えると、地理学、博物学、宗教的情熱、さらにはロマンティシズム、様々な動機もあるだろう。だが、何よりも、命をかけてでも冒険に飛び込んでいこうとする理屈では割り切れない部分は見逃せない。

 本書の前半ではカヌーで行方不明となった人のことが出てくるし、そもそも著者自身が体力を消耗しきって落命しそうになった切迫感がクライマックスとなっている。トラブル続きの冒険行を描いたスリリングな記述ももちろん面白い。だが、それ以上に魅力的なのは、命がけで冒険に飛び込んでいった自身の心情を内省的に捉え返そうとしているところだ。朦朧とした意識の中でさまよった体験からは、世間的に知られることもなく非業に倒れたあまたの探険家たち一人ひとりが死を目前にした絶対的経験の中で見ようとしたもの、そこを想起させる手掛かりも見えてくるのかもしれない。

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【映画】「バビロンの陽光」

「バビロンの陽光」

 サダム・フセイン政権が崩壊してから三週間経ったイラク。荒涼たる砂漠の中の一本道、車が来るのを待ちながらたたずむ老婆と少年。車の運転手から「邪魔だ、どけ!」と怒鳴られても、老婆は一言も抗弁しない。クルド人である彼女はアラビア語が分からないため、片言ながらもアラビア語ができる孫の少年が代わって交渉する。

 二人は、老婆の息子で少年の父親にあたるイブラヒムの行方を捜す旅路にあった。路上ではアメリカ軍の検問で止められ、バクダッド市内に入るとあちこちで発生する銃声や噴煙に戸惑い、集団墓地では黒服の女性たちが悲嘆にくれている。サダム・フセイン政権下では150万人以上の人々が行方不明となり、身元不明の遺体が次々と発見されている。遺族が抱えた悲しみと和解への道のりを模索するロード・ムービーである。

 この映画の画期点は、アラブ人監督が主人公として敢えてクルド人を選んだところにある。混乱した世情の中でも二人が出会った人々の善意には、観ていて気持ちがホッとさせられるが、とりわけ二人の登場人物が印象に残る。一人は元共和国防衛隊員であったムサ。アラブ人である彼が流暢なクルド語を話すことを老婆が不審に思ったところ、ムサはかつて命令で掃討作戦に加わり、やむを得ずクルド人を殺害した過去を告白し、赦しを請う。老婆から厳しく拒絶されても彼は手助けをしたいと二人についてきて、その気持ちはやがて老婆にも伝わる。もう一人は共同墓地で出会った黒服のアラブ人女性。夫を失っていた彼女は、老婆の言葉は分からないが同じ気持ちを抱えていることはよく分かると語る。

 こうやって文章で整理すると陳腐なように思われてしまうかもしれない。しかし、互いに何とか気持ちを通い合わせようと努力している彼らの姿は、イラクの荒廃した光景の中で目にすると何とも言えず目頭が熱くなるようなものが迫ってくる。時折、少年は伝説の「バビロンの空中庭園」を見たいとつぶやく。廃墟が焼け爛れた世界の中、一人ぼっちとなった彼は一体どこへ向かうのか。

【データ】
英題:Son of Babylon(バビロンの息子)
監督:モハメド・アルダラジー
2010年/イラク・イギリス・フランス・オランダ・パレスチナ・UAE・エジプト合作/90分
(2011年6月11日、シネスイッチ銀座にて)

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【映画】「アトムの足音が聞こえる」

「アトムの足音が聞こえる」

 テレビや映画でさり気なく耳にする効果音。扉をしめればバタンと音がする。ヒールを履いて歩けばコツコツと音がする。しかし、現実には存在しない音はどうやって表現すればいいのか。例えば宇宙を漂う音、体内のミクロな世界で細胞が動く音など、現実にはあり得ないシーンでも効果音が鳴り響くのを我々は当たり前のことのように受け止め、むしろそのシーンに説得力を感じていることがある。効果音の不思議、それをこの映画では次のように定義する──本物よりも本物らしい音、本物を超えた音。

 日本初のテレビアニメーション「鉄腕アトム」で音響効果担当として起用された大野松雄が奔放なイマジネーションで次々と作り出した「音」は音響効果の概念を根本的に変えてしまった。関係者の証言も交えながら、この世ならぬ「音」の世界を切り開いていった大野の生涯をたどったドキュメンタリーである。彼は一時期、カールハインツ・シュトックハウゼンの電子音楽にはまっており、そこから得たインスピレーションも活用されているらしいというのは初めて知った。

 もともと映像の仕事での効果音担当者の地位は低かったらしく、大野が「効果の大野さん」と呼ばれると激怒し「音響デザイナー」という呼称にこだわったというあたりには、自分たちの仕事が正当に評価されていないという不満が込められていたようだ。彼には放浪癖があるのか、借金取りに追われて「亡命」し、表舞台からは姿を消していた。見いだされた現在の彼は、知的障害者施設で合唱指揮をしている。以前、知的障害者を題材とした記録映画の音響効果を担当したとき監督の「上から目線」に反発して、自分自身でこのテーマに取り組み始めたという経緯もあるらしい。この世ならぬ宇宙の音を奔放に追及する姿、同時に「上から目線」を嫌って知的障害者たちの中で交わる姿、両方が一点に結び付いたところに立ち現れてくる大野という人物そのものに不思議な魅力を感じる。音響効果の奥深さを彼の人物的魅力を通して描き出しているところが本当に面白いドキュメンタリーだ。

 音響効果にまつわる人物のドキュメンタリーとしては、以前に観た「テルミン」も面白かった。例えばUFOが出てくるシーンで流れるファーンという音を手かざしで出す不思議な楽器を開発した旧ソ連の科学者の名前でもあり、楽器名でもある。

【データ】
監督:冨永昌敬
2010年/82分
(2011年6月10日レイトショー、渋谷・ユーロスペースにて)

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川本三郎を5冊

 ここ2週間ばかり色々あって疲れておって、久しぶりの更新。リハビリ代わりに川本三郎さんの本を5冊ほど立て続けに読んだ。何と言ったらいいのか、薀蓄の出し方や文章の堅くもなくしかし抑え気味なところが私自身の体感リズムにしっくりくるというのか、読みながら身を委ねていると心地よいのである。

 『言葉のなかに風景が立ち上がる』(新潮社、2006年)は書評エッセイ集だが、文学作品を読解するというよりも、作品世界を成り立たせている風景を見る。風景があってはじめてその中にいる人間模様が物語となって現れる。都市空間との関連で文学を読み解いていく川本さんの視点の先達として、奥野健男『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻想』(集英社、1972年)、磯田光一『思想としての東京 近代文学史論ノート』(国文社、1978年)、前田愛『都市空間のなかの文学』(筑摩書房、1982年)の3冊が挙げられている。『郊外の文学誌』(新潮社、2003年)は東京が拡大しつつある空間としての郊外を舞台とした作品を取り上げている。

 『今日はお墓参り』(平凡社、1999年)は、知名度は低いが興味深い文人・芸術家・映画人・芸能人の短い連作列伝といった感じ。この本はなかなか好きだな。

 『いまも、君を想う』(新潮社、2010年)は、亡くなったファッション評論家・川本恵子夫人への追悼文。はあ、川本さん、奥様にずいぶん甘えっぱなしだったんですなあ、と思いつつ、『マイ・バック・ページ』とはまた違った形で文筆活動に入ったばかりの時期のことをつづっているのは興味を引いた。文学評論として作品の良し悪しを高踏的に分析・批判するのではなく、自分が好きなもの、面白いと思ったものを素直に紹介していけばいいという態度は恵子夫人との会話の中で感じたことだという。なお、彼に物書きになれと勧めたのは松本健一だったらしい。

 『小説、時にはそのほかの本も』(晶文社、2001年)は、あちこちの媒体に掲載された書評を集めたもの。

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